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第二章 回想編

第五十九話 扉を開けて 2

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「此度の巫女と随行の騎士はお前たちか?」

 突然背後から響いたその声は、冬の嵐のように冷たく、私の心臓を一瞬で凍らせた。

 振り返ると、そこには長身で細身の男が立っていた。彼の眼鏡越しに見える鋭い眼光は、まるで私の心を射抜くようだった。

 その放たれる異様な雰囲気に、ウォルターも私も瞬時に身構えた。

「何者だっ!?」

 ウォルターが低く叫び、剣に手をかけた。

 でも、その剣先がかすかに震えているのが、私にもわかった。その男が、ただならぬ存在であることを、本能的に感じ取っているからだろう。

 男は薄笑いを浮かべ、冷たく言い放った。

「我が名は【ヴィルギレス】。お前たちが魔族と呼ぶところの軍を率いる者、と言ったらいいかな」

「魔族の、将軍か……!」

 ウォルターが前に一歩踏み出し、剣を握る手に力を込めたが、ヴィルギレスは微動だにしなかった。

 彼の冷酷な目つきが、私たちをまるで無価値なもののように見下ろしている。私はその圧倒的な威圧感に、ただ立ち尽くすしかなかった。

 ヴィルギレスは嘲笑を浮かべながら言う。

「将軍だと? 人族の格付けなどには興味はないが……まあいい。今一度訊く、お前たちが今回の【結界の儀】に挑む者たちだな?」

 ウォルターは、それに臆することなく尋ねる。

「結界の儀とは何のことだ? 泉に舞を奉納することが、何だというんだ?」

 ウォルターが威圧的な態度で前に出た瞬間、私の心臓は跳ね上がった。

 彼は何も知らない。私がこれからこの場で何をしようとしているのか、そして、何が起ころうとしているのかも、すべてを知らずにいる。
 魔族ヴィルギレスの言葉がそれを暴露するかもしれないという予感が、私の胸を締め付けた。

 ヴィルギレスは冷笑を浮かべ、私の方へと目を向けた。その視線がまるで私の秘密をすべて見透かしているかのようで、この場から逃げ出したいという衝動に駆られる。

「おや、随行の騎士殿は何も知らないというのか? これは意外だ」

 彼の声は静かだが、私にはそれが鋭く刺さった。

 ウォルターは驚いたように私を見た。

「メイヴィス、こいつは何を言っている? 俺には何のことかさっぱりわからない。君は知っているのか?」

 私は咄嗟に視線を逸らし、言葉を濁した。

「……そんなこと、どうでも……」

 ヴィルギレスは、私をしげしげと眺めながら、さらに楽しげに笑みを浮かべた。

「なるほど、そういうことか。巫女殿、貴方も苦労しているようだな。この者に、儀式について何も伝えていないのには理由があるということか」

 その瞬間、私の心は凍りついた。

 ウォルターの目の前で、私の秘密が暴かれつつある。どうしようもない焦りが私の中で膨れ上っていく。

「黙れっ、これ以上話すことはない。この俺が相手になる!」

 ウォルターが剣を抜き、構えた。

 私は何も言えず、ただウォルターの背中を見つめていた。彼は私を守ろうと立ちはだかっている。けれど、その背中が不安で揺らいでいるのがわかる。そして、ヴィルギレスの言葉が私の心を乱している。

 「何も知らないままというのは哀れなことだ」、とヴィルギレスはさらに冷たく続けた。

「その舞が持つ意味と価値、どうしてお前が随行者としてこの泉に連れてこられたのか、とても大切なことなのだがな……。やれやれ、此度の巫女と随行者はとても変わっている」

 その言葉はまるで私を責めるかのようで、胸が痛んだ。ウォルターに何も知らせていない自分の愚かさを、今ここで責め立てられているようだった。

「貴様は何が言いたい? すぐにここから立ち去れ!!」

 ウォルターが鋭い声で威嚇する。だが、ヴィルギレスはまるでそれを予測していたかのように、冷笑を浮かべて応じた。

「そういうわけにもいかない。我ら魔族にとって、百年に一度現れる泉と、それと接続する運命の巫女の儀式がもたらす結果は、少しばかり厄介でね。とはいっても些事に過ぎないんだが、その度に彼らがどんな顔をして現れるのか興味があって、足を運んでいるわけさ」

