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夏の風が吹いたあと。
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夏の風が吹いたあと。
天之奏詩
青い森に囲まれた小田舎では蝉の声が木霊している。山鳩の声が運んでくる青い匂いと雲の影が、人々の心を穏やかにしてくれる。
そんな、静かな日々を過ごしていた。
「ねーちゃん、俺、好きな人出来たかもしらん」
翔太は放課後友達と遊び終わった後、家に帰るとすぐに、リビングでファッション雑誌に夢中になっている姉に突然そんなことを告げた。
ぺらっと、雑誌の紙がめくられる。
「そーなん」
姉は一度、興味なさそうに翔太にそう返して、それから再び、驚いて雑誌を勢いよく閉じた。
「そーなん!」
「おん」
時間差で大袈裟に反応する姉に、翔太はなんでもないように冷静にそう返事をした。
翔太は今年小学六年生になる。姉の春香は中学二年生で、第一青春期を謳歌している真っ最中だ。たった今食い付いていたファッション雑誌も、学年の女友達が彼氏とのデートで来ていく服を悩んでいたところを「皆で応援しよーや」などと言い出したグループのリーダー的女子に巻き込まれて開いたものだった。結果的には自分の服選びと化していたのだが。
翔太は内心、とても緊張していた。幼心ではあるが、実の姉に自分の恋について告げたのだから。そして何より、いくら仲の良い姉弟でもこんな話は普通しないのだと、そう翔太は考えているのだから。
「どんな子なん?」
春香は興味津々に翔太の恋バナに食い付き、ファッション雑誌はテーブルの隅に置きやった。友達関係(最後は自分の為となりつつあったが)よりも弟を大切にする姉らしい姿に、翔太は少しだけ嬉しくなった。
翔太は、彼女との出会いを思い出す。
放課後、翔太は友達と遊ぶ約束をしていた。
場所は近所の自然公園を分割する小川だった。いつも他の友達より早く待ち合わせ場所に着いて、そこで独りでぼーっとしている時間が好き。特に今日は、川のせせらぎと草木の揺れる音の心地よい場所だから、翔太は期待に胸を膨らませて待ち合わせ場所に到着した。
そこで、あることに気が付いた。
待ち合わせ場所である小川で、見覚えのない年上の女性が水面を揺らしていたのだ。
何をしているのだろうと、翔太はそのお姉さんに近づいたが、そこでドキッとして足を止めてしまう。
ショートパンツにへそ出しの白シャツ。そのボタンは上から三つまで外れていて、大きめの下着が覗いている。ショートパンツから伸びた太ももには、日の光を反射した水面の模様が張っている。この街では見ない顔だ。そしてその格好からも、なるほど都会から来たのだということが見て取れた。
小学生の翔太に、その露出の激しい服装とスタイルは少しばかり刺激が強すぎたりする。
そして何より、翔太が目を引かれたのは、彼女の胸に付いた、峡谷に落ちていかんばかりの黒いほくろだった。
いっときそのお姉さんに見惚れていたが、ふとお姉さんがこちらを向いたことに気がついて慌てて顔を背ける。
お姉さんは川の中を、翔太の方へゆっくりと歩を進めてくる。翔太は彼女の姿をまっすぐ見ることが気恥ずかしく、他所に注意を反らしていた。
「ねえボク」
お姉さんがとうとう川岸に上がって、さらに翔太に迫る。声をかけられたので、ちらりとそちらへ視線をやった。
濡れて光る細い脚は、下の方を泥で汚している。しかし、それが更に、翔太に女性を感じさせた。
額に薄っすらと、冷たい汗が滲む。
「ねえボク?」
二度声をかけられても、翔太は沈黙を決め込んだ。しかし、彼女はさらに翔太へ詰め寄って、それから中腰になって視線を合わせてくる。耳が熱くなるのを感じて、翔太はさらにドキりと胸を弾ませてしまった。
「ボク独り?」
明るいショートヘアが目の前で揺れて、翔太は見たこともないそのサラサラの髪質にも見惚れてしまっていた。
翔太は声を出せず、小さく首を横に振った。
「そっか。お友達が来るの?」
「……うん」
翔太の返事を聞いて、彼女は可憐に笑った。
翔太は不思議そうにお姉さんを見て、ふとまた例のほくろに目が走ってしまい、焦って後ろを向いた。
「あっ…あ、ごめんね」
彼女は自分がどこを見られているのか気が付いたようだ。しかし、羞恥よりも幼い子に対する気遣いのような、そんな申し訳ない気持ちを向けられた事に、翔太は少しだけ不貞腐れた。
子供扱いするな、とそんな子供っぽい思考が一瞬だけ翔太を侵食した。
「お友達が来るまで話そっか」
お姉さんが胸元のボタンを留めながらそう言って立ち上がって、川に架けられた石造りの橋へと歩を向けた。
翔太はその遠ざかって行く声に振り向いて、そこに、左右に揺れる年上の女性の腰つきを見てしまう。
((これはアカン!))
