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五、小さなヒーロー。

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 スーパーの自動ドアがスィーンというモータ音を響かせながら開いて、店内の冷気がぼんやりと外に逃げてくる。左手に食用品の入った重たいビニール袋を持って、その血の止まった指先がちりちりと冷たくなるのを感じる。それが嫌で袋を右手に持ち替えると、今度は体のどの部位よりも熱いのではないかというくらいに、一瞬だけ体の極先に熱が生まれた。
 ジリジリと街の景色を焼く太陽から逃げるようにスーパーの入り口をくぐる者。また、買い物を終え、嫌々ながら出口をくぐる者。俺たち二人は後者だった。クーラーで冷えていた体が瞬時に熱に包まれて、その温度差にクラっとくる。続く予定があるわけでもないので、今日は寄り道せずに家へ帰ることにした。
 隣でアイスキャンディを咥えた千里の首筋がじんわり汗ばんでいて、それがまるで溶けたアイスキャンディの表面のように陽の光をキラキラと反射していた。
 夏ならではのそれだった。
 千里は、アイスキャンディで口が塞がっているからか何も話しかけてこない。まあ、外出中はそれが好都合かもしれないが。彼女が周囲の人間から認識されない内は、他人からすれば俺と彼女との会話は見掛け上俺の独り言となる。これから社会に出ていく身として、病気を患っている訳でもないのにそういったレッテルを張って生きていくというのは、俺には少しばかり荷が重い気がした。
 ガス、ガス、ガスと、俺の耳にのみ、アスファルトを踏み付ける二人分の足音が響いていて、それが余りにも自然すぎるから、俺は彼女の存在を誰もが視認できるものとしてすぐそばに感じてしまう。どうしても、彼女が認識不可性人格障害という自称病にかかっているという、事実か偽りか分からないそいつを疑ってしまうのだ。
 なんて頭の中でもやもやと考えながら小学校の横の道に折れる。左手には密かに小さなたこ焼き屋があって、そこは俺が小学生の頃から「鶏臭い」と言われている店だった。だがそう言った奴らが言うに、味は捨てたもんじゃないらしい。俺は食べたことないけど。
 そのたこ焼き屋を過ぎて、俺はさり気なく団地の裏側を通ってみることにした。団地の裏を通ると、秘境みたいな、細くて自然に囲まれた数十メートルほど続く道に抜けることが出来て、そこは、夜こそはその暗さと人通りの少なさで危険な気もするが、それでも、何だか不思議に包まれているというかなんというか、そんな変な何かを感じるのだ。
 彼女はとてつもない時間、誰の目にもつくことがなかった。今となってもそうだ。俺以外の人間には今のところ認識されていない。
 きっと、寂しいだろう。誰にも何も抱かれないというのは。
 きっと、痛いだろう。自らの意思が誰にも微塵も伝わらないというのは。
 だから、その何かに包まれて欲しかったのだ。人ではない、自然でもない、でも何処かに意思を感じる、そんな不思議な場所で。
「道違くないですか?」
 隣から声が聴こえて視線をやると、そこには何もついていないアイスの棒を持った千里がいて、その棒は、彼女の指の数ミリ上から先をほんのり湿らせていた。
「ん、ああ、ちょっと来てほしいところがあってな」
 俺は先の道を示すように胸の前で小さく人差し指を構える。
 並ぶのは細い路地だった。
「私が可愛いからって悪い男に売り渡す気ですか。残念でした病気のせいであなた以外には見えません」
「んなわけねえだろうが俺を何処の悪だと思ってんだよ」
 急におかしなことを言い出した千里にすかさずツッコミを入れる。きっと暑さで頭とかをやられたのだろう。にしても、よくもまあそんな服装をした女性からこんなセリフが吐かれるものだ。
 それから、俺は誤解を解くように言った。
「是非とも歩いてほしい場所があんだよ。この町にはこんな場所もあるんだぜっていう」
 すると彼女は不満な面持ちでこちらを睨む。
「暑いので寄り道せずに帰りたいんですけどね」
 その面持ちの理由は太陽だった。
「こんな暑さに負けてちゃこの先生きていけねえな」
 横で彼女が「うるさいなあ」と文句を言っているのを横目に、俺は照りつける太陽を睨みながらそう零して、例の道に入る曲がり道を折れた。
