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六、冷めたココア、女の子のカラダ。

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「で、どういうことよ」
 浜簪彩葉。彼女がここにいる事に対し違和感しか漂っていない。実家の俺の部屋ならまだしも、いやまあ今となってはここも俺の部屋となるのだろうが、元はといえば姉の部屋、そんなところに千里以外の女性を通す事になるなんて、何だか、もう存在しない姉に対して申し訳無さを感じる。
 俺はついさっき極熱のアスファルトで擦り焼いた膝を消毒しながら、浜簪の声に耳を傾けた。
「まず意味分かんない! どういうこと、本当にどういうことよ!」
「まあまあ落ち着けって浜簪、そう乱暴に言葉を並び立てられちゃこっちだって何から説明すれば良いか分からない」
 怒っているのか泣いているのか、とにかく、自らの羞恥を見られたことを含め、突然に起きたそれら一連の出来事に混乱している浜簪を言葉でなだめる。
「だから、な?」
 にしても、そうだな、説明、か。
 浜簪彩葉。彼女は同高のクラスメイトであるわけで、普段から大して関わりがあるわけでもないし、互いにただ同じクラスの生徒、という認識しか持っていなかったため、今回のような騒動は、二人にとって余りにも突然過ぎた。
 そんな間柄である彼女に、千里のことを話すべきだろうか。
 脳筋バカ、つまりはクラスの中でも必然的に騒がしいグループに位置する彼女なのだが、それに対し俺は、彼女と同じ騒がしいグループにいるわけでもなければ、所謂『陰キャ』と呼ばれる極端に静かなグループにいるわけでもない、あまり目立たないところにいる。
 つまり何が言いたいのかと言うと、千里の存在は俺たち常人にとっては余りにも独特であるのに加え、そんな脳筋バカな浜簪に、その事が理解できるのか否かということである。恐らくは、望む方向には転ばない。となると、俺はクラスの中で『頭のおかしい奴』という不服なレッテルを貼られるわけだ。それだけはどうにか避けたいところ。場合によっては、親にだって無駄な心配をかけてしまう羽目になる。
 なんてああだこうだ考えていると、俺の横でちょんと座り込んでいた千里が、右腕をつんつんと2回突いてきた。
 「どうした?」と目で訴えると、千里は「こっちに」と小さく呟いて部屋を出ていった。行き先はおそらく彼女の部屋だろう。
「悪いな浜簪、少し部屋を空ける。待っててくれ」
 俺はそういって千里のあとに続き、部屋の扉のドアノブに手をかけた。
 去り際に浜簪が「うん、分かった」とそう小さく呟いたが、聞こえなかったふりをしてそのまま部屋をあとにした。
 そうして、千里の部屋に入る。
「で、どうしたんだ千里」
 隣の部屋にいる浜簪に聞こえないよう小さな声でそう尋ねて、千里の返事を待つ。
 千里はこめかみを押さえながら口を開いた。彼女もまた浜簪と同じように混乱しているのだ。そう、そうだろう。
「あの、彼女…浜簪さん? とはどういった関係なの? てかそもそも誰」
「あいつはクラスメイトだ。普段から大して深い関わりもなければ、恋人だとかそういった関係も一切持ち合わせてない」
 俺は浜簪との関係性を明らかにしてそう述べた。
「そっか。で、私のことは説明するの?」
 そう、それである。
「それなんだがな、どうするべきかと悩んでるんだ。あいつは所謂陽キャで、頭もそんなにいいわけじゃない。だから下手にお前のことを話して俺が頭のおかしいやつだと思われると駄目だろ?」
「私は別に駄目ではないけど、まあそれで?」
 ちょっと千里さん?