翔太はそう感じると、来た道を走って戻った。
「あれ、おーい!」
後ろで彼女が叫ぶが、無視して走り去った。
途中で友達と会って、翔太は小川で遊ぶのはやめようと言ってから別の場所へと向かった。
この時、ふと自分の中に渦巻いた気持ちを必死で抑えていた翔太。
あのおねーさんの事はこいつらには話さへん!俺だけの秘密にしたいねん!
翔太にとって、お姉さんは独り占めしたい存在と化していた。
「知らん人にはついて行ったらあかんで」
春香は関心を無くしたように翔太から身を引いて、そう言いながらまた、例の雑誌を開く。翔太は表情を少しだけ曇らせて、面白くなさそうに黒いランドセルを肩から下ろした。
「そんなん分かってるし、そもそもまた会えるわけないしいいねん」
翔太は既に、一睡の夢ならぬ、一睡の恋心を悟ってしまっていた。
これまでだって、同じクラスの浜簪さんや、今はもう中学へ上がってしまった一つ年上の名前も知らない先輩を好いていた時期もあった。
では何故今回に関して翔太の恋を「一睡の恋心」と表現したのかというと、それは所謂過去との対比表現なのである。
これまで恋をした相手は、皆翔太の手の届く距離にあった。空間的にも、心理的にもだ。しかしながら今回の場合は、年の差は疎か、恐らく彼女は、都会に住んでいるようだった。何かの用事で一時的に来ているのだろう。
今じゃソーシャル・ネットワーキング・サービスも普及していて、きっと都会から来た彼女ならばスマホの一台や二台持っている事だろうし、連絡の取りようがないわけではなかった。
が、不幸にも翔太自分専用のスマホを持っていない。今どき手紙でやり取りするのはどうかとも思うし、そもそも翔太自身に、そんな関係を築ける自信がなかった。
つまり、翔太は、自分の恋が時の流れるのに逆らえず、強制的に鎮火されたしまうのだということを悟っているのである。
「宿題は? 今日の晩御飯、翔太の好きなオムライスやで」
落ち込んでいる翔太の様子を見かねて、春香が話題を逸らすためにそう話を切り出した。こういうところを見ていると、何だかんだ、しっかり「お姉ちゃん」なのだ。
「終わった」
「嘘やろ」
「ほんま」
嘘である。
この後素直に宿題に取り掛かる翔太だったが、結局、お姉さんのことが頭から抜けず手がつかなかった。
仕方がないと言えば仕方がない。
翔太は、お姉さんを通じて、大人な身体付きの魅力に触れてしまったのだから。
そして、惚れた相手が、あのお姉さんだったのだから。
翌日、翔太は特に友達と遊ぶ約束もしていないのにまた昨日の小川に足を運んでいた。
昨晩は、「また会えるわけないし」と意地を張った翔太だったが、やはり恋は盲目というか、翔太はもはや、自分の行動をコントロール出来ていないのである。
しかしながらそれが運の良いことに、また翔太は、そこでお姉さんと引き合った。
「あれ、昨日のボクじゃん、また友達と遊ぶお約束」
お姉さんは、どうやら今日は昨日と比べ落ち着いた格好をしているようだ。
翔太はその点について一つ安堵して、今日は勇気を出して、石橋に腰掛けるお姉さんの隣まで歩み寄った。
「今日は一人やけどな、もしかしたらお姉さんいるんちゃうかなって思って来てみたらホンマにおってん」
言いながらお姉さんの横に腰を下ろし、翔太は水面に映る自分の揺れる足を見つめてそう言う。その後、ちらりと水面の中のお姉さんに視線をやった。
お姉さんもまた水面からこちらの目を見て、少しだけ堪えるようににやけていた。
「何がおもろいん」
からかうように翔太はお姉さんを直視して、するとお姉さんは返事をするようにあははと笑った。
「いや、そんな流暢に関西弁話す人って初めてでさ、私、東京から来たから新鮮だなって」
お姉さんの感覚は、翔太にはまだ伝わらなかった。他人の心を組むという能力は、まだ翔太は育めていないのだ。
「鈴、私の名前。ボクは?」
にやついた表情を鎮めて落ち着いたお姉さんが、そう言って翔太に向き直る。
「翔太」
「そっか、いいね」
「そうなんかなあ」
「ちゃんと、大事にしなきゃね」
お姉さんは一度空を仰いだ。
翔太も同じように空を仰いで、その、雲一つない青の広がった景色にぼーっと意識を投げる。
雲の流れていない空は、まるで時間が止まっているようだ。鳥も、飛行機一機飛ばない。柔らかいのに、深くて重い。ただ肌を撫でゆく温い風が、時の流れを知らせてくれるようだった。
