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4章
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慎之介は全力で後を追ったが、この老人、飄々とした足取りの割になかなか追いつけない。
しかも歩いている他の人たちの間を、まるでそこに誰もいないかのように、絶妙な間ですり抜けていくのだ。
そのうち、老人の小さな身体は大通りから脇道へそれた。
ふうを背負ったまま走る慎之介は、それを追いかけ、知らぬ路地をいくつも曲がることになった。そして子どもらが輪になって遊ぶまん中を突っ切り、裏店の溝を踏み抜き、干された洗濯物の下を潜り抜け、あれやこれやのおいかけっこを繰り広げるうちに、半開きの枝折り戸の中へ飛び込んだのだった。
「え……」
慎之介が立っていたのは、古い武家屋敷の庭先だった。
これまで通ってきた雑然とした光景とは一線を画す、不思議な静けさに包まれた空間である。
「ここは……」
庭の草木は生え放題なのに、何故だか荒んだ雰囲気は無い。生垣として植えられた山茶花が赤い綺麗な花をつけているせいだろうか。
古ぼけた屋敷の中に人の気配は無かったが、代わりに猫がどこからともなく湧いて出てきた。
白いの黒いの茶色いの。
沢山の猫がにゃごにゃご言いながら、慎之介の足元にまとわりついてきたのだ。
「な……」
どうしていいか分からず、ふうを背負ったまま狼狽える慎之介に対し、話しかけてくる声がした。
「ほぅほぅ。人間の御客を迎えるのは、何十年ぶりかのぉ」
言葉を発したのは屋敷の縁側で丸くなっていた、体の大きな白い老猫だった。目元の皺が、先ほどの甘酒売りにそっくりで、慎之介には同一人物であるとすぐにピンときた。
「貴様、ふうに何を飲ませた?!」
「猫が人語を語っているのだから、まずはそこに驚けばよいものを。面白い男じゃな」
猫は大きな口を開け、声を立てて笑った。
「そろそろ、薬が効いてきた頃合いじゃろ。ほれ」
皺だらけの瞼の下で猫の目が光り、同時に慎之介の背中が空気のように軽くなる。慎之介が慌てて着物の中から白猫を抱き上げると、ふうはその手の中でゆっくりと目を開いた。
「ふう……」
「にゃあ」
安堵のあまり言葉が出て来ない慎之介の顔を、ふうは何度も舐めてくれた。
それを合図に、足元にいた猫たちが興奮した様子で飛びついてくる。その興奮が移ったのか、ふうも慎之介の手を離れて地面に下り立ち、彼らと追いかけ合って遊び始めた。
一体何がどうなっているのやら……。
茫然と立ち尽くす慎之介に老猫は、まぁ座れ、と言った。
その言葉に従って、慎之介は化け猫の隣に腰を下ろした。縁側は陽の光を浴びて、とても暖かく、化け猫は大きなあくびを一つ漏らした。
「ふうは儂の娘じゃ。あの白い毛の二匹が兄弟のひいとみい」
猫は庭を元気に走り回るふうを見つめながら言った。
「ふうはよく道に迷う子でな。お前さんにはたんと世話になったようじゃ。礼を言おう」
「化け猫の娘だったのか……」
「ふう自身は儂が化け猫であることも理解しておらぬただの猫じゃぞ。儂の娘だからといって必ずしも化けるとは限らぬでな。いや、儂はこれまで多くの子をもうけてきたが、化けたのはふうが初めてじゃ」
「……」
「猫が化けるには年を経て、気を全身に貯め込まねばならぬ。ふうはまだ仔猫に毛が生えた程度。幼い体で中途半端な化け方をすると、体の方が持たぬところじゃった。早めに連れてきてもらえて良かった」
この老猫が先ほど飲ませたのは、どうやら気を抑え込むための薬だったらしい。
猫と普通に話をしている不思議さがここにきて慎之介の胸にもようやくこみ上げてきたが、何やら頭がぼおっとして、そういう些末なことはどうでもよいような気がしてきた。
大切なのはふうが化け猫の娘で、そして無事に家に帰れたという事だ。
「では、ふうはもう、人の姿にならぬという事か?」
「うむ。これからは普通の猫として暮らすじゃろ」
「どうしてふうは化けたのだ?」
「それは儂にもはきとは分からぬよ。じゃが、儂が化けた時の事を思い出すに、猫というのは、心を大きく揺さぶられた折に、化ける力を持つようじゃ」
