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144 虚ろな瞳
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無言で扉の前に立つ殿下は、どこか虚ろな目で周囲を見渡している。まるでいきなり見知らぬ場所に連れてこられたような、ここがどこか状況把握ができていない。そんな様子で周囲を見渡し、長椅子の横で立ち尽くす私に目が止まる。
濃紺の瞳は何の感情も浮かんでおらず、私も部屋の中の家具のひとつのように見る。
「で、殿下…」
聞こえたかどうかわからない小さな声をだすと、殿下は僅かに小首を傾げる。やがて視線が定まりだんだんと目に力が宿っていく。
「君は……何をしているんだ?」
「あの……えっと……」
「誰の許可を得てここにいる?」
「あの、ネヴィルさん…ネヴィルさんの」
「ネヴィル?」
視線が上に動きそれが誰だったか思い出し、再び私に視線が向く。
「ネヴィルとここで、何をしていた?」
咎めるような聞き方だった。
少しずつ部屋の中心に向かって歩き、私が答えるより先に机の上の書類に目が止まり、眉間に皺が寄る。
「あの、殿下……」
「ここで、ネヴィルと何をしていた!」
苛立って少し声が大きくなる。
それと共に殿下の体がぐらりと揺れる。
「危ない!」
倒れかかる殿下の体を受け止めると、力を無くした体の重みで思わずよろけそうになる。
「殿……キルヒライル様……」
私の左肩に顎を乗せて力なく寄りかかる殿下に声をかける。
殿下を正面から抱き止め両脇を腕で支えたまま身動きできない。
殿下の銀色の髪が顔にかかりくすぐったいし、首筋に湿っぽい何かが触れている。
一定のリズムで首筋に生暖かい息が吹き掛けられる。これって殿下の呼吸?ってことはこの首の当たっているのは唇?
「ひあっ!」
思わずびくりとして、変な声を出してしまった。
「………すまない」
ぐいっと私の肩を掴んで押し退け慌てて体を放す。
「殿下?」
肩に手を置いたまま殿下は私の顔を見下ろす。
「すまない……」
責めるような言い方から、今度はすまないしか言わない。
何に対して責めたのか、何をすまないと言っているのか。
「私が誰か……わかりますか?」
「…………ローリィ、我が家のメイドのローリィ」
額に手をあて考えるようにしてから、ようやくそう答える。
「はい。思い出してくれたのですか?」
「………眼鏡は?眼鏡をしていたのでは?」
「眼鏡?………あ………」
公爵邸に勤め始めた最初の頃、眼鏡をしていた。踊り子クレアとしてばれないかと変装のつもりでかけていたが、伊達だったこともあり、すぐにやめてしまった。
その頃のことを言っているのだろうか。
「眼鏡は………今はしていません」
「どうしてネヴィルを知っている。それに、なぜ王都にいるはずの君がここに……ここは、公爵領だ」
「殿下………」
「………いつ、私はここに……王都の屋敷にいたはず」
まだ記憶が混乱しているのだろうか。私が王都から共にここに来たことを忘れている。公爵邸に来た頃と勘違いしているみたいだ。
そこに慌ただしく駆け込んで来る足音が聞こえて、今度こそネヴィルさんが入ってきた。
「すいません、ローリィさん、お茶を用意しようとしたら、殿下が寝室からいつの間にかいなく……え、殿下?」
私とそこに立つ殿下を見て驚いた。
「勝手に抜け出してきたんですか?」
「そうなのです。マーサさんが他の用事で少し外した際に………ああ、良かった、皆さんに報告してきます」
ネヴィルさんが扉を閉めて出ていき、殿下と二人になった。
「……………だ」
「え……?」
殿下の方から声が聞こえ扉から殿下の方に視線を向ける。
「どうして……ここにいるのだ?どうして………」
「殿下?」
「あの………」
肩にあった手が頬に伸びる。片手で包み込むように触れ、瞳を覗き込むように見つめる。
何かを確かめようとするように、手を置いたまま何度も何度も親指で頬を擦る。
「………どうして……」
バタバタと複数の足音が廊下から聞こえ、クリスさんを先頭に大勢が部屋に入ってきた。
「殿下!」
「キルヒライル様!」
その勢いに殿下が扉の方に振り向き、触れていた手を放す。
「マーサ………ジャック……」
「キルヒライル様……いきなり黙って部屋を抜け出すなんて……まだお体も本調子でないのに……」
寝台がもぬけの殻だったときの衝撃がまだ抜けないのか、マーサさんが涙を浮かべて私の隣に駆け寄ってきた。
「……すまない、マーサ………何か、何かが見つからなくて……」
額に手を当ててそれが何なのか思い出そうとするが、思い出せないのかそれ以上の言葉が出てこないようだった。
「何をお探しだったのですか?入り用な物があればマーサがご用意します」
マーサさんが片方の手を握ると、マーサさんの顔を見て、隣の私の方に視線を向ける。
「それは何だ?」
机に広げられた書類について訊ねる。
どう伝えていいのかわからず、ネヴィルさんの方を見る。
「しゅ、収穫祭も終わりましたので、書類の整理をしておりました」
ネヴィルさんが近寄ってきて説明をする。
「私が殿下のご不在の間の収穫祭について報告しようと、彼女に整理を頼んでいました」
「彼女と?……」
「はい……」
「文字が……読めるのか?」
そのあたりの記憶がまだはっきりしないのか、不思議そうに私を見る。
「はい、殿下……」
目を閉じて眉間に皺を寄せ懸命に記憶を呼び出そうとしているのがわかる。
「すまない………君が誰かは思い出せたが……どうして公爵領にいて、ネヴィルの補助をしているのか……」
「殿下、あまり思い詰められてはお体に障ります。一旦寝室に戻りましょう。シリア、殿下にお茶をご用意して差し上げて」
「わかったわ」
マーサさんが殿下の腕にそっと手を添えて、背中を撫で下ろす。
こちらを見るマーサさんの視線が、今は我慢してと私に訴えかけ、無言で頷く。
忘れられたショックは大きいが、こんな風に苦しむ殿下は見たくはない。
その時、再び廊下から誰かが近づいてくる音が聞こえ、皆の関心がそちらを向いた。
「失礼いたします」
やって来たのはチャールズさんだった。
ここの館での執事は彼なので、チャールズさんが領地運営以外の全てを取り仕切っている。
待ちに待った王宮医師がウィリアムさんと共にやって来たという知らせを私たちに告げた。
濃紺の瞳は何の感情も浮かんでおらず、私も部屋の中の家具のひとつのように見る。
「で、殿下…」
聞こえたかどうかわからない小さな声をだすと、殿下は僅かに小首を傾げる。やがて視線が定まりだんだんと目に力が宿っていく。
「君は……何をしているんだ?」
「あの……えっと……」
「誰の許可を得てここにいる?」
「あの、ネヴィルさん…ネヴィルさんの」
「ネヴィル?」
視線が上に動きそれが誰だったか思い出し、再び私に視線が向く。
「ネヴィルとここで、何をしていた?」
咎めるような聞き方だった。
少しずつ部屋の中心に向かって歩き、私が答えるより先に机の上の書類に目が止まり、眉間に皺が寄る。
「あの、殿下……」
「ここで、ネヴィルと何をしていた!」
苛立って少し声が大きくなる。
それと共に殿下の体がぐらりと揺れる。
「危ない!」
倒れかかる殿下の体を受け止めると、力を無くした体の重みで思わずよろけそうになる。
「殿……キルヒライル様……」
私の左肩に顎を乗せて力なく寄りかかる殿下に声をかける。
殿下を正面から抱き止め両脇を腕で支えたまま身動きできない。
殿下の銀色の髪が顔にかかりくすぐったいし、首筋に湿っぽい何かが触れている。
一定のリズムで首筋に生暖かい息が吹き掛けられる。これって殿下の呼吸?ってことはこの首の当たっているのは唇?
