令嬢娼婦と仮面貴族

七夜かなた

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1巻

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   プロローグ


 夜でも鎧戸よろいどがきっちりと閉められた明かりのない部屋に、私は蝋燭ろうそく一本の燭台しょくだいを掲げて入っていった。
 暗闇に目が慣れるまで扉の側に立ち尽くし、ようやくぼんやりと部屋の中にある家具の輪郭が浮かんでくる。

「こちらへ来い」

 部屋の中央から低い男の声が聞こえて振り向くと、寝台に腰掛けている人物の影が見えた。
 燭台しょくだいで足元を照らしながらそちらへ歩いて行く。

「そこで止まれ」

 再び男が言い、ぴたりと立ち止まる。

「そこに燭台しょくだいを置け」

 男が顔を向けた方向に小さな丸テーブルが見え、指示通り、手に持っていた燭台しょくだいを置いた。

「名は?」
「……クロエ」 

 名を告げるとしばらく沈黙が流れた。

「こちらへ来て、着ているものをすべて脱げ」

 がっしりとした男のシルエットが見えた。男は腕を私に向けて差しだし手招きする。
 蝋燭ろうそくの心許ない灯りは、男の濃く長い髪が肩に無造作にかかり、白い部屋着の合わせがはだけている様子をぼんやりと照らし出す。そこからいくつもの傷が見える。異質なのは男の風貌。顔の上半分が覆面に覆われ、高い鼻梁びりょうと意思の強そうな口元だけが見えた。
 一瞬息を吸い込みたじろいだのを男は敏感に察した。

「クロエ、どうした? 何を怖じ気づく。そのために来たのだろう」

 男の声からは苛立ちがうかがえる。

「わかっているわ……せっかちなお客さんね」

 少し低音のかすれぎみの声で答える。思ったほど震えていなくてほっとした。

「無駄な会話や前戯を期待するなら他を当たれ。お前は貰った金に見合うことだけしていればいい」

 冷たい言葉が浴びせられる。優しく迎えられるとは思っていなかったが、心がくじけそうになる。

「それとも私の風貌が恐ろしいか?」

 少し弱々しい声音になる。威勢よく振る舞っているが、拒絶されることを恐れている感じだ。
 彼の背中の向こうにある寝台に目をやる。

「話は……聞いていました」
「金はすでに支払った。相場より遥かに多いはずだ。払った分はきちんと約束を果たしてもらおう」
「わかっています。精一杯ご奉仕させていただきます」

 私は意を決して着ていた衣服から下着まですべてを脱いだ。
 首の辺りで一つに結んでいた茶色の髪も解く。
 ふわりとねこっ毛の柔らかい髪が肩を滑り、胸を覆うように垂れた。
 戸惑いながらも、目の前の寝台に腰掛けてこちらを見つめる覆面の男を見返した。
 彼の瞳に私の体はどう見えているのだろう。
 二十歳になり、少しは女性としての魅力が備わっているだろうか。
 ありがたいことに、腰まわりは昔より細くなったが、胸の方は豊かなままだ。
 多くの男性が、女性のその部分の大きさと柔らかさに価値を置いていることは知っている。
 この人も、この体を見て少しは喜んでくれているだろうか。
 彼は、受け入れてくれるだろうか。
 ここで躊躇ためらってはこれまでの苦労が水の泡だ。ここへたどり着くために色々なことをしてきた。
 もう、後には引けない。
 私は今、かつて憧れ、思慕した男の目の前にいて、娼婦として抱かれようとしている。



   第一章 暗闇の中の再会


「もっと近くへ」

 ほとんど真っ暗闇に近い部屋を裸になって男の方へ歩く。差し出した男の手に体が軽く当たると、その両手が迷わず真っ直ぐに豊かな胸を掴んだ。

「あ……」
「ふふ、噂どおりになかなか豊かだ」

 男が私の胸に触れ、その感触に興奮しているのが伝わってきた。
 自分の体であってもここまではっきりと触れたことはない。
 節が硬くなった指が柔らかい乳房に食い込む。
 両手で乳房を力強く揉まれ、引きちぎられそうだと思っていると、男の手が胸を離れて背中に回り、自分に引き寄せる。その瞬間、男の湿り気を帯びた口が片側の乳房に吸い付いてきた。

