冥府の花嫁

七夜かなた

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第一章 鬼子

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「杷佳さん、大丈夫ですか?」

 勝手口の掃除をしていると、香苗が話しかけてきた。

 香苗は智之たちが食事をしている間、いつも脇に控えている。ここに来たと言うことは、それが終わって麻希は女学校へ行ったのだろう。

「ちょっとこちらへ」

 香苗は杷佳を人目のつかない場所へ誘導する。

「ひどい。瘤になっています」

 改めて杷佳の額にできた瘤を見て、香苗の方が痛そうな顔をする。

「さっき冷やしたので、大丈夫です」
「麻希お嬢様も酷いことを…」
「これは私が柱で…」
「部屋の外に箱枕が落ちていましたよ」

 あくまで自分がやったと言おうとしたが、香苗のその言葉ですべてバレていることがわかって、杷佳は口を閉じた。

「申し訳ございません」
「どうして香苗さんが謝るのですか」
「旦那様たちから杷佳お嬢様を守ることも出来ずに、亡くなった大旦那様や小百合様に顔向けできません」 
「香苗さんが気にされることではありません。こうして気にかけてくれるだけで、心強いです」

 香苗は杷佳の祖父、室生長治郎の代からここで仕えていて、かつては小百合の世話係をしていた。
 長治郎には恩もあるらしく、小百合のことを妹のように気にかけていた。
 表向きは厳しい女中頭として接しているが、こうして人目のない処では、杷佳のことをお嬢様と呼び、気にかけてはくれているのだが、彼女も室生家に雇われている身で、智之たちには表立って逆らえない。

「同じ室生家のお嬢様なのに、片やこんな使用人のようにこき使われ、せっかくのお美しいお顔に傷まで…大旦那様や小百合様が草葉の陰で泣かれていることでしょう」
「気にしないでください。香苗さんのせいではありません」
「後でお部屋に塗り薬を届けておきます。夜寝る前に塗ってください」
「ありがとう」
  
 こうして陰ながら気にかけてくれているだけで、救われた気になる。
 麻希や叔父達にどんなに冷たくされても、杷佳にはここを出てもどうやって生きていけばいいかわからない。
 他に行き場がないなら、ここで耐えるしかない。

「杷佳、杷佳、どこにいるの?」
「奥様だわ」

 そこへ杷佳の名を呼ぶ麻希の母、麻衣の声が聞こえてきた。

「はい、奥様」

 杷佳は急いで物陰から飛び出して、彼女の呼びかけに応じた。

「まだ掃除が終わっていないの?」

 麻希は麻衣によく似ている。少し吊り目で面長の彼女は、杷佳を見るなり顔を顰めた。
 杷佳を見る時はいつも厳しい表情をしている。
 彼女がこの家に嫁いで来たのは、智之の妻、聡子が亡くなる直前だった。
 彼女も夫も麻衣を盲目的に可愛がり、望むものは何でも与えて甘やかしている。

 同じ室生家の血筋でありながら、その境遇は天と地ほども違った。
 当主の一人娘の麻希は、今流行りの華やかな袴姿で、帝都でも有名なお嬢様学校に通う女学生。一方杷佳は着古した鼠色の木綿の着物を着て、毎日朝早くから夜遅くまで働き詰めの毎日だった。
 部屋も麻希は二間続きの陽当りの良い部屋で、杷佳は窓もない布団部屋で寝泊まりしていた。

「あら、香苗さんあなたもここにいたの?」

 麻衣は杷佳の後ろに香苗が立っているのを見て言った。

「はい奥様、彼女の仕事が遅いと先程から叱っておりました」

 香苗は麻衣から不審がられないよう、咄嗟にそう言った。
 香苗が密かに杷佳を気遣っていると麻衣が知ったら、香苗の立場も危うくなる。

「そうなのね。本当に何年経っても仕事の手際が良くならないわね。いつになったら覚えるのかしら。頭が悪いのね」

 自分が叱るつもりが、既に香苗が叱責しているとあって、麻衣は出鼻を挫かれたようで、弱冠鼻白んだ。それでもひと言嫌味を言うのは忘れない。
 
「申し訳ございません、奥様」
「さっさとしなさい。廊下の雑巾がけと厠の掃除やら、まだまだ仕事はたくさんあるのよ。あ、それと麻希の浴衣の制作も早くしなさい。明日が提出期限なのよ」 
「は、はい。すぐに」
「住むところも与えてもらって、食べさせてもらってるのだから、有難く思いなさい」

 麻衣は次々と杷佳に仕事を言いつける。

「香苗さん、私は婦人会の集まりに出掛けるから、手を抜かないようしっかり見張ってくださいね」
「はい、奥様」

 麻衣は「ほんとうに愚図ね」とぶつぶつ言いながら立ち去った。
 
「香苗さんのお陰で、叱られずにすみました」

 軽い嫌味だけで済んで、杷佳はほっとした。
 そうでなければ愚図だのろまだ、穀潰しだと麻衣の気が済むまで延々怒鳴られ続けただろう。
 長くここで働いている香苗は、外に出るのが好きで昼間は滅多にいない麻衣に代わって、この家を切り盛りしている。
 それ故、麻衣も香苗を無下にはできない。

「いいえ。私にはこれくらいしか…」

 それでも雇われている身には変わりない。
 智之たちにばれないように庇うのが精一杯だった。

「大旦那様があのように突然お亡くなりにならなければ、杷佳お嬢様のことも、もう少し何とか出来ましたのに」

 香苗は口惜しそうに呟いた。


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