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68 あれは私です

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「え?」

その農場を出て領主館へ戻る途中で、先ほどすぐに否定しなかったのはどうしてか?と訊ね、帰って来た答えに愕然とした。

クリスさんは農場から頂いた食べ物をまた教会に届けるため、別行動していたので、今は殿下と私、レイさんの三人だ。

それはいいとして、先ほどの疑問に関する殿下の答えだが。

「めんどうだった」からだった。

「行く先々で娘や姪やら紹介される手間が省ける」というのが理由だった。

「めんどう……めんどう……」

私の頭の中をその言葉がこだまする。

「めんどうだと言って否定もされなかったら、ますます面倒なことにならないでしょうか」

なんと言っても公爵様の婚約者が王都からやって来たなど、領民から見れば大慶事である。

だが、自分はただのメイドだ。いずれそのことは皆の知るところとなる。
とっかかりは単なる勘違いでも、それを当事者である殿下自身が否定しなければ、それを真実だと思い込む人が出てくる。

「次に同じ事を言われたら、殿下がきちんと否定なさってくださいね」

「わかった。任せろ」

あまりにあっさり答えるので、疑いの目で見る。

「心配するな。ネヴィルが復帰して、彼が一緒に来るようになれば、誰も気にしなくなるだろう」

だといいですが、と心のなかで呟く。

「殿下」

「ああ」

レイさんが道の途中で声をかける。

今通っている道は王都を通り東西を結ぶ街道からは外れているが、それなりに道幅もあり街道よりは南を走っているため、南寄りの地域に行く者はよく利用する。

そのため、荷馬車や幌馬車などもよく通る。

それなので行く手に荷馬車を見かけても特段怪しくはなかったが、どうやら何かトラブルを抱えているらしい。

「ここでお待ちを、少し見て参ります」

レイさんがそう言って一人で向かった。

私と殿下はその場から見守る。

しばらくするとレイさんが戻ってきた。

「どうだった?何があった」

「花の栽培をしている農家の者で、街に花を納めた帰りだそうですが、どうやら荷車の車軸が折れてしまっているようです」

「直に陽も暮れてくる。暗くなると物騒だぞ。馬に乗ればいいだろう」

「それはそうなのですが、車軸が折れた際の衝撃で腰を痛めたらしく動けないようなのです」

「そうか……それは大変だな」

事情がわかって私たちは荷馬車に近付いた。

車軸の折れた荷馬車の荷台に、初老の男性がお尻を突き出してうつ伏せになっていた。

「事情は訊いた。具合はどうだ?」

「はい、お恥ずかしい。はは、この有り様です」

うつ伏せのまま、顔を少しこちらに向け、くぐもった声で答える。

「動くのは無理か?このままここにいては危ないし、腹も空いてくるだろう。どれくらいここにいる?」

「それほど長くは……今まで誰も通らず、こうやって声をかけていただいたのも皆さんが初めてですので」

いくらそれなりに利用するものがいると言っても、表通りとは違い、これから暗くなるにつれ人通りもほとんどなくなるだろう。
聞けば男の家はまだ少し先だと言う。

「申し訳ありませんが、送っていただけませんか。馬には乗れるかと思いますが、何ぶんこの有り様です」

弱々しく農夫が頼み込む。

「レイ、彼を馬に乗せて送って差し上げろ」

しばらく思案して殿下が言った。

「で、あ、旦那様、それでは護衛が……」

殿下、と言いかけて慌てて言い直す。

クリスさんがいない今、自分まで護衛を外れるわけにはいかないと彼は言う。

「心配ない。後少しで館に着く。私の腕を信用しろ。今はこちらの御仁の方が大変だ」

「………ですが」

レイさんは私の方をちらりと見て、大丈夫か、という目を向ける。

私は任せろ、という意味で軽く頷く。

「私の供の者が家までお送りしよう。荷馬車は明日にでも修理の者を寄越せばいい」

「あ、ありがとうございます」

男は感謝の言葉を繰り返した。

レイさんも殿下の命令となれば、それ以上逆らうこともできず、嘆息してわかりました。と呟いた。

それからレイさんと殿下で男を抱えて、男の荷馬車を引いていた馬の背に乗せる。
鞍の上に腹這いになる、なんとも不格好な様子で馬に乗り、レイさんが馬の手綱を持って引っ張ることになった。