「私ね、事情があってここに来てるんだ」
お姉さんが、空に向かってそう呟いた。その哀しそうな声音が気に掛かって、どうも翔太は、空から視線を外さない訳にはいかなかったようだ。
「なんかあったん」
その声で、下から心配そうに見つめてくる翔太に気が付いて、鈴はハッと目を見開いた。年下の男の子の憂心を煽った事が、少しばかり情けなく感じたのだ。
じっと翔太に見つめられ、引くに引けない気持ちになる。だが、何も関係のない少年に自分のことを話すべきかと問われれば、それはそれで年上としての威厳を解く事になるのではなかろうかといっとき思案に暮れた。
温い風が、水面をさらった。
「――私ね」
鈴は、揺れる水面に感化されたように、ゆっくりと話を始める。
「病気なんだ」
風の過ぎ去ったあとは、静寂と、どこか肌寂しい暑さが状況を支配した。
翔太は鈴を見つめたまま、まるで上から目線に言葉を投げた。
「風邪か?」
その発想自体がなんとも浅はかで、子供なのだ。しかし鈴は、幼子の言う事だと、自分を気にかけてくれたその優しさに焦点を置いて、一度くすっと苦笑した。
「ううん、もっと怖い病気だよ」
悪戯な眼差しを向けられたが、翔太はなんとも言えない微妙な面持ちになる。それからどこか嘲るように、「怖くなさそうやな」と笑った。
鈴はそんな翔太に「なんだとお?」と不満そうに目を細めた。
内心、少し残念に思っていたりするのだ。定期的に悪化する症状に耐えることは、心身ともに鈴を傷つける。こんな小田舎に来た理由の一つはそれだったりするし、しかしそれが全てきちんと意味を成しているかというと、実はそうでもないのである。東京の友達と顔を合わせられないという小寂しさもまた、鈴には厳しいものだった。
「いつ帰るん」
暫時の沈黙を得た翔太の問いかけに、鈴はふっと我に返る。
どうしてまたそんなに深入りしてくるのかと、鈴は悲しくなった。
「さあね、帰れるのかな」
鈴は目を伏せた。
そんな悲哀に満ちた鈴の姿に、翔太は何だか、やっと事の悲惨さを理解したようであった。
「友達待ってるんやろ、帰れるって」
まるでお兄さんにでもなったかのように、翔太は鈴の背中を擦った。女性といえども、翔太からすれば少し大きな背中だった。布越しに手のひらを触る下着の金具の感触に、翔太は改めて息を呑む。
「そうなのかな」
「そうやって」
「ふふ、ありがとう」
鈴はまた悲しい表情を浮かべながら、自分の背中を擦る翔太の頭を撫でた。
翔太はといえば、父親に撫でられたときとは違うふんわりとした撫で方に、下を向いて頬を紅潮させた。
ゆっくりと、力が抜けたように翔太の手が鈴の背中から離れて地面を着いた。一瞬掌を焼いた石の熱が、次第に、じんわりと肉の内側を温めた。
風は止んだ。
蝉の声が乾いた空気を振動させる。
「そうだと、いいね」
鈴は、小さくそう吐いた。
それから数日、翔太は鈴の姿を見なかった。
いつもの公園に行っても、何処か近所を歩き回っても、彼女の痕跡は見つからなかった。
きっと東京へ帰ったのだろう。
やはり、病気は治ったのだろう。
今頃は、東京の友達と笑っているのだろう。
少しでも自分の事を思い出して欲しいと、悔しくて静かに泣いた。
そんな翔太の様子を見かねて、春香はその日の夕食に、とびきり美味しいオムライスを作ってやった。
それから五度目の春を終え、青い森に囲まれた小田舎では、変わらず蝉の声が木霊している。
高校二年となった翔太は、すっかり大人な空気を帯びていた。
春香は実家から市内の私立大学に通っている。
二人共、あの頃と比べれば見違える程垢抜けた。翔太は春香の身長を越したし、もう少しで父親の身長をも上回りそうである。
そんな二人を育てた街に、二年程前、一つ大きな病院が建った。
というのも、春香も翔太も、歳を重ねるごとに大きな病気にかかることもあったりして、その病院には、何度かお世話になったりしたのだ。
そして、それは現状とも言える。
翔太はサッカー部に所属しているが、その練習中に足を骨折したのがおよそ三週間前。入院というほどの怪我ではないが、その病院に通院しているところである。
そして、それは何とも偶然なこともあるものだ。
鈴は、実はまたこの小田舎まで来ていた。