「そいつはご苦労なことだ。だが、指一本触れさせない。俺は彼女の随行者であり、彼女の剣だ。この命に代えてでも守り抜く」

 ウォルターは決意を込めて言った。彼は決して引き下がることはないだろう。

 彼の言葉が胸に重くのしかかる。

 私は小さな声で「ウォルター、お願い、冷静になって……」と言いたかった。でも、言葉が出せなかった。

 ヴィルギレスの嘲笑が耳に残り、彼の言葉が私たちの関係を揺さぶっているのを感じていた。知られたくない、しかし、それを隠していることがさらに彼を危険にさらしていることも理解していた。

 ヴィルギレスの冷笑が一層深まり、私に向けられたその視線は氷の刃のように鋭く、心の奥底まで突き刺さる。

「ふふ、何も知らぬ愚かな随行者よ。お前はそこの巫女が、これからしようとしていることを何も知らない。だが、それでは興が冷める。ならば、教えてやろう」

 その瞬間、胸が締め付けられ、血の気が引くのを感じた。まるで世界が崩れ落ちていくような絶望感が私を襲い、何もかもが一瞬にして壊れてしまう恐怖が押し寄せた。

「やめなさい!」

 自分でも驚くほどの強い声が出ていた。言葉に込められた感情が、まるで自分の意志を越えて口をついて出たようだった。逃げ出したい――この場から、すべてから、逃れたい――そんな衝動を必死に抑えて、私はうつむいた。

「どうした、メイヴィス?」

 心配そうに、ウォルターが私に問いかけてくる。
 
 その声に込められた戸惑いが、私の心を一層締め付ける。どうしよう、彼には絶対に知られたくないのに、このままではヴィルギレスの前で、私の秘密が暴かれてしまう。

 そんな恐怖が私を支配する。

「ウォルター……あなたが知る必要なんてないのよ」

 声が震えていた。必死に落ち着こうとしたが、心の中の混乱と恐れが抑えきれず、彼の視線を避けた。私の中で膨らむ不安と悲しみが、涙となってこぼれそうになる。

「どうして?」

 彼の問いかけが、私をさらなる深い闇に突き落とす。何も知らずにいてくれた方が、どれほど幸せか――そんな思いが私の中で渦巻く。

「知ったところで、もうどうしようもないからよ。だから、ここから早く逃げて……」

 喉の奥から絞り出したような声で、私は言った。

 ウォルターを守りたい、その一心だったけれど、その言葉が彼にどれだけ届いたのか、私にはわからなかった。
 ただ、ヴィルギレスの目に、私の心を見透すかすような冷ややかな光がちらついていて、辛くて仕方なかった。

「何も知らぬままでは、彼は真の意味でお前を守ることはできないだろう。だが、知ればどうなるか……それもまた見ものだな」

 ヴィルギレスの声は冷たく、彼が心の底から楽しんでいるのがわかる。その残酷な響きが、私の胸の中で何かを切り裂くように深く突き刺さる。

「逃げて……」

 そう言うしかない。あなたがその答えに辿り着く前に、どうかどこかに行ってほしい――そう願わずにはいられない。

「馬鹿なことを言うな。君を置いて逃げるなど、できるわけがないだろう?」

 ウォルターの言葉はいつも通り真っ直ぐで、私を守りたいという強い意志が伝わってくる。それが痛い。苦しい。

「もう、それしかないのよ。ウォルター……」

 私が本当に言いたいのは、あなたを悲しませたくないということ。でも違う。私はただ、自分がこの苦しみから逃れたいだけなのだ。そんな自分が嫌でたまらない。

 ヴィルギレスは愉悦めいた表情で、さらに言葉を重ねる。

「ふふふ、いい、実にいい。此度の巫女はなかなかに感情豊かだ。持って生まれた使命と待ち受ける運命に絶望し、かすかに抱いた希望も、今は打ち砕かれる寸前で、苦しみと悲しみに満ちている。その姿は実に甘美で、食べてしまいたいくらいだ」

「貴様!!」

 ウォルターの怒りの声が響いたが、それすらもヴィルギレスにとっては楽しみの一部に過ぎないのかもしれない。彼の顔には歪んだ満足感が漂い、私たちを弄んでいるかのようだった。

 胸が痛い。ウォルターを巻き込みたくない。でも、もう後戻りはできない。逃げ場もない。私はどうすればいいのか、心の中は絶望と混乱でいっぱいだった。
 それでも、ウォルターには知られたくない、彼の優しさが、私をこれ以上傷つけることがないように。

