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第二章 回想編

第六十八話 導き手

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 事件が起きた直後、私たちは天のメンバーに囲まれ、藤堂さんの車へと急いだ。茉凜は、私にしがみつくようにして泣きじゃくっていた。その体が震えているのが、私の腕を通して伝わってきた。彼女の手は、まるで沈んでしまいそうな私を掴むように、力なく私に伸ばされていた。何度も、私の名前を呼ぶ声が震えていて、それが痛ましくて、でも私はどうすることもできず、ただ彼女を抱きしめるしかなかった。

「俺はここにいる。もう大丈夫だ」

 そう言うことで、少しでも彼女の不安が和らぐなら……そう思ったけれど、言葉は空虚に響いている気がしてならなかった。車の中で彼女の泣き声が響くたびに、私の胸に刺さるようだった。

 茉凜の髪が涙で濡れ、私の肩に寄りかかっているその温もりが、どこかか細く感じられた。まるで消えてしまいそうな存在のように感じて、私は不安に駆られてますます彼女をしっかりと抱きしめた。

        ◇       ◇

 部屋のベッドに横たわる彼女の姿は、まるで壊れた人形のようだった。虚ろな目で天井を見つめているの彼女、私は胸が押しつぶされそうな気持ちになった。一体何が彼女をここまで追い詰めたのだろうか。

 茉凜の顔は、いつも私に向けられていたあの太陽のような笑顔が完全に消え去り、ただ涙の痕が残るだけだった。その顔を見るたび、私の心の中には言葉にできない罪悪感と悲しみが渦巻いていた。私は彼女に何もできなかった。ただ、無力なまま、彼女の苦しみを見ているだけ。今の自分がどれほど無力で情けない存在か、痛感するしかなかった。

 彼女が感じている痛みや恐怖に寄り添ってあげたいと心から思うのに、その方法がわからない。それが悔しくて、胸が痛む。

        ◇         ◇

 新城医師を筆頭とする医療チームが駆けつけ、診察が始まった。私は部屋の外に出て、天のチームリーダーである藤堂さんと話をした。心の中には茉凜の姿が焼き付いており、とても心配だった。けれど、まずは冷静に状況を把握しなければならなかった。

「申し訳ない、弓鶴くん。今回の件は完全に我々のミスだ。周囲の対人監視にばかり気を取られて、状況対応が疎かになっていた」

 藤堂さんは深い後悔の色を浮かべていたが、私は首を振った。

「いえ、あれは予測できるようなものではありません。それに、もしこれが強硬派の仕業だとしたら、連中はもはや手段を選ばないという段階に入っていると思います」

 私の言葉には、あの不自然な事故のタイミングに対する深い疑念が込められていた。建設現場の足場が崩れ、鉄骨が降ってくるなど、あまりにも計算されたような出来事だった。偶然とは思えず、何者かが意図的に仕組んだものだとしか考えられなかったのだ。

「そうだな……これまでの『深淵の殺しの流儀』から完全に逸脱している。連中も焦ってきているのだろう。どんな手段も厭わないという段階に入っているのは明らかだ」

 事態は予想以上に深刻で、私たちはその深みに引き込まれている感覚があった。

「連中は刺客を送り続けることで、俺に力を使わせて自滅に追い込むつもりだったのでしょうが、その計画も破綻しつつある。解呪という最も怖れている事態をいよいよ危機感を持って捉えている証左でしょう。だから、今回のような強行手段に出た。周囲への被害などおかまいなしに……」

 この襲撃は単なる偶然ではなく、連中が私たちを焦らせ、揺さぶりを掛けている証拠だ。藤堂さんはその意図を読み取っているのか、頷き決意の光を私に見せた。

「そうだな。今後の警備体制も見直しが必要だ。それと君たちの行動も最低限に制限せざるを得ないだろう」

「はい……仕方がありません」

 私は心に広がる寂しさを抑えきれなかった。茉凜と一緒に街中を歩くことができる日常が、遠くに感じられてならなかった。

        ◇        ◇       

 三十分ほどして、新城医師が部屋の外に出てきて、私たちに入るように促した。部屋に足を踏み入れると、茉凜は薬を投与されたのか、静かに目を閉じて眠っていた。しかし、その眠りは穏やかさとはほど遠く、憔悴しきった顔には深い疲れと苦悩が色濃く浮かんでいた。点滴筒の中でポタリポタリと落ちる液体が、私の視線を引きつけ、そのたびに心が締め付けられる思いがした。

 部屋には重い空気が立ち込めていて、私は口を開くことができなかった。すると新城医師から説明が始まった。

「そう心配することはない、加茂野君は大丈夫だ」

「本当ですか? 本当に大丈夫なんですか?」

私は茉凜の顔に目を落としたまま、答えていた。ただ拳に力を込めながら。

「ああ、血圧が極端に下がっていたくらいで問題はない。ただ、精神的なショックが大きすぎたようだ。事情はこちらに来る前に聞いてはいたが、具体的にどんな状況だったんだ? よければ詳しく聞かせてくれ」