あれから鈴の病状は良い兆しを見せず、年々、じんわりと鈴の身体を蝕んでいっていた。やっと成人して、しかしまた、ここに戻って来てしまったのである。
戻ってきて、鈴はその病院に入院した。
静かなものだった。遠くで大型トラックの走る音も、大勢の話し声がノイズとなって聞こえることも無い。
文字通り自然に身を任せたような、あたかも風が運んできたかのように微かに、たった数人の微笑ましい声がしてくるばかり。
山鳩の声も豆腐屋の音楽も、鈴には新鮮であり懐かしい景色であった。
翔太が鈴の存在をそこに確かめたのは、ある日の通院時だった。
受付で待っていると、どこか見覚えのあるショートヘアと変わらぬ身体のラインに、咄嗟に追憶に浸った。過去がすぐ昨日のことのように思えて、翔太はなまじ興奮気味に、松葉杖を鳴らして鈴に詰め寄った。
「鈴さん、ですよね」
突然身長の高い男に詰め寄られ、鈴は恐怖にも似た感覚を覚えて少し怯む。翔太に対するあの頃のからかいの威勢も、もはや消え失せていた。実のところ、病気のせいで鈴の心は少し怯え気味であった。
しかし、そんな彼女の様子にも構わず、翔太は鈴の手を握る。
「鈴さん、少し、話せますか」
鈴はドキリとして咄嗟に許諾したが、手を引く彼の背中を、少しずつ、どこか懐かしい気持ちで眺めているように感じて来た。
病院の庭の椅子に腰掛けて、ぬるい風に当たる。翔太は、あの頃と同じだと微笑ましく思っていた。
「僕のこと、覚えてますか」
翔太は、話し始めた。
特に何か話せる程思い出を作ったわけじゃないが、あの頃の彼女の明るかったこととか、彼女が姿を消してから数週間は気が気じゃなかったこととか、高校生にもなって、まだ一度も彼女を作ったことがない事とか。一応自分が好意を抱かれやすいということも話したら、彼女は微かに笑ってくれた。
一通り話しを終えて、
「ううん、ごめんなさい、きっとその後色々あって…昔のことは、あまり覚えてないの」
しかし鈴は、申し訳なさそうに目を伏せた。
翔太は肩を落としたが、それでも仕方のないことだと割り切って、言おうと決めていたことを、やっと改めて口にする。
「僕、鈴さんが好きなんです。昔から」
鈴は困ったように目を開けて、翔太を見た。
彼は、鈴の方を見ていない。ただ足元を一直線に見つめて、苦しそうに言葉を並べていた。
「あの日、貴女の身体に驚かされて、恥ずべきことですがね、あはは。それから少しずつ、心を寄せちゃったんですけど」
そこで一つ、苦笑した。
「貴女、たった二日で姿を消して、それから今日の今日まで、ずっと僕の中に居座ってたんですよ」
鈴は自分の知らない過去を淡々と話されて、少しだけ申し訳ない気持ちになっていた。ただ、彼ももうなまじ諦めた恋のようなので、少し遠慮はしたが、鈴は口を開いた。
「ごめんなさい、私、もう長くないから無理なの。ありがとう」
若い貴方には、まだ沢山の恋が待っているはずだから、と。
「鈴さんもまだ若いのに。命とは不平等なものですね」
悲しそうに笑う翔太に、鈴は心を寄せた。
鈴からすれば初対面の男子高校生。ずっと年下なのに、自分のことをこれだけ想ってくれる異性は、鈴を輝かせた。
どこかから聞こえてきた風鈴の音が、火照った頬を冷ますよう。
鈴は、そこで今日初めて、いや久しぶりに、くすりと笑みを零した。心から、笑った。嬉しくて、嬉しさが溢れて、笑いが止まらなかった。
翔太もそれをどこか心の隅で察して、痛そうに笑う。
鈴の笑い声を、医者は初めて聞いた。
看護師は、顔を歪めて鈴の資料をまとめ始める。
電話の音。
数時間後、鈴の両親は鈴の友達を連れて、寮の予約をとってワンボックスで東京の家を出発した。
ただ温い、湿った風と、蝉の声。山鳩の声は、鳴り止まない。
夏の風が、吹いたあと。
翔太はサッカー部のマネージャーから告白された。
ショートカットの可愛い、御守の鈴を毎日ポッケに入れている。
彼女の名前は鈴。
翔太は彼女とは、付き合えなかった。
青い、青い空がどこまでも続く。
ずっと遠い過去の翔太は、その山の向こうに、鈴をずっと、眺めていた。
そして、今も。
天之奏詩
青い森に囲まれた小田舎では蝉の声が木霊している。山鳩の声が運んでくる青い匂いと雲の影が、人々の心を穏やかにしてくれる。
そんな、静かな日々を過ごしていた。
「ねーちゃん、俺、好きな人出来たかもしらん」