「あん……」

 熱くざらついた男の舌が乳輪の周りを舐め回し、舌先が中心のつぼみを突いて押し潰す。

「んん……あん」

 ベロベロと何周も乳首の周りを舌が這いずり回り、もう片方も同じように舐め回されると、ぞくぞくとした快感が背中を走り抜けた。

「ひゃっ! ああ……」

 舐め回されているうちに乳首がぴんと立ち上がってきて、そこに歯があてられると、またもや悲鳴に似た声が漏れた。
 こんな感覚は初めてだった。
 自分の体なのに制御できない。こんな快感は知らない。
 どこをどうすれば反応するのか、自分でさえ知らなかった体の反応を男の手と舌が引き出す。
 みんなこんなことをしているのか。誰がやってもこうなるのか。
 このままどこへ導かれていくのだろう。
 まるで海図も持たず、羅針盤もないまま、暗い海に船出するようだ。
 頼れるのは舵を取る彼の手腕のみ。この人だからこそ、すべてを信じて身を委ねることができる。
 本当の意味での初めてをこの人の腕の中で迎えるという喜びを感じ、私は今、未知の領域へ踏み出そうとしている。

「ほんの短時間いじっただけでもう立ったのか。こっちはどうだ?」

 すっと男の手が胸からお腹、おへその脇を通り、足の付け根に伸び、その間にある秘部にあてられた。
 腰が引けそうになるのを何とか堪えた。
 初めてなら、そんな場所に触れられることに戸惑いや恐れを抱くものだ。
 でも、娼婦ならそこに触れられることを躊躇ちゅうちょしてはいられない。

「ああん……はあ」
「毛を剃っているのか……さすがだな」

 男のごつごつとした指が割れ目に沿って進み、第一間接で指を曲げると、膣口にあてられた。くちゅり、と小さく水音がする。
 指の感触と耳から聞こえる卑猥な音が、私の感覚を麻痺させていく。

「もう濡れている」

 文句のようだが、暗闇で響く声に苛立ちは含まれていない。
 一体これはどこから湧いてくるのだろう。初めてのことばかりで、男が与える快感を拾うだけで精いっぱいだ。
 これくらいで翻弄されているようでは、相手に不審に思われてしまう。

「あああ……」
「思ったより狭いな……経験が少ないのか……まさか初めてではないだろう」

 指を差し入れた先が意外に狭くて指一本がやっとの状態に、男がいぶかしむ。
 不安が的中し、私のつたない反応と一度も男性の陰茎を受け入れたことがないそこの狭さに、男から疑問が出た。

「ちが……処女……違うか、あああ」

 否定しようとして言葉にならず、身もだえる。
 三本目の指が入り、ぐるぐると中を掻き回されると、時々気持ちいいところが擦れて嬌声きょうせいが勝手に出てくる。
 三本の指が出たり入ったりを繰り返すと、ますます水音が大きくなってくる。

「ああん……そんなに激しくしちゃ……んんんっ」

 ずぼすぼと下の指が抜き差しされ、両胸も何度も交互に舐めて吸われる。親指で花芽かがを軽く押されるとぶるりと体が震えた。

「なんだ。もう軽くイったのか……商売女にしては早いな」
「……お客さんが……上手……」

 舌先でぺろりと勃起した乳首を舐めて男が言うので、経験がないことを誤魔化すためにそう答える。これがイくというものなのか。頭の奥が痺れてうまく考えがまとまらない。
 疑問を抱かせてはいけないのに、うまい言葉が見つからない。

