港の見える洋菓子店

かば

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モンブラン

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 ハローワークを出て、最初にしたことは大きなため息をつくことだった。

 今日も希望する求人がなかった。

 条件をゆるめても、あるのはブラックで有名なところか、技能を求められていないところばかりで、森は笑い出さなかったことをほめてもらいたいくらいだった。

 見つめていたコンクリートの地面から顔を上げて、通りを行き交う人々を眺める。

 老若男女。スーツ姿の会社員に、バイクや台車で荷物を運ぶ制服姿の配達員。

 世の中に仕事はたくさんあるのに、彼には今日も希望する求人がない。

 長い求職活動の中で自分は社会から必要とされていないのではないかと思い始めていたが、彼はまだあきらめていなかった。

「帰ろう。今夜のバイトは久しぶりにパティシエの仕事だし、早く帰って休まないと」

 森は空元気で背筋を伸ばすと、その大きな体で他の利用者たちを邪魔しないようにハローワークの外扉の前から歩き出した。

 すぐ近くの横断歩道が青信号に変わったので待っていた人々に交じって渡り、最寄り駅に向かって歩きながら、途中にある店で買う必要のある物があったか考える。

 すぐに必要な物はなかったが、こちらにしかない店がいくつかあるため、早めに買っておいた方が良さそうな物はいくつかあった。

 かばんの中の財布の中身とクレジットカードの利用可能額を思い出して何を買うか考えていると、次の横断歩道が赤信号になって森は立ち止まった。周囲の人々も