翔太は放課後友達と遊び終わった後、家に帰るとすぐに、リビングでファッション雑誌に夢中になっている姉に突然そんなことを告げた。
ぺらっと、雑誌の紙がめくられる。
「そーなん」
姉は一度、興味なさそうに翔太にそう返して、それから再び、驚いて雑誌を勢いよく閉じた。
「そーなん!」
「おん」
時間差で大袈裟に反応する姉に、翔太はなんでもないように冷静にそう返事をした。
翔太は今年小学六年生になる。姉の春香は中学二年生で、第一青春期を謳歌している真っ最中だ。たった今食い付いていたファッション雑誌も、学年の女友達が彼氏とのデートで来ていく服を悩んでいたところを「皆で応援しよーや」などと言い出したグループのリーダー的女子に巻き込まれて開いたものだった。結果的には自分の服選びと化していたのだが。
翔太は内心、とても緊張していた。幼心ではあるが、実の姉に自分の恋について告げたのだから。そして何より、いくら仲の良い姉弟でもこんな話は普通しないのだと、そう翔太は考えているのだから。
「どんな子なん?」
春香は興味津々に翔太の恋バナに食い付き、ファッション雑誌はテーブルの隅に置きやった。友達関係(最後は自分の為となりつつあったが)よりも弟を大切にする姉らしい姿に、翔太は少しだけ嬉しくなった。
翔太は、彼女との出会いを思い出す。
放課後、翔太は友達と遊ぶ約束をしていた。
場所は近所の自然公園を分割する小川だった。いつも他の友達より早く待ち合わせ場所に着いて、そこで独りでぼーっとしている時間が好き。特に今日は、川のせせらぎと草木の揺れる音の心地よい場所だから、翔太は期待に胸を膨らませて待ち合わせ場所に到着した。
そこで、あることに気が付いた。
待ち合わせ場所である小川で、見覚えのない年上の女性が水面を揺らしていたのだ。
何をしているのだろうと、翔太はそのお姉さんに近づいたが、そこでドキッとして足を止めてしまう。
ショートパンツにへそ出しの白シャツ。そのボタンは上から三つまで外れていて、大きめの下着が覗いている。ショートパンツから伸びた太ももには、日の光を反射した水面の模様が張っている。この街では見ない顔だ。そしてその格好からも、なるほど都会から来たのだということが見て取れた。
小学生の翔太に、その露出の激しい服装とスタイルは少しばかり刺激が強すぎたりする。
そして何より、翔太が目を引かれたのは、彼女の胸に付いた、峡谷に落ちていかんばかりの黒いほくろだった。
いっときそのお姉さんに見惚れていたが、ふとお姉さんがこちらを向いたことに気がついて慌てて顔を背ける。
お姉さんは川の中を、翔太の方へゆっくりと歩を進めてくる。翔太は彼女の姿をまっすぐ見ることが気恥ずかしく、他所に注意を反らしていた。
「ねえボク」
お姉さんがとうとう川岸に上がって、さらに翔太に迫る。声をかけられたので、ちらりとそちらへ視線をやった。
濡れて光る細い脚は、下の方を泥で汚している。しかし、それが更に、翔太に女性を感じさせた。
額に薄っすらと、冷たい汗が滲む。
「ねえボク?」
二度声をかけられても、翔太は沈黙を決め込んだ。しかし、彼女はさらに翔太へ詰め寄って、それから中腰になって視線を合わせてくる。耳が熱くなるのを感じて、翔太はさらにドキりと胸を弾ませてしまった。
「ボク独り?」
明るいショートヘアが目の前で揺れて、翔太は見たこともないそのサラサラの髪質にも見惚れてしまっていた。
翔太は声を出せず、小さく首を横に振った。
「そっか。お友達が来るの?」
「……うん」
翔太の返事を聞いて、彼女は可憐に笑った。
翔太は不思議そうにお姉さんを見て、ふとまた例のほくろに目が走ってしまい、焦って後ろを向いた。
「あっ…あ、ごめんね」
彼女は自分がどこを見られているのか気が付いたようだ。しかし、羞恥よりも幼い子に対する気遣いのような、そんな申し訳ない気持ちを向けられた事に、翔太は少しだけ不貞腐れた。
子供扱いするな、とそんな子供っぽい思考が一瞬だけ翔太を侵食した。
「お友達が来るまで話そっか」
お姉さんが胸元のボタンを留めながらそう言って立ち上がって、川に架けられた石造りの橋へと歩を向けた。
翔太はその遠ざかって行く声に振り向いて、そこに、左右に揺れる年上の女性の腰つきを見てしまう。
((これはアカン!))
