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第一章
第二話 夜更けの酒場 私と剣の中の彼女
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夜が深まり、市場の外れにひっそりと佇む小さな酒場が、温かな光に包まれていた。古びた木の壁が、魔道ランプの柔らかな灯りに照らされて、まるで心を落ち着けるように揺らめいている。その温もりが、私の心の奥底までじんわりと浸透してくる。木の床が微かに軋む音や、遠くから聞こえる笑い声が、静かな夜の空気に溶け込んでいる。
私が手にしているのは、使い込まれた木製の酒器。中には淡い紫色のぶどう酒が静かに注がれ、その甘酸っぱい香りがふんわりと鼻をくすぐる。正直なところ、私はお酒を飲むのがあまり好きではないけれど、今はこのほんのりとした心地よさにほっとしている自分を感じている。
お酒を飲むことが多いのは、自分が積極的に飲みたいからではない。実際には、【彼女】がしつこく勧めてくるからだ。毎晩毎晩、「飲もう、飲もう」と誘われて、ついには断るのが面倒になって、仕方なく付き合っているだけなのだ。
それでも、最近はこのほろ酔いの気分が意外といいなと思えるようになってきた。ふわりとした気持ちに包まれるこの瞬間が、どこか安らぎを与えてくれるのだ。夜が深まるにつれて、心も少しずつ解放されていくような気がする。
私は小さな声で彼女に話しかける。
「いい? もうこの一杯だけだからね」
心の奥深くに響く彼女の声が、少し不満そうに答える。
えーっ!? だって明日は仕事の予定ないんでしょ? だったら、もう二杯くらい飲んでもいいんじゃない?
目の前に彼女がいないせいで、私たちの会話はますます奇妙に感じられる。
「に、二杯って……。もうっ、少しは節度を持ちなさいよ。あなたはそれで気分が良いんでしょうけど、飲んでいるのは私なんだからね。それに、明日はブーツをオーダーしに行くんだから、お酒でむくんだ脚なんかで行きたくないわよ」
彼女の声が再び響く。
それはわかるけど……。じゃあ、あと一杯だけ。お願いっ
ため息をつきながら、私はベルトのホルダーにかけられた純白の剣に手を伸ばす。
そう、この声の主である彼女とは、この剣そのものなのだ。そして、彼女は私の五感を共有している。私が感じるすべての感覚、香りや味わい、そして心の中でつぶやく声までも、彼女は共に感じているのだ。
「ほんとにもう……。あなたって、どうしてそんなにお酒が好きになっちゃったの?」
彼女の声がくすぐるように笑う。
どうしてかって? それはいろいろあるのよ。うふへへ……
その彼女特有の変わった笑い方に、私は少し苛立ちながら、大きなため息をつく。
「その変な笑い方で誤魔化さないで。元を正せば、あなたのせいでこんなことになってるんだから」
呆れながら剣の柄を軽く叩くと、彼女の声がからかうように響く。
ざんねんでしたー。いまのわたしにはそんなの効きませんからー
彼女の言葉に、むくれるしかない。
あの忌まわしい出来事に触れることは、心の奥底で深く沈めておきたいのに、それがまた思い出させられるのは、どうしようもない。
半年ほど前、エレダンへ向かう道中のことだった。
深い森の奥へと進んでいた私たちは、ひときわ太い幹を持つ木を見つけた。その木の枝には、ビワのような形と色をした果物がたわわに実っており、好奇心旺盛な彼女はその光景にすっかり魅了されていた。
ねえ、美鶴。これ、おいしそうじゃない? 取って食べてみようよ
『これを? どう見ても怪しそうなんですけど……』
でも、久しぶりに甘いものが食べたいな……。だって、こっちの世界に来てからというもの、スイーツなんて一度も口にしてないし……
あまり日が差し込まないこんな鬱蒼とした森の中で、果実など実るものだろうか。私の中で「危険」という警鐘が鳴り響いていた。けれど、彼女の無邪気なお願いには抗えず、私は渋々承諾した。
