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第二章 回想編

第四十三話 あんたにだけは言われたくない

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 ビーチの喧騒から少し離れた岩場、そこには夏の太陽がまぶしく照りつける中、どこか張り詰めた空気が漂っていた。茉凜と明のスイカ割り対決が、静かに幕を開けようとしていた。

 周囲の静寂が、逆に私の心のざわめきを増幅させる。波の音が、遠くから規則正しく響き、この場面の静かな緊張感を一層強調していた。日差しが肌を焼くように感じる中、私たち四人――茉凜、明、その執事である新庄、そして私――が集まった。

 その中で特に私の心は複雑だった。なぜなら、今回の対決で賭けられているのは、何と「一日弓鶴権」だったのだ。

――つまり、勝者が一日私を自由に振り回す権利、ということ。

 これを知った瞬間、どうしようもない不安が胸に渦巻いた。単なるスイカ割りの遊びが、突然私にとって重大な意味を帯びたものになってしまったのだから。

 明るく笑う茉凜も、真剣な表情の明も、二人ともこの状況を楽しんでいるように見える。しかし、私にとってはまったく笑えない。

 反論したい気持ちは山々だったが、明の冷ややかな一言が私の口を閉ざしてしまった。「賞品が文句を言うなんて、ありえないでしょ?」――その言葉に、私は何も言い返せなかった。視線を下げ、息を呑むしかなかった。

 太陽の光が海面に反射し、キラキラと輝いていた。まるでこの瞬間が、避けられない運命であるかのように、その輝きが私の不安をさらに募らせた。誰も止めることはできない――もう、引き返せないのだ。

茉凜は、相変わらず太陽のように明るい笑顔を浮かべ、周囲の空気を軽やかにしていた。その笑顔が、私の胸に深い不安を押し込めるような感覚を与えた。彼女がこのスイカ割りのゲームにどれほど真剣に取り組んでいるのか、その真意が私には全く掴めなかった。

 茉凜の楽しそうな表情が、私の心の中の複雑な感情を一層深める。彼女がこの遊びに挑む理由を理解しようとするたびに、その背後に隠された何かが、私の心に影を落としていた。

 トップクラスの深淵の術者であり、武の面でも卓越している明との対決は、一見してどこか奇妙に感じられる。ただ、茉凜が持つ正体不明の危機回避能力があれば、明の攻撃が当たる可能性は限りなく低く、お互いに決め手を欠くことは明らかだった。

 そこで、茉凜が提案したスイカという気配の感じられないターゲットと目隠しという条件が登場する。攻撃対象が感知できない状況を作り出し、対等な条件で勝負をするというアイディアは、確かに一理ある。

 だとしても、私には不安しかなかった。

昨夜、私たちはスイカ割りの必勝法をネットで調べてみたが、どれも今ひとつで、結局は指示役の指示にどれだけ忠実に動けるかが勝負になることがわかった。そのため、スイカ割りにおいて最も重要なのは、ペア間の密接なコミュニケーションと、スイカ割り担当が指示に従ってどれだけ正確に身体を動かせるかがカギとなる。身体操作と肌感覚が、勝敗を決する要素だと理解した。

その点で考えると、死に物狂いの修練を潜り抜け、正確無比な武を習得している明が、圧倒的に優位に立っていることは明らかだった。さらに、付き添う執事の指示が的確であれば、勝利は揺るがないだろうと感じた。

 一方で、私の心は不安でどうしようもなかった。私と茉凜は信頼で結ばれているとはいえ、本当の意味では心を完全には開いていない部分があり、それが自信の無さに繋がっていた。私たちはまだ不完全であり、このスイカ割りというゲームの中で、その不完全さが露呈することを恐れていた。彼女の笑顔が私に与える安心感とは裏腹に、内心ではその絆の強さに対する疑念が湧き上がっていた。

 勝負が始まった。じゃんけんで先行は明に決まり、彼女は目隠しをして持参した木刀を構えた。その姿は静かで整っており、まるで時間が止まったかのような、積み重ねた修練の重みが感じられた。

