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第四章 思いも寄らなかった出逢い
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男は正真正銘、自分が北辰柊椰だと名乗った。
「そんな」
「嘘ではない」
「でも、柊椰様は…」
死んでいるはず。
「では聞くが、私が柊椰でないという証拠は?」
そう尋ねられると、そんな証拠はない。何しろ杷佳は「北辰柊耶」という人物に、一度も会ったことがないからだ。
会ったこともない人のことを、「違う」とは言えない。
「とにかく座ってくれ。乱暴なことはしたくない」
懇願され、杷佳は渋々ながら空いた座布団に座った。
「北辰柊椰は死んだ。なのにどうしてここにいるのか。常磐がそのことを忘れているのはなぜか。そんなところか」
彼女の頭に浮かんだ疑問を、男が言い当てた。
「あなたが、柊椰様かどうか、私には判断はできません。でも、柊椰様は私がここへ来る前に亡くなっていると、そう聞きました。私の記憶違いでしょうか」
何をどう言えばいいのかわからない。自分の頭がおかしくなったとしか思えない。室生家で散々虐げられ、辛さを面に出さないよう努めてきたお陰で、何とか表情を取り繕うことができた。
(あの家での経験が、役に立つなんて)
「それに、常盤さん達が、あなたの足元で倒れているのを見ました。あれは何だったのですか」
上目遣いに彼の様子を窺い、頭に浮かんだ質問をぶつける。
膝に置いた拳を、関節が白くなるまできつく握り締めた。
こんな風に矢継ぎ早に質問を誰かにぶつけるのは、初めてのことだった。
室生家でそんなことをしようものなら、生意気だと折檻されるのが落ちだった。
でも、説明の付かない、杷佳の頭では追いつくことができないことばかりで、何が何だかわからない。
「やはり、君には術が効かないのだな」
脇息に肘を立て、頬に手を突いた彼は、深々とため息を吐いた。
「どれも当たっている。すべて本当のことだ。私が死んだのも、今こうして君と話をしているのも、君に昨晩口づけしたのも全部現実だ」
唇に指を当てて、彼がほくそ笑む。
彼の言葉と仕草に、唇の感触を思い出し、杷佳は顔を真っ赤にした。
「な、なぜ」
「それは、死んだ私が今こうしていること? それとも、君に口づけしたことを聞いているのかな」
「か、からかうのはやめてください」
明らかに面白がっているのが、表情や言葉遣いからわかる。しかし麻希や麻衣たちが杷佳を困らせようとしている意地の悪さとは違い、彼はただ杷佳の反応を良い意味で楽しんでいるようだ。
亡くなった祖父が向けていた、慈しむような視線。
「からかってなどいない。花婿が花嫁に口づけして、何が悪い?」
「は、はな」
「何か間違っているか?」
彼が正真正銘北辰柊椰であるなら、何も間違っていない。
「いいえ。あなたのおっしゃる通りです。あなたが真に『北辰柊揶』様なら、私はあなたの…」
「花嫁だな」
杷佳の言葉を男が引き継ぐ。
その時、彼女の脳裏にある記憶が蘇った。婚儀の日、意識を失い寝ている杷佳の耳元で騒いでいた子供達の台詞「花嫁様、花嫁様…」。その後、彼らは「柊揶様の花嫁様」と言っていたのではなかったか?
「そ、その浴衣…」
ふと彼が着ている浴衣に気がつく。動揺していて気づかなかったが、彼が今身に纏っている浴衣は、彼女が縫ったものだ。
「ああ、これか。ありがとう。とても着心地がいい。私の嫁は、裁縫が上手なのだな」
初めてお礼を言われ、杷佳は心が温かくなった。褒められて、悪い気はしない。
麻希は杷佳が必死で寝る間も惜しんで縫っても、感謝どころか縫い目が雑だったなど、文句しか言わなかった。
「それは柾揶様が、柊揶様に着せると…」
「だから、こうやって着ている」
彼は両腕を広げて見せた。
長い真っ直ぐな黒髪が、揺れる。
「どうだ? 似合っているか?」
「良く…お似合いです」
改めて杷佳は目の前の自分の夫だと言い張る人物を観察し、その整った顔立ちに見惚れた。
真っ直ぐな黒髪もツヤツヤとしていて、長い睫毛に縁取られた僅かにつり上がった切れ長の目に、すっと通った鼻筋と少し張った頬骨、顎の線もすっきりとしている。
北辰柊揶…北辰柊揶と名乗る人物は、文句のない美形だった。
薄めの唇に視線を向け、その唇に自分の唇が触れた時のことを思い出し、杷佳は顔がまたもや赤くなるのを感じた。
「どうした?」
「い、いえ…でも、仮にあなた様が柊揶様として、なぜ」
「なぜ今こうして君と話しているか、だな?」
彼が口にした言葉に、杷佳はコクリと頷いた。
一番の疑問。
柊揶が亡くなったというのが嘘で、彼女が騙されていたのであれば、話は簡単だ。
だがそうなると、始めから冥婚など必要なかった。鬼子などと呼ばれている杷佳を娶らなくても、望めばいくらでも、もっと条件のいい相手を見つけることができるだろう。
そう、杷佳でなくても。いや、その場合、杷佳が選ばれることは十中八九ない。