『んーっ、もう、しょうがないわね……』
私が慎重に剣を伸ばして果実を取ろうとした瞬間だった。
枝が生き物のように蠢き出し、私の腕をがっちりと捕らえた。その瞬間、森の静けさが一変し、私たちの周囲は突如として恐怖に包まれた。
『ちょ、ちょ、なにこれっ!?』
枝が触手のように変わり果てると、瞬く間に私の身体に絡みつき、まるで生き物のように締め付く。私はすぐに身動きが取れなくなり、恐怖に震えながら必死に抵抗した。
『いやだ。こらっ、離せ! うわああああーっ!!』
私の叫びは森の静けさに消え、周囲の音は遠くなるばかり。力尽きる前に、不気味な木の幹に開いた巨大な口に呑み込まれてしまった。
『うぷっ』
木の内部は異質で奇妙な世界だった。目の前に広がるのは、漆黒の闇と強烈なアルコールの香り。暗闇の中に漂うその香りが、胸の奥深くまで浸透してきた。
『大丈夫?』
うーん……
異様な空間の中で、私は奇怪な光景に囲まれていた。
アルコールの濃い香りがむんむんと漂い、彼女の声がどこか遠くで響いていた。彼女は私と感覚を共有しているが、それは変わり果て、彼女自身の意識もその影響を受けているようだった。
『あっ!? なにこれ?』
その瞬間、私の意識は混濁し、まるで鈍器で殴られたかのように頭がふらついた。脳裏に浮かぶのは、彼女が嬉々とした表情で果物を口に運ぶ姿。
あは、あははっ……。ねぇ、美鶴? これ、とってもおいしいよ……
私は何を見ているのか、これが夢なのか幻なのか、もう何が何だかわからなかった。そして、彼女の無邪気な喜びが、まるで呪いのように私の中に根を張り、混濁した意識が広がっていった。
私が正気を取り戻そうと必死に努力する一方で、彼女の声はますます混乱した様子で響いていた。
ああ……この感じ、なんだか気持ちいい……
『ちょっと、あなたしっかりしてよ!』
私は頭を振りながら、意識をなんとか保とうとしたが、その空間から逃れる方法がどうしても見つからなかった。
『こうなったら、もうどうにでもなれっ!!』
結局、私は自分の能力である【黒鶴(※1)】の【場裏(※2)】を使い、圧縮空気の炸裂でその恐怖の空間から脱出した。
しかし、その後、なぜか彼女は私の感覚を通してアルコールに対する強い嗜好を持つようになってしまった。それはまるで呪いにかかったようで、ほんとうにふざけた話だ。
その時の光景は、いまだに私の記憶に鮮明に刻まれており、思い出すだけで腹が立つ。ここは少しお灸を据えてやる必要がありそうだ。
「あ、そう、あなたみたいな呑んだくれは、いざという時に役に立ちそうもないし、ヘルハウンドの巣窟にでも放り投げ込んでやろうかな? そこで一晩中弄ばれたらいいわ」
彼女の声が焦りを帯びる。
ちょっとやめて。そりゃあ今の私は剣だから何も感じないかもしれないけど、あんなヘンタイ犬に囲まれて、ハアハアペロペロされるなんて想像するだけで無理。もうっ、なんか今のあなたって、昔みたいにSっ気丸出しじゃない? それってひどくない?
私はおかしくて、思わず笑みがこぼれてしまう。思い当たることがないわけじゃない。
「あら、まさかあなた、あの時のことをまだ根に持っているの?」
あたりまえじゃない。あれ、わたしマジでびっくりしたんだからね!
彼女が不満たらたらに言う『あの時』とは、試験対策の勉強の最中のことだ。彼女は何度も居眠りをしてしまい、そのたびに私がちょっとしたお仕置きをしていたのだ。
「だって、仕方ないじゃないの。せっかく勉強に付き合ってあげたのに、あなたったら、すぐに居眠りばかりしてるんだから。目を覚ますにはあれくらいはしないとね」
だからって、普通首に氷をくっつけるとかする? 挙句の果てに机の上に剣山とか! わたし、心臓止まるかと思ったんだから
「あはは、ごめんごめん、悪かった。でも、あの時のあなたの顔を思い出すだけで、おかしくなっちゃう」
そ、そこがドSなんだってば、もうっ!
