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第二章 回想編

第二十一話 氷の王子様の誕生

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 失意のどん底にいた私は、まるで深い水の中に沈んでいくように、時間の感覚すら失っていた。部屋の壁に囲まれて、ただひたすら静けさと孤独に包まれていた。時計の針が動く音だけが響く中、私は何も考えられず、何も感じられない。ただ、自分の存在が霧のように薄れていくのを感じるだけだった。

 そんな中、虎洞寺氏がやってきた。彼の姿が扉の向こうに見えた瞬間、現実が突然私に襲いかかる。彼の表情は冷静で、声もいつものように淡々としていた。

 「柚羽の家が火に包まれたそうだ」と告げるその声は、私の心に突き刺さる氷のようだった。

 その瞬間、私の中で閉じ込めていたものが、急激に溶け出していく。心の奥底に眠っていた悲しみが、冷たく脈打ち、胸を締め付けた。私には隠すことなどできなかった。すべてを話さなければならなかった。恐ろしい夜の出来事を、すべて打ち明けるしかなかった。涙が喉を塞ぎ、言葉が震えながらも、あの暗闇の中で何が起こったのかを話した。

 意外にも、虎洞寺氏は冷静に受け止めてくれた。ただ、そっと私の肩に手を置き、低い声で優しく言った。

「今は何も考えるな。君は何も悪くないのだ……」

 その言葉は、まるで遠くから響く音のようで、私の心には届かなかった。

 深く刻まれた罪悪感が、私を覆っていた。弟を守りたい、そう思って必死に行動したはずだったのに、結果として私は何もかも失ってしまった。

 そして何より、私を蝕んでいたのは、この身体だった。

 突然、男の子の身体に押し込められた私の感覚は崩壊し、女としての自分が失われていく。身体の何もかもがかつての私とは違っていた。かつて当たり前だった感覚が、すべて異物に感じられる。自分が自分でなくなる感覚に、息苦しさを感じ、胸の奥で恐怖が膨らんでいく。

 物語やファンタジーでは、こうした入れ替わりがしばしば軽妙に描かれるが、現実的には残酷で生易しいものではない。性別が異なる身体に変わるということは、単なる肉体の変化ではなく、自分のアイデンティティそのものが根底から揺らぐことだ。これまでの生理的な反応はもちろん、目に映るもの、耳に聞こえる音、触れるものすべてが、新しい身体に合わせた別の感覚を持っている。

 その変化により、かつての私の感覚がすべて異物に変わり、自分の存在が崩れていくような感覚に包まれる。これまで当然だったものが、全て違和感を伴って私を取り囲む。それでも、これは血を分けた大切な弟の身体なのだからと、自分に言い聞かせ、耐えるしかなかった。彼の存在を守るために、私はこの異質な感覚と向き合い、ただ耐えるしかなかった。

 その時、佐藤さんが現れた。

 彼女は無事だった。そのことに安堵する一方で、再会を喜んでいいのかどうか、私は戸惑っていた。しかし、彼女は何も言わず、私をじっと見つめていた。そして、私の苦しみを一瞬で理解し、無言で私を抱きしめてくれた。その瞬間、堰を切ったように涙が溢れ、私は自分の心の中に渦巻いていたすべてを、初めて言葉にして吐き出した。

 佐藤さんは、私の全てを静かに受け止めてくれた。彼女の優しさと理解は、私にとって光だった。私の胸の奥にあった重く暗い感情が、彼女の温もりによって少しずつ解けていくのを感じた。まるで氷が溶けるように、私の心はようやく解放され始めた。

      ◇      ◇

 新しい現実と向き合うためには、弟の弓鶴として生きなければならず、男らしく振る舞う必要があった。しかし、その重圧は想像を遥かに超えるものだった。毎朝、鏡に映る自分の姿を見ては、そこに映るのは自分ではない「誰か」。そう、弟の顔だと理解しているはずなのに、その表情には私自身の感情がまるで滲んでいない。それに気づくたび、心の奥に鈍い痛みが広がっていった。

 それでも、ひとつの小さな救いがあった。私と弓鶴の顔立ちはとてもよく似ていた。血を分けた姉弟であるという事実が、せめてもの拠り所だった。その共通点があったからこそ、私は彼として生きられるのだと、そう思い込もうとした。

