43 / 47
初めての、夜。★1
しおりを挟む
*ここからは匠と克彦が出会った頃の話です。克彦視点。
本当は採るつもりなかったんだけど、新人が入るから、と社長から言われたのは、三月の半ばだった。
克彦が勤める建築デザイン事務所は、建築士を引退した社長以下、三名の一級建築士と六名の二級建築士、それに事務職員二名が勤めている小さな事務所だ。
克彦の他の一級建築士は、主にビルや橋などの大きなものの設計を担当し、克彦と二級建築士は住宅の担当をしている。それ故の『主任』の肩書なのだが、仕事の数で言えば他二人の一級建築士よりも克彦の方が断然多い。入社当時一番若い一級建築士だったので仕方ないだろうと今は思っているし、どんな仕事でも設計は楽しいので、克彦は現状で満足していた。
だが、新人が入るとなれば別だ。
「今年は採らないって、言ってましたよね?」
克彦が社長に眇めた目を向けると、社長はそれに苦く笑いながら、でもね、と口を開いた。
「採用がないのは分かってるけど、面接をして欲しい、どうしてもここで仕事がしたい、なんて言われたら絆されるじゃない?」
社長の言葉に克彦がため息を吐く。絆される社長もそうだが、採用がないことを分かった上でそんなことを言う奴も少しおかしい。
「それで、うっかり採用したんですか?」
「うん……彼ね、うちで設計した建物の話、めちゃくちゃ楽しそうにしてたんだよ。特に市原くんの設計が好きで、マンションのチラシとかも大事にとってあるらしくて……ああ、この子、ホントに設計が好きなんだって、思ったんだよ」
社長が嬉しそうに話す。新人と話した時の事を思い出しているのだろう。
確かにこの仕事は一生食べていける仕事だからと選ぶ人も多い。二級建築士なら、頑張れば取れない資格ではないし、一級建築士も実務期間が不要になったので学生でも取得可能になった。この仕事が好きかどうかは別として、資格があれば自分で事務所を構えることも出来る仕事なので、好きなように仕事が出来る数少ない職業でもある。
だからこそ、この仕事が好きだとわかると嬉しいものだ。その気持ちは分からないでもない。
「だからって採用するとか……今、マンションのリノベーションが五件も入ってるんですが……」
教えられる人がいないと克彦がアピールするが、社長は、ちょうどいいじゃないか、と笑う。
「彼に仕事を振ってみたらいい」
社長はそう言って克彦にファイルを預けていった。克彦が大きなため息を吐き、それを開く。
「……辻本匠……」
中に挟まっていた履歴書を見て、克彦は呟いた。
よろしくお願いします、とキラキラ輝いた目で言われ、克彦はその笑顔に目を奪われた。
小柄で、可愛らしい顔立ちをしている匠は、着なれないスーツも七五三を思わせ、愛らしかった。
「……市原主任?」
見つめ過ぎてしまったのだろう、匠がこちらを不思議そうな顔で窺う。それに克彦は、いや、と曖昧な前置きをしてから口を開いた。
「君の上司になる市原だ。どういう経緯で入社したかは社長から聞いている。就活はすんなり通ったかもしれないが仕事はそんなに簡単じゃない。覚悟しておきなさい」
「はい! 俺、ここに入れて……市原主任と仕事ができるだけで嬉しいです!」
よろしくおねがいします、とオフィス内に響き渡る声で言われ、克彦は大きくため息を吐いた。
元気でまっすぐでやる気に満ち溢れた匠を前にしたら、確かに折れてしまうだろう。この熱に圧され採用してしまった社長の気持ちが少し理解できた。
この子の傍に居ると、不思議と元気になる。そんな気がしてオフィスを見渡すと、みなが匠を見て微笑んでいた。
「私は甘くないよ」
「はい。大丈夫です」
頑張れます、と微笑んだその顔は、本当に可愛らしくて、一瞬で克彦の心を奪っていった。
初めて誰かを素直に、好きだな、と感じた瞬間だった。
本当は採るつもりなかったんだけど、新人が入るから、と社長から言われたのは、三月の半ばだった。
克彦が勤める建築デザイン事務所は、建築士を引退した社長以下、三名の一級建築士と六名の二級建築士、それに事務職員二名が勤めている小さな事務所だ。