不満たらたらで言い返す彼女だけれど、それもお互いにとって特別な思い出の一つなんだと思う。今の私たちは、ふざけ合いながらも、その裏で深い信頼で結ばれている。
そんな彼女の慌てふためく反応を楽しむ私の名前は【柚羽 美鶴】。とある理由でこの世界に転生して、今はミツル・グロンダイルと名乗っている。
そして、携えている剣の名前は白きマウザーグレイル。
この世界での両親が、私に遺してくれた唯一の絆の証。その剣の中には、私と同じような理由で転生してきた一人の女の子がいる。彼女の名前は【加茂野 茉凜】。底なしのお人好しでちょっとお節介が過ぎる、私の大切な人だ。
もっとも、オリジナルは元の世界に留まっていて、剣の中に存在するのは転写されたもう一人の彼女といえるのだけれど。
そんな私たちが転生してしまった理由については、複雑な事情があって語るには長すぎる。それはまた別の機会に触れていこう。
茉凜の声が再び響く。
そうだ。今日の取り分、あれでよかったの? 全部貰っちゃってもよかったのに
茉凜の声が、夕方の出来事を思い出させる。私はその質問に応じて答える。
「あれは、横から獲物を掠め取ったようなものじゃない。あの人たちは大変な思いをしたんだから、それに見合う報酬があって当然でしょ。なのに受け取ってくれようとしないんだもの。半分だって多すぎるくらいよ。まったく……」
私たちは狩りの帰りに、私は魔獣の大群に襲われていたパーティーを救った。
パーティーのリーダーであるカイルは、私が差し出した魔石を頑なに受け取ろうとしなかった。私は仕方なく、「半分こなら良いでしょ」と押し付けて、その場を逃げるように去ったのだった。
ふふと、茉凜の小さな笑い声が響く。その笑いに、私は少し眉をひそめる。
「何よ? その含みのある笑いは?」
彼女の声が優しく響く。
いつものことだけど、美鶴はほんとうに優しいね
その言葉に、私はふてくされて答える。
「私は別に優しくなんかないよ」
顔が少し熱くなってきた。それはきっとお酒のせいだけじゃない。茉凜とのやりとりが、私の心に温かな感情を呼び起こすのがわかる。
この世界に転生して、心細くならないでいられるのは彼女のお陰だ。前世で取り返しのつかない罪を犯し、絶望と停滞にあった私の前に舞い降りた女神、もとい王子様みたいな人。それが彼女。
あの日、私は行き先もわからず、ただ立ち尽くしていた。声の出し方すらわからず、心の中には深い孤独が広がっていた。誰も手を差し伸べてくれるなんて夢にも思えず、自分がどうすればよいのかもわからなかった。
彼女と出会うまで、私は誰かに支えられることなど考えたこともなかった。
あの日の記憶が甦るたびに、心の奥底が温かくなるけれど、その裏には切なさも交錯する。彼女との出会いは、私にとっての奇跡そのものであり、胸の奥で大切に刻まれている。
その温もりを失いたくないと強く願ったけれど、当時の私は素直になれず、自分の処理できない感情に戸惑いながら、彼女に対して辛く当たってしまった。文句も不満もないのに、ただそばにいてくれるだけで嬉しかったはずなのに、私はそれに気づけなかった。
それでも、彼女は変わらぬ笑顔で私に手を差し伸べてくれた。
彼女は私にとって、まるで太陽のような存在だった。凍りついた私の心が、彼女の温もりによって自然に溶けていった。彼女の優しさが、私の冷え切った心を暖かく包み込んでくれた。
今でも、彼女との出会いが私にとってどれほど貴重だったかを思い起こすと、心の中に深い感謝の気持ちが湧いてくる。その温もりが、私を支え、導いてくれたのだと、改めて実感する。彼女との関係は、私にとって何よりも大切なものだ。
「はあ……」