「まあいい……」

 男が商売女を選ぶ条件として提示したのは、口が堅くて彼のどんな要求にも拒まず応えること。健康なこと。そして彼の風貌にひるまないこと。

「そろそろ、いいな」

 男が指を引き抜き、自分の穿いていた部屋着の下を下ろすと、反り立った彼のものが飛び出した。蝋燭ろうそくだけの灯りの中、想像以上に大きい男の卑猥なそれを目にして、腰が引けそうになる。
 腰を持って浮かせると、寝台の上に寝かされて足を大きく広げられた。

「久し振りだから、手加減できないぞ」

 乱暴そうに言う。本当に乱暴なことをするなら黙ってすればいいのに、わざわざ断りを入れるところに彼の育ちの良さが窺える。
 濡れた膣口に先端が当てられるだけでびくりとなる。男は先端で敏感なところを軽く擦ってから、一気に突き刺した。
 肌があたり、根元まで男のものを受け入れたとわかった。

「くっ……きついな」
「んん……」

 自分が狭いのか彼が大きいのか、それでも彼の形に合わせて道が開かれて、さらに押し入ってくる。
 何という圧迫感。私の中いっぱいに埋まった男の陰茎の熱さに、中が溶けそうだ。
 他の人と比べることはできないが、明らかに男のそれは大きい。

「きついが……なかなか気持ちがいい。何人相手にしたか知らないが、名器だという売りは本当らしいな」

 彼の声が耳に響く。
 不審に思いながらも、私が娼婦であるという言葉をまだ信じてくれているようだ。
 込み上げてくる涙を、私は必死で堪えた。
 涙を見せては彼に怪しまれてしまう。
 思いもしなかった彼との交わり。
 欲しくてたまらなかった、彼との時間。
 本当の自分のままでは与えられることのないもの。
 男は分身が全部入りきると同時に腰を動かし出す。初めはゆっくりと抜き差しし、次第にスピードを速めていく。

「ああ……あん……はあ……イ、イく……」

 ぎゅっとシーツを掴み、男の腰に絡めた脚に力が入る。溢れ出る液が摩擦で擦れて軽く泡立つ。男が最奥まで突き上げた瞬間、絶頂が訪れ、びくびくと痙攣けいれんする。ぎゅうと絞り上げるように膣を締め付けると、熱いものが奥に流れ込むのがわかった。そのまま最後の一滴まで絞り出すように何度も締め付けた。

「ふう……」

 男がずるりと自身を引き抜き、私を上から見下ろす。
 目まで覆い尽くした仮面の下で、何を思っているのだろう。

「悪くなかった。この部屋は朝まで好きに使え。また明日、同じ時間に来なさい」

 下ろしたズボンを上げて、男は部屋から出ていった。
 今さっきの行為を思わせる残り香と、自分の中からどくどくと溢れる男の精が、たった今行ったことが夢でなかったと証明している。
 そこには愛などひとかけらもない。ただ、性欲のはけ口として扱われただけ。

「アレスティス……」

 すでにここにはいない、今さっき自分を腕に抱いた男の名を呼ぶ。
 あの人に……かつて憧れたあの人に抱かれた。たとえ彼に出会った少女ではなく、娼婦としてのメリルリースだったとしても。
 彼は仮面を被っていたが、ある意味では私も仮面を被っているようなものだ。
 娼婦のクロエという偽りの身分で、彼の傍に来た。
 かつての快活さはどこにもなく、どこかよそよそしい彼の態度。彼が変わったのは、死と隣り合わせの過酷な戦いとそこで負った後遺症。そして愛する者の死。
 体を拭いて脱いだ服を着直す。そして言われたとおり、その部屋で一夜を明かした。
 娼婦に扮したのは自分だが、本当にことを済ませたら彼はさっさと立ち去ってしまった。体は綺麗になったが、その中心はまだ彼を受け入れた感触が残っている。初めて受け入れた男の性器の生々しさに驚愕する。やはり本の中や人から聞いて得た知識より、経験が一番勉強になる。
 ほんの少し前まで自分は処女だった。ここに娼婦として来るため、疑われないように性具を使って処女喪失した。その他のことは人から教わった。
 名器だと彼は言ったが、彼がそう思ってくれたなら、嘘で塗りかためたこの状況で、唯一本当のことがあったことになる。

