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第二章 回想編

第二十話 深淵の巫女姫

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 私は虎洞寺氏との討議を終え、心の中で確固たる決意を抱いていた。上帳がいずれ柚羽家の存続のために、私か弓鶴かのどちらかを差し出す要求をしてくるだろう、その予感が胸の奥深くで確信へと変わっていた。

 しかし、虎洞寺氏は悩んでいた。このまま屋敷に匿い続けることも考えていたようだ。でも、私の覚悟は揺るがなかった。柚羽家の後継者としての役目を果たす覚悟を示し、すべてを受け入れる準備が整っていた。

 弓鶴については別の計画を立てていた。彼については、始まりの回廊で根源の声を聴けなかった無資格者として報告し、上帳の要求から外れるように仕向けるつもりだった。虎洞寺氏は郭外での功績を持ち、上帳に強い影響力を持っており、深淵の血族のリストを管理していたため、報告資料の改ざんもお手の物だった。

 幸いにも、弓鶴には事件当時の記憶がなく、両親の死もまだ実感できていないようだった。私は心の中で、彼がこのまま何も知らずに、普通の生活を送ることをひたすら願った。

 弓鶴との別れは辛かったが、私はそれを乗り越え、上帳の言いなりで、お飾りの当主としての役目を果たすために、惨劇の舞台となった柚羽家に戻った。

 私に付き添ったのは、幼い頃からお世話になっているお手伝いの佐藤さんただ一人だった。彼女の存在が、私にとってはわずかな慰めとなっていた。

 家に戻ると、そこには過去の幸せな記憶が色あせた空間だけが残されていた。私はその静かな空間に身を置きながら、これからの未来を見据え、重い決断を胸に抱いて歩んでいくしかなかった。

        ◇        ◇

 私の深淵の巫女としての生活が始まった。しかし、私に与えられた役目は実質的には形式的なものに過ぎなかった。日々の仕事は、長年にわたって蓄積された文書の管理や、時折連れられてくる血族の子供たちを始まりの回廊へと案内することだった。

 そこで私は母から教わっていた舞を奉納し、深淵の根源の欠片を呼び起こす。そして、彼らは根源の声の判定を受ける。この回廊で声を聴けなかった者は、容赦なく郭外組織の外郭へと放り出される。

 声を聴けた者たちが幸せなわけではない。彼らが待ち受けているのは命がけの修練の日々であり、その後は命じられるままに心をすり減らし、冷酷な暗殺者としての日々が続く。深淵の術者としての人生は、無情で、心を鋭く削り取られながらも、完璧な暗殺者でなければならない。

 彼らの技術は、まるで暗闇から忍び寄る影のようなもので、人混みに紛れて対象に近づき、すれ違いざまに体内に極小の「場裏」という限定事象具現化領域を滑り込ませる。これにより、人体の重要な器官や血管を内部から破壊することができる。たとえ検視が行われても、突然死や原因不明の不審死として処理される。この技術は、まさに完璧な暗殺術と言えた。

 深淵の異能に基づく技能は、四つの色によって区別され、それぞれが一種類の流儀を備えている。この色分けは特に血筋に受け継がれやすく、各家の特性を色に反映させている。たとえば、柚羽家は『白』の大気への干渉を得意とし、真坂家は『赤』の熱への干渉を、鳴海沢家は『青』の水への干渉をそれぞれ使いこなす。

 具体的に、血管を断ち切る方法も異なる。『白』の流儀では、場裏の中で圧縮した空気を使い、内側から圧力をかけることで血管を破壊する。『赤』の流儀では、熱か凍気を用いて血管を焼き切るか凍らせる。『青』の流儀では、水を圧縮して極細の刃のように解放するか、大量に流し込んで血管を破裂させるといった方法が取られる。

 このような技術は、殺すことを容易にし、術者たちの心を冷徹にする。機械的に繰り返されるうちに、命の重みが次第に薄れていく。それが術者に課せられた運命であり、血と技術が結びついた暗い宿命なのだ。

 術者たちは、自らの能力を使いこなすことで、自らの心をも犠牲にしていく。感情の麻痺が進み、人の命などどうでもよくなってしまう。それが、彼らが選んだ道の厳しさであり、宿命の残酷さを物語っている。

 私はその現実を冷静に受け入れつつも、心の奥で複雑な感情が渦巻いていた。深淵の巫女としての役割が形式的であろうとも、その背後には深い暗黒が広がっていることを理解している。私が見守る血族の子供たちが、無邪気な笑顔のままこの先に待ち受ける過酷な運命を知る由もなく、ただ一つの道を歩んでいく姿を見るたびに、無力感と共に複雑な感情が胸に込み上げてきた。私の心はその矛盾に引き裂かれながらも、静かにその役目を果たすしかなかった。

