上 下
5 / 266

5 突然の出来事

しおりを挟む
 ローゼリアが十二歳の時にマイン国との間に燻っていた戦争の火種は燃え上がることなく立ち消えた。

 王弟、キルヒライル・エドワルド公爵の功績であった事実は、広く国民には広まらなかった。その真意はわからかったかが、それ以降、彼は表舞台から姿を消したのだった。
 病にかかって療養しているだの、外交のため諸外国を廻っているだの噂が流れたが、兄である王ですら口をつぐんでいたため、表だってそのことを問いただす者はいなかった。
 公爵の不在に妙齢の女性達が皆、一様に落胆していたと息子からの手紙に書いてあったのを読んで、モーリスは苦笑した。

 アイスヴァイン領では王弟不在による影響は、微塵もなく、ローゼリアにとって、遥か遠くの王都の出来事より、もっと大きな心配事があった。

 ローゼリアが十四歳になった頃、とうとう母が寝付いてしまった。一年のうち、数える程しか起き上がれず、もともと青ざめたような肌色は土気色になり、ヒューヒューと呼吸も苦しそうだ。
 父はそんな母の側に少しでも付き添うため、嫁いだ自身の姉の息子に家督を譲ることを決め、領地において領主教育を行っている。

  ローゼリアにとって従兄弟にあたる次期伯爵はルークと言う名前で、ローゼリアとは一つ違いの十五歳だった。翌年、社交界デビューの翌年に家督を継ぐ予定になっている。
 気の優しい従兄弟が家督を継いだ後は、ロード一家は領地内に家を確保し、移り住むことにした。

 ローゼリアが十六歳になった時、母が亡くなった。
 その年、ローゼリアは王都に赴き、社交界デビューするはずだったが、喪中のため、出席は断念した。

 そして、母の喪が明け、来年は社交界にと考えていた矢先、ローゼリアが十八歳になる年、父が亡くなり、ローゼリアは二年の間に両親を亡くし、天涯孤独となった。

 それは突然だった。

 父はその日、シュルスに人に会う用事があると言って出掛けた。
 朝、父を送り出し、簡単に掃除を済ませるとアイスヴァイン邸の厩に行った。

 今日のローゼリアは伯爵令嬢らしくなく、領内の娘と同じような薄茶色の木綿のワンピースに焦げ茶色のベストを羽織り、皮のブーツといった出で立ちだ。もうすぐ十八歳になるローゼリアはすらとした手足と女性にしては少し高めの身長だった。濃いめのストロベリーブロンドの髪を顔の両側で編み込みし、首の後ろ辺りでひとつにまとめている。アメジストのちょっとつり目気味のアーモンド型の眼、ここ何年かで凛々しさが増したように感じる。少女とも少年とも見える中性的な顔立ちは、キレイに化粧を施せば、かなりの美人になるだろうが、本人は着飾るつもりもないらしく、母に口うるさく言われて肌の手入れと日焼け対策は怠らない。

「シューティングスター!お待たせ」

 初めてローゼリアの馬になったシューティングスターはアイスヴァイン邸の厩で預かってもらっており、ほぼ毎日世話に通っている。
 軽く走らせ、ブラシをかけ、水と餌をあげて家に帰ろうとした時、慌てた様子のルイスが厩に駆け込んできた。

「お嬢様!ロード様が!」
 ルイスが持ってきたのは父の訃報だった。

それはまさに青天の霹靂。母の時は日に日に弱っていく姿を見ながら、ある程度は覚悟ができていた。
 
 父はシュルスとアイスヴァイン領を繋ぐ街道の外れで何者かに刺されて息絶えていた。

 誰に会いに、何ためにシュルスへ赴いたのか、何一つ知らされていなかった。

 温厚な元伯爵に敵はおらず、盗賊か何かに襲われたのだろうということになった。

 父の葬儀が終わり、家に一人戻ると、ローゼリアはこれから自分はどうしたらいいのかと思い悩んだ。

 台所兼居間と小さい部屋が二階に二つあるだけの小さな借家がローゼリアの今の住居だ。伯爵令嬢が住むには狭すぎる気がするが、日本で住んでいたワンルームマンションに比べれば、十分な広さだ。
 一人になってしまった今となっては尚更広く感じる。
 呆然としていると、誰かが表の扉を叩いた。

