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102 マーサとの約束

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会食と歓談を終えて帰宅すると、玄関で出迎えてくれたのはチャールズではなくマーサだった。

そのことに少し戸惑いつつ、ウィリアムたち護衛に今日はもう休むようにと声をかけ、マーサより先に階上へあがる。

「チャールズはどうした?」

具合でも悪いのかと心配して訊ねると、マーサが私が彼に頼んで代わっていただいたと言う。

警戒して自室に向かう途中の廊下で立ち止まり、廊下の微かな燭台の灯りを受けた彼女の表情を伺うと、口許は緩やかに笑っているがその目付きは笑っていない。

この表情には見覚えがあった。

見つかっていないと思っていたイタズラを既に悟られていて、何かおっしゃることがありますよね。と詰め寄られた、あの表情。

男爵家の婦人でありながら自分の乳母となった彼女は亡くなった前王妃、私たちの母からの信頼が厚く、ダメなことはダメだとはっきり言ってくれる厳しさを持っていた。

幼少期、兄と虫や爬虫類を捕まえては侍女たちを驚かせたり、穴を掘って侍従を落としたり、それなりのイタズラはやった。

その年頃ならいざ知らず、二十八にもなってこんな表情をされることを何かしてしまっただろうかと、首を傾げる。

内心不安に思いながら夜も遅く、寝支度が遅れてマーサを長時間拘束することを申し訳なく思い、自室に急いだ。

上着を脱ぎマーサに手渡す。彼女はそれをハンガーにかけ、ブラシで埃を落とす。

時間が早い時は夕食前に湯浴みをするが、今日はもう遅い。湯浴みは朝にして今は体を拭く程度にする。
シャツを脱ぎ、絞ったタオルで体を拭いて夜着を身に付ける。

その間も、ずっとマーサからの厳しい視線に晒され、居心地が悪い。

「……何か、言いたいことでも?」

思い当たるものがなく、耐えかねて訊いた。

「思い当たることはありませんか?」

逆に問われて何だったかと考えるが、マーサの勘違いではないかと聞き返す。

「………悪いと思われていないのなら、そうですね」

「はっきり言って欲しい。何が気に入らない」

降参だと両手を挙げて言うと、マーサはそれでは、とコホンと咳払いする。

「ローリィのことです。彼女についてのキルヒライル様のご対応について、ひとことよろしいですか?」

彼女の名前が出て、内心どきりとしたが、努めて顔に出ないように平静を装う。

今日のことを言っているのか、いや、彼女から何かをマーサに言うことはない。マーサが何かを察して行動しているのだろう。

「対応とは?」

「………抱き締めたのですか?」

正面に回り込み、両頬を手のひらで包み込んで逃げ場を無くして下から見上げて訊いてきた。

「…………なぜ、そんなことを訊く?」

表情は崩さず動揺を表に出さないように努めたが、最初の沈黙をマーサは見逃さなかった。

「まさかとは思いましたが、本当なのですか」

「まさかとは、どのことを言っているのだ?」

「このマーサに誤魔化しはききませんよ!」

「誤魔化しては………」

「怒ったりしませんから正直におっしゃってください」

こういう場合、怒らないという言葉は信用できない。

「言っても言わなくても怒るのだろう?」

二十八になっても子ども扱いは情けないが、マーサにとってはいつまでも小さい頃のままなのだろう。

「ローリィが、そう言ったのか?」

「彼女は助け起こしてもらったと言い直していました。私もまさかキルヒライル様が婦女子にいきなり抱きつくような方とは思いませんでしたが………」

「彼女がそう言うなら、そうなのだろう」

大の大人が自分の異性関係について、親や乳母に赤裸々に語るなど恥ずかしい限りだ。

「亡くなったお母上に誓って言いきれますか?」

亡くなった母上のことまで持ち出される。

「マーサは亡くなった王妃様に申し訳が立ちません。本当のところはどうなのですか?」

遂にはうつむき、泣き落としにかかられ、心は罪悪感に侵される。
既に真夜中を過ぎ、マーサも日中の労働で疲れているはずなのに、その勢いは衰えない。
こちらが負けそうになる。

「キルヒライル様がはっきりおっしゃらないなら、もう一度あの子に訊くまでです。それでよろしいですか?」

「一体、何が知りたいのだ?私が彼女を抱き起こしたのか抱き締めたのか、どちらでもいいではないか」

「大違いです。私はキルヒライルの乳母です。あなた様のことを大事に思っております。特に王妃様が早くに亡くなられてからは、勝手ですがあなた様をわが子と同様、それ以上に思っております」