そんな事を思い出していると、心地よい酔いが私を包み込んできた。体がふわふわして、とても心地いい。まるで柔らかな雲の上に乗っているような、浮遊感に身を任せていた。
そんな時だった。
※1黒鶴
ミツルが前世で使っていた異能【深淵】の特殊個体を指す。この世界においては、魔石も詠唱も必要ない魔術として機能しているが、その仕組みは魔術とは根本的に異なる。
※2場裏
ミツルが操る術の基礎となるもので、限定された領域を作り出し、その中で事象を操作する。色で呼称される流儀に基づき、たとえば赤であれば熱の操作に関わり、イメージのままに具現化できる。
私が手にしているのは、使い込まれた木製の酒器。中には淡い紫色のぶどう酒が静かに注がれ、その甘酸っぱい香りがふんわりと鼻をくすぐる。正直なところ、私はお酒を飲むのがあまり好きではないけれど、今はこのほんのりとした心地よさにほっとしている自分を感じている。
お酒を飲むことが多いのは、自分が積極的に飲みたいからではない。実際には、【彼女】がしつこく勧めてくるからだ。毎晩毎晩、「飲もう、飲もう」と誘われて、ついには断るのが面倒になって、仕方なく付き合っているだけなのだ。
それでも、最近はこのほろ酔いの気分が意外といいなと思えるようになってきた。ふわりとした気持ちに包まれるこの瞬間が、どこか安らぎを与えてくれるのだ。夜が深まるにつれて、心も少しずつ解放されていくような気がする。
私は小さな声で彼女に話しかける。
「いい? もうこの一杯だけだからね」
心の奥深くに響く彼女の声が、少し不満そうに答える。
えーっ!? だって明日は仕事の予定ないんでしょ? だったら、もう二杯くらい飲んでもいいんじゃない?
目の前に彼女がいないせいで、私たちの会話はますます奇妙に感じられる。
「に、二杯って……。もうっ、少しは節度を持ちなさいよ。あなたはそれで気分が良いんでしょうけど、飲んでいるのは私なんだからね。それに、明日はブーツをオーダーしに行くんだから、お酒でむくんだ脚なんかで行きたくないわよ」
彼女の声が再び響く。
それはわかるけど……。じゃあ、あと一杯だけ。お願いっ
ため息をつきながら、私はベルトのホルダーにかけられた純白の剣に手を伸ばす。
そう、この声の主である彼女とは、この剣そのものなのだ。そして、彼女は私の五感を共有している。私が感じるすべての感覚、香りや味わい、そして心の中でつぶやく声までも、彼女は共に感じているのだ。
「ほんとにもう……。あなたって、どうしてそんなにお酒が好きになっちゃったの?」
彼女の声がくすぐるように笑う。
どうしてかって? それはいろいろあるのよ。うふへへ……
その彼女特有の変わった笑い方に、私は少し苛立ちながら、大きなため息をつく。
「その変な笑い方で誤魔化さないで。元を正せば、あなたのせいでこんなことになってるんだから」
呆れながら剣の柄を軽く叩くと、彼女の声がからかうように響く。
ざんねんでしたー。いまのわたしにはそんなの効きませんからー
彼女の言葉に、むくれるしかない。
あの忌まわしい出来事に触れることは、心の奥底で深く沈めておきたいのに、それがまた思い出させられるのは、どうしようもない。
半年ほど前、エレダンへ向かう道中のことだった。
深い森の奥へと進んでいた私たちは、ひときわ太い幹を持つ木を見つけた。その木の枝には、ビワのような形と色をした果物がたわわに実っており、好奇心旺盛な彼女はその光景にすっかり魅了されていた。
ねえ、美鶴。これ、おいしそうじゃない? 取って食べてみようよ
『これを? どう見ても怪しそうなんですけど……』
でも、久しぶりに甘いものが食べたいな……。だって、こっちの世界に来てからというもの、スイーツなんて一度も口にしてないし……