翔太はそう感じると、来た道を走って戻った。
「あれ、おーい!」
後ろで彼女が叫ぶが、無視して走り去った。
途中で友達と会って、翔太は小川で遊ぶのはやめようと言ってから別の場所へと向かった。
この時、ふと自分の中に渦巻いた気持ちを必死で抑えていた翔太。
あのおねーさんの事はこいつらには話さへん!俺だけの秘密にしたいねん!
翔太にとって、お姉さんは独り占めしたい存在と化していた。
「知らん人にはついて行ったらあかんで」
春香は関心を無くしたように翔太から身を引いて、そう言いながらまた、例の雑誌を開く。翔太は表情を少しだけ曇らせて、面白くなさそうに黒いランドセルを肩から下ろした。
「そんなん分かってるし、そもそもまた会えるわけないしいいねん」
翔太は既に、一睡の夢ならぬ、一睡の恋心を悟ってしまっていた。
これまでだって、同じクラスの浜簪さんや、今はもう中学へ上がってしまった一つ年上の名前も知らない先輩を好いていた時期もあった。
では何故今回に関して翔太の恋を「一睡の恋心」と表現したのかというと、それは所謂過去との対比表現なのである。
これまで恋をした相手は、皆翔太の手の届く距離にあった。空間的にも、心理的にもだ。しかしながら今回の場合は、年の差は疎か、恐らく彼女は、都会に住んでいるようだった。何かの用事で一時的に来ているのだろう。
今じゃソーシャル・ネットワーキング・サービスも普及していて、きっと都会から来た彼女ならばスマホの一台や二台持っている事だろうし、連絡の取りようがないわけではなかった。
が、不幸にも翔太自分専用のスマホを持っていない。今どき手紙でやり取りするのはどうかとも思うし、そもそも翔太自身に、そんな関係を築ける自信がなかった。
つまり、翔太は、自分の恋が時の流れるのに逆らえず、強制的に鎮火されたしまうのだということを悟っているのである。
「宿題は? 今日の晩御飯、翔太の好きなオムライスやで」
落ち込んでいる翔太の様子を見かねて、春香が話題を逸らすためにそう話を切り出した。こういうところを見ていると、何だかんだ、しっかり「お姉ちゃん」なのだ。
「終わった」
「嘘やろ」
「ほんま」
嘘である。
この後素直に宿題に取り掛かる翔太だったが、結局、お姉さんのことが頭から抜けず手がつかなかった。
仕方がないと言えば仕方がない。
翔太は、お姉さんを通じて、大人な身体付きの魅力に触れてしまったのだから。
そして、惚れた相手が、あのお姉さんだったのだから。
翌日、翔太は特に友達と遊ぶ約束もしていないのにまた昨日の小川に足を運んでいた。
昨晩は、「また会えるわけないし」と意地を張った翔太だったが、やはり恋は盲目というか、翔太はもはや、自分の行動をコントロール出来ていないのである。
しかしながらそれが運の良いことに、また翔太は、そこでお姉さんと引き合った。
「あれ、昨日のボクじゃん、また友達と遊ぶお約束」
お姉さんは、どうやら今日は昨日と比べ落ち着いた格好をしているようだ。
翔太はその点について一つ安堵して、今日は勇気を出して、石橋に腰掛けるお姉さんの隣まで歩み寄った。
「今日は一人やけどな、もしかしたらお姉さんいるんちゃうかなって思って来てみたらホンマにおってん」
言いながらお姉さんの横に腰を下ろし、翔太は水面に映る自分の揺れる足を見つめてそう言う。その後、ちらりと水面の中のお姉さんに視線をやった。
お姉さんもまた水面からこちらの目を見て、少しだけ堪えるようににやけていた。
「何がおもろいん」
からかうように翔太はお姉さんを直視して、するとお姉さんは返事をするようにあははと笑った。
「いや、そんな流暢に関西弁話す人って初めてでさ、私、東京から来たから新鮮だなって」
お姉さんの感覚は、翔太にはまだ伝わらなかった。他人の心を組むという能力は、まだ翔太は育めていないのだ。
「鈴、私の名前。ボクは?」
にやついた表情を鎮めて落ち着いたお姉さんが、そう言って翔太に向き直る。
「翔太」
「そっか、いいね」
「そうなんかなあ」
「ちゃんと、大事にしなきゃね」
お姉さんは一度空を仰いだ。
翔太も同じように空を仰いで、その、雲一つない青の広がった景色にぼーっと意識を投げる。