 そうして、唐突に廃れた景色に挟まれる。数年前までは右手には立派な和風家屋があって、気の強そうな怖い顔のお婆さんが住んでいた。挨拶をしても返してくれないし正直苦手な人だったけれど、その庭には沢山の青い紫陽花アジサイが咲いていて、学校で紫陽花好きな先生が言っていた『辛抱強い愛情』という花言葉を聞いたときには、そのお婆さんのことが少しだけ気になったりした。
 だから、建物の建て壊しが始まったときは、何だか少しだけ寂しかった。
 左手には枯れた畑が広がっている。これもお婆さんの家が無くなるより少し前には既に今の状態になっていたけれど、その数年前までは立派な景色だったのだ。トマトとか苦瓜とか、それに柿。あ、そうだ、葡萄だってなってた気がする。
 と、つまり何が言いたいのかというと、この道を挟む景色は、ほんの二、三年違いと言えど、同時に廃れて景色を変えたのだ。
 まるで、空気が死んだように、景色が枯れた。
 その残りと言ってはなんだが、そいつらが見てきた沢山の言葉がその道には詰められているみたいで、俺はつまり、千里にそれを感じてほしいのだと思う。
 なんて考えていると、もうすでに俺たち二人はその道には足を踏み込んでいた。
「……この木って」
 隣で千里がそう零す。俺は疑問符を浮かべながら、千里が視線を注いでいる木に目をやった。
 枝が少なくて、木漏れ日がちらちらと二人の足元を泳いでいる。まだまだ若い木だ。
「この木がどうかしたのか」
 なんだかう~んと考え事をしている千里に後ろからそう声をかけて、彼女の反応を伺う。まだ悩みながら、彼女は難しそうに返答をよこした。
「いえ、この木昔見たことがある気がして。でも私が知ってるのはもっと枝がふさふさだったと思うんですよね。何でしょうかこの違和感は」
 うむ、冷静に考えてみよう。
「木の形なんてどれも似てるじゃん?」
 俺はなんだか、急に変なことを言い出す千里のほうが心配である。
「そうでしょうか。…んまあ確かに涼さんの言う通りですし、今はそういうことにしときましょう」
「これからも多分そうなんだって…」
 俺は呆れを混じらせながらそう答えた。
「にしても千里、俺はお前の言った通りお前のこと呼び捨てでやってるけどさ、お前から俺には敬語外れねえのか」
 もう何度も言葉を交わして、彼女との距離は大分縮まったと思う。彼女から一方的に敬語を使われるというのは流石に後ろめたさがついてくるものだ。
「んん、そうですね」
 彼女はそう反応して、いっときう~んと悩んだ末に答えを出した。
「涼さんがやめろって言うならやめてあげても良いですよ」
 その時初めて彼女がみせた、軽い羽のようなさらさらとした笑い方は、見ていてなんだか気恥ずかしくなった。
 幼い、だけどやっぱり可憐だ。
「……そうだな、んじゃもう呼び捨ても敬語もやめて、硬い感じは無くそうぜ」
 俺はそう言って、少しざらついた木肌を撫でた。この暑さの中、日陰に佇むこの木はひんやりと冷たかった。
「分かった…よ」
「慣れないか?」
「うん、まあ少しだけね」
「そっか」
 そんな感じで会話を繰り返して、俺達はまた、絶え間なく照り続ける太陽の下、その暑さに打ちひしがれた。辺りには蝉の声が響いていて、その声もまた、景色と重なり体感温度を高めているように思える。
「ところで涼」
 隣からそう声をかけられて、胸がドキンと高鳴る。女の子から名前を呼び捨てされる事ってこんなにも照れくさいことだっただろうか。
「お、おう。どうした」
 俺は辿々しくそう返したが、彼女はそれに気付きながらもいちいち触れていられないと言った様子で話を前へ進めた。
「涼がここに私を連れてきた理由って何? 歩いてほしい道がどうとか言ってたけど」
 早く帰りたいとばかりにそう尋ねてくるから、俺は彼女にその答えを言いづらかった。軽く言えるだろうか、実はもう、この道こそがそうなのだということを。
 しかしそう悩んだところで、きっとどっちの選択に転んでも彼女の機嫌が直らないことなど安易に想像がつく。ならば勿体ぶらずに答えることが得策ではないだろうか。
「…ああ、この道がそうだ」
「帰りましょう」
「待って?」
 確かに、確かにそうなるとは薄々察して履いたけれども。
 あとまた敬語になってますよ千里さん。
 横で不満そうに唇を尖らせる千里を見ていると、何だか悪い事をしてしまったような気になってしまうが、いやしかし、ここで帰ってしまうと目的を完全に果たさずにただ道草を食っただけとなってしまう。
 俺は、痩せ気味だがしっかりと筋の張った若木の、そのスカスカの枝からちらちらと漏れる木漏れ日を目で遊びながら、彼女に向けて口を開いた。