 私はその時の状況をつぶさに新城医師に伝えた。すると彼は、顎に手を当てて「うーん」と深く考え込んで言った。

 新城医師が深く考え込みながら言った言葉が、部屋の静寂を揺るがした。

「それは……理解に苦しむな。どう考えても説明がつかん」

 私は眉を寄せ、彼に問いかけた。

「どういう意味ですか?」

 彼はゆっくりと私に向き直り、冷静な声で答えた。

「加茂野君は、事態が発生する前に異常を訴えたんだろう?」

「はい、そうです」

「そして、『つぶされちゃった』と言った、と」

 茉凜のその痛々しい声が耳に残っていて、私の胸は締め付けられた。

「はい……」

「だが、実際には君は潰されていない。じゃあ彼女が見ていたものとは何だ?何も起きていないはずなのに、どうにも辻褄が合わんだろう?」

 私は不安を抑えながら尋ねた。

「それって……幻覚ではないでしょうか?」

 彼は疲れたように両手を広げ、皮肉っぽく笑った。

「俺は精神科の専門家じゃない。ただ、事実だけが重要だ。加茂野君の異常のおかげで君は立ち止まり、その直後に鉄骨が落ちてきた。これが真実だ」

 私はその瞬間を冷静に振り返っていた。確かに、茉凜の異変がなければ私は進み続け、あの鉄骨に押し潰されていたはずだ。彼女が言った「つぶされちゃった」という言葉が、今では現実の脅威に感じられ、心が凍りついた。

 そこで藤堂さんが静かに口を開いた。

「私はその時車を回していて、直接は見ていませんでしたが、メンバーからの報告ではその通りでした。監視カメラの映像でも確認済みです」

 彼の証言は、私が思い描いていた仮説を固める材料となった。しかし、その答えを口にするのは、なんだか恐ろしく、声が震えた。

「……茉凜はこれから起こることを『見ていた』。つまり、そういうことですか?」

 新城医師はため息をつき、憮然とした表情で答えた。

「ああ、予知とでも言うべきかもしれん。だが正直、オカルトじみていて馬鹿馬鹿しい。くだらんことだ」

 吐き捨てるように言いながらも、彼は話を続けた。

「俺はこういう話が大嫌いだ。だが、弓鶴くんの件でも同じだが、この『深淵』という力には、未知の領域が多すぎる。俺の知識じゃ到底理解できんことばかりだ。腹立たしいが、これが現実だ」

 私は俯き、茉凜が示してきた数々の特異性について思考を巡らせた。彼女は私にとっての命綱のようなものだ。黒鶴の力が暴走しそうになる時、彼女は必ずそれを安全に制御する。それだけでなく、彼女は血族でもないのに私たちの精神感応に応じられ、さらには場裏をも認識できる。そして、絶体絶命の危機に陥った際には、まるで奇跡のように何かが彼女を守る――正体不明の異常な回避能力。

 その時、藤堂さんが私の考えをさらに補強するように言葉を続けた。

「彼女はこれまで我々と共に、数々の修羅場を潜ってきました。その特異性は私たちが何度も確認している通りです。死の淵に追い込まれた時、彼女は信じられないほどの力を発揮します。ただ、その根拠が説明できないのが問題ですが……」

 藤堂さんの言葉に新城医師も納得したように頷き、重々しい声で言った。

「俺も彼女とはこれまで何度も話をしている。打ち明けてもらった中には、瀕死の重傷を負った落雷事故の話もあった。あの事故の影響で、彼女は死に対して強烈なトラウマを抱えているのは確かだ。死を避けたい、生きたい、という願いがとても強いのだろうな。その執念が、この予知めいた力に繋がっているのかもしれん。だが、どうにも科学的に説明ができん。もはやファンタジーとしか言いようがない」

 新城医師の言葉は、現実離れした話に聞こえていた。でも私たちの体験してきた現象を否定するものではなかった。茉凜の力は、彼女の潜在的な恐怖や願望が形となって現れているのだろうか――それとも、もっと深い理由が隠されているのだろうか?

 いや、違う……そうじゃない。

 その時、私の頭の中で、デルワーズの言葉が再び反響していた。

宿

「座標と時間を指し示す存在……それが導き手……」

 気づかぬうちに、その言葉が口から零れていた。

「どうしたんだ?」

 新城医師が怪訝そうな表情で私に問いかけた。

「いえ、なんでもありません」

 私はすぐに誤魔化すように答えたが、自分の考えに取り憑かれていた。茉凜はただ予知的な力を持っているだけではない――彼女の力にはもっと深い、運命的な意味があるのだと感じていた。

 彼女の落雷事故と私の解呪の失敗が重なっていたのは、単なる偶然とは思えなかった。デルワーズの言葉が示すように、茉凜は【導き手】――解呪の鍵を握る存在であり、私たちの出会いは運命に導かれたものであると感じられた。

 時間というキーワード。それは過去や未来への転移を意味するのかもしれなかった。そうだとすれば、彼女がこれから起こるであろう出来事を垣間見たという力は、その証拠となるだろう。彼女が示す未来の断片が、私たちの運命にどのような影響を与えるのかを考えると、心がざわつくのを感じた。

 けれど、その運命が示すものは私たちにとって何を意味するのか? 彼女を守りたいという思いと、解呪を成し遂げたいという願望が私の中でせめぎ合っていた。

「マウザーグレイルの一部が茉凜の中に……」

 私は独り言のように呟きながら、その重みを実感していた。

 いつも私の前で明るく振る舞う茉凜が、あの事故でどれほどの苦しみを抱えたか、私には知る由もない。だが、その痛みが彼女の力と繋がっているのなら、私の願いを叶えることが、彼女をさらに危険な状況に追い込んでしまうかもしれない。

 新城医師は、落ち込んでいる私に言葉を掛けた。

「彼女が未来の断片を見ていたのか、それとも別の何かを感知していたのか、それは分からん。だが、彼女が君を守ったという事実に疑いの余地はない」

「はい……」

 その言葉に、私は少しだけ救われた気がした。新城医師が深淵の血族でありながら、その能力を否定的に捉えているということは、彼の内面に潜む複雑さを物語っていた。その彼が示してくれた理解と気配りに、私は感謝の気持ちでいっぱいだった。

 今の私にとって最も大切なのは、茉凜が無事でいてくれることだ。それだけでいいはずなのに、私の中にはもっと深い感情が湧き上がっていた。
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