マーサの愛情を少しも疑ってはいない。

「私もそなたを育ての親として大切に思っているぞ」

そう言うと、マーサは少し照れて、小声でありがとうございます。と呟く。

「それに、あの子のことも、会って日も浅いですが、数年前に母親を病で亡くして私を母親のように思ってくれ、可愛いと思います」

そうか、彼女も母親を亡くしているのか、その事実に自分との共通点を見いだし、嬉しく思った。

「ですから、キルヒライル様がイタズラにあの子に手を出すなら、私は断固反対です。何と言っても、あの子はメイドです。キルヒライル様のお立場でそんなことをすれば、あの子の評判を落としかねます。ただ助け起こしたのならそれでいいですが、抱き締めたのなら、その先に何が待っているのかお覚悟はありますか?ほんの出来心なら、どうか思い止まってください」

ウィリアムにも言われたことと同じだった。気まぐれに手を出すなら止めろとマーサは言いたいのだ。

「そのことなら、他の者にすでに言われた。気まぐれや物珍しさからなら、考えを改めてくれ、とな」

「あら、一体誰がそんなことを?それでキルヒライル様は何と?」

「侮辱するなと言った。私は自分の地位や権力がどのようなものかわかっている。逃げたいと思ったこともあるが、この立場だからこそ出来ることもある。その責任も十分わかっている」

「それでこそ、私がお育てしたキルヒライル様です。立派な王子様ですわ。亡くなられたお父上お母上もさぞかしお慶びでしょう」

「二十八にもなった私にその言い方はないだろう」

「いくつになられても、私の大事な息子に変わりはありませんわ。それで、その先の責任はお取りになるということでよろしいですか?」

もうマーサには言い逃れは出来ないと思った。普段の態度とは明らかに違うと勘づかれているようだ。

「……彼女はメイドだ」

「そうですね」

「不用意に私との噂が立っては彼女を傷付けるだけだ」

「そうですね」

「彼女が後ろ指を指されることなく私の相手だと周囲が思ってくれるよう、考えるつもりだ。それまで待ってくれるよう、彼女には伝えた」

「あの子は何と?」

「黙って頷いてくれた」

「………そうですか……で、いつまで待たせるつもりですか?あまり長く待たせては可哀想ですよ。あの子も年頃です。今後、今の彼女に相応しい相手が現れたら、キルヒライル様は止めることが出来ますか?いつまでもあの子も待っていられませんよ。あの子の一番美しい盛りをキルヒライル様のために終わらせることは出来ません」

彼女に相応しい相手。マーサに言われて胸が痛んだ。今のままの彼女に相応しい相手が、今すぐにでも現れたら、それを止める権利が今の自分にないことを思い知らされる。
二人の思いだけでいつまでも待たせることはできない。

待たせて待たせて、結果、彼女を失うことになりかねない。

「キルヒライル様のそのようなお顔……誰かを思ってそこまで切なそうになされるお顔を拝見できるとは思いませんでした」

「………情けない顔をしているだろう?」

「初々しいですわ。泥のなかから咲く蓮の花が美しいように、苦しんだ分だけ、その成果が報われると思いますよ。微力ながら私も出来ることはお手伝いしますから、キルヒライル様はあの子に嫌われないよう、精進なさいませ」

「………手厳しいな」

「何の努力もなしに掌中の珠が手に入ると思ってはいけませんよ」

「掌中の珠か……今でも十分美しいが、まだまだ磨きがいがありそうだろう?」

「お惚気ですか、先が思いやられますわ」

呆れたようにマーサがため息を吐く。

「もう夜も遅い。早くマーサも休め、納得しただろう?」

「そうですね。まあ、合格点としましょうか」

知りたかったことは聞くことが出来たと、マーサも今夜のところはそれで納得したようだ。

部屋を出る際にマーサは振り返り、こちらをじっと見た。

「まだ何か言い足りなかったか?」

「いえ………しばらく見なかった間に、すっかり大人になられましたね」

それだけ言って、おやすみなさいとマーサは自室へと戻って行った。
子ども扱いも困ったが改めて言われると照れ臭かった。

寝仕度を済ませ、寝台に横になる頃には夜中二時を回っていた。
彼女はもう寝入っているだろうか。

彼女を腕に抱いて、自分の口づけに答えてくれた彼女の感触を思いだし、深いため息を吐く。
彼女が見せてくれた胸の傷を脳裏に浮かべ、これまで悩まされてきた夢を思い出す。自分の妄想でもなんでもなく、現実に彼女は存在して、今手の届く所に居る。
まだ問題は色々あるが、今夜だけはただ、自分と彼女の間に起こったことを思いだし、その余韻に浸って眠りに落ちた。


ほんの数時間で叩き起こされることになるとは、思わずに。

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