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第一章 巡礼の街
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「な、なん…で」
昨夜は外套のことなど気にもせず、彼の看病をしたし、確かに何度かイルジャは目を開けていた。朦朧としていて、覚えていないと思っていたのに。
アルブは動揺を隠せず、たじろいだ。
「お、覚えて…」
そんなアルブの様子に、イルジャはにたりと笑った。
「自分の名前は思い出せないが、何となくここに来てからの記憶はある。この手に触れた感触も。闇の中で一筋の光のように白く輝いていた。一瞬、死後の世界にいる天使だと思ったほどだ」
「て、てててて、天使?」
聞き慣れない言葉に、アルブは素頓狂な声を出した。
「アルブ…ああ、恩人に呼び捨ては申し訳ないな。アルブ殿」
「ど、殿?! あの、よ、呼び捨てでいいです」
「そうか。では、アルブ、亡くなった師匠の言いつけを破ることになって悪いが、俺の頼みをきいてくれないか」
甘くとろりとした声音で囁かれ、縋るような視線を向けられて、アルブはどうすればいいかわからなくなった。
「ここには俺と君だけだ。俺は君ときちんと目を合わせて話がしたい。互いの顔を見て、向き合いたい。自分の名前も思い出せない状況で、不安なんだ」
そんなことを言われては、アルブに断る理由が見つからない。
でも、もし自分の姿を見て、イルジャの顔に嫌悪の表情が浮かんだらと思うと、それも恐ろしい。
駄目だとも、いいとも言えずにアルブは困り果てていた。
しかし、はっきり拒絶もなく黙ったままの、そんなアルブの態度を、イルジャは承諾と取ったらしく、さっと手を伸ばして外套を取り払ってしまった。
「あ…」
慌てて外套を掴もうとした手を、イルジャが捉える。
「だ、だめだ…み、見ないで」
顔を伏せてアルブは目を閉じた。
「美しい」
震えるアルブの耳に、イルジャのその言葉が届いた。
「え…?」
聞こえた言葉に驚き、目を見開いたアルブの顎を、イルジャのもう一方の手が捉え、顔を上向かせる。
「夢じゃなかった。いや、これは夢か。俺はまだ夢を見ているのか」
灰色のアルブの目に、目をキラキラさせてこちらを見つめるイルジャの表情が写る。
「白磁の肌に、潤んだ大きな灰色の瞳。白銀の髪。仄かに赤く色づく唇。夢ではなかった。美しい」
「あの…イ、イルジャ様?」
不可解な言葉が彼から聞こえて、アルブは戸惑う。
「『様』は不要だ。俺のことも呼び捨てでいい」
「で、でも…」
イルジャは明らかに高貴な生まれだ。捨て子のアルブがおいそれと言葉を交わしていい筈はない。
「恩人に敬語など使わせるわけにはいかない」
そういって、イルジャは顎を捉えていた手の指を動かし、アルブの頬を撫でた。
「滑らかな肌だ」
さっきより顔を近づけ、穴が空くかと思うほどにじっと見つめられ、アルブは逃げ出したくなる。
ここまで誰かにじっと見られたことなどない。
「……あの、イルジャど…イルジャ、も、もう…からかわないでください。ぼ、僕が美しいなんてこと…」
右手は掴まれたままなので、左手で、自分の顎を捉えている彼の手を押しのけようとする。
「からかってなどいない。記憶がなくても、俺には目がある。美しいものを見て、感動し、そう言える心と口がある」
「こ、こんな僕など、美しいわけがないです。あなたの目が、おかしいんです」
「俺の目がおかしいと君が思うなら、それでもいい。だが、君を美しいと思う俺の気持ちは本物だ」
熱い視線がアルブに注がれる。確かにアルブの顔を見て美人だと言う者はいたが、それは物珍しいからであって、からかわれているとしか思えなかった。
「人の好みなど、それぞれだ。他の誰かが君のことを醜いと言ったとして、それはその者の意見だ。気にすることはない。俺はアルブの顔が好きだ」
「だ、だから…そんなこと…」
どう言ってもイルジャは意見を曲げないつもりだ。
「アルブ、以前に俺は君と会ったことがあるか?」
イルジャがふと真顔になり尋ねた。
「え…あ、あの…」
「いや、俺の名前や国の名を言っていたのだから、少しは知っているのだろうが…」
失った記憶を引き出すように、イルジャは目を細めた。
(もしかして、もう思い出した? でも、あんな一瞬のこと、覚えている?)
