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第二章 回想編

第五十三話 それぞれの思い

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 部室を出た後、私たちはそれぞれの心の中に抱える思いを抱えながら歩いていた。

 茉凜の顔には期待と不安が交錯する微笑みが浮かび、その眼差しには深い内面の希望が映し出されているように感じられた。

 洸人は相変わらず無表情で、感情の波を見せることはなかった。その冷静さが、逆に彼の心の奥に秘められた複雑な感情を伺わせる。
 彼が本当は何を考えているのか、私には測り知れない。冷静でいることが、逆に彼の心の奥にある不安や期待を隠しているのではないかと、つい考えてしまう。

 明は口を歪め、憮然とした表情を浮かべながらつぶやいた。

「なんで端役なのよ。弓鶴くんの相手っていったら、どう考えてもあたしでしょうが」

 その言葉には明らかに僅かな怒りと不満が込められていた。その感情の中には、茉凜に対する嫉妬心も見え隠れしていた。
 彼女の苛立ちは、自分の努力が報われないことへの悔しさと、評価されないことへの不安から来ているのだろう。その心の波が、私にも深く伝わってきた。

 それを「まあまあ、落ち着いて」と宥める茉凜と、「あんたはいいよね。ちっ」と舌打ちする明のやり取りを、私は複雑な気持ちで見守っていた。
 茉凜の優しさが、明の苛立ちを和らげようとする一方で、その優しさが茉凜自身にどれほどの重荷をもたらしているのかを、私は感じ取っていた。

 私は洸人の態度が気になり、つい尋ねてしまった。

「今回の話、洸人の差し金か?」

 洸人は一瞬だけその顔に小さな笑みを浮かべた。その笑みには、微かな満足感と共に、彼の内面に潜む思索の深さが垣間見えた。

「うん、灯子から持ちかけられて、ちょっと迷ったけど、こういう体験もしてみたいって思ったんだ」

「ふーん……」

「みんなと力を合わせて一つの目的に向かい、それを形作っていく、そんなこと、これまで考えたこともなかったからね……」

 私たちは孤独で、他者と手を取り合うことの価値を知らないまま生きてきた。そのため、こうした体験への欲望が自然に湧くのは理解できる。
 しかし、それでも私の心には、消せない不安が残っていた。洸人の言葉が私の心に深く響き、彼の真意が気になって仕方がなかった。

「それにしても、俺が女の役だなんて、できると思うか?」

 私が不安を口にすると、茉凜が優しく微笑んで答えた。

「弓鶴くんならきっとできるよ。うんっ!」

「その根拠は?」

 茉凜は少し考え込んでから、無邪気な笑顔で答えた。

「わたしは弓鶴くんがもっている、ほんとうの輝きみたいなものを知ってるからね」

 その言葉を聞いた瞬間、私は驚きのあまり息を呑んだ。自分にはそんな輝きなどないと思い込んでいたが、茉凜が私の本質を見透かしているのではないかという気がした。
 彼女の存在が、私の心に強い影響を与え、隠しておきたい自分を見せてしまっているのかもしれなかった。

 その後、洸人が遠くを見つめるような表情で言った。

「こんなことを言うと気を悪くするかもしれないけど、君は君のお姉さんにとても良く似ていると思う……」

「えっ……!?」

 その言葉に私は驚きと共に眉をひそめた。心の奥底で私が抱えていた秘密が暴かれたような気がして、動揺が広がった。

 私はそんな考えを振り切って答えた。

「……まあ、一応は姉弟だからな。顔はよく似ているとは思うが、だからといって、そんなもので俺に女の役ができるか?」

「たしかにそうなんだけど。実は僕は昔、一度だけ彼女に会ったことがあるんだ。たしか名前は、美鶴さんだったかな?」

「そうだが……」

 その瞬間、茉凜とのデート中に洸人が話していたことが鮮明に蘇った。彼の過去の思い出や、私との出会いが、今も私の心に強く残っていた。

「彼女は始まりの回廊の巫女として縛り付けられ、一人ぼっちで誰にも救けを求めることもできず、寂しさに満ちた日々を過ごしていた。君という唯一残された肉親とも離れ離れになって……」

 洸人の言葉が胸に深く刺さり、過去の痛みと寂しさが蘇った。

「そうだな……」

 ただそれだけの言葉で、私は心の奥深くから湧き上がる感情にどう向き合えばいいのかわからずにいた。

「会ったのは一度きりだけど、彼女の持っていた寂しげで儚げな雰囲気が、今の君にも感じられる気がするんだ」

「そんなばかな。目の錯覚だろう?」

 そう否定しながらも、洸人の言葉が私の心に深く響いていた。

 彼が私の本質に気づいているのではないかという恐怖が、背筋を冷やし、心臓が止まりそうになった。

「まあ、解呪を目指す君が、彼女の気持ちを引き継いでいるのは当然かもしれないね」

 それを聞いて、私は少しだけほっと息をついた。心の奥底での不安が少し和らいだように感じた。

「だから、そんな君の演技を見てみたいって思ったんだ。君は彼女ではないし、僕もそれを期待しているわけじゃないけど、きっといいヒロイン像を演じることができると思う。それがこの話を受けようかなって思った理由さ」

「そうかな……」

 私はただ、寂しさを帯びた短い返事をするしかなかった。心の奥底での葛藤や感情をどう整理すればいいのか、まだ迷っている自分がそこにいた。

 洸人は思い出したように、言葉を続けた。

「あとね、僕が君を推す理由はもう一つある」

「それは何だ?」

「その脚本を読み込んだら理解できると思うよ。ちょっと、僕も驚いたけどね」

 私は黙って頷いた。けれど、今の私には手にしている脚本のページをめくる勇気がなかった。何が書かれているのか、少し怖かったからだ。

 脚本の表紙に指を置いたまま、深呼吸をした。
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