「では教えてやろう、随行者よ。どうして百年に一度巫女が現れ、どうしてこの泉にやって来るのか。その理由はな───」

 ヴィルギレスの冷たい声が耳に響いた瞬間、私は全身が凍りついたように感じた。
 私は喉から絞り出したような声で、ただ叫ぶことしかできなかった。

「やめてっ!!」

 だが、その叫びは虚しく、あの残酷な事実が、彼の口から静かに、しかし決定的に放たれた。

「───我々を退ける泉の精霊の結界の代償として、巫女の命が生贄として捧げられるのさ」

 その言葉が、私の心を深く抉った。まるで地面が足元から崩れ落ちるような感覚。現実が、私を無情に打ちのめし、何もかもがぼやけていく。私の中で必死に隠してきた秘密が、すべて暴かれてしまった。ウォルターにだけは、絶対に知られたくなかったのに……。

「あ、あああ……」

 その残酷な現実に、私はただその場に崩れ落ち、涙が溢れて止まらなかった。自分の力ではどうすることもできない運命が、重くのしかかる。その重さに耐えきれず、私は泣き続けるしかなかった。

「メイヴィス!!」

 ウォルターは、私の泣き崩れる姿を見て駆け寄り、優しく肩を抱きしめてくれた。その温かさが、かえって胸の痛みを強くした。

「生贄とはどういうことだ? どうしてなのか教えてくれ!」

 彼の問いが、私の心を引き裂くように刺さってくる。その響きが私の心の奥深くに残る痛みが膨れ上がらせる。

 私はただ、涙で濡れた頬を伏せるしかできなかった。

「メイヴィス……それは本当なのか……?」

 ウォルターの声が再び私を呼び、ようやく顔を上げると、彼の表情には混乱と悲しみが溢れていた。

「……」

 何も言いたくない、言うべきではないと心の中で葛藤しながらも、ウォルターの視線が私を捉えて離さない。彼の目に映る私の姿が、すべてを悟ってしまったかのようで、心の奥に潜む恐れが私を押しつぶす。

 彼の苦しみを見つめながら、私自身もその痛みに共鳴している。しかし、どんなに苦しくても、言葉はどうしても出てこない。
 沈黙の中で自分の過ちを痛感しながら、ただその場に立ち尽くすしかなかった。

 彼のさらなる追及が、私の心を深くえぐるように鋭く突き刺さる。

「どうして、どうして黙っていたんだ。なんで言ってくれなかったんだ……?」

 彼の悔しさのこもったその問いが私の胸を締め付け、心の奥にひりひりとした痛みを引き起こし、私がずっと恐れていた現実を突きつけてきた。
 私の口は動かず、ただ彼の目を見つめるしかできない。どんな言葉も、彼の痛みを癒すには足りない。

「……こうなることは、最初から決まっていたのよ……」

 私の声は、かすれていて、感情の重さをそのまま反映している。心の奥深くで、すでに諦めたという現実が重くのしかかり、言葉にするのが辛い。

「最初からだと……」

 彼の目には、信じられないという感情が浮かんでいる。私が何を言おうとも、彼の心の中の混乱は収まらないだろう。

「それは、あなたと出会う前から、ううん、生まれた時から決まっていたの。どんなに嫌でも、この結末からは逃げられないの」

 止めどもなく涙が溢れ、頬を伝っていく。
 
 ウォルターの目が私を見つめ続ける中で、心の奥底から湧き上がる苦しみと罪悪感だけが私を支配する。

「ごめんなさい、ウォルター……私のせいで、あなたをこんなにも苦しませてしまった……」

 ウォルターはその言葉に驚き、ただ言葉を失っていた。彼の心に刻まれる傷を思うと、胸が苦しくてたまらない。

 それでも、私はもう自分を弁護することなどできない。これは私が背負うべき罪なのだから。

「本当は旅立つ前に、ちゃんと伝えるべきだった。でも、それができなかった私が悪いの……」

 どうしてこんなことになってしまったのか、自分でも分からない。ただ、確かなのは、自分が愚かだったという結果と後悔だけ。

 旅があまりにも楽しくて、毎日が新鮮で、気づけば大切なことを後回しにしてしまっていたのかもしれない。
 それが間違いだと理解したときには、すでに手遅れで……もう、何も言えなくなってしまった。