「あ、そうだ」

 思い出して着ていたドレスのポケットからごそごそと小さな布袋を取り出した。
 中から出てきたのは避妊と性病予防のための丸薬で、事後一時間以内に呑むように言われていた。長年の研究成果により、ようやく五十年ほど前に完成したこの薬は抜群の効果を発揮する。特に副作用はないが、呑むとものすごい睡魔に襲われる。
 男が避妊する方法もあるが、彼はしていなかった。するかしないかは客に選ぶ権利がある。
 暗くてよく見えなかったし、彼は全裸にはならなかったのでわからなかったが、体にはいくつもの傷があった。大きな魔獣の爪痕が胸の中心に斜めに走っていた。最後まで外さなかった仮面も、彼が負った怪我のせいだとわかっているので、少しも不自然に思わなかった。


 彼を最後に見たのは今から五年前。当時私は十五歳。彼は二十一歳だった。その五年の歳月が私たちの姿を変化させた。
 快活で潑剌はつらつとしていた彼は消え失せ、代わりに現れたのは冷徹で人を寄せ付けない空気を漂わせた孤独な人物だった。

「私もずいぶん変わってしまったものね」

 ばれないように細工したせいでもあるが、彼が今の私を見て、私が誰か気付くことはないだろう。
 思春期の私は今より背も低く肉付きも良かった。彼が魔獣討伐隊の一員になり、大々的な壮行式で見送ったのはつい昨日のことのようでもあり、遥か昔のことのようにも思える。
 討伐隊の一員として出征することが決まり、彼は私の従姉いとこのイアナと挙式を挙げた。華やかで誰が見ても美しいイアナは多くの男性たちから信奉を集めていたが、彼もその一人だと知って私の初恋は終わった。
 金色の巻き毛にアイスブルーの瞳。誰もが彼女を美の女神と崇め、彼女もそんな男性たちからの賛辞を喜んで受け入れていた。
 アレスティスは当時から同年代の若者たちの中でも際立って優秀で、黒髪に濃い緑の瞳の美しい顔立ちは女性に人気があった。
 兄の友人でなければ、私は彼に見向きもされなかっただろう。
 互いに美男美女で侯爵家次男のアレスティスと伯爵家長女のイアナの結婚は、家格的にも釣り合いの取れた理想の結婚だと言われた。
 イアナと彼の結婚式では、親戚だからという理由で無理やり花嫁付添人にされた。すらりとしたイアナの友人と姉たちに交じり、くすんだ茶色い髪とハシバミ色の瞳といった華やかな色味を持たない私は浮きまくっていた。
 それでも慣例で花嫁は花婿付添人と、花婿は花嫁付添人と踊らなければならなかった。花嫁と踊る前に、嫌そうに私と踊る花婿付添人の表情に私は傷付き、それがイアナの私に対する嫌がらせだとわかっていたのでなおさら辛かった。
 一方花婿のアレスティスは私と踊る時に嫌な顔一つせず、すっかり落ち込んでいた私に「今日はありがとう。君も素敵な旦那さまがみつかるといいね」と言った。
 私はあなたの花嫁になりたかった。心の中でそう叫んだ。
 彼の目には私が妹にしか見えていないのはわかっている。兄しかいない彼は私の兄、ルードヴィヒの学友で、学校が休みになるとよく私の家に遊びに来ていた。
 イアナと従姉妹いとことはいえ、大して裕福でもない子爵家の末っ子で、見目もよろしくない私にどんな縁談が舞い込むのかわからなかったが、多分アレスティスとイアナのような恋愛結婚はできないだろう。
 背も高く立派な貴公子のアレスティスに、私は初めて紹介された時から心を奪われていた。決して手の届かない、光に恋慕する虫のように彼に惹かれた。
 彼がイアナとの短い蜜月を終えて出征するのを物陰から見送ったのをよく覚えている。
 堂々と妻として日向で彼を見送るイアナが羨ましかった。彼に抱き締められて大衆の面前で彼からのキスを受けるイアナ。私は心の中で彼にどんな状態でもいい、生きて帰ってきて、と祈った。
 私の祈り……呪いかもしれない思いが通じ、彼らは見事魔獣の大氾濫を平定し帰還した。
 多くの戦士の命が失われ、彼の上官たちもたくさん亡くなった一方で、彼は数々の功績を上げ、帰還する時には将軍にまで登り詰めていた。
 しかし最後の一戦で、彼は魔獣の牙と爪でかなりの痛手を負い、魔獣の吐く毒の吐息により目に一生残る後遺症を受けた。
 聞くところによると、彼の目はわずかな光を受けても激痛が走り、暗闇でしか身に着けた仮面を取ることができないらしい。
 満身創痍まんしんそういで帰還した彼を、愛する妻イアナが出迎えることはなかった。彼女は彼が出征した後、事故で命を落としたのだ。彼が帰還する直前のことで、前線にいる彼にそのことは伝わっていなかった。
 そして彼は将軍の職を辞し、領地の邸に引きこもってしまった。