克彦の他の一級建築士は、主にビルや橋などの大きなものの設計を担当し、克彦と二級建築士は住宅の担当をしている。それ故の『主任』の肩書なのだが、仕事の数で言えば他二人の一級建築士よりも克彦の方が断然多い。入社当時一番若い一級建築士だったので仕方ないだろうと今は思っているし、どんな仕事でも設計は楽しいので、克彦は現状で満足していた。
だが、新人が入るとなれば別だ。
「今年は採らないって、言ってましたよね?」
克彦が社長に眇めた目を向けると、社長はそれに苦く笑いながら、でもね、と口を開いた。
「採用がないのは分かってるけど、面接をして欲しい、どうしてもここで仕事がしたい、なんて言われたら絆されるじゃない?」
社長の言葉に克彦がため息を吐く。絆される社長もそうだが、採用がないことを分かった上でそんなことを言う奴も少しおかしい。
「それで、うっかり採用したんですか?」
「うん……彼ね、うちで設計した建物の話、めちゃくちゃ楽しそうにしてたんだよ。特に市原くんの設計が好きで、マンションのチラシとかも大事にとってあるらしくて……ああ、この子、ホントに設計が好きなんだって、思ったんだよ」
社長が嬉しそうに話す。新人と話した時の事を思い出しているのだろう。
確かにこの仕事は一生食べていける仕事だからと選ぶ人も多い。二級建築士なら、頑張れば取れない資格ではないし、一級建築士も実務期間が不要になったので学生でも取得可能になった。この仕事が好きかどうかは別として、資格があれば自分で事務所を構えることも出来る仕事なので、好きなように仕事が出来る数少ない職業でもある。
だからこそ、この仕事が好きだとわかると嬉しいものだ。その気持ちは分からないでもない。
「だからって採用するとか……今、マンションのリノベーションが五件も入ってるんですが……」
教えられる人がいないと克彦がアピールするが、社長は、ちょうどいいじゃないか、と笑う。
「彼に仕事を振ってみたらいい」
社長はそう言って克彦にファイルを預けていった。克彦が大きなため息を吐き、それを開く。
「……辻本匠……」
中に挟まっていた履歴書を見て、克彦は呟いた。
よろしくお願いします、とキラキラ輝いた目で言われ、克彦はその笑顔に目を奪われた。
小柄で、可愛らしい顔立ちをしている匠は、着なれないスーツも七五三を思わせ、愛らしかった。
「……市原主任?」
見つめ過ぎてしまったのだろう、匠がこちらを不思議そうな顔で窺う。それに克彦は、いや、と曖昧な前置きをしてから口を開いた。
「君の上司になる市原だ。どういう経緯で入社したかは社長から聞いている。就活はすんなり通ったかもしれないが仕事はそんなに簡単じゃない。覚悟しておきなさい」
「はい! 俺、ここに入れて……市原主任と仕事ができるだけで嬉しいです!」
よろしくおねがいします、とオフィス内に響き渡る声で言われ、克彦は大きくため息を吐いた。
元気でまっすぐでやる気に満ち溢れた匠を前にしたら、確かに折れてしまうだろう。この熱に圧され採用してしまった社長の気持ちが少し理解できた。
この子の傍に居ると、不思議と元気になる。そんな気がしてオフィスを見渡すと、みなが匠を見て微笑んでいた。
「私は甘くないよ」
「はい。大丈夫です」
頑張れます、と微笑んだその顔は、本当に可愛らしくて、一瞬で克彦の心を奪っていった。
初めて誰かを素直に、好きだな、と感じた瞬間だった。
5
お気に入りに追加
115
あなたにおすすめの小説
後輩に嫌われたと思った先輩と その先輩から突然ブロックされた後輩との、その後の話し…
まゆゆ
BL
澄 真広 (スミ マヒロ) は、高校三年の卒業式の日から。
5年に渡って拗らせた恋を抱えていた。
相手は、後輩の久元 朱 (クモト シュウ) 5年前の卒業式の日、想いを告げるか迷いながら待って居たが、シュウは現れず。振られたと思い込む。
一方で、シュウは、澄が急に自分をブロックしてきた事にショックを受ける。
唯一自分を、励ましてくれた先輩からのブロックを時折思い出しては、辛くなっていた。
それは、澄も同じであの日、来てくれたら今とは違っていたはずで仮に振られたとしても、ここまで拗らせることもなかったと考えていた。
そんな5年後の今、シュウは住み込み先で失敗して追い出された途方に暮れていた。
そこへ社会人となっていた澄と再会する。
果たして5年越しの恋は、動き出すのか?
表紙のイラストは、Daysさんで作らせていただきました。