 柚羽の家に戻った後、私は弓鶴とは一度も連絡を取ることなく、冷たい姉として距離を保ち続けた。それは、巫女としての立場だけではなく、私自身の内面の選択でもあった。冷たく振る舞うことで、彼が過去を断ち切り、自分自身の人生を歩む助けになるのではないか、と信じていた。しかし、それが本当に正しかったのか、今となってはわからない。彼の心の中で何が起こっていたのか、その想いがどのように成長していったのか、私には知る術がなかった。

 そして、今や私は彼の身体の中にいる。彼が感じていた喜び、そして痛み、それらは私には到底理解できない。しかし、鏡越しに見える彼の姿から、彼が立派に成長していたことはひしひしと伝わってきた。それが私にとって唯一の救いだった。彼はちゃんと自分の道を歩んでいたのだ。

 だからこそ、私は彼を取り戻さなければならない。彼がこれまで築いてきた人生が、私の過去の選択によって破壊されることがないように、私には彼の未来を守る責任がある。その責任感は、私の中で重く、そして確固たる決意として根を下ろしていた。

 しかし、それだけではどうしようもなかった。人と接するたびに、女としての自分が無意識に表に出てしまう。言葉遣いや仕草、ふとした表情が、どうしても女性らしさを滲ませてしまうのだ。その違和感に気づくたびに、私は自分自身を抑え込むように必死になった。

 それが、屋敷の外に出ることをますます難しくしていた。周囲の目を気にしてしまうたび、私はますます閉じこもり、自分を隠し続ける日々が続いた。

      ◇      ◇  

 屋敷の内外での接触が避けられない中、虎洞寺氏や佐藤さんをはじめ、招かれた医師やカウンセラーから指導を受ける日々が続いた。彼らは私が少しでも自然に振る舞えるよう、言葉遣いから歩き方に至るまで、細やかなアドバイスをくれた。まるで私は弟の姿で、もう一度生まれ直すかのように一からすべてを学び直していた。

 指導の場では、彼らの前で完璧に「弓鶴」を演じる練習が続いたが、どれほど努力しても心の中の葛藤は消えることはなかった。弟の姿でありながら、女としての自分がどこかで滲み出るのではないかという不安が常に付きまとった。そんな心配を拭い去ることはできず、演技が完成するたびに、一層自分を見失っていくような気さえした。

 そして何より――私はまだ、心のどこかで弟を取り戻すという願いを抱くことができずにいた。彼を取り戻すこと。それは私にとっても、あまりに大きな責任であり、恐怖だった。

 弓鶴は高校一年生で、まだ入学したばかり。できることなら彼の人生を代わりに歩み、彼の進むべき道を守りたいと願っていた。けれど、そのために学校に通うというのは、あまりにも現実的ではない挑戦だった。彼が築き上げてきた友人や先生、クラスメイトとの関係を理解し、自然に振る舞う自信は私にはなかった。知らない街、知らない学校、知らない人々――私の知らない彼の世界。

 見知らぬ世界で、どうやって自分の居場所を見つければいいのか。まるで全てが未知の領域に思えた。弟が作り上げてきたものを壊さずに保つことができるのか、それとも私自身がそれを壊してしまうのか。その恐怖が、足を引っ張り続けた。

 結局、学校に通えるようになったのは、その年の秋が深まり始めた頃だった。季節の変わり目が私の心にわずかな変化をもたらしたのかもしれない。それでも、不安と戸惑いは消えることなく、私はただ彼の足跡をなぞるように一歩ずつ進んでいくしかなかった。

      ◇      ◇  

 学校に足を踏み入れるとき、私の胸は不安でいっぱいだった。山奥での孤独な暮らしが長かったせいで、他人と触れ合うことに慣れていなかったのはもちろん、何よりも自分が「弓鶴」としてその場に立つことに強い恐れを抱いていた。心の奥深くで、女としての自分が抑えきれずに存在している。それが、私をさらに動揺させた。こんな状態でうまくいくはずがない――そう自分に言い聞かせながらも、足を止めることはできなかった。