「……んまあそれでだな、どう説明したら良いかなと」
「説明したあと、実際に見てもらえばいいじゃない」
「何言ってんだ、認識不可性人格障害、そいつのせいでお前は浜簪にも認識されてない。だからこその悩みだろ」
「違うよ、ほら、さっき浜簪さんを助けたときみたいな、何、鎖だったっけ。それ使えば」
 言われて、ついさっきの事を思い出す。
 ……そうか、あの時。俺は千里に触れることで認識不可性人格障害の症状を自らにまで反映させることに成功した。そしてそれは、俺が浜簪に触れることでまるで鎖の様に繋がって。
「そうか、見えてたものが見えなくなる、それを意識的に見せつければ」
「そうそう、多分今までは意識して物を見ている人がいなかったからその鎖効果にも気付かれなかったし、私だって注目を集めている物に触れたりはしなかった。意識的に見せつければ、どうにかなりそうじゃない?」
 千里から出された名案に、俺は何だか高揚していた。
「んじゃちょっくらためしてみるか」
 そう言って腰を上げて、浜簪が一人取り残された隣の部屋へ向かおうと部屋の扉を開いた。
 そして……。
「……ねえ久遠、今、誰と話してたの」
 ドアを引いた先、すぐ目の前に浜簪が立っていた。どうやら盗み聞きしていたようだった。いくら声を潜めていたとは言え、ドア一枚しか挟まれていないこの距離なら内容を聞き取るに十分だ。
「……盗み聞きなんて感心しないな」
「ねえ久遠、どうしたのアンタ…なんか、怖いよ」
 言いながら、後退る浜簪。
 これはやらかしたかもしれない。
「……信じられないかもしれないが、ちゃんと聞いてほしい事がある」
 電話をしていた、とでも言えばこの場は上手く収まったのかもしれないが、しかし、これから千里のことを説明する上でそんな嘘はつく必要が全くない。むしろ、この事も事実として彼女に受け入れてもらった方がいくらか都合が良い気がする。
 そんな考えの元、俺は淡々と事情を説明するよう覚悟を決めていた。
「結果から言わせてもらう。経緯とか証明は後だ、いいな?」
「…分かんないよ、理解できる気がしない」
 浜簪は、これから俺が告げる事に対し相当な不安を抱いているようだった。しかしそんな事を気にしていては事態は何も変わらず、最悪の場合彼女が話を聞くに耐えずこの場を後にし、その結果俺の学校生活が脅かされすらするかもしれないのだ。
 私事情だが、その運命は避けたい。
 それからまた先程の部屋に戻り、俺と浜簪、そして千里の三人が揃う。話を始めるには充分だった。
 浜簪が放つ不安と恐怖、それらが纏まって異様な雰囲気が部屋中にこだまする。苦痛に近いそれから抜け出したいという気持ちも共にして、俺は全てを話した。
 独りで神社に行って、そこで千里と出会ったこと。そして、認識不可性人格障害についてと、現時点で分かっているその病気の特性、鎖型効果のことも。
 決して頭が良いとは言えない彼女に話の全てが理解できるとは思っていない。けれど、今ここに、この場に千里が存在しているのだということだけはどうにか伝わって欲しかった。横で不安そうにしている千里のためにも、俺にできる最大限のことをしたつもりだ。
 千里の病気は彼女自身の精神の損傷で引き起こされた可能性が高いため、今目の前で浜簪が千里の存在を否定してしまえば、もしかすると千里のそれが酷くなるかもしれない。そうなれば、俺にすら認識できない状態になることも考えられないことはなかった。
 もしそうなると、またもや千里は、独りぼっちの世界で生きていく羽目になるわけだ。
 そんな酷なこと、二度とさせるわけには行かなかった。
「何、あたし、今、悪夢でも見てるの?」
 目の前で浜簪がこめかみを抑えて視線を落とす。