あまり日が差し込まないこんな鬱蒼とした森の中で、果実など実るものだろうか。私の中で「危険」という警鐘が鳴り響いていた。けれど、彼女の無邪気なお願いには抗えず、私は渋々承諾した。
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『いやだ。こらっ、離せ! うわああああーっ!!』
私の叫びは森の静けさに消え、周囲の音は遠くなるばかり。力尽きる前に、不気味な木の幹に開いた巨大な口に呑み込まれてしまった。
『うぷっ』
木の内部は異質で奇妙な世界だった。目の前に広がるのは、漆黒の闇と強烈なアルコールの香り。暗闇の中に漂うその香りが、胸の奥深くまで浸透してきた。
『大丈夫?』
うーん……
異様な空間の中で、私は奇怪な光景に囲まれていた。
アルコールの濃い香りがむんむんと漂い、彼女の声がどこか遠くで響いていた。彼女は私と感覚を共有しているが、それは変わり果て、彼女自身の意識もその影響を受けているようだった。
『あっ!? なにこれ?』
その瞬間、私の意識は混濁し、まるで鈍器で殴られたかのように頭がふらついた。脳裏に浮かぶのは、彼女が嬉々とした表情で果物を口に運ぶ姿。
あは、あははっ……。ねぇ、美鶴? これ、とってもおいしいよ……
私は何を見ているのか、これが夢なのか幻なのか、もう何が何だかわからなかった。そして、彼女の無邪気な喜びが、まるで呪いのように私の中に根を張り、混濁した意識が広がっていった。
私が正気を取り戻そうと必死に努力する一方で、彼女の声はますます混乱した様子で響いていた。
ああ……この感じ、なんだか気持ちいい……
『ちょっと、あなたしっかりしてよ!』
私は頭を振りながら、意識をなんとか保とうとしたが、その空間から逃れる方法がどうしても見つからなかった。
『こうなったら、もうどうにでもなれっ!!』
結局、私は自分の能力である【黒鶴(※1)】の【場裏(※2)】を使い、圧縮空気の炸裂でその恐怖の空間から脱出した。
しかし、その後、なぜか彼女は私の感覚を通してアルコールに対する強い嗜好を持つようになってしまった。それはまるで呪いにかかったようで、ほんとうにふざけた話だ。
その時の光景は、いまだに私の記憶に鮮明に刻まれており、思い出すだけで腹が立つ。ここは少しお灸を据えてやる必要がありそうだ。
「あ、そう、あなたみたいな呑んだくれは、いざという時に役に立ちそうもないし、ヘルハウンドの巣窟にでも放り投げ込んでやろうかな? そこで一晩中弄ばれたらいいわ」
彼女の声が焦りを帯びる。
ちょっとやめて。そりゃあ今の私は剣だから何も感じないかもしれないけど、あんなヘンタイ犬に囲まれて、ハアハアペロペロされるなんて想像するだけで無理。もうっ、なんか今のあなたって、昔みたいにSっ気丸出しじゃない? それってひどくない?
私はおかしくて、思わず笑みがこぼれてしまう。思い当たることがないわけじゃない。
「あら、まさかあなた、あの時のことをまだ根に持っているの?」
あたりまえじゃない。あれ、わたしマジでびっくりしたんだからね!
彼女が不満たらたらに言う『あの時』とは、試験対策の勉強の最中のことだ。彼女は何度も居眠りをしてしまい、そのたびに私がちょっとしたお仕置きをしていたのだ。
「だって、仕方ないじゃないの。せっかく勉強に付き合ってあげたのに、あなたったら、すぐに居眠りばかりしてるんだから。目を覚ますにはあれくらいはしないとね」
だからって、普通首に氷をくっつけるとかする? 挙句の果てに机の上に剣山とか! わたし、心臓止まるかと思ったんだから
「あはは、ごめんごめん、悪かった。でも、あの時のあなたの顔を思い出すだけで、おかしくなっちゃう」
そ、そこがドSなんだってば、もうっ!