アルブにとっては忘れ難い出来事でも、彼にとってそうかはわからない。
「あ、あの、ごめんなさい。名前とどこの国の人か聞いただけで、直接自己紹介したわけではないんです。それに、あの時も僕はこれを目深に被っていたから、ちゃんと顔を見たかどうか…」
「どうやって俺と君は会ったのか、教えてくれるか?」
そう尋ねられ、アルブは一年前のことを話した。イルジャたち一行の前に転がり出たアルブを、彼が庇ってくれたこと。そして腰が抜けたのを、助け起こしてくれたこと。もしかしたら、助け起こしてくれた時に顔が見えたかも知れないということも伝えた。
「そうか…君の言うように、もしかしたらその時顔を見たのか…その時一緒にいたのが、エルマンという者か?」
最初アルブを叱責した男性のことも伝えた。それについて、イルジャは問い返してきた。
「そ、そう。でも、どんな関係かは知らない。多分、イルジャの方が偉い人かも…」
「エルマン…」
「何か、思い出した?」
「いや、聞き覚えがある気もするが、何も思い出せない。それに、その時のことも…でも、君の顔は…」
その時、ぐう~っとお腹が鳴る音がした。
昨夜は外套のことなど気にもせず、彼の看病をしたし、確かに何度かイルジャは目を開けていた。朦朧としていて、覚えていないと思っていたのに。
アルブは動揺を隠せず、たじろいだ。
「お、覚えて…」
そんなアルブの様子に、イルジャはにたりと笑った。
「自分の名前は思い出せないが、何となくここに来てからの記憶はある。この手に触れた感触も。闇の中で一筋の光のように白く輝いていた。一瞬、死後の世界にいる天使だと思ったほどだ」
「て、てててて、天使?」
聞き慣れない言葉に、アルブは素頓狂な声を出した。
「アルブ…ああ、恩人に呼び捨ては申し訳ないな。アルブ殿」
「ど、殿?! あの、よ、呼び捨てでいいです」
「そうか。では、アルブ、亡くなった師匠の言いつけを破ることになって悪いが、俺の頼みをきいてくれないか」
甘くとろりとした声音で囁かれ、縋るような視線を向けられて、アルブはどうすればいいかわからなくなった。
「ここには俺と君だけだ。俺は君ときちんと目を合わせて話がしたい。互いの顔を見て、向き合いたい。自分の名前も思い出せない状況で、不安なんだ」
そんなことを言われては、アルブに断る理由が見つからない。
でも、もし自分の姿を見て、イルジャの顔に嫌悪の表情が浮かんだらと思うと、それも恐ろしい。
駄目だとも、いいとも言えずにアルブは困り果てていた。
しかし、はっきり拒絶もなく黙ったままの、そんなアルブの態度を、イルジャは承諾と取ったらしく、さっと手を伸ばして外套を取り払ってしまった。
「あ…」
慌てて外套を掴もうとした手を、イルジャが捉える。
「だ、だめだ…み、見ないで」
顔を伏せてアルブは目を閉じた。
「美しい」
震えるアルブの耳に、イルジャのその言葉が届いた。
「え…?」
聞こえた言葉に驚き、目を見開いたアルブの顎を、イルジャのもう一方の手が捉え、顔を上向かせる。
「夢じゃなかった。いや、これは夢か。俺はまだ夢を見ているのか」
灰色のアルブの目に、目をキラキラさせてこちらを見つめるイルジャの表情が写る。
「白磁の肌に、潤んだ大きな灰色の瞳。白銀の髪。仄かに赤く色づく唇。夢ではなかった。美しい」
「あの…イ、イルジャ様?」
不可解な言葉が彼から聞こえて、アルブは戸惑う。
「『様』は不要だ。俺のことも呼び捨てでいい」
「で、でも…」
イルジャは明らかに高貴な生まれだ。捨て子のアルブがおいそれと言葉を交わしていい筈はない。
「恩人に敬語など使わせるわけにはいかない」
そういって、イルジャは顎を捉えていた手の指を動かし、アルブの頬を撫でた。
「滑らかな肌だ」
さっきより顔を近づけ、穴が空くかと思うほどにじっと見つめられ、アルブは逃げ出したくなる。
ここまで誰かにじっと見られたことなどない。
「……あの、イルジャど…イルジャ、も、もう…からかわないでください。ぼ、僕が美しいなんてこと…」
右手は掴まれたままなので、左手で、自分の顎を捉えている彼の手を押しのけようとする。
「からかってなどいない。記憶がなくても、俺には目がある。美しいものを見て、感動し、そう言える心と口がある」
「こ、こんな僕など、美しいわけがないです。あなたの目が、おかしいんです」
「俺の目がおかしいと君が思うなら、それでもいい。だが、君を美しいと思う俺の気持ちは本物だ」
熱い視線がアルブに注がれる。確かにアルブの顔を見て美人だと言う者はいたが、それは物珍しいからであって、からかわれているとしか思えなかった。
「人の好みなど、それぞれだ。他の誰かが君のことを醜いと言ったとして、それはその者の意見だ。気にすることはない。俺はアルブの顔が好きだ」
「だ、だから…そんなこと…」
どう言ってもイルジャは意見を曲げないつもりだ。
「アルブ、以前に俺は君と会ったことがあるか?」
イルジャがふと真顔になり尋ねた。
「え…あ、あの…」
「いや、俺の名前や国の名を言っていたのだから、少しは知っているのだろうが…」
失った記憶を引き出すように、イルジャは目を細めた。
(もしかして、もう思い出した? でも、あんな一瞬のこと、覚えている?)
アルブにとっては忘れ難い出来事でも、彼にとってそうかはわからない。
「あ、あの、ごめんなさい。名前とどこの国の人か聞いただけで、直接自己紹介したわけではないんです。それに、あの時も僕はこれを目深に被っていたから、ちゃんと顔を見たかどうか…」
「どうやって俺と君は会ったのか、教えてくれるか?」
そう尋ねられ、アルブは一年前のことを話した。イルジャたち一行の前に転がり出たアルブを、彼が庇ってくれたこと。そして腰が抜けたのを、助け起こしてくれたこと。もしかしたら、助け起こしてくれた時に顔が見えたかも知れないということも伝えた。
「そうか…君の言うように、もしかしたらその時顔を見たのか…その時一緒にいたのが、エルマンという者か?」
最初アルブを叱責した男性のことも伝えた。それについて、イルジャは問い返してきた。
「そ、そう。でも、どんな関係かは知らない。多分、イルジャの方が偉い人かも…」
「エルマン…」
「何か、思い出した?」
「いや、聞き覚えがある気もするが、何も思い出せない。それに、その時のことも…でも、君の顔は…」
その時、ぐう~っとお腹が鳴る音がした。
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