 たった今目にした事は、確かに異常でありにわかには受け入れがたいものだ。だが、浜簪には、どうしてもこの事実を受け入れてもらうしかない。
「浜簪、送るか?」
「…うん、よろしく」
 ここにいても彼女の不安を煽るだけだと判断した俺は、彼女を家へ返すことにした。一応、さっきの男の件もあるし独りでここらを歩かせるというのは可哀想なので、俺が付き添うようにした。
「お前んちは教えろよ、俺知らねえから」
「……うん」
 いつもならば「そういう感じ?」と茶化して来る彼女も、今ばかりはそうはいかなかった。
「んじゃ千里、ちょっと行ってくる」
「うん、気をつけてね」
「ああ」
 視認できない「ナニカ」と、こんな風に言葉を交わす俺をみる浜簪は、放心状態だった。彼女の心境が察せられて、なんだか胸がきゅっと締めるように苦しくなる。
 彼女からすれば、この空間には幽霊がいるも同然なのだ。そんな幽霊とクラスメイトが目の前で会話をしているのだから、そりゃあ放心もしたくなるだろう。寧ろ、そうならない方が不思議なくらいだ。
 俺は浜簪を先に行かせて、後ろから見守るようにしてあとに続いた。
 扉を閉める間際、千里がこくっと小さく頷いたのが見えたので、俺は小さくグッドポーズを見せてそのまま部屋の扉を閉めた。
 浜簪はこの眩しい日差しの下で、場違いにも、小さく震えているようだった。その小さな背中を見るに耐えず、俺は彼女の横に並ぶ。右肩のすぐ傍で彼女のポニーテールが揺れる。きちんと手入れされたそれは、陽の光を透き通らせながら金の筋を流していた。
 そうして彼女の家へ着くまでは、互いに無言だった。
「ねえ久遠」
 やっと辿り着いた彼女の家の玄関の前で、彼女はこちらに視線を向けずそう言葉を放った。
「なんだ」
「ちょっとだけでいいからさ、家で話してよ」
 何を、と聞くのは野暮だろう。何について話すのかの検討ははっきりとは付いていないが、正直どうだっていい。今彼女が、自分の家に異性を招いてまで話したいことがあるのだと言うならば、こんな状況だ、言う事を聞くが優しさというやつだろう。
「ああ、分かった」
 そうして、彼女の家のリビングに招かれる。
 白い壁に掛けられた、浜簪の幼い頃の写真。ぱっと部屋を見渡してみたところは、窓が三枚とそこにクリーム色のカーテンがそれぞれついていて、その手前には観葉植物の置かれた小机があった。
 部屋に観葉植物を置くと見栄えが良くなる、とは聞いたことがあるが、浜簪家ではそれがきちんと機能していた。流石は女子の家である。
「今ココア用意するから、座って待ってて」
 彼女に促された通り、クリーム色のソファーに腰掛ける。姉のアパートにも実家にもない、ふんわりとした、しかし高反発のそのソファーに少し感動する。
 にしても、この家庭ではお客にはココアを出すのか。基本的には紅茶とか緑茶とか、そういった茶系だと思っていたが、んまあ彼女の好みである可能性もあるし何とも言うことはできないが、ただ、変わっているなあと、そう思った。
 そうして一分ちょいすると、俺が座っているソファーと前に置いてあるテレビの間に設置された低いテーブルの上に、ココアの入ったカップが二人分置かれた。カップの口からは白い湯気が立っている。クーラーの効いた部屋に対しては、勿論ココアは熱かった。
 それから、浜簪は俺とは一人分間を空けて隣に座った。
「クラスの皆には黙ってて」
 下を向いたまま、自らの腰の横で小さく握り拳を作ってそう言葉を捻り出す彼女。シルク生地のソファーが、辛そうに皺を寄せていた。瞳が少し潤んでいるところを見ると、彼女が「黙ってて」と指したのは、彼女が強姦される寸前だったあの時のことだろう。
「ああ、分かってるよ」
 そんなこと、言わないなんて当たり前だ。
 どうせなら忘れてやりたいくらいには。