不満たらたらで言い返す彼女だけれど、それもお互いにとって特別な思い出の一つなんだと思う。今の私たちは、ふざけ合いながらも、その裏で深い信頼で結ばれている。
そんな彼女の慌てふためく反応を楽しむ私の名前は【柚羽 美鶴】。とある理由でこの世界に転生して、今はミツル・グロンダイルと名乗っている。
そして、携えている剣の名前は白きマウザーグレイル。
この世界での両親が、私に遺してくれた唯一の絆の証。その剣の中には、私と同じような理由で転生してきた一人の女の子がいる。彼女の名前は【加茂野 茉凜】。底なしのお人好しでちょっとお節介が過ぎる、私の大切な人だ。
もっとも、オリジナルは元の世界に留まっていて、剣の中に存在するのは転写されたもう一人の彼女といえるのだけれど。
そんな私たちが転生してしまった理由については、複雑な事情があって語るには長すぎる。それはまた別の機会に触れていこう。
茉凜の声が再び響く。
そうだ。今日の取り分、あれでよかったの? 全部貰っちゃってもよかったのに
茉凜の声が、夕方の出来事を思い出させる。私はその質問に応じて答える。
「あれは、横から獲物を掠め取ったようなものじゃない。あの人たちは大変な思いをしたんだから、それに見合う報酬があって当然でしょ。なのに受け取ってくれようとしないんだもの。半分だって多すぎるくらいよ。まったく……」
私たちは狩りの帰りに、私は魔獣の大群に襲われていたパーティーを救った。
パーティーのリーダーであるカイルは、私が差し出した魔石を頑なに受け取ろうとしなかった。私は仕方なく、「半分こなら良いでしょ」と押し付けて、その場を逃げるように去ったのだった。
ふふと、茉凜の小さな笑い声が響く。その笑いに、私は少し眉をひそめる。
「何よ? その含みのある笑いは?」
彼女の声が優しく響く。
いつものことだけど、美鶴はほんとうに優しいね
その言葉に、私はふてくされて答える。
「私は別に優しくなんかないよ」
顔が少し熱くなってきた。それはきっとお酒のせいだけじゃない。茉凜とのやりとりが、私の心に温かな感情を呼び起こすのがわかる。
この世界に転生して、心細くならないでいられるのは彼女のお陰だ。前世で取り返しのつかない罪を犯し、絶望と停滞にあった私の前に舞い降りた女神、もとい王子様みたいな人。それが彼女。
あの日、私は行き先もわからず、ただ立ち尽くしていた。声の出し方すらわからず、心の中には深い孤独が広がっていた。誰も手を差し伸べてくれるなんて夢にも思えず、自分がどうすればよいのかもわからなかった。
彼女と出会うまで、私は誰かに支えられることなど考えたこともなかった。
あの日の記憶が甦るたびに、心の奥底が温かくなるけれど、その裏には切なさも交錯する。彼女との出会いは、私にとっての奇跡そのものであり、胸の奥で大切に刻まれている。
その温もりを失いたくないと強く願ったけれど、当時の私は素直になれず、自分の処理できない感情に戸惑いながら、彼女に対して辛く当たってしまった。文句も不満もないのに、ただそばにいてくれるだけで嬉しかったはずなのに、私はそれに気づけなかった。
それでも、彼女は変わらぬ笑顔で私に手を差し伸べてくれた。
彼女は私にとって、まるで太陽のような存在だった。凍りついた私の心が、彼女の温もりによって自然に溶けていった。彼女の優しさが、私の冷え切った心を暖かく包み込んでくれた。
今でも、彼女との出会いが私にとってどれほど貴重だったかを思い起こすと、心の中に深い感謝の気持ちが湧いてくる。その温もりが、私を支え、導いてくれたのだと、改めて実感する。彼女との関係は、私にとって何よりも大切なものだ。
「はあ……」
そんな事を思い出していると、心地よい酔いが私を包み込んできた。体がふわふわして、とても心地いい。まるで柔らかな雲の上に乗っているような、浮遊感に身を任せていた。
そんな時だった。
※1黒鶴
ミツルが前世で使っていた異能【深淵】の特殊個体を指す。この世界においては、魔石も詠唱も必要ない魔術として機能しているが、その仕組みは魔術とは根本的に異なる。
※2場裏
ミツルが操る術の基礎となるもので、限定された領域を作り出し、その中で事象を操作する。色で呼称される流儀に基づき、たとえば赤であれば熱の操作に関わり、イメージのままに具現化できる。
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