雲の流れていない空は、まるで時間が止まっているようだ。鳥も、飛行機一機飛ばない。柔らかいのに、深くて重い。ただ肌を撫でゆく温い風が、時の流れを知らせてくれるようだった。
「私ね、事情があってここに来てるんだ」
お姉さんが、空に向かってそう呟いた。その哀しそうな声音が気に掛かって、どうも翔太は、空から視線を外さない訳にはいかなかったようだ。
「なんかあったん」
その声で、下から心配そうに見つめてくる翔太に気が付いて、鈴はハッと目を見開いた。年下の男の子の憂心を煽った事が、少しばかり情けなく感じたのだ。
じっと翔太に見つめられ、引くに引けない気持ちになる。だが、何も関係のない少年に自分のことを話すべきかと問われれば、それはそれで年上としての威厳を解く事になるのではなかろうかといっとき思案に暮れた。
温い風が、水面をさらった。
「――私ね」
鈴は、揺れる水面に感化されたように、ゆっくりと話を始める。
「病気なんだ」
風の過ぎ去ったあとは、静寂と、どこか肌寂しい暑さが状況を支配した。
翔太は鈴を見つめたまま、まるで上から目線に言葉を投げた。
「風邪か?」
その発想自体がなんとも浅はかで、子供なのだ。しかし鈴は、幼子の言う事だと、自分を気にかけてくれたその優しさに焦点を置いて、一度くすっと苦笑した。
「ううん、もっと怖い病気だよ」
悪戯な眼差しを向けられたが、翔太はなんとも言えない微妙な面持ちになる。それからどこか嘲るように、「怖くなさそうやな」と笑った。
鈴はそんな翔太に「なんだとお?」と不満そうに目を細めた。
内心、少し残念に思っていたりするのだ。定期的に悪化する症状に耐えることは、心身ともに鈴を傷つける。こんな小田舎に来た理由の一つはそれだったりするし、しかしそれが全てきちんと意味を成しているかというと、実はそうでもないのである。東京の友達と顔を合わせられないという小寂しさもまた、鈴には厳しいものだった。
「いつ帰るん」
暫時の沈黙を得た翔太の問いかけに、鈴はふっと我に返る。
どうしてまたそんなに深入りしてくるのかと、鈴は悲しくなった。
「さあね、帰れるのかな」
鈴は目を伏せた。
そんな悲哀に満ちた鈴の姿に、翔太は何だか、やっと事の悲惨さを理解したようであった。
「友達待ってるんやろ、帰れるって」
まるでお兄さんにでもなったかのように、翔太は鈴の背中を擦った。女性といえども、翔太からすれば少し大きな背中だった。布越しに手のひらを触る下着の金具の感触に、翔太は改めて息を呑む。
「そうなのかな」
「そうやって」
「ふふ、ありがとう」
鈴はまた悲しい表情を浮かべながら、自分の背中を擦る翔太の頭を撫でた。
翔太はといえば、父親に撫でられたときとは違うふんわりとした撫で方に、下を向いて頬を紅潮させた。
ゆっくりと、力が抜けたように翔太の手が鈴の背中から離れて地面を着いた。一瞬掌を焼いた石の熱が、次第に、じんわりと肉の内側を温めた。
風は止んだ。
蝉の声が乾いた空気を振動させる。
「そうだと、いいね」
鈴は、小さくそう吐いた。
それから数日、翔太は鈴の姿を見なかった。
いつもの公園に行っても、何処か近所を歩き回っても、彼女の痕跡は見つからなかった。
きっと東京へ帰ったのだろう。
やはり、病気は治ったのだろう。
今頃は、東京の友達と笑っているのだろう。
少しでも自分の事を思い出して欲しいと、悔しくて静かに泣いた。
そんな翔太の様子を見かねて、春香はその日の夕食に、とびきり美味しいオムライスを作ってやった。
それから五度目の春を終え、青い森に囲まれた小田舎では、変わらず蝉の声が木霊している。
高校二年となった翔太は、すっかり大人な空気を帯びていた。
春香は実家から市内の私立大学に通っている。
二人共、あの頃と比べれば見違える程垢抜けた。翔太は春香の身長を越したし、もう少しで父親の身長をも上回りそうである。
そんな二人を育てた街に、二年程前、一つ大きな病院が建った。
というのも、春香も翔太も、歳を重ねるごとに大きな病気にかかることもあったりして、その病院には、何度かお世話になったりしたのだ。
そして、それは現状とも言える。
翔太はサッカー部に所属しているが、その練習中に足を骨折したのがおよそ三週間前。入院というほどの怪我ではないが、その病院に通院しているところである。
そして、それは何とも偶然なこともあるものだ。