「大丈夫か?」
「ううん、苦しいよ。おかしいよね、大して仲が良いわけでもない久遠と、こんな事になってるなんてさ」
 掠れた声を治すように、彼女はテーブルの上のココアを一口窘めた。
「そうか。にしても、ココア、好きなのか?」
「うん、昔からママが作ってくれるココアが好きなの」
「へえ、そっか」
 少しでも気晴らしにと思ったが、そんな他愛のない会話も、すぐに尽きてしまう。
 なんだか重たい空気が立て籠もる中、俺は口の中に残ったココアの香りを鼻から抜きながら、ああ、彼女にとってはきっと、俺は今、ただ隣に居てくれるだけでいいんだろうなとそんなことをぼんやりと思った。
 部屋の時計の秒針が、カチンカチンと秒を刻む。一秒一秒がいつもより長く思えて、なんだか体がうずうずとしてしまうが、彼女の心境を思うと、そんなことは必死で我慢しないとなと思えた。
「帰りたい?」
 突然そんなことを言い出す浜簪に、俺は目だけ向いた。浜簪は手に持ったカップをじっと見つめて、愛想笑いをするように言葉を吐いていた。
「別に」
「ふうん」
 浜簪は少し嬉しそうにそう呟いて、残りのココアをとくとくと飲み干した。俺はまだ残ったココアのカップをテーブルに戻して、時計に目をやった。時刻は十七時を過ぎていた。外はまだ明るい。
「優しいんだね、久遠って」
「やめろ照れるだろ」
「照れていいんだよ」
「……やめろっての」
 精神的にショックを受けた浜簪だと分かっているからこそ、俺は、彼女から言われたその言葉が重すぎて、胸がどんよりと重くなるのを感じた。
 しかし彼女は、そんな俺に追い打ちをかけるようにして、また口を開いた。
「ねえ久遠、今日は泊まってく?」
 呆れを通り越して、なんだもう悲しくなった。
「そういうのやめろ。それに俺は、家で千里が待ってるんだ」
「気持ち悪いんだよ!」
 悲嘆にも似た声が部屋に轟いて、その刹那、気がつけば俺は、浜簪にソファーに押し倒されていた。
 一瞬俺が気持ち悪いんだって言われたように受け取ってしまったが、顔に数センチと迫った浜簪の濡れた瞳を見て直ぐ、俺は全てを悟ってしまった。
「あんなのに汚されて…あたしの体…誰か別な人に触って貰いたい…嫌いになっちゃう」
 つん、と、頬の下の方に水滴が滴り落ちてくる。それはつーっと顔を張って、やがて耳たぶの手前でせき止められた。
 真正面から彼女の目を見つめるが、ちらちらと服の襟から覗いた薄赤色のブラジャーがなんだか欲を誘ってくるようで、まるで悪魔の囁きの様な何かを感じた。
 俺は顔の横に置かれた彼女の手首を持って手に力を込める。簡単に折れてしまいそうな彼女の腕が、少しだけ怖かった。そして、無理に体を引き起こす。
「いい加減にしろ!」
 俺の怒号に、彼女は簡単に怯んだ。
「シャワー浴びて来いよ、思う存分体洗って来い。浜簪があがるまで、ここに居てやるから」
 無理して笑ってみせると、彼女は声を上げて泣いた。
 結局、俺の胸に寄りかかって。
 昼間の猿よりか、俺の胸は温かいだろうと思う。
 あいつよりか、俺の腕は男だろうと思う。
 だから、多分、俺は姉ちゃんが居なくなってから、知らずのうちに、男になる覚悟を決めたんだと思う。
 包んだ彼女の腰は、信じられないくらいに細かった。
 もしかしたら姉ちゃんの腰も、こんなに細かったのかなとふと悲しくなった。
 少なくとも姉ちゃんの骨は、弱々しくて見るに耐えなかった。
 余裕が出来て目をやったカップからは、もう湯気は立っていなかった。
 浜簪、お前はまだ、きちんと女の子だ。
 大丈夫、大丈夫。
 まだ、お前の体は汚れちゃいないよ。
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