「ローゼリア、俺だ」

 モーリスだった。扉に鍵が掛かっておらす、大柄の彼は少し頭を傾けて扉をくぐった。

「無用心だな。鍵をきちんと締めろ」

 そう言われて、鍵をかけ忘れていたことに気づいた。

「ちゃんとかけたと思ったけど…」

 彼も妻のエミリとともに葬儀に参列してくれていて、先ほど別れたばかりだ。今日はもう日も暮れかけている。

 何か用事がと聴きかけると、鍋に入ったシチューを机に置いた。

「エミリからだ。食え」

 お腹は空いていないと言いかけて、お腹が鳴った。

「顔色が悪い。いつから食ってない?」
 
 言いながら、台所から食器を取り出し、シチューを注いでくれる。一緒に持ってきた袋からごそごそとパンを取り出し、もうひとつ皿を出してそこに乗せてくれた。

「いつから…」

 言われて考えるが、はっきり覚えていない。父が亡くなったというルイスの言葉を耳にしてからの記憶が曖昧だ。葬儀の手配は新しく伯爵となったルークと、駆けつけた叔母がやってくれた。皆が走り回り、色々なことを自分に話していたが、何を言われたのか、何と答えたのか覚えていなかった。

「冷めないうちに食え」

 渡されたスプーンを手に取り、一口掬って口に入れると、温かいシチューがのどを通って行った。

「美味しい…」

 シチューが喉を通り、食道を通り胃袋に到達するまで余韻に浸った。

「そうだろう、エミリの料理は世界一だからな」

 熊のような見かけに関わらず、モーリスは優しげに笑った。目の前に彼が一人座っているだけで、空虚だった家の中が暖かく感じられた。

 黙々とシチューを口に運ぶ間、モーリスは黙ってただ座っていた。

「もう一杯食うか?」

 皿のシチューが空になると、そう聞いてきたが、ローゼリアは黙って頭を横に降った。

「もう寝るか?ろくに眠っていないんだろ?目の下の隈がひどいぞ。若いからって過信するな」

 心から気にかけてくれているその声音に、じっとモーリスの瞳を見つめた。

 自分はいつから食べていなかったのか、いつから眠れていないのか、そんなこともわからない。じっと、ただモーリスを見つめた。

「あれだな…」

 ふっとモーリスは笑った。

「初めて嬢ちゃんと会った日も、俺に眼とばしてたな」

 ローゼリアが五歳の時、二人は初めて出会った。その時のことをモーリスは持ち出した。

「あれから十二年かぁ…俺も年をとるはずだ。嬢ちゃんはすっかり大きくなったな。もう立派な大人だ」

 黙ったまま、ローゼリアは相づちもうたないが、構わす話を続ける。

「あの時、ルイスの頼みでも、話を聞いて、そりゃないわと、思った。自慢じゃないが、俺も騎士見習いから始めて三十年以上近衛騎士団で勤めた。いっぱい人も切ってきた。ロイシュタールの猛獣とまで言われた俺が、たった5つの伯爵家の、しかもお嬢様の指南役なんて、話を持ってきたのがルイスじゃなかったらぶった切ってたね」

 そこで言葉を切って、ローゼリアの様子を見て、更に続ける。

「仮にも相手はお貴族様、断るにしても人づてでは不敬に当たる。直接出向いて、こんなふざけた話を言い出した伯爵様ご一家を一目見てやろうと思った。でもお嬢ちゃんは俺の予想とは全然違って、こんな風体の俺から目を反らさずまっすぐ見つめてきた。何というか、目力があった。たまに意味のわからんことを言うがな」

 始めて会った時のように白髪混じりの頭をワシャワシャとかきむしる。

「あー、何が言いたいかと言うとだな…俺騎士団にいた頃も後輩をずっと指導してきたが、それは仕事であり、国のためであり…その、なんだ…嬢ちゃんは俺に取って個人として初めてで、恐らく唯一の弟子で、俺とエミリの間には息子しかいないからな。伯爵夫妻には申し訳ないが、俺もエミリも嬢ちゃんのことを娘みたいに思ってるわけで………え!」

 そこでモーリスはギョッとした顔をして固まってしまった。

 向かいに座る私は、いつの間にか泣いていた。
 
「…………」
 
 何やら考え込んでから、モーリスは徐に立ち上がり、向かいの私の側に来て、その横で膝を着くと、両手を広げた。

「親父さんが亡くなってから、泣いてないんだろ。俺にとって、大事な娘だ。胸を貸してやるよ。俺を本当の親父だと思って、思い切り泣きな。泣き顔は見ないでおいてやるよ」
「ひど……」
  暗に泣き顔が不細工だと言わんばかりの言い種に、思わず呟いた。

 泣いてもいいのかと、目でうったえると、黙って頷いてくれた。

 私は迷わず、その胸に飛び込んで、大きな声をあげて泣き叫んだ。

(父様、父様、どうして、どうして突然いなくなったの?これからもっと色々親孝行したかった。亡くなった母さまの分も、一緒に笑って過ごしたかった。)

 モーリスの胸で鼻水まみれになって泣きながら、私はいつの間にか眠ってしまっていた。
しおりを挟む
感想 104

あなたにおすすめの小説

不貞の末路《完結》

アーエル
恋愛
不思議です 公爵家で婚約者がいる男に侍る女たち 公爵家だったら不貞にならないとお思いですか?