 指示役の新庄が的確に情報を伝え、つま先の向く角度や動く距離などをこと細かく指示する。明はその指示通りに正確に脚を滑らせ、足裏全体が砂浜にしっかりと接したまま、足を上げるときも足の裏全体を一緒に上げていた。彼女の動きには一切のゆらぎもなく、重心がしっかりとしているのがわかった。普通の人間なら、砂に足を取られてふらついてしまうはずだ。

 明は二回目の試技で見事に成功させた。迷いなく振り下ろされた木刀がスイカを真っ二つにするその姿に、私はただ感嘆の声を上げるしかなかった。彼女の技は洗練されており、圧倒的な精度を持っていた。しかし、その直後に襲い掛かってきたのは、言いようのないプレッシャーだった。このままでは絶対に勝てない――その思いが私を襲った。

 予想通り、結果は惨敗だった。茉凜はスタート時の回転後にふらつくことはなかったものの、足元がおぼつかず、私が指示しても「え? どっち? どのくらい?」と困惑するばかりだった。私の声は必死でありながらも、茉凜とのコミュニケーションとチームワークは最悪で、結局十回の試技でもスイカにかすりもしなかった。

 茉凜の試技の最中、あわてふためく彼女の姿に、私は一瞬冷たい視線を感じて明の方を見た。彼女は苦虫を噛み潰したような顔で、茉凜を睨んでいた。勝利は確定しているというのに、その表情がどうしても理解できなかった。

 勝負が終わり、私はがっくりと項垂れた。これで一日、私は明の言いなりになる運命が決まってしまった。心の中で悔しさと不安が渦巻きながら、ただ呆然とその場に立ち尽くすしかなかった。

    ◇         ◇

 言い過ぎかもしれないが、ほとんど言葉を交わしたことがない私が、果たして弓鶴の代わりを務められるものだろうか。心の中で冷たい不安が渦巻いていた。その不安は次第に恐怖へと変わり、私の胸をぎゅっと締め付けていた。

 茉凜は目隠しを外し、私に振り返って舌を出しながら照れ笑いを浮かべた。その笑顔が私の心の影をさらに際立たせた。

「あはは、負けちゃった。勝負はアキラちゃんの勝ちだね」

 その言葉を聞いた瞬間、私は怒る気力も、言葉を返す力も失っていた。立ち尽くす私の目の前には、茉凜の表情がまるで他人事のように感じられ、空虚感が心を埋め尽くしていった。

 彼女がこの状況を招いた張本人であることは明らかだったが、私の心情など知る由もない。悪気がないことはわかっているだけに、その無関心さが私の苛立ちを倍増させていた。

 その瞬間、激しい怒りの嵐が明の声となって吹き荒れた。

「あんた、あたしを馬鹿にしてるの?」

 驚きのあまり、私は明の方を見つめた。彼女の肩が激しく震え、顔には深い闇の奥底から湧き上がってきたような鋭い感情が滲み出ていた。

 茉凜はその言葉に対して、困惑の色を浮かべたまま無表情で応じた。

「どうしたの、アキラちゃん?」

 彼女のその無頓着な反応が、さらに火に油を注いだ。明は茉凜に詰め寄り、その声は怒りと混乱に満ちていた。

「最初から勝負する気なんてなかったでしょ? 昨日、自分から真剣勝負しようとか言ったくせに。いったいどういうつもりなの?」

 茉凜はその言葉を受け、急に冷たい表情に変わった。その瞳は普段の彼女とはまるで違い、何か隠された深い感情を露わにしていた。彼女の無感情な眼差しに、私の心もまた引き込まれていった。

