うちの鬼上司が僕だけに甘い理由(わけ)

みづき(藤吉めぐみ)

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 現場視察から戻らない克彦に、今日は夕飯はいらない、とメッセージを送ってから会社を出た匠は、東屋と待ち合わせた店に向かった。
「ごめん、遅くなって」
 店の前で待っていた東屋を見つけた匠が声を掛けると、スマホの画面から顔を上げた東屋が優しく笑む。
「全然。僕もさっき着いたとこ」
 東屋はそう言いながら店の中へと入っていった。前にも来たことのある店で、半個室になっているところが色々話せて都合がいい。こういうところなら克彦と二人で来れるかな、と前に来た時も思ったところだ。
 席に着くなり店員にビールを頼んだ東屋が、疲れたー、とテーブルに上半身を突っ伏した。その様子に匠が驚き、大丈夫? と声を掛ける。
「約束のある日に限って仕事って増えるんだよな。見積もり半分くらい蹴ってきたよ」
「別にもう少し時間遅くしてもよかったのに。それ、平気なの?」
 匠が心配そうに聞くと、体を起こした東屋が、平気、と笑った。
「明日の朝一でやれば間に合うから。匠くんに心配して貰えたから頑張れる」
「東屋さん……」
 東屋の言葉に少し困った顔をすると、それに気づいた東屋が、なんてね、と悪戯めいた顔で笑った。
「そんなこと言ったら匠くんは困るか。でも、事実だよ。ここまで来る途中も浮かれて走ってきたし」
 自分が誰かの原動力になっているなんてこれまで経験したことがなくて、匠はどう答えたらいいのか分からず視線を泳がせた。そこでタイミングよくビールが運ばれてきて、東屋は、乾杯しようか、と空気を入れ替えるように言ってくれた。
 匠はそれに頷きながら、克彦とは違う心地よさを感じていた。言わなくてもさっと空気を読んでスマートに行動してしまう東屋といると、とても楽だ。克彦は優しいけれど、こんなに器用ではない気がする。
「昼間も聞いたけど、匠くん今の仕事、好き?」
「東屋さんから見て、俺の仕事は雑用ばっかりに見える?」
 ビールを一口飲んでから東屋が言った言葉に、匠が聞き返す。東屋は一瞬言葉に迷ってから、静かに頷いた。
「うん……正直、そう見える。だから、名刺にデザイナーって肩書きないんでしょ? ちゃんと二級建築士の資格持ってるのに」
 匠の名刺には所属の部署しか書いておらず、建築デザイナーとは書いていない。克彦や水谷を始め、事務以外の社員の名刺にはデザイナーと書かれているはずだ。
「だからっていうか……それは、俺がいらないって言ったから、まだ入ってないんだ。家一棟ちゃんと設計できるまでは、偽りになっちゃうし」
 だから早く任せてもらいたい。そうすれば克彦と並べる気がする。関係が変わる気がするのだ。克彦が自分を縛ろうとするのは、自分が頼りないからに違いない。歳も下、仕事も上司と部下、守らなければならない保護者のような感覚に陥っているのかもしれないというのは随分前に気づいていた。
 だから早く、少しでも早く克彦と同じ肩書きを持ちたい。持てるくらいの実力をつけたい。
「そっか……僕なら仕事ふってあげられるよ。こっちからデザイナー指定すれば、そっちでは変えられないはずだから」
「そんなことできる、の?」
「デザイナーなんて誰でもいいっていう客もいるし、市原克彦がいる事務所で設計されたっていうのは間違いじゃないし」
「それって、詐欺ギリギリじゃ……」
 匠が渋い顔をすると、東屋は、まあね、と言いながらビールを呷った。
「バレたらアレだけど、バレないようにすることはできる。やってみる?」
 こちらをじっと見つめ、東屋が微笑む。匠はごくりと唾を飲み込んだ。
「やってみたい、かも」
「デート一晩で手を打つよ」
「……え?」
「え、じゃないよ。それなりのリスクがあるんだから、それなりの見返りがないと」
 驚いた匠に対し、東屋は飄々と答えた。匠は、そりゃそうだけど、と視線を泳がせる。
「一応一晩の意味は理解してるんだ」
「そりゃ……朝までカラオケ、なんてものじゃないことくらいは分かるよ」
 匠が言うと、東屋がにっこりと微笑む。その表情から視線を外し、匠は口を開いた。
 とっさに脳裏に浮かんだのは克彦だった。一晩くらいならごまかすことも出来ると思う。何もなかったようにすることも、難しくない。でも、悲しませることはしたくないと、思った。
「……無理。ごめん、やっぱり無理」
「無理、か。その言葉結構傷つくな」
「ごめん、でも……」
 匠が言葉を繋ごうとすると、それを東屋が、いいよ、と言って制した。
「彼氏に操を立ててるってことだよね。生理的にって意味ではないだろ?」
 匠はゆっくりと頷いた。本当は東屋に抱かれること自体想像できなかったのだが、あえて言う事でもないだろう。
「こうして二人で会ってることも彼氏にとっては面白いことじゃないだろう、それだけでも今はいいさ」
 この瞬間だけは彼氏よりも近い場所にいるからな、と言いながらグラスを傾ける。そんな東屋を見ながら匠は曖昧に頷いて、同じようにグラスの中を飲み干した。
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