 扉を叩く音で目が覚めて、一瞬自分がどこにいるのかわからなかった。
 鎧戸よろいどが閉められた部屋は変わらず暗く、今が朝なのか夜なのかさえもわからない。
 いつの間にか眠りにつき、彼とのことを夢見ていたようだ。
 私が返事をすると、夕べ私をこの部屋まで案内してくれた年かさのメイドと執事の男性が入ってきた。
 メイドはトレイを提げており、そこにはパンと湯気が立ったスープが載っていた。

「裏口に馬車を用意しています。食べ終わったら帰りなさい。若様はあなたをお気に召したようだ。また今夜同じ時間に馬車を寄越します」

 彼がまた今晩も自分を呼んでくれたことに喜ぶ。夕べ、ここを出ていく際に言っていたことは本当だったようだ。
 メイドはトレイを側のテーブルに置くとさっと立ち去る。

「メリルリース様……本当にこれでよろしいのですか」

 彼女が出ていき、執事と二人になると彼の口調が変わった。彼は低姿勢になって声をかけてきた。

「アーチー…」

 彼はここでクロエこと私、メリルリース・サリヴァンの素性を知る唯一の人物だった。アーチーと私の実家に仕える執事のドリスが昔馴染みで、今回私がここに来ることになったのも、彼がアレスティスのことについてドリスに相談を持ちかけたのが発端だった。

「もう後戻りはできないわ。このまま彼が私に飽きるまで見守っていて。あなたに共犯のようなことをさせてごめんなさい」
「私は別に……若様が私ども以外に興味を持たれるなら……しかし、お嬢様がそこまで犠牲を払う必要はないのではありませんか。あれほど美しいお声だったのに」
「それは、そうね。私の唯一誇れるところだったもの」

 すべてにおいてイアナに劣っていた……でも、イアナだけでなく他のどの令嬢にも負けない唯一の私の美点が、歌声だった。教会の聖歌隊でソロを任され、式典でももてはやされていた私の歌声。
 それゆえに素性がばれてしまうその声を私は薬品で潰した。喉を焼き尽くすような痛みにひと晩苦しみ、今の掠れた声になった。

「お嬢様の美徳はそれだけではありません。心根のお優しさと聡明さ、他のどの令嬢にもひけをとりません」
「ありがとう。でもそれは、多くの男性が恋愛相手に求めるものではないわ」

