うちの鬼上司が僕だけに甘い理由(わけ)

みづき(藤吉めぐみ)

文字の大きさ
上 下
3 / 47

3

しおりを挟む
 事務所に入って三ヶ月、憧れていた職場は何もかもが新鮮で楽しくて、この日も匠は残業をしていた。
 大学の頃からからこの事務所に入りたいと思っていた。在学中には二級建築士の資格を取ることが出来なくて、二年アルバイトしながら勉強し、ようやく就職試験を受けることが出来て、さらに採用して貰えた。
 匠にとっては、本当に一日全てを仕事に使ってもいいと思うくらい、充実していたのだ。  
 この日も時間は既に夜の十一時、他に残っているのは克彦だけという日だった。
 作りつけの収納のデザインを克彦から任された匠は、はりきってパソコンに考えたデザインを描いていた。その作業が中盤に差し掛かった頃、突然オフィスのドアが乱暴に開き、一人の男が大股で歩きながら入ってきた。
 その音に驚いて顔を上げた匠は、男の顔を見て更に驚いた。
「……哲《てつ》、どうしたの……?」
 匠は立ち上がり、男に近づいた。その人は、当時の匠の恋人だった。少し甘えたがりで、それでも自分をいつも引っ張ってくれるそんな人だった。
「どうしたのじゃねえよ! お前、ふざけんなよ、オレが帰るまでに家にいるって約束、何度破んだよ!」
 そう言うと哲は、匠の髪を掴んで引いた。     
 哲は少し……ほんの少しだけやきもち焼きで、強引なだけなんだ――こんなことを日常的にされても、その頃の匠はそう思っていた。今冷静に考えれば、これは立派にDVなのだが、それは認めたくなかったのだと思う。
「ごめん……でも、俺、仕事してたんだし……」
「仕事なら約束破ってもいいってのかよ」
 空いている手で今度は胸倉を掴まれる。匠はそれでも、ごめん、と謝った。
「ご飯、作れなかったからだよね……ごめん。明日から、ちゃんと哲との時間大事にするから、今度の休みは絶対、哲と過ごすから」
 きっと哲は寂しいだけなんだ、こんなふうに不安で乗り込んでくるくらい自分を愛してくれているんだ――そう思った次の瞬間、哲からため息が零れた。
「お前は飯作って部屋の掃除して家政婦になってりゃいいんだよ。何、恋人気取ってんだよ、バーカ」
 哲の吐いた言葉には、優しさなんかひとつもなかった。匠はそれを受け止めきれなくて、でも、と言葉を返す。
「俺のこと必要って……」
「愛美、あいつの飯くそまずいし、片付けとか超ヘタだからな。体は最高なのによ。だから、オレが生活するためにお前が要るんだよ」
「愛美って、誰……?」
 初めて聞く名前に匠の意識が零れそうになる。でもまだダメだ。話は終わっていないと思い、匠は両足に力を入れた。
「お前に話すとうるせーからな。彼女だよ、まあそのうち結婚とかすんじゃね? お前、当然連れてくから――心配すんな、お前の相手もしてやっからよ」
 わかったら帰るぞ、と哲は匠の胸倉を引き寄せ、歩き出した。
「そんなの、できない……!」
 できるはずがない。哲と彼女がいる場所で自分は家事をして、慰め程度に哲に相手をされるなんて考えられない。そんな惨めな毎日なんか送れるはずがない。
「あ? できないじゃねえよ、やるんだよ! オレのこと好きなんだろ? 愛してるんだろ? この間も言ってたよな、ベッドで」
 極プライベートな時間に告げたことを口にされ、匠の頬が染まる。
「でも……」
「でもじゃねえんだよ!」
 哲の拳が飛んでくるのが見えて、匠は目を閉じた。すぐに手が出るのはいつものことだ。自分がワガママや、どうしようもないことを言うから殴られるのだ。哲は悪くない――この頃の匠はそう思っていたし、ぐっと奥歯を噛み締めれば、軽症で済むことも知っていた。
 全身に力を入れ拳を待ったが、しばらくしても衝撃が来ない。おそるおそる目を開くと、拳を止めている克彦の背中が見えた。
「悪いな。目の前で部下が殴られるところを黙って見ていられるタチではなくて」
 克彦はそう言うと力を抜いたらしい哲の拳から手を離した。
「これはオレとコイツの話だ、おっさんは引っ込んでな」
「そうはいかないだろう。大体、まだおっさんという歳でもない。訂正してもらおうか」
 克彦がそう言うと、哲は露骨に面倒そうな顔を見せた。それから、もういいや、と口を開いた。
「もうウチ帰ってこなくていいから、匠」
「帰ってこなくてって……あそこは俺の部屋だし……」
「うっせーな、オレも住んでんだよ、オレは引っ越す気はねえよ」
「どういう、こと?」
 匠の心臓がばくばくと大きく鳴る。最悪の言葉を告げられる予感はしていた。それでも怖くて匠は唇を噛み締める。
「もう要らないって言ってんだよ。うぜーの嫌いなんだよ。じゃあな」
「じゃあって……哲!」
 匠が哲の背中を追いかける。それでも大きく手を払われてしまっては、それ以上追いかけることは出来なくて、匠はその場に崩れるように座り込んでしまった。
「うそ……ふられ、た……?」
 あんなに毎日尽くしていたのに。嫌なことも我慢したのに。大事にしてきたのに……自分は大事にされていなかった――そう思うと、匠の目にあっという間に涙が溢れてきてしまった。
「すまない」
 そんな匠の背中に、短い言葉が掛かる。克彦の沈んだ声に匠は振り返り、かぶりを振った。
「市原主任のせいじゃありません。これは俺が……悪かっただけで……」
「君と彼がどんな毎日を過ごしていたのかはわからない。けれど、何があっても恋人を殴るのだけは最低だ」
 克彦はそう言うと、匠に手を差し出した。それを掴み立ち上がると、そのまま克彦が自分の体を抱きしめてくれた。哲と付き合っていても、こんなふうに抱きしめてくれることなんてなかった。ただ温かく優しい体温が心地よくて嬉しくて、匠は目を閉じた。額に柔らかなキスが落ちる。
「……主任は同性同士の恋愛に寛容なんですね」
 哲のことも自然に対応し、こうして自分を慰めてくれる克彦が、匠には不思議に思えた。普通、こんなに優しく出来る人なんて少ないだろう。
「自分でも不思議に思っているんだよ」
 克彦の言葉に匠は首を傾げる。そんな匠に克彦は笑んで口を開いた。
「……仕事の締め切りまで時間はある。今日はもう、上がろうか」
 克彦の言葉に匠は小さく頷いた。
 それから一緒に酒を飲みに行って、気づいたらホテルのベッドの上で、それでも匠は、いいか、と思ってしまった。好きとか嫌いとかそういう感情よりも、この時はただ優しい人に寄りかかっていたいと思ってしまったのだ。
しおりを挟む
感想 2

