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第八章

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「ドミ…ニコ?」
「そうだ、ジゼル」

 ジゼルが質問気味に名を呼んだのには理由がある。
 ひとつは、ここで彼と会うとは思わなかったからだ。
 ドミニコは外へ出ることを極端に嫌う。陽射しが嫌いだからだ。
 領地内の視察も馬車の窓から済ませ、管理人に報告を聞くだけなことが多い。
 その彼が、こんなところまで来るとは。
 そしてジゼルが本当にドミニコかと問いかけたのは、彼の変貌ぶりだった。
 頬が痩け、目の周りは黒く落ち窪み、肌もガサガサだ。髪は伸ばしているというより、伸ばしっぱなしと言える。
 あんなに手先まで気を遣って整えていたのに、これでは逃亡中の人間だ。
 そして何より、その茶色の瞳は焦点が合っていなくて、狂気が宿っている。

「ジゼル、元気そうだな。相変わらず美しい」

 ニタリと笑う唇の間から見える歯が、やけに黄ばんでいる。
 彼に暴力を振るわれた記憶が蘇り、ジゼルは恐怖で体が震えた。
 
「寒いのか。すまない。こんな場所に閉じ込めて。さあ、行こう」
「ど、どこへ、何処へ行くと?」

 手を差し伸べたドミニコから一歩下がり、ジゼルは尋ねた。震えてカチカチと歯が鳴る。

「ジゼル、どうした? そんなに震えて。可哀想に、ボルトレフで余程つらい目にあったんだね」

 なぜボルトレフでジゼルがつらい目に合っていると彼が思うのか。ジゼルは恐怖で舌が縮こまり、言いたいことの半分も口にできなかった。

「大公様、言われたとおりにしたのですから、早くお約束のものをくださいよ」

 オリビアが後ろからドミニコに声をかける。

「ち、浅ましい女だ。ほら」

 ドミニコは懐から革袋を取り出し、オリビアに向かって投げた。
 ガチャン、ジャラジャラと音がして、床に落ちた袋から金貨が溢れた。中には白金貨もある。
 
「お、お金……」
「悪く思わないでくださいね。ふふ、これだけあればユリウスも私を無視できないわ」

 オリビアはお金を拾い集めて、そう言った。

「さっさとそれを持って立ち去れ」
「わかっていますわ。じゃあ、王女様、旦那様と末永くお幸せに。ユリウスのことは、私に任せてください」
「あ…」

 オリビアはヒラヒラと手を振り出ていった。
 後にはドミニコと見知らぬ男性が残った。

「大公閣下、我々もそろそろ」
「わかっている。さあ、ジゼル、こっちへ」
「や、やめて触らないで!」

 ありったけの勇気を奮い起こして、ジゼルはドミニコの手から逃れて叫んだ。

「ジゼル?」

 ドミニコは大きく目を見開き、彼女の反応に不思議そうに小首を傾げる。

「どうした? 私だ。君の夫のドミニコだ。まさか忘れたのか?」
「わ、忘れてなど……いえ、あなたのことは、忘れたい。わ、私はあなたと一緒にどこにも行きません。私を、ボルトレフに戻してください」

 震えながらジゼルはようやっとの思いでドミニコに訴えた。
 バレッシオでは言い返すことも、抵抗も出来なかった。
 自分が無価値な人間だから、虐げられても仕方がない。
 自分が悪いのだ。
 そういう考えがジゼルを支配し、ドミニコや彼の母親に逆らうことすら出来なかった。
 しかし、ユリウスに愛された今は、前よりずっと自分のことを信じることが出来る。
 何より、ボルトレフのユリウスと共にいるためには、自分も強くならなければと、己を奮い立たせた。

「何を言っている。ようやく君を取り戻せるのに、帰すわけがないだろう」
「と、取り戻す? 私とあなたはとっくに別れたでしょ」
「私は納得していない!」
「きゃあ」

 どこからそんな声が出るのか。狭い部屋の中でドミニコの怒声が響き渡り、ジゼルは恐怖に縮こまった。

「すまない、ジゼル。怖がらせるつもりはなかった。君がわからずやなことを言うから。心配しなくても、母上ならもう君にきつくあたったりしない。あの私の子供を妊娠したという女も、いなくなった。私達の仲を引き裂く者は誰もいない」
「いない? いなくなったというのは、どういうことですか?」

 確かスーザンという名だったドミニコの愛人が、いないとはどういうことなのか。

「あの女、他にも男がいた。お腹の子は他の男の子供だった」

 忌々しげにドミニコが言った。
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