しっかり者で、泣き虫で、甘えん坊のユメ。
西友
BL
こぼれ話し、完結です。
ありがとうございました!
母子家庭で育った璃空(りく)は、年の離れた弟の面倒も見る、しっかり者。
でも、恋人の優斗(ゆうと)の前では、甘えん坊になってしまう。でも、いつまでもこんな幸せな日は続かないと、いつか終わる日が来ると、いつも心の片隅で覚悟はしていた。
だがいざ失ってみると、その辛さ、哀しみは想像を絶するもので……

王様お許しください
nano ひにゃ
BL
魔王様に気に入られる弱小魔物。
気ままに暮らしていた所に突然魔王が城と共に現れ抱かれるようになる。
性描写は予告なく入ります、冒頭からですのでご注意ください。

何故か男の僕が王子の閨係に選ばれました
まんまる
BL
貧乏男爵家の次男カナルは、ある日父親から呼ばれ、王太子の閨係に選ばれたと言われる。
どうして男の自分が?と戸惑いながらも、覚悟を決めて殿下の元へいく。
しかし、殿下は自分に触れることはなく、何か思いがあるようだった。
優しい二人の恋のお話です。

親友と同時に死んで異世界転生したけど立場が違いすぎてお嫁さんにされちゃった話
gina
BL
親友と同時に死んで異世界転生したけど、
立場が違いすぎてお嫁さんにされちゃった話です。
タイトルそのままですみません。

美貌の騎士候補生は、愛する人を快楽漬けにして飼い慣らす〜僕から逃げないで愛させて〜
飛鷹
BL
騎士養成学校に在席しているパスティには秘密がある。
でも、それを誰かに言うつもりはなく、目的を達成したら静かに自国に戻るつもりだった。
しかし美貌の騎士候補生に捕まり、快楽漬けにされ、甘く喘がされてしまう。
秘密を抱えたまま、パスティは幸せになれるのか。
美貌の騎士候補生のカーディアスは何を考えてパスティに付きまとうのか……。
秘密を抱えた二人が幸せになるまでのお話。
大嫌いだったアイツの子なんか絶対に身籠りません!
みづき(藤吉めぐみ)
BL
国王の妾の子として、宮廷の片隅で母親とひっそりと暮らしていたユズハ。宮廷ではオメガの子だからと『下層の子』と蔑まれ、次期国王の子であるアサギからはしょっちゅういたずらをされていて、ユズハは大嫌いだった。
そんなある日、国王交代のタイミングで宮廷を追い出されたユズハ。娼館のスタッフとして働いていたが、十八歳になり、男娼となる。
初めての夜、客として現れたのは、幼い頃大嫌いだったアサギ、しかも「俺の子を孕め」なんて言ってきて――絶対に嫌! と思うユズハだが……
架空の近未来世界を舞台にした、再会から始まるオメガバースです。

こわがりオメガは溺愛アルファ様と毎日おいかけっこ♡
なお
BL
政略結婚(?)したアルファの旦那様をこわがってるオメガ。
あまり近付かないようにしようと逃げ回っている。発情期も結婚してから来ないし、番になってない。このままじゃ離婚になるかもしれない…。
♡♡♡
恐いけど、きっと旦那様のことは好いてるのかな?なオメガ受けちゃん。ちゃんとアルファ旦那攻め様に甘々どろどろに溺愛されて、たまに垣間見えるアルファの執着も楽しめるように書きたいところだけ書くみたいになるかもしれないのでストーリーは面白くないかもです!!!ごめんなさい!!!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる