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139 失われた記憶と思い出

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ホーク医師が診察を終えて部屋を出てくるまで私はずっと廊下で立ち尽くしていた。
クリスさんやエリックさん、シリアさんが入れ替わり立ち替わり心配して声をかけてくれた。
我ながら少々痛いなぁとはわかっていた。
けれど、「この人は誰だ」と言った殿下の表情が忘れられず、何か大変なことが殿下の身に起こっているのだと思うと、何も手につかなかった。

レイさんは警羅隊詰所に詰め、殿下の事件についての取り調べを行っている。

殿下の精神的混乱を防ぐため、医師以外はマーサさんとジャックさんだけが入室を許可された。

診察を終えて、ホーク医師とジャックさんが部屋から出て来た。

「詳しくは王都からの医師が来てから……私も立ち会います」

「ありがとうございます」

ジャックさんが廊下で佇む私を見て、難しい顔をする。

「まさかずっと待っていたのですか……」
「殿下は……」

私の問いに対してジャックさんは隣のホーク医師を見る。
彼はジャックさんの視線の意図を察し、頷いて今わかっている範囲のことを教えてくれた。

「意識が戻ったばかりで混乱されているのだと思いますが、どうやらここ最近、一、二ヶ月の記憶がないようです。一時的なものかどうか…飲まされた薬のせいかも知れませんが、王都からの医師に診てもらって、それからですね」

ここ一、二ヶ月……それなら、私が誰かわからなかったのも頷ける。だが、そんなことがあるのだろうか。

「会うことは……」

訊ねると、医師は申し訳なさそうに首を振った。

「申し訳ないが、医師としては患者を混乱させるだけなので、許可はできない。会うのは昔から知っている人間だけにしてもらいたい」

医師としては当然の答えだ。私が確実にその条件に当てはまらないことに、胸が痛んだ。私と殿下の間にはたかだか二ヶ月にも満たない時間しか共有していない。それはあまりにも短いものだ。

「先生の知る限りで、今回のような症状が出る薬などはありますか?」

「脳に影響を与えるものはいくつかある。悪い作用を引き起こすものだけでなく、薬として使われるものにも脳に制限をかけたり刺激を与える働きがあるものがな。精神的に不安定な者への治療に使われる薬や、後は………」

言いにくそうに彼は一旦そこで言い淀む。

「後は……?」

「……各国の軍関係などが扱う薬物に、人を死に至らしめるもの以外に人の脳や精神に影響を及ぼす作用があるものもある。そこで取り扱っている薬は日々開発研究されていて、さすがに私では全て把握できていない。王都の医師団ですら、他国のものも含めれば全てを知っているとは言えない」

「先生…それは」

「あくまで可能性の話だ。専門に研究しているわけではないから、その辺りは宰相殿などが詳しいだろう。王都からの医師が来たときに相談しよう」

自分の発言が私たちを困惑させたことに気付き、慌てて取り繕った言い方で誤魔化した。
もし、実験的な未知の薬を使われていたとしたら、どうなるのだろうか。

「今のところ記憶のこと以外は多少意識も朧気ですが、そう深刻にならないで下さい」

「わかっています。楽観視はしない。あらゆる可能性を考慮にいれている。そうですよね」

どんな簡単な手術でも事故は起こりうる。助かると思っていた人が助からず、助からないと思っていた人が奇跡的に助かることがある。そんな時はそこに神の存在を感じざるを得ない。

無神論者を気取る私ですら、今は神に祈りたい気分だ。

「……ところで、あなたの方の怪我は大丈夫ですか?」

「はい。その際はお世話になりました」

「女性なのですから、無闇に体に傷を作ってはなりませんよ。そうでなくても、些細な傷が元で大事に至ることもあるのですから」

「気を付けます」

「それはそうと、その出で立ちは……」

ホーク医師が、男装をする私の姿を改めて見て、不思議そうに訊ねる。

「先生、彼女は元々キルヒライル様の護衛として雇われているのです」

ジャックさんが横から説明する。

「え………!」

それを聞いて改めて私の頭から足元までを一巡する。

「それで、あのようなことも出来たのですね……そうですか……女性の護衛とは珍しい。なるほどね」

ホーク医師は物珍しげになるほど、なるほどと呟く。
その視線がまるで珍獣を見るような視線であることに、居心地の悪さを覚え、何やら居たたまれなくなる。

「先生、そのように見つめては、彼女が困っています」

それを察してジャックさんが注意すると、彼は屈託のない笑顔で謝った。

「いや、これは申し訳ない……綺麗なお嬢さんだと思っていたら、そのような経歴をお持ちとは……それに、始めに女性だとわかっているからですが、知らなければ殿下と並べば共に女性から注目の的になったでしょうね」

「……はあ……」

喜んでいいのかわからない言葉に困惑する。

かつてのアイスヴァインでのことやハレス子爵の屋敷での黄色い歓声を思い出す。

「これは失礼……殿下がこんな時に不謹慎でしたね」

「先生、もうそれくらいになさってください。ローリィ、あなたももう行きなさい。ここにいても今日は殿下にはお会いできません」

ジャックさんがホーク医師を諌める。

「そうですね。殿下のことが心配なのはわかりますが、ここにいても今は私にもできることはありません。王宮からの医師の診察が終われば、様子を見て面会できるようにしますから、それまでは我慢してください」

精一杯のホーク医師の気遣いに、私は恐縮してしまった。

「いえ……私こそ……分をわきまえずに未練がましく居座ってすいません。先生、ジャックさん、それでは失礼します」

ぺこりと頭を下げて私は足早にその場を立ち去った。

そんな私の背中を二人は見つめ、顔を見合わせると殿下の寝室の扉に視線を向ける。

「良心が痛みますね」

執事が呟く。

「同感です。今のやり取り、殿下には聞こえていましたでしょうか」

「どうでしょうか、聞こえていないことを祈ります。先生の診察の間ずっとここに立っていたとは……殿下が知ればお心を痛めるでしょう」

二人はぼそぼそと小声で話し、もう一度扉の向こうに視線を向けた。

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