「それでは行ってまいります。で……旦那様もお気をつけて」

レイさんは最後まで心配そうにしていたが、殿下が大丈夫だ。と繰り返すので、やがて観念してもと来た道を戻っていった。

「さて、我々も行くとしよう」

殿下がそう言って馬に飛び乗り、私も続いて騎乗した。

殿下の少し後ろを行く形でついていこうとすると、殿下が振り返った。

「?何でしょうか」

何か言いたげな様子に訊ねる。

「どうして後ろを行く?二人きりなのだから隣に来い。話しづらいではないか」

「え?」

「この道幅なら並んでいても十分広い」

「ですが………」

「ちょうど聞きたいことがあったのだ。隣に来なさい」

有無を言わせない口調に従わざるを得なかった。

言われるままに殿下の左横に馬を進めた。

「お聞きになりたいこととは?」

「ふむ………」

馬に揺られながら、殿下は私の顔をじっと見てなにやら考え込んでいる。
どう切り出したものか考えている様子だ。

すっと殿下は手を伸ばし、私の髪をひと房掴んだ。

「……で、殿下?」

「これは地の色か?」

「は、はい、生まれたときから………」

聞きたいことはそんなことだったのか?私自身は気に入っているが(何せ前世は黒髪だった。嫌いではないが、染めたこともなかったので明るい髪色が嬉しい)

「そうか、ではあの時は染めていたのか」

掴んでいた髪を離し、ぼそりと呟いた。

「え?あの時?」

髪を染めていたのはアイスヴァインから王都に来る時と、王宮の宴の時だけだ。

含みのある物言いに、どきりとしたが、どちらのことを言っているのかわからず、こちらから迂闊にきくことはできない。

殿下は私の一瞬の動揺を見逃さなかった。

「思い当たる節があるのか?」

目を細め、探るような視線を向けられるが、黒か金かどちらの時のことを言っているのかわかるまで何も言えない。
黒の時は名は名乗らなかった。金の時はクレアと名乗った。
後者なら名前が違うことに気づき、そのことも訊かれる筈だ。一介の踊り子の名前を覚えていればだが。

「マインから王都へ戻る途中、ある宿屋の厩舎で言葉を交わした少年がいた」

そっちか、と思ったが、殿下の話はまだ続きそうなので沈黙する。

「ほんの二言三言だったし、その後色々なことがあったのですっかり忘れていたのと、少年だと思い込んでいたが、あれはそなたか?」

率直に訊かれ、否定しようか肯定しようか迷った。

「私は外套を目深に被っていたので、気づかなかったかも知れないが……」

考えて、あの時厩舎に居たのが自分だと認めても、今の状況にさして影響はないだろうと考えた。

「確かに、外套を被ったお兄さんに会いました。あれは殿下だったのですね」

初めて知ったかのように驚いてみせたが、うまく伝わっただろうか。

「女の一人旅は物騒なので、男の格好をして、地味に見えるように髪も染めていました」

「そうか……」

「殿下はいつお気づきに?」

「昨日、醸造所でベンチに腰かけているのを見つけた時に」

「そうですか……お聞きになりたかったこととは、それだけですか?」

「そうだ……いや…」

まだ訊きたいことがあるらしい。

話をしながら私たちは木立の中を進んだ。

次は何を訊かれるのかと身構えたが、話はそれ以上続かなかった。

殿下の方を向いていたため、殿下の右手にある木の上で何かが光ったのが見えたと思った瞬間、弓の弦が引き絞られる音がした。

「危ない!」

私は自分の馬から殿下に向かって飛び移り、彼のからだに覆い被さった。


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