「いやーなんだ、ここ、少し前まではでっかい家と綺麗な畑に挟まれた道だったんだけどな。数年の内に両方枯れて、何もかも変わっちまったんだよ。この道を残して」
「……へえ」
 返事に不自然な間を開けた彼女が、俺は少しだけ気になった。まるでらしくないなと、そんなぼんやりとしたものだけれど。
 そうして、ちらちらから目を話して彼女に視線をやる。そこには、悲しい微笑みを浮かべて足の先で転がした小石を見つめる彼女がいた。
「どうかしたのか」
 尋ねると、彼女ははっと我に返ったように顔を上げて、俺の目を見上げた。
「あっいや、うん。そうだな、まるで人同士の関わりの変化みたいだなって思ってたんだ」
 らしくない言葉に、お互い少しばかり居心地が悪くなる。
「……そうかい」
 ぐっと伸びをして、耳の後ろの熱を帯びた黒髪を掻いた。一瞬火傷したんじゃないかというくらいに髪が熱くなっていたことに驚いたが、中に溜まった湿気がそんな感覚をどんよりと和ませた。
「帰るか」
「うん」
 もと来た道を抜けて、団地の裏を歩く。棟の影が決して広いとは言えない道に伸びていて、団地の柵の内側に身を構えた桜の木に止まった雄の蝉達が胸を素早く振動させる。
 静かだなあと、何でもない日常を思い返していた。
 そんな風にぼんやりと歩いていると、千里が俺の肩をちょんちょんと触れて、俺は反射的に千里を見下ろした。
「ねえ、あれ」
 千里が視線をやった先は、団地の棟の入り口、暗く死角になった場所だった。眩しい景色ばかり目にしていた俺には、千里がその暗闇の中の何を指しているのかすぐには目に付かなかった。しかし、俺が瞬時にそれに気づけたのは、その暗闇の中で藻掻いていた女が小さく叫んだからだろう。
「……いやぁ」
 喘ぎに近いそれは、その一般的な意味である快感を表すどころか、まるで恐怖を訴えているようだった。
 その暗闇に目を釘付けにして何秒だったろうか、気がつけば俺の目には、20代前半、いや、10代後半か、そのくらいのサルみたいな青年と、背中から回されたそのサルの下品な手に乳房とその先端の小さな突起を刺激される同い年くらいの女子の、そのたった二人が映っていた。
「助けるか、千里」
 俺は買い物袋を持った手にさらに力を入れた。
 千里は何も言わない。初めて見る光景に、震えているようだった。
「千里、お前の病気の影響、触れたものは消えるって言ってたよな。今までお前の存在に誰も気づかなかったってことは、それ鎖みたいにして連動して影響されてるんじゃねえか」
「……え」
 返事が遅い。
「俺の手を離さずに走れ千里、小さなヒーローになるぞ」
 言い放って、俺は乱暴に千里の手を握ってその暗闇向けて一直線に走り出した。
「えっ」
 後ろでよろよろとついてくる千里がそんな焦った声を出すが、もう後戻りはできないため、俺は千里をただ無視してその目の前にいる女子の手を掴むことしか出来なかった。
 彼女の手を掴んで、叫ぶ。
「走れ!」
 胸元のボタンを開けたままの彼女は、声を出す間もなく俺につられて走り出した。ただ、見つからないところに向かって走らなければ。
 行き先はもう、あそこ、姉の部屋しかなかった。
 小学校の前を通り過ぎて、古いアパートに向う。
 照りつける太陽は俺の敵となったように、俺の身体から水分と体力を共に奪っていった。後ろでは先程のサルが状況を理解できずに狼狽えていた。
 ざまあ見ろ。心中で密かに馬鹿にしてやった。
 ただ、ひたすらに走る。走って、走って、走って、走って。
 そんな時、俺の左手に腕を掴まれていた彼女が立ち止まって叫んだ。
「離してって久遠っ!」
 急に運動を止められて、俺は今までの力が前に逃げたためはずみで二人の手を離してアスファルトに膝を擦り剥けた。
「いって。何だよ急に! 今は急いでっ……」
 俺は血の滲む膝をなるべく触らないようにして立ち上がり、俺をこかした彼女を睨んだ。
 ……が、そこで目尻に涙をためながら胸元のボタンを止めなおしていたポニーテール女に、俺は目を見開いた。
「何なの久遠、意味分かんない…!」
「…え、え。何がどうしたんですか涼さん」
 空いた口が塞がらないとはこの事か、俺の目の前にいた彼女は、そう、こいつは同じクラスの。
浜簪ハマカンザシっ!?」
 浜簪彩葉ハマカンザシアヤハ、同じクラスの、脳筋バカだった。
 姉ちゃん、何だこれ、千里と出会ってから色々と変な事にばかり巻き込まれます。どうしたら良いですか。
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