「ひあっ!」
思わずびくりとして、変な声を出してしまった。
「………すまない」
ぐいっと私の肩を掴んで押し退け慌てて体を放す。
「殿下?」
肩に手を置いたまま殿下は私の顔を見下ろす。
「すまない……」
責めるような言い方から、今度はすまないしか言わない。
何に対して責めたのか、何をすまないと言っているのか。
「私が誰か……わかりますか?」
「…………ローリィ、我が家のメイドのローリィ」
額に手をあて考えるようにしてから、ようやくそう答える。
「はい。思い出してくれたのですか?」
「………眼鏡は?眼鏡をしていたのでは?」
「眼鏡?………あ………」
公爵邸に勤め始めた最初の頃、眼鏡をしていた。踊り子クレアとしてばれないかと変装のつもりでかけていたが、伊達だったこともあり、すぐにやめてしまった。
その頃のことを言っているのだろうか。
「眼鏡は………今はしていません」
「どうしてネヴィルを知っている。それに、なぜ王都にいるはずの君がここに……ここは、公爵領だ」
「殿下………」
「………いつ、私はここに……王都の屋敷にいたはず」
まだ記憶が混乱しているのだろうか。私が王都から共にここに来たことを忘れている。公爵邸に来た頃と勘違いしているみたいだ。
そこに慌ただしく駆け込んで来る足音が聞こえて、今度こそネヴィルさんが入ってきた。
「すいません、ローリィさん、お茶を用意しようとしたら、殿下が寝室からいつの間にかいなく……え、殿下?」
私とそこに立つ殿下を見て驚いた。
「勝手に抜け出してきたんですか?」
「そうなのです。マーサさんが他の用事で少し外した際に………ああ、良かった、皆さんに報告してきます」
ネヴィルさんが扉を閉めて出ていき、殿下と二人になった。
「……………だ」
「え……?」
殿下の方から声が聞こえ扉から殿下の方に視線を向ける。
「どうして……ここにいるのだ?どうして………」
「殿下?」
「あの………」
肩にあった手が頬に伸びる。片手で包み込むように触れ、瞳を覗き込むように見つめる。
何かを確かめようとするように、手を置いたまま何度も何度も親指で頬を擦る。
「………どうして……」
バタバタと複数の足音が廊下から聞こえ、クリスさんを先頭に大勢が部屋に入ってきた。
「殿下!」
「キルヒライル様!」
その勢いに殿下が扉の方に振り向き、触れていた手を放す。
「マーサ………ジャック……」
「キルヒライル様……いきなり黙って部屋を抜け出すなんて……まだお体も本調子でないのに……」
寝台がもぬけの殻だったときの衝撃がまだ抜けないのか、マーサさんが涙を浮かべて私の隣に駆け寄ってきた。
「……すまない、マーサ………何か、何かが見つからなくて……」
額に手を当ててそれが何なのか思い出そうとするが、思い出せないのかそれ以上の言葉が出てこないようだった。
「何をお探しだったのですか?入り用な物があればマーサがご用意します」
マーサさんが片方の手を握ると、マーサさんの顔を見て、隣の私の方に視線を向ける。
「それは何だ?」
机に広げられた書類について訊ねる。
どう伝えていいのかわからず、ネヴィルさんの方を見る。
「しゅ、収穫祭も終わりましたので、書類の整理をしておりました」
ネヴィルさんが近寄ってきて説明をする。
「私が殿下のご不在の間の収穫祭について報告しようと、彼女に整理を頼んでいました」
「彼女と?……」
「はい……」
「文字が……読めるのか?」
そのあたりの記憶がまだはっきりしないのか、不思議そうに私を見る。
「はい、殿下……」
目を閉じて眉間に皺を寄せ懸命に記憶を呼び出そうとしているのがわかる。
「すまない………君が誰かは思い出せたが……どうして公爵領にいて、ネヴィルの補助をしているのか……」
「殿下、あまり思い詰められてはお体に障ります。一旦寝室に戻りましょう。シリア、殿下にお茶をご用意して差し上げて」
「わかったわ」
マーサさんが殿下の腕にそっと手を添えて、背中を撫で下ろす。
こちらを見るマーサさんの視線が、今は我慢してと私に訴えかけ、無言で頷く。
忘れられたショックは大きいが、こんな風に苦しむ殿下は見たくはない。
その時、再び廊下から誰かが近づいてくる音が聞こえ、皆の関心がそちらを向いた。
「失礼いたします」
やって来たのはチャールズさんだった。
ここの館での執事は彼なので、チャールズさんが領地運営以外の全てを取り仕切っている。
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