老猫は遥か昔の記憶を手繰り寄せるかのように、垂れ下がった瞼を重たげに伏せた。
しかも歩いている他の人たちの間を、まるでそこに誰もいないかのように、絶妙な間ですり抜けていくのだ。
そのうち、老人の小さな身体は大通りから脇道へそれた。
ふうを背負ったまま走る慎之介は、それを追いかけ、知らぬ路地をいくつも曲がることになった。そして子どもらが輪になって遊ぶまん中を突っ切り、裏店の溝を踏み抜き、干された洗濯物の下を潜り抜け、あれやこれやのおいかけっこを繰り広げるうちに、半開きの枝折り戸の中へ飛び込んだのだった。
「え……」
慎之介が立っていたのは、古い武家屋敷の庭先だった。
これまで通ってきた雑然とした光景とは一線を画す、不思議な静けさに包まれた空間である。
「ここは……」
庭の草木は生え放題なのに、何故だか荒んだ雰囲気は無い。生垣として植えられた山茶花が赤い綺麗な花をつけているせいだろうか。
古ぼけた屋敷の中に人の気配は無かったが、代わりに猫がどこからともなく湧いて出てきた。
白いの黒いの茶色いの。
沢山の猫がにゃごにゃご言いながら、慎之介の足元にまとわりついてきたのだ。
「な……」
どうしていいか分からず、ふうを背負ったまま狼狽える慎之介に対し、話しかけてくる声がした。
「ほぅほぅ。人間の御客を迎えるのは、何十年ぶりかのぉ」
言葉を発したのは屋敷の縁側で丸くなっていた、体の大きな白い老猫だった。目元の皺が、先ほどの甘酒売りにそっくりで、慎之介には同一人物であるとすぐにピンときた。
「貴様、ふうに何を飲ませた?!」
「猫が人語を語っているのだから、まずはそこに驚けばよいものを。面白い男じゃな」
猫は大きな口を開け、声を立てて笑った。
「そろそろ、薬が効いてきた頃合いじゃろ。ほれ」
皺だらけの瞼の下で猫の目が光り、同時に慎之介の背中が空気のように軽くなる。慎之介が慌てて着物の中から白猫を抱き上げると、ふうはその手の中でゆっくりと目を開いた。
「ふう……」
「にゃあ」
安堵のあまり言葉が出て来ない慎之介の顔を、ふうは何度も舐めてくれた。
それを合図に、足元にいた猫たちが興奮した様子で飛びついてくる。その興奮が移ったのか、ふうも慎之介の手を離れて地面に下り立ち、彼らと追いかけ合って遊び始めた。
一体何がどうなっているのやら……。
茫然と立ち尽くす慎之介に老猫は、まぁ座れ、と言った。
その言葉に従って、慎之介は化け猫の隣に腰を下ろした。縁側は陽の光を浴びて、とても暖かく、化け猫は大きなあくびを一つ漏らした。
「ふうは儂の娘じゃ。あの白い毛の二匹が兄弟のひいとみい」
猫は庭を元気に走り回るふうを見つめながら言った。
「ふうはよく道に迷う子でな。お前さんにはたんと世話になったようじゃ。礼を言おう」
「化け猫の娘だったのか……」
「ふう自身は儂が化け猫であることも理解しておらぬただの猫じゃぞ。儂の娘だからといって必ずしも化けるとは限らぬでな。いや、儂はこれまで多くの子をもうけてきたが、化けたのはふうが初めてじゃ」
「……」
「猫が化けるには年を経て、気を全身に貯め込まねばならぬ。ふうはまだ仔猫に毛が生えた程度。幼い体で中途半端な化け方をすると、体の方が持たぬところじゃった。早めに連れてきてもらえて良かった」
この老猫が先ほど飲ませたのは、どうやら気を抑え込むための薬だったらしい。
猫と普通に話をしている不思議さがここにきて慎之介の胸にもようやくこみ上げてきたが、何やら頭がぼおっとして、そういう些末なことはどうでもよいような気がしてきた。
大切なのはふうが化け猫の娘で、そして無事に家に帰れたという事だ。
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「うむ。これからは普通の猫として暮らすじゃろ」
「どうしてふうは化けたのだ?」
「それは儂にもはきとは分からぬよ。じゃが、儂が化けた時の事を思い出すに、猫というのは、心を大きく揺さぶられた折に、化ける力を持つようじゃ」
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