 学校の門をくぐると、周囲の喧騒が耳に押し寄せ、緊張が一層強まった。教室に向かう足取りが重く感じられ、無意識に深呼吸をしていた。自分が「本当の弓鶴」として振る舞えるのか、周囲の目が自分の中の秘密に気づくのではないかという恐怖で、心が張り詰めていた。

 私は必死に、弓鶴としての役割を全うしようと努力した。しかし、心の中ではいつも葛藤が渦巻いていた。女である自分を隠しながら、男として、弟として振る舞う――その違和感は、周囲の何気ないやりとり一つ一つが私を引き離す感覚に繋がった。みんなが持つ「普通」が、私には遠いものであり、自分はその中で異質な存在だと痛感せざるを得なかった。

 そして、私は一つの決断を下した。誰にも近づかないこと、誰とも話さないこと。一人でいることで、少しでも安心できる空間を守ろうとした。もし私が誰かと心を通わせれば、その瞬間、仮面が剥がれ、本当の私が露わになってしまう。そんな恐怖に耐えられなかった。

 だから、私は氷のように冷たい仮面を被り、周囲と距離を取ることにした。クラスメイトの無邪気な問いかけや、友人になろうとする誘いも、私には無関係なものに感じられた。笑顔を見せることも、親しみを示すこともなく、必要最低限の言葉で相手を遠ざけた。

 その態度は私を守る防波堤となり、同時に孤独を深める盾でもあった。誰にも心の奥の葛藤を見せることなく、私はただ、一人でその冷たい世界に閉じこもっていた。

 いつしか、私に近づこうとする人はいなくなり、教室の中での存在は静かに孤立していった。人々の視線は遠巻きに私を見つめ、そして陰でこんなあだ名で呼ばれるようになっていた――『氷の王子様』と。

 『氷の』という部分が示す通り、私が周囲に作り上げた冷たく無感情な態度は、手が届かない存在としての私を形作っていた。クラスメイトたちは、私がその壁を崩すことなく、自分だけの領域に閉じこもっていることに気づき、次第に私に近づくことを避け始めた。その結果、ますます孤立し、心の中に冷たい風が吹き続けていた。

 『王子様』というあだ名も、ある意味では納得せざるを得なかった。弓鶴の美貌は本当に際立っていた。母親譲りの端正な顔立ちに、男としての精悍さが加わり、その姿は、姉である私ですら美しいと感じるほどだった。周囲の生徒たちも、弓鶴のその容姿と存在感に魅了されていたことは容易に想像できた。

 また、クラス内外で多くの人から話しかけられたことから考えて、弓鶴は性格の良さや人望から、とても人気があったに違いない。彼は、容姿だけでなく、人としても愛されていたのだ。だからこそ、彼がその冷たい『王子様』に変わってしまった今、彼の本当の姿を知る者たちは、その変化に戸惑い、私を避けているのだろう。

 私は――そんな彼の人間関係さえも壊してしまったのだ。彼が築き上げてきた友情や信頼を、私が彼のふりをして振る舞うことで、無意識のうちに崩してしまった……。

 どうして私は、彼の世界に足を踏み入れてしまったのだろう。弓鶴として生きることで、彼のすべてを奪ってしまったのではないかという罪悪感が、私の胸に重くのしかかる。

 その瞬間、私は心の中で、どうしようもなく彼に謝りたくなった。

「ごめんね、弓鶴。馬鹿なお姉さんでごめんね……」

 その言葉が、静かに私の内面を浸食していく。心の中で彼に謝罪を繰り返すたびに、喉の奥に苦い感情が広がり、涙が滲むのを感じた。けれど、泣くわけにはいかなかった。ここで涙を流すことは、彼の未来への背信行為になると分かっていたからだ。

 私は、彼を守るためにこの役割を引き受けたのだ。彼の人生が台無しにならないように、私が彼の代わりに立ち続けると決めたのだから、弱音を吐くことは許されない。

 それでも、心のどこかで叫びたい衝動があった。彼に戻ってきてほしい、私の肩からこの重荷を下ろしてほしい、と。

 だが、そんな願いを叶えるのは簡単なことではない。待ち受ける道のりは果てしなく長く、見通しさえ立たない。だから私は、ただ心の中で何度も何度も謝ることしかできなかった。氷のように固い仮面の下で、私は一人、孤独に苦しんでいた。

 その頃からだろうか、私は変な夢を見るようになった。
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