「わたしはちゃんとやったつもり。でも、全然敵わなかった。やっぱりアキラちゃんはすごいよ」

 明はその返答に、苛立ちをますます募らせた。

「へらへらしやがって。あんた、それであたしに同情してるつもりなの? ふざけないでよ」

 明の言葉には、彼女の内なる深い憎しみと怒りが込められていた。

 それを受けて、茉凜は一瞬黙り込み、私はただその場の圧倒的な空気に圧倒されるしかなかった。

 茉凜は少し息をついて答えた。

「同情か……。違うんだけどな。わたしはあなたにも弓鶴くんにも、仲直りしてもらいたいって思ったの。昔のことはわたしは知らないけれど、せっかく久しぶりに会えたんだから、ちゃんと向き合って話をしてもらいたいって───」

「それが余計だって言ってるのよ。あんたにあたしの何がわかるっていうの? あんたなんか、ここで殺してやりたいくらい大嫌いなんだ。でも、弓鶴くんがいるから、あんたがいないと死んじゃうから、仕方ないから……。そんなあんたにだけは、絶対に言われたくない。なんでこんなやつが弓鶴くんの隣にいるのか、本当に腹が立つ!」

 明の言葉が茉凜を遮り、私の心に鋭く突き刺さった。

 その痛みはまるで体内の深い闇が引きずり出されるようで、私自身の感情をも圧倒し、引き裂くかのように感じられた。

「ごめんなさい……。そんなつもりじゃなかったの……」

 茉凜は俯いて呟いた。彼女の肩がわずかに震え、その姿は痛々しく感じられた。

 明は一息つくと、私をじっと見据えた。

「弓鶴くん、こいつは事の重大さを何も理解してないんじゃないの? じゃなかったら、こんなに呑気な顔してられないよ。あなたに対する責任がどれだけ重いか、ちゃんと知るべきだわ」

 その言葉に、冷や汗が背中を流れた。明が何を言おうとしているのか、その意図はすぐに分かった。

「やめろ、明。茉凜は知る必要などない」

 明は私の声を無視し、拳を強く握りしめて、必死に声を絞り出した。

「彼は命を捨てる覚悟で、私たち深淵の血族にかけられた呪いを解こうとしている。あの黒鶴の力を使って、精霊子を受け止める器を死の淵のぎりぎりまで拡大させようとしてるんだ。それがどれだけ危険なことか……。今はあんたという安全装置のおかげでなんとかなってるかもしれないけど、いつ死んだっておかしくないんだ!」

 場の空気が一瞬で凍りついた。明の声はまるで冷たい刃のように、私たち全員を一瞬で凍りつかせ、圧倒的な恐怖をもたらした。

 茉凜の肩がわずかに震え、その目が遠くを見つめるように虚ろになっていった。彼女の普段の明るさとは打って変わり、心の奥底で冷たく硬く凍りついているかのようだった。

「彼がどんなに苦しんでるか、どんな気持ちでいるか、あんたはちゃんと理解してるの? そんな平和そうな顔してられるのが、あたしには信じられない」

 明の目が鋭く茉凜を見つめ、場の空気はさらに重く、冷酷に沈んでいく。その圧倒的な緊張感に、私の心も押し潰されそうだった。

 茉凜は私の前でただ震え、言葉を失っていた。その瞳に浮かぶ影は、私がもたらした残酷な現実に押し潰されそうな彼女の心情を映し出していた。


明の顔にはわずかな後悔と戸惑いが滲んでいたが、それでも彼女は感情を抑え込み、冷静な声で言った。

「言いたいことは言ったから、あたしは帰る。じゃあね……」

 その一言が、私たちの間に重く響き渡った。明と新庄が静かに去っていく背中を見送る中、私の心には深い虚無感と重い罪悪感が広がっていった。

 広がる不気味な静寂の中で、私はただ立ち尽くしていた。茉凜の心にどれだけ深い傷を与えてしまったのかを考えると、胸が締め付けられるように痛んだ。

 すべては私が招いたことで、すべて私が悪い。茉凜も明も、そしてこの弓鶴も、私が不幸にしてしまったのだ。この感情の波が、私を押しつぶしていくようだった。
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