あなたにおすすめの小説

恋愛対象

すずかけあおい
BL
俺は周助が好き。でも周助が好きなのは俺じゃない。 攻めに片想いする受けの話です。ハッピーエンドです。 〔攻め〕周助(しゅうすけ) 〔受け〕理津(りつ)

後輩に嫌われたと思った先輩と その先輩から突然ブロックされた後輩との、その後の話し…

まゆゆ
BL
澄 真広 (スミ マヒロ) は、高校三年の卒業式の日から。 5年に渡って拗らせた恋を抱えていた。 相手は、後輩の久元 朱 (クモト シュウ) 5年前の卒業式の日、想いを告げるか迷いながら待って居たが、シュウは現れず。振られたと思い込む。 一方で、シュウは、澄が急に自分をブロックしてきた事にショックを受ける。 唯一自分を、励ましてくれた先輩からのブロックを時折思い出しては、辛くなっていた。 それは、澄も同じであの日、来てくれたら今とは違っていたはずで仮に振られたとしても、ここまで拗らせることもなかったと考えていた。 そんな5年後の今、シュウは住み込み先で失敗して追い出された途方に暮れていた。 そこへ社会人となっていた澄と再会する。 果たして5年越しの恋は、動き出すのか? 表紙のイラストは、Daysさんで作らせていただきました。

「じゃあ、別れるか」

万年青二三歳
BL
 三十路を過ぎて未だ恋愛経験なし。平凡な御器谷の生活はひとまわり年下の優秀な部下、黒瀬によって破壊される。勤務中のキス、気を失うほどの快楽、甘やかされる週末。もう離れられない、と御器谷は自覚するが、一時の怒りで「じゃあ、別れるか」と言ってしまう。自分を甘やかし、望むことしかしない部下は別れを選ぶのだろうか。  期待の若手×中間管理職。年齢は一回り違い。年の差ラブ。  ケンカップル好きへ捧げます。  ムーンライトノベルズより転載(「多分、じゃない」より改題)。

俺より俺の感情が分かる後輩は、俺の理解を求めない

nano ひにゃ
BL
大嫌いだと思わず言ってしまった相手は、職場の後輩。隠さない好意を受け止めきれなくて、思い切り突き放す様なことを言った。嫌われてしまえば、それで良かったのに。嫌いな職場の人間になれば、これ以上心をかき乱されることも無くなると思ったのに。 小説になろうにも掲載しています。

一夜限りで終わらない

ジャム
BL
ある会社員が会社の飲み会で酔っ払った帰りに行きずりでホテルに行ってしまった相手は温厚で優しい白熊獣人 でも、その正体は・・・

激重感情の矢印は俺

NANiMO
BL
幼馴染みに好きな人がいると聞いて10年。 まさかその相手が自分だなんて思うはずなく。 ___ 短編BL練習作品

幸せの温度

本郷アキ
BL
※ラブ度高めです。直接的な表現もありますので、苦手な方はご注意ください。 まだ産まれたばかりの葉月を置いて、両親は天国の門を叩いた。 俺がしっかりしなきゃ──そう思っていた兄、睦月《むつき》17歳の前に表れたのは、両親の親友だという浅黄陽《あさぎよう》33歳。 陽は本当の家族のように接してくれるけれど、血の繋がりのない偽物の家族は終わりにしなければならない、だってずっと家族じゃいられないでしょ? そんなのただの言い訳。 俺にあんまり触らないで。 俺の気持ちに気付かないで。 ……陽の手で触れられるとおかしくなってしまうから。 俺のこと好きでもないのに、どうしてあんなことをしたの? 少しずつ育っていった恋心は、告白前に失恋決定。 家事に育児に翻弄されながら、少しずつ家族の形が出来上がっていく。 そんな中、睦月をストーキングする男が現れて──!?

王様お許しください

nano ひにゃ
BL
魔王様に気に入られる弱小魔物。 気ままに暮らしていた所に突然魔王が城と共に現れ抱かれるようになる。 性描写は予告なく入ります、冒頭からですのでご注意ください。

処理中です...