そう考えて、まだここに来て数日だが、ここは想像以上に居心地良く、離れ難く思っていることに、彼女は気付いた。
「そんな」
「嘘ではない」
「でも、柊椰様は…」
死んでいるはず。
「では聞くが、私が柊椰でないという証拠は?」
そう尋ねられると、そんな証拠はない。何しろ杷佳は「北辰柊耶」という人物に、一度も会ったことがないからだ。
会ったこともない人のことを、「違う」とは言えない。
「とにかく座ってくれ。乱暴なことはしたくない」
懇願され、杷佳は渋々ながら空いた座布団に座った。
「北辰柊椰は死んだ。なのにどうしてここにいるのか。常磐がそのことを忘れているのはなぜか。そんなところか」
彼女の頭に浮かんだ疑問を、男が言い当てた。
「あなたが、柊椰様かどうか、私には判断はできません。でも、柊椰様は私がここへ来る前に亡くなっていると、そう聞きました。私の記憶違いでしょうか」
何をどう言えばいいのかわからない。自分の頭がおかしくなったとしか思えない。室生家で散々虐げられ、辛さを面に出さないよう努めてきたお陰で、何とか表情を取り繕うことができた。
(あの家での経験が、役に立つなんて)
「それに、常盤さん達が、あなたの足元で倒れているのを見ました。あれは何だったのですか」
上目遣いに彼の様子を窺い、頭に浮かんだ質問をぶつける。
膝に置いた拳を、関節が白くなるまできつく握り締めた。
こんな風に矢継ぎ早に質問を誰かにぶつけるのは、初めてのことだった。
室生家でそんなことをしようものなら、生意気だと折檻されるのが落ちだった。
でも、説明の付かない、杷佳の頭では追いつくことができないことばかりで、何が何だかわからない。
「やはり、君には術が効かないのだな」
脇息に肘を立て、頬に手を突いた彼は、深々とため息を吐いた。
「どれも当たっている。すべて本当のことだ。私が死んだのも、今こうして君と話をしているのも、君に昨晩口づけしたのも全部現実だ」
唇に指を当てて、彼がほくそ笑む。
彼の言葉と仕草に、唇の感触を思い出し、杷佳は顔を真っ赤にした。
「な、なぜ」
「それは、死んだ私が今こうしていること? それとも、君に口づけしたことを聞いているのかな」
「か、からかうのはやめてください」
明らかに面白がっているのが、表情や言葉遣いからわかる。しかし麻希や麻衣たちが杷佳を困らせようとしている意地の悪さとは違い、彼はただ杷佳の反応を良い意味で楽しんでいるようだ。
亡くなった祖父が向けていた、慈しむような視線。
「からかってなどいない。花婿が花嫁に口づけして、何が悪い?」
「は、はな」
「何か間違っているか?」
彼が正真正銘北辰柊椰であるなら、何も間違っていない。
「いいえ。あなたのおっしゃる通りです。あなたが真に『北辰柊揶』様なら、私はあなたの…」
「花嫁だな」
杷佳の言葉を男が引き継ぐ。
その時、彼女の脳裏にある記憶が蘇った。婚儀の日、意識を失い寝ている杷佳の耳元で騒いでいた子供達の台詞「花嫁様、花嫁様…」。その後、彼らは「柊揶様の花嫁様」と言っていたのではなかったか?
「そ、その浴衣…」
ふと彼が着ている浴衣に気がつく。動揺していて気づかなかったが、彼が今身に纏っている浴衣は、彼女が縫ったものだ。
「ああ、これか。ありがとう。とても着心地がいい。私の嫁は、裁縫が上手なのだな」
初めてお礼を言われ、杷佳は心が温かくなった。褒められて、悪い気はしない。
麻希は杷佳が必死で寝る間も惜しんで縫っても、感謝どころか縫い目が雑だったなど、文句しか言わなかった。
「それは柾揶様が、柊揶様に着せると…」
「だから、こうやって着ている」
彼は両腕を広げて見せた。
長い真っ直ぐな黒髪が、揺れる。
「どうだ? 似合っているか?」
「良く…お似合いです」
改めて杷佳は目の前の自分の夫だと言い張る人物を観察し、その整った顔立ちに見惚れた。
真っ直ぐな黒髪もツヤツヤとしていて、長い睫毛に縁取られた僅かにつり上がった切れ長の目に、すっと通った鼻筋と少し張った頬骨、顎の線もすっきりとしている。
北辰柊揶…北辰柊揶と名乗る人物は、文句のない美形だった。
薄めの唇に視線を向け、その唇に自分の唇が触れた時のことを思い出し、杷佳は顔がまたもや赤くなるのを感じた。
「どうした?」
「い、いえ…でも、仮にあなた様が柊揶様として、なぜ」
「なぜ今こうして君と話しているか、だな?」
彼が口にした言葉に、杷佳はコクリと頷いた。
一番の疑問。
柊揶が亡くなったというのが嘘で、彼女が騙されていたのであれば、話は簡単だ。
だがそうなると、始めから冥婚など必要なかった。鬼子などと呼ばれている杷佳を娶らなくても、望めばいくらでも、もっと条件のいい相手を見つけることができるだろう。
そう、杷佳でなくても。いや、その場合、杷佳が選ばれることは十中八九ない。
そう考えて、まだここに来て数日だが、ここは想像以上に居心地良く、離れ難く思っていることに、彼女は気付いた。
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