      ◇         ◇

 私は計画を進めるために、密かに動き始めた。始まりの回廊で根源の欠片との対話を重ね、解呪に必要な要素とその過程を学びながら、自らの精霊子の器としての容量を慎重に拡げていった。急激に力を集めることは、自滅を招くと理解していたため、焦らず一歩一歩確実に進める必要があった。

 八年あまりが過ぎ、私の精霊子の器としての完成度はほぼ達成に近づいていた。しかし、私は弓鶴と違って完全な黒ではなく、すべてを受け止める容量を持っていなかった。根源はその事態を予め予見し、生物の遺伝子に介入していたのだろう。足りない容量を補うために、私の体内は変質し、受容結晶体とも言える異物が増殖し始めていた。

 この変質は私に地獄のような苦痛と肉体への負荷をもたらした。内なる変化が私の体を蝕み、日常生活さえ困難にさせた。それでも、私は諦めたくなかった。虎洞寺氏を通じて手に入れた強力な鎮痛薬に頼りながら、ひたすら耐え忍んでいた。痛みが私の意識を攪拌し、肉体の限界を試す中で、心の奥深くでの決意だけが私を支え続けた。

 それでも、どれほど過酷な状況であろうと、私の意志は揺らぐことなく、未来に向けた目標に向かって進むしかなかった。

       ◇       ◇

 しかし、私の企みは上帳に察知されてしまった。未完成ながらも根源への接続を試みる決意を固めた私は、静かな月夜の晩にその儀式を始めた。根源の欠片はその晩、私に問いかけた。



 私の心は揺らぐことなく、迷いもなく答えた。

「この命は元よりそのためにあったのです。迷うことなどありません」

 すべてを捧げる覚悟があった。

 そして、私はまばゆい光に包まれていった。光は次第に強さを増し、私の全身を切り裂くような痛みが襲ってきた。意識が朦朧とし、苦痛が私の体と心を引き裂こうとする中でも、私はひたすら願いを込めて祈り続けた。命のすべてを賭けて、ただひたすらに。

 やがて、私の器は精霊子で満たされ、根源の欠片と溶け合い、遂に深淵の根源は再生された。そして、その力で異界への門が開かれた。しかし、期待と希望の中で迎えたその瞬間、それは失敗に終わってしまった。門は開かれたが、根源はそれを潜ることができなかったのだ。私の努力は虚しく、計画は破綻した。

     ◇        ◇

 根源は深い戸惑いの中にあった。帰るべき場所と時間の座標が掴めないというのだ。絶望的な状況の中で、根源は門に向かって叫びを上げた。



 その瞬間、門は激しく光り輝き、何かが通過したように感じた。しかし、その直後に門は閉じてしまった。期待と希望の瞬間があっけなく消え去り、私の体は崩壊を始めた。

 失意の底に落とされた私は、自分が一体何のために命をかけてここまでやってきたのかを考えざるを得なかった。すべてが無駄だったように思え、何も変えられなかったことに深い無念さとやるせなさを感じた。命を賭けて挑んだ結果がこの無惨な終わりを迎えたことに、心の奥底での絶望が募っていった。

 私は、何もできないまま死んでいくのだろうか。その思いが、私の胸を締め付けるように迫ってきた。どんなに努力し、苦しみ抜いたとしても、その先に待っていたのはこの無力な終焉だったのだと感じると、言葉にできないほどの虚しさが押し寄せた。

 根源、その名は【デルワーズ】と名乗った。薄れゆく意識の中で、「彼女」の声が私に語りかけた。

「私はバルファという、こことは異なる世界で、敵を滅ぼすためだけに生み出された存在。ある時、私をその呪縛から解放し、生きる意味をくれた人がいた。私はその人が愛した世界を守ると誓った。それから気が遠くなるほどの長い時を生きてきた。しかし、私は世界を破滅に導こうとする脅威との戦いの最中、罠にかかりこの世界へと飛ばされてしまった。私はなんとしても、あの世界に帰らなければならない」

 デルワーズの告白は、私の心に深い衝撃を与えた。彼女の長きに渡る苦しみと使命感が、私を圧倒した。だが、そのためにこの世界に生き物や人間に精霊子を受け止める因子を植え付け、多くの人々が苦しんできた事実は、私に怒りしか生まなかった。

 「そのために、この世界の生き物や人間に精霊子を受け止める因子を植え付けたの?」と、心の中で呟いた。無数の命が犠牲になり、数えきれないほどの人々が苦しみ続けてきたことに、理不尽な怒りと許せない思いが込み上げてきた。

 しかし、今さらデルワーズを責めてもどうしようもない。私が目指していたのは、すべての苦しみを終わらせることだった。解呪を完遂しなければ、血族の人々は永遠に救われない。この呪いが続く限り、苦しみは終わらない。

