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第一章

第十話 茉凜~私の導き手

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 でもどうしよう。今の私では準備不足もいいところだ。一体どう立ち向かえばいいのだろうか。身体の震えが収まらず、立っていることも辛い。

 そんな私を見てヴィルは言った。

「少し間を取ろう。息を整えるんだ」

 その気遣いに、私は心から感謝した。

 少しでも落ち着くためにその場にしゃがみ込むと、胸の鼓動がまだ激しく、呼吸も乱れていた。視線を上げると、彼の冷静な表情が私を見守っていた。

「ありがとう……」

 かすれた声で答えると、ヴィルが語り始めた。

「ところでミツル、お前は魔獣の強さというものをどう認識している?」

 不意の問いかけに、私は一瞬戸惑った。改めて問われると、答えるのが難しかった。

「……魔獣の強さは、その破壊力や速度だけでは測れないわ。確かに物理的な力や俊敏さは恐ろしいけれど、それ以上に厄介なのはその本能的な狡猾さと執念深さよ」

「その通りだ。お前ならどう戦う?」

「優位に立てるように、まず距離を取ってから魔獣の動きを封じる」

「それが魔術師のやり方だな。しかし、物陰に潜んだ魔獣が別の方向から不意を突いてきた場合、どう対応する?」

「それは……」

 冷たい汗が背中を流れる。

 一つに意識と思考を向けている時に、不意を突かれたら対応できる自信はない。エレダンの周辺は見通しのいい荒野が主だ。これがもし鬱蒼とした森林で、彼が言うようなシチュエーションに出くわしたなら……。

 そう考えると血の気が失せた。今まで生きてこられたのは、単に運が良かっただけなのかもしれない。

 ヴィルは私を見て、さらに続けた。

「戦いには常に予測不能な要素がつきものだ。だからこそ、状況に応じた柔軟な対応力が求められる。お前は強い魔術師だ。だが、強さだけでは生き残れない。心を冷静に保ち、瞬時に対応しなければならないんだ。それには膨大な修練と実戦での経験が必要になる。染み付いた技が勝手に反応するくらいにな」

 その言葉に私は深くうなずいた。立ち上がると、足の震えが少しずつ収まっていくのを感じた。

「わかったわ。ありがとう、ヴィル。もう少し頑張ってみる」

「うむ」

 そう言うと、ヴィルは間合いを取り直すために私から離れた。その瞬間、茉凜の声が私の心に届いた。



 驚きながら、私は小声で返した。

「え? どうして? 何の予測も準備もしないでどうするの?」



 考えすぎることが逆効果になる──その言葉の意味を、私は理解しようと必死になった。

「直感? 私の反応? どういう意味?」



 茉凜との出会いは、まるで嵐のように突然だった。

 石与瀬の海を臨む公園で、私は彼女を守ろうとして、無謀にも制御不能な黒鶴を完全に発動させてしまった。

 その時の記憶は、怒りと憎悪に心を呑まれていた私にとっては曖昧でしかなかった。ただ、一つだけ覚えているのは、あの瞬間の彼女の手の温もりだ。

 彼女の身体的な接触と、精神感応とも言える切実な呼びかけが、私を深い闇の底から引き上げてくれたのだ。その温もりは、今でも私の心の中で温かく残っている。彼女の存在が私にとってどれほど大切で、どれほど救いだったのか、今になって改めて再認識していた。



「死なせないためって? どういうこと?」



 私は目を見開いた。よくよく考えてみると、茉凜の言う通りかもしれなかった。予知の視界による認識と、危険から逃れたいという本能が、思考を排除して直感的に作用していたのだろう。

「そうか。そういうことだったんだ……」

 私は静かに答えた。結局のところ、マウザーグレイルの力は、茉凜という依代を守るための自己防衛本能に根ざした機能だったのかもしれない。けれど、それを駆動させていたのは紛れもなく茉凜の強い意志だ。彼女の私を救い出したいという純粋な願いが、その力を引き出していたのだ。

 その瞬間、私は深い理解と共に、心の中に確かな感謝の気持ちが湧き上がるのを感じた。



 茉凜にはいつも驚かされる。頭でっかちになりがちな私に、シンプルな道筋を示してくれる。それこそが、私にとっての『導き手』の意味なのだ。

 答えは得た。

「心を無にして、怖れず立ち向かえ、か」



 今、茉凜の予知の視界は私を守るために存在している。そして、その視界に身を委ねるためには、思考を手放すことが重要だ。そして、ヴィルの言葉通り、柔軟な対応力と瞬時の判断が求められる場面では、直感を信じることが最も大切なのだろう。

 私は深呼吸をしながら、心を静める。

 視界が茉凜の助けによってクリアになり、自分自身の内なる感覚と直感が際立ってくる。今は、過去の失敗や恐れを一旦横に置き、ただ現在の瞬間に集中することが求められている。心を無にし、流れるように変わる状況に合わせて対応する。その一瞬一瞬が、私にとっての試練であり、成長の機会なのだ。



「ありがとう、茉凜」

 ああ、なんて心強いんだろう。茉凜がいれば、私は最強になれる。嬉しくてたまらない気持ちが、胸の奥から込み上げてくる。

 私は目を閉じてマウザーグレイルを抱きしめていた。

「おい、剣を抱きしめて何をぶつくさ言ってるんだ?」

 ヴィルの声がして、私はすぐに現実に引き戻された。

「なんでもないわ」

 私は少し不機嫌になって答えると、立ち上がった。

「なら仕切り直しだ」

 私は静かに頷き、深呼吸をしながら心を整えた。呼吸が深く整うにつれて、心の雑音が静かに消えていく。マウザーグレイルを両手でしっかりと握り直し、その冷たさと重みを全身で感じ取る。

「私は茉凜を、そして私自身を信じる」

 予知の視界と、私が持っているすべて。それらを、ただ生き残るという本能で統合し、全身全霊で立ち向かうしかない。まだ未熟な自分にできることは、それだけだと感じる。

 私は静かに目を閉じた。

 余計な情報を削ぎ落とし、心の中の雑音を完全に排除する。周囲の音が次第に遠くなり、精神が沈静化していく。すべては茉凜がもたらしてくれる安心と信頼だけに包まれていた。

「お前、目を閉じたままでいいのか?」

 ヴィルの声が響いているが、その音は私の耳には届いていない。私は暗闇の中にいる。全くの無音、何も感じることができない空間に存在していた。それでも、不思議と不安は感じない。

「ほう……。さっきとはまるで別人だ。いいだろう。お前には俺の対魔獣戦用の基本の一つを見せてやろう」

 その感嘆めいた声も私の意識の奥深くに消えていく。今、私の内面で深い集中がさらに進んでいる。この感覚は、これまで一度も経験したことがないもので、音も視覚も、すべてが遠く消えていくのを感じる。

 私は予知視に切り替わるタイミングをひたすら待っていた。

 周囲の音や光、感覚すべてが虚無となり、心の中でただひたすら深い集中が続いていく。私の内なる感覚が研ぎ澄まされる中、戦う準備が整っていくのがわかる。すべての外的な影響を遮断し、心の奥底で静かに待機するその瞬間。どこかで、私の意識と感覚が一つになっていることを感じ取っていた。
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