鈴は、実はまたこの小田舎まで来ていた。
あれから鈴の病状は良い兆しを見せず、年々、じんわりと鈴の身体を蝕んでいっていた。やっと成人して、しかしまた、ここに戻って来てしまったのである。
戻ってきて、鈴はその病院に入院した。
静かなものだった。遠くで大型トラックの走る音も、大勢の話し声がノイズとなって聞こえることも無い。
文字通り自然に身を任せたような、あたかも風が運んできたかのように微かに、たった数人の微笑ましい声がしてくるばかり。
山鳩の声も豆腐屋の音楽も、鈴には新鮮であり懐かしい景色であった。
翔太が鈴の存在をそこに確かめたのは、ある日の通院時だった。
受付で待っていると、どこか見覚えのあるショートヘアと変わらぬ身体のラインに、咄嗟に追憶に浸った。過去がすぐ昨日のことのように思えて、翔太はなまじ興奮気味に、松葉杖を鳴らして鈴に詰め寄った。
「鈴さん、ですよね」
突然身長の高い男に詰め寄られ、鈴は恐怖にも似た感覚を覚えて少し怯む。翔太に対するあの頃のからかいの威勢も、もはや消え失せていた。実のところ、病気のせいで鈴の心は少し怯え気味であった。
しかし、そんな彼女の様子にも構わず、翔太は鈴の手を握る。
「鈴さん、少し、話せますか」
鈴はドキリとして咄嗟に許諾したが、手を引く彼の背中を、少しずつ、どこか懐かしい気持ちで眺めているように感じて来た。
病院の庭の椅子に腰掛けて、ぬるい風に当たる。翔太は、あの頃と同じだと微笑ましく思っていた。
「僕のこと、覚えてますか」
翔太は、話し始めた。
特に何か話せる程思い出を作ったわけじゃないが、あの頃の彼女の明るかったこととか、彼女が姿を消してから数週間は気が気じゃなかったこととか、高校生にもなって、まだ一度も彼女を作ったことがない事とか。一応自分が好意を抱かれやすいということも話したら、彼女は微かに笑ってくれた。
一通り話しを終えて、
「ううん、ごめんなさい、きっとその後色々あって…昔のことは、あまり覚えてないの」
しかし鈴は、申し訳なさそうに目を伏せた。
翔太は肩を落としたが、それでも仕方のないことだと割り切って、言おうと決めていたことを、やっと改めて口にする。
「僕、鈴さんが好きなんです。昔から」
鈴は困ったように目を開けて、翔太を見た。
彼は、鈴の方を見ていない。ただ足元を一直線に見つめて、苦しそうに言葉を並べていた。
「あの日、貴女の身体に驚かされて、恥ずべきことですがね、あはは。それから少しずつ、心を寄せちゃったんですけど」
そこで一つ、苦笑した。
「貴女、たった二日で姿を消して、それから今日の今日まで、ずっと僕の中に居座ってたんですよ」
鈴は自分の知らない過去を淡々と話されて、少しだけ申し訳ない気持ちになっていた。ただ、彼ももうなまじ諦めた恋のようなので、少し遠慮はしたが、鈴は口を開いた。
「ごめんなさい、私、もう長くないから無理なの。ありがとう」
若い貴方には、まだ沢山の恋が待っているはずだから、と。
「鈴さんもまだ若いのに。命とは不平等なものですね」
悲しそうに笑う翔太に、鈴は心を寄せた。
鈴からすれば初対面の男子高校生。ずっと年下なのに、自分のことをこれだけ想ってくれる異性は、鈴を輝かせた。
どこかから聞こえてきた風鈴の音が、火照った頬を冷ますよう。
鈴は、そこで今日初めて、いや久しぶりに、くすりと笑みを零した。心から、笑った。嬉しくて、嬉しさが溢れて、笑いが止まらなかった。
翔太もそれをどこか心の隅で察して、痛そうに笑う。
鈴の笑い声を、医者は初めて聞いた。
看護師は、顔を歪めて鈴の資料をまとめ始める。
電話の音。
数時間後、鈴の両親は鈴の友達を連れて、寮の予約をとってワンボックスで東京の家を出発した。
ただ温い、湿った風と、蝉の声。山鳩の声は、鳴り止まない。
夏の風が、吹いたあと。
翔太はサッカー部のマネージャーから告白された。
ショートカットの可愛い、御守の鈴を毎日ポッケに入れている。
彼女の名前は鈴。
翔太は彼女とは、付き合えなかった。
青い、青い空がどこまでも続く。
ずっと遠い過去の翔太は、その山の向こうに、鈴をずっと、眺めていた。
そして、今も。
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