 デルワーズはさらに続けた。

宿

 デルワーズの言葉は、私の心に冷たい刃のように突き刺さった。弟を利用しようというその提案は、あまりにも無慈悲で受け入れ難いものだった。

「私で失敗したから、今度は弟を使おうというの?」

 その思いが胸に渦巻き、怒りと無力感が私を圧倒した。私は血を分けた弟を守るためにすべてを犠牲にしてきたというのに、その願いが無惨に打ち砕かれようとしている。

 しかし、すでに手遅れだった。私にはもはや何もできることがなかった。無念と後悔だけが私を支配し、絶望の中で意識が徐々に途切れていった。自分の力不足と運命の無情さに打ちひしがれながら、ただ消えていくしかなかった。
  
      ◇        ◇ 

 再び目覚めた時、私は見知らぬベッドの中に横たわっていた。記憶の中の虎洞寺邸の天井の色が、私の視界に広がっているのが不自然だった。

 私は死んだはずだ。そのはずなのに、身体には痛みもなく、長かった髪も消えてしまっていた。驚きと混乱に駆られ、私はベッドから飛び起きて、自分の身体を確かめようとした。

 すぐに身体の違和感に気づき、心がざわついた。

 身体の重心がずれ、筋肉の感覚が異なる。手足の動きもぎこちなく、まるで自分の身体ではないようだった。その事実が生理的な嫌悪感を呼び起こした。

 手を動かすと、そこには小さくとも筋張った手があり、指先に力を込めると筋肉が動く感覚が全く違って感じられた。喉の奥の感覚さえも全てが異なる。

 鏡に映さなくてもすぐに理解できた。私、柚羽美鶴ゆずはみつるは、今弟の柚羽弓鶴ゆずはゆづるの中にあるのだと。

 「どうして!?」、と考えようとしたところで、私は消え行く意識の中で告げられた言葉を思い出した。



「そんな馬鹿な。ありえない!!」

 私は半狂乱になって喚き散らした。その声は聞き慣れた自分のものとは全く異なっていた。

 怒りと悲しみで混乱する思考の中でも、答えは簡単に出た。

 デルワーズが何も知らない弟の代わりに、私の知識と経験を利用しようとしたのだ。約定だと? それは単なる口実で、実際には弟を人質に取り、私を操るつもりだった。

 私の怒りが頂点に達したとき目覚めたのは、これまでの経験では感じたことのない未知の力と、おぞましい感覚だった。それが何か、すぐに理解できた。私の中に湧き上がるこの力こそが、後に【黒鶴】と呼ばれることになる、深淵が最も恐れる狂気の力だった。

 まるで制御不能な感情の嵐が心の奥底から吹き荒れるのを感じた。闇のベールが私を包み込み、視界がぼやけ、足元が崩れていくような不安定さに襲われる。怒りや恐怖、憎しみが次々と押し寄せ、理性が一瞬にしてかき消される。

 心は激しい情動に飲み込まれ、まともな思考が遠ざかっていく。感情の嵐は荒れ狂い、理性の防波堤を次々に打ち破っていく。冷静さを保とうとする意志が、まるで細い糸のように切れそうになる。

 憎しみが私を突き動かし、怒りが身体中を燃え上がらせるように広がっていくが、同時にその感情が自分を崩壊させる恐怖に包まれていく。私の心の奥深くで、深淵の力が無限の闇として広がり、私を呑み込もうとしている。

 すべてが渦巻き、もはや自分が何を感じているのか、何を望んでいるのかもわからなくなる。感情が暴走し、自我が溶けていく感覚に耐えきれなくなり、何もかもが無意味に思えてくる。深淵の力が私を飲み込み、その中で私の存在が消え去るのを感じながら、ただ無力感と絶望が心を支配しようとする。

 私はそれに気づいて、すぐに侵入思考と情動を遮断した。力の発動は、ぎりぎりのところで収まった。もし私に力を抑制する術がなかったら、完全に発動してしまうところだっただろう。そうなれば、私でもどうにもならないかもしれない。感情の起伏を徹底的に抑えなければならないと悟った。

 私はその場で泣き崩れた。絶望に打ちひしがれ、涙が止まらない。自らが招いた現実に対する後悔が、心を締め付ける。もし私が解呪なんてしようとしなければ、弟はこんな目に遭わずに済んだのに……。

 「私はどうすればいい……」と呟くしかなかった。声が震え、感情が抑えきれなくなり、心の中で渦巻く不安と恐怖が、私を深淵の底に引きずり込もうとしていた。

 自分が何をすべきか、どこに向かうべきか、もうわからなくなっていた。私の手には弟の命がかかっているという重圧と、私自身が背負っている深淵の力との矛盾が、私を押し潰そうとしていた。

 ただ、自分を抑え込み、冷静に現実を見つめなければならない。私は弟を守るために、そして自らを守るために、何かをしなければならない。しかし、その方法や道筋が見えないまま、ただ涙と共にその場に座り込んでいた。
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