妹に正妻の座を奪われた公爵令嬢

岡暁舟
恋愛
妹に正妻の座を奪われた公爵令嬢マリアは、それでも婚約者を憎むことはなかった。なぜか? 「すまない、マリア。ソフィアを正式な妻として迎え入れることにしたんだ」 「どうぞどうぞ。私は何も気にしませんから……」 マリアは妹のソフィアを祝福した。だが当然、不気味な未来の陰が少しずつ歩み寄っていた。

悪役令嬢の末路

ラプラス
恋愛
政略結婚ではあったけれど、夫を愛していたのは本当。でも、もう疲れてしまった。 だから…いいわよね、あなた?

愛することをやめたら、怒る必要もなくなりました。今さら私を愛する振りなんて、していただかなくても大丈夫です。

石河 翠
恋愛
貴族令嬢でありながら、家族に虐げられて育ったアイビー。彼女は社交界でも人気者の恋多き侯爵エリックに望まれて、彼の妻となった。 ひとなみに愛される生活を夢見たものの、彼が欲していたのは、夫に従順で、家の中を取り仕切る女主人のみ。先妻の子どもと仲良くできない彼女をエリックは疎み、なじる。 それでもエリックを愛し、結婚生活にしがみついていたアイビーだが、彼の子どもに言われたたった一言で心が折れてしまう。ところが、愛することを止めてしまえばその生活は以前よりも穏やかで心地いいものになっていて……。 愛することをやめた途端に愛を囁くようになったヒーローと、その愛をやんわりと拒むヒロインのお話。 この作品は他サイトにも投稿しております。 扉絵は、写真ACよりチョコラテさまの作品(写真ID 179331)をお借りしております。

それぞれのその後

京佳
恋愛
婚約者の裏切りから始まるそれぞれのその後のお話し。 ざまぁ ゆるゆる設定

赤貧令嬢の借金返済契約

夏菜しの
恋愛
 大病を患った父の治療費がかさみ膨れ上がる借金。  いよいよ返す見込みが無くなった頃。父より爵位と領地を返還すれば借金は国が肩代わりしてくれると聞かされる。  クリスタは病床の父に代わり爵位を返還する為に一人で王都へ向かった。  王宮の中で会ったのは見た目は良いけど傍若無人な大貴族シリル。  彼は令嬢の過激なアプローチに困っていると言い、クリスタに婚約者のフリをしてくれるように依頼してきた。  それを条件に父の医療費に加えて、借金を肩代わりしてくれると言われてクリスタはその契約を承諾する。  赤貧令嬢クリスタと大貴族シリルのお話です。

五歳の時から、側にいた

田尾風香
恋愛
五歳。グレースは初めて国王の長男のグリフィンと出会った。 それからというもの、お互いにいがみ合いながらもグレースはグリフィンの側にいた。十六歳に婚約し、十九歳で結婚した。 グリフィンは、初めてグレースと会ってからずっとその姿を追い続けた。十九歳で結婚し、三十二歳で亡くして初めて、グリフィンはグレースへの想いに気付く。 前編グレース視点、後編グリフィン視点です。全二話。後編は来週木曜31日に投稿します。

【完結】物置小屋の魔法使いの娘~父の再婚相手と義妹に家を追い出され、婚約者には捨てられた。でも、私は……

buchi
恋愛
大公爵家の父が再婚して新しくやって来たのは、義母と義妹。当たり前のようにダーナの部屋を取り上げ、義妹のマチルダのものに。そして社交界への出入りを禁止し、館の隣の物置小屋に移動するよう命じた。ダーナは亡くなった母の血を受け継いで魔法が使えた。これまでは使う必要がなかった。だけど、汚い小屋に閉じ込められた時は、使用人がいるので自粛していた魔法力を存分に使った。魔法力のことは、母と母と同じ国から嫁いできた王妃様だけが知る秘密だった。 みすぼらしい物置小屋はパラダイスに。だけど、ある晩、王太子殿下のフィルがダーナを心配になってやって来て……

処理中です...