 だから、私に残された選択は一つしかなかった。すべてを受け入れ、一人で静かにその重い運命と向き合うしかない。

「ウォルター、どうかここから立ち去って下さい。これは主である私の、いえ王女として下す、最初で最後の命令です」

 いまさら主従関係を盾にして、彼を拒絶すること。それしか選択肢がないのだと思うと、自分の卑怯さに吐き気がする。
 彼の気持ちを察しながら、それでも最悪の形で彼を裏切ることになるなんて、私自身が本当に許せない。

 ウォルターに、これ以上私を見てほしくなかった。彼の悲しみを目の当たりにし、私は自分の弱さに打ちひしがれている。彼を守るべきなのに、その悲しみに耐えることができない自分が、心を引き裂いていく。

「そんな命令など聞けるか。ふざけるな」

 ウォルターの言葉は、まるで鋭い刃物のように私の心を切り裂いた。彼の決意と怒りが私を深く抉り、私を手放さない。その苦しみが私を破壊しそうだった。

 ヴィルギレスは冷酷に私たちを見つめ、楽しんでいるかのように、再び口を開いた。

「詳しく教えてやろう。我々はこの世界を蹂躙することが望みだ。だが、中立の立場で不干渉を決め込んでいた精霊どもが、よりにもよって人族に手を貸した。まったく意味が分からん」

 彼の声には冷徹さが滲み出ており、その言葉が私たちの苦しみをさらに深めるだけだった。

「そのための場所がここというわけだ。精霊どもはお前たちにそのため鍵として授けた緑の髪を持って生まれる少女を差し出すように告げた。救世を望むのであれば、それ相応の対価が必要とな。なんと無慈悲で残酷なことだろうか。まったく巫女という存在が哀れでならん」

 ヴィルギレスの言葉が、冷たくも容赦ない現実を私たちに突きつけ、その冷酷さが私たちの苦しみをさらに深めていく。

 ウォルターはヴィルギレスを鋭い眼差しで睨みつけ、声を震わせながら激しく言い放った。

「貴様は何がしたいんだ!? 巫女がそんなに憎いのか? そんなにも彼女を苦しめたいのか?」

 すると、ヴィルギレスは愉悦を浮かべた表情で、冷たくも魅惑的な口調で答えた。

「ああ、その通りだとも。教えてやろう、私は人間が持つ負の感情が好物なのさ」

「なんだと!?」

「怒り、悲しみ、恐怖、失望――これらが渦巻く瞬間が、私にたまらない喜びをもたらすんだ。おそらく、私には感情というものが存在しないんだろう。だからこそ、人の感情が生み出す混沌と絶望を渇望しているのかもしれないね。人間の心が深く揺さぶられ、感情の波が押し寄せる瞬間に、私はこの上ない満足を感じるのさ。それがここに来た理由というわけだ」

 彼の声には冷酷な喜びがこもっており、その言葉はまるで生き物のように、場の空気をさらに冷たく、重苦しいものに変えていった。

 ヴィルギレスの言葉が示すのは、深い歪んだ楽しみ。彼の目に浮かぶのは、他者の苦しみを見て感じる自身の虚無感への快感だ。

 私は魔族の本質を深く理解することができた。彼らは人の形をしているけれど、その体の中に宿っているのは、ただ冷たくて歪んだ欲望だけ。
 彼らにとって、人間の血肉は単なるエネルギー源に過ぎない。さらに、私たちの心そのものが、彼らにとっては極上の調味料のようなものなのだろう。

 ウォルターは無言のまま、ヴィルギレスの言葉を黙々と聞いていた。
 しかし、その静かな佇まいの裏で、彼の肩が微かに怒りに震えているのが私にはわかった。彼が感じている激情は、抑えようとしても隠し切れないほど強く、その震えがそれを物語っていた。

 そして、彼は毅然と立ち上がった。

「もう、貴様は喋らなくていい。話す言葉など無い!!」

 ウォルターは剣を構え、そのままヴィルギレスに向かって駆け出していった。その姿は怒りに燃え、まるで何かに突き動かされるように見えた。

「だめ、ウォルター!!」

 必死に彼を引き留めようと、私は手を伸ばしたけれど、無情にもその手は空を切り、彼の背中をただ見送るしかなかった。そんな自分が無力で、ただただ悔しかった。

 魔族の将軍に一人で立ち向かうなんて、どう考えても無謀すぎる。
 ウォルターが私のためにここまで怒りを燃やし、身を挺して守ってくれる理由がわからない。私は彼の信頼を裏切った裏切り者だというのに、どうしてこんなにも私を大切にしてくれるのか、その気持ちが理解できない。