 知識を得ても小賢しいと言われ、優しさも夜会では披露することができない。反対に、イアナは私が持っていないものをすべて持っていた。

「それに、私はもう祝福の歌を歌う気持ちにはなれない。大勢の幸せより、たった一人の人を幸せにできればそれでいいの」
「お嬢様……それではお嬢様の幸せはどこにあるのですか」
「あの人が立ち直ってくれたら、それが私の幸せ……」

 彼がもう一度貴族社会に戻ったら、私はもう必要なくなる。その時にはいさぎよく彼の前から消えて、どこか修道院に入るつもりだった。しかしそのことはまだ誰にも言っていない。周りから引き留められるだけだとわかっているから。

「ところで彼の目は治るのよね?」
「はい。今、帝国の魔導師と治療術士が総出で、討伐した魔獣の遺体から毒素の中和剤を精製しているところだと。毒素さえ中和できればあとは治療術で、完全とは言えないまでも快復する可能性はあると伺っています」
「それを聞いて安心したわ」
「ただ、開発にはまだ少しかかるそうです」

 そのことは彼には伝えられていない。薬はまだ完成していないし、視力もどこまで戻るか不透明な状況で期待させられないからだ。私はそれまでの間、彼に少しでも寄り添うつもりだった。

「アーチーがドリスに相談してくれていなければ、私はこうして彼に近づくこともできなかった。どんな形でも、彼が明日も生きていようと思ってくれたら、それでいいの」

 アーチーががくりとその場に膝を折り、額を床に擦り付けた。

「アーチー! どうしたの?」
「お嬢様……お嬢様がここに通う間、私ができることは何でもいたします。どうか若様のこと、よろしくお願いいたします」
「やだ、アーチーやめて、私がやりたくてやっていることだから……あなたは彼に気付かれないよう、協力してくれればいいのよ」
「では、せめて生活の面倒はお任せください。必要な物は何でもおっしゃってください」
「住むところを手配してくれただけで十分です。お願いですから私に頭を下げるようなことはしないでください。あの、そろそろ帰ります。クロエが心配していると思いますので」

 懇願するとアーチーは渋々ながら立ち上がった。
 それから私は彼が手配した馬車に乗り、今までいたギレンギース侯爵邸から村の外れにある家へと帰った。


   ★ ☆ ★


 私、アレスティス・ギレンギースが眠りから覚めた時、すでに魔獣討伐は終焉を迎えていた。
 討伐の連合軍はランギルスの森の深淵にまで突き進み、魔獣が生まれる源を破壊するまであと少しというところまで来ていた。
 長く続く討伐の遠征で、多くの仲間が傷つき倒れ、命を失った。
 当初、討伐隊の一個中隊の隊長だった自分が将軍にまで昇進したのは、功績を上げたこともあるが、上にいた者が次々と倒れ、知らぬ間にその地位まで押し上げられていたからだ。
 我が国の総大将であるビッテルバーク辺境伯も、後方に身を置いて報告を待つことが多かったが、その時は最終局面に差し掛かっているという確信の元に、ともに最前線に進軍していた。
 その時、それは起こった。
 ガビラという蛇型の魔物を部隊が追い詰めた。追い詰められたガビラは最後の力を振り絞り、辺境伯に襲い掛かった。それを庇おうとして前に出た自分に、ガビラの爪と吐息が襲った。
 爪が身を切り裂き、吐息が目に浴びせられた。
 自分は死ぬのだと思い、覚悟を決めた。
 意識が戻った時には、それから二か月が経っていた。
 討伐は、自分が負傷して意識を失っているうちに終了し、部隊はすでに解散したらしい。
 討伐隊が駐屯ちゅうとんしていた村から最も近い都市、フラフェリアの軍専用病院の病室で、そのことを聞いた。
 目はガーゼと包帯でぐるぐる巻きにされて何も見えない。
 腹部の傷は大きな痕が残ったものの、すでにふさがっていた。


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