 胸の奥から湧き上がる後悔の波が、痛みとなって私の心を締め付ける。
 自分が犯した過ちや、ウォルターへの申し訳なさが一層深く刺さってくる。自分のせいでこんな状況になってしまったのだと思うと、自分の無力さや罪の重さが、ますます私を苦しめる。どうしてこんなことになってしまったのか、その答えが見つからず、心はただ悲しみと悔恨の中に沈んでいく。

 ウォルターの剣先がヴィルギレスに迫り、その先に待ち受ける悲劇が、まるで現実のように私の目に浮かんだ。

 しかし、その瞬間、ウォルターの剣が一陣の赤い風に弾かれ、その鋭い動きがぴたりと止まった。空気が震え、赤い風が暴風のように吹き荒れる中、彼の剣が止められたその光景は、私にとって衝撃的だった。

「おいおい、ヴィルギレスの旦那。あたしが止めなきゃ、あんた死んでたかもよ?」

 その声の主の髪と瞳は、紅蓮の炎のように鮮やかな赤。まるでその内に秘めたる激情を物語っているかのようだった。
 その人物は、これまで何度もウォルターと剣を交えてきた強者、その名は【サラン】。魔族の女剣士だった。

 サランは短めの双剣を構え、鋭い殺意を漂わせながら、ウォルターの前に立ちふさがった。

 ヴィルギレスは、やれやれといった表情で肩をすくめ、サランに向かって言った。

「サラン、余計なことをしてくれるなよ。これからが一番面白いところだったのに。まあいい、そいつの相手をしてやりなさい。ただし、すぐに殺しては駄目だ。彼には、事の結末をしっかり見届けてもらいたいからね」

 サランは手に持った剣を、まるでその冷たさを確かめるかのように舐めた。
 彼女の剣先は冷ややかな光を放ち、その決意の表れとして、次の瞬間の血の匂いを漂わせていた。

「あいよ、殺さなきゃいいんだろ? だったらたっぷりといたぶってやるさ。あたしに傷をつけてくれた礼はしなきゃならないしね」

 私はその言葉に血の気が失せ、心臓が凍りつくような感に襲われた。
 このままでは、ウォルターがきっと死ぬよりも辛い目に遭わされてしまう……。そんな絶望が胸に広がっていく。

「ほらほら、よそ見してんじゃない!! あたしと踊れ、踊るんだよ!!」

 サランの焦熱の剣がウォルターをかすめるたびに、私の胸に突き刺さるような痛みが広がる。その瞬間、痛みが私の心臓を鋭く刺し、呼吸が一瞬止まる。その光景に、言葉では言い表せない恐怖と焦燥が込み上げる。

 この状況で、私にできることは何なのか――そう考えた。でも、どれだけ悩んでみても答えは一つしかないことは、とっくに分かっていた。

「そうだよね、私にできることは、最初からそれしかなかったんだ」

 小さく呟きながら、私はウォルターに背を向けた。

 彼の姿が遠ざかるごとに胸が締め付けられるような思いだったけれど、迷っている暇はない。彼を救うために、今、私がしなければならないことがある。

 目指すは、精霊が眠るという泉。そこにしか、彼を救うための抗う手段はないのだから。

 心を決め、私は駆け出した。

 それは、自分が犯した罪を贖うために、そして――彼を救うために、このつまらない私の命を捧げること。全てを賭けた一歩一歩が、私のウォルターへの愛を深めていく。

 それがたまらなく、苦しかった。

 その時、背中越しにヴィルギレスの嘲笑が響いた。

「あはっ、ははは。やっぱりそうか、そうくるか。これは愉快だ。巫女殿にとって、やはりこの男は救うに足るだけの大切な存在なのだな。さあ巫女よ、今こそその身に刻まれた絶望の舞を見せてくれ」

 その声には冷酷な楽しみがこもり、私の決意をさらに試すかのように響いた。

 胸の奥で湧き上がる恐怖と絶望を押し殺しながら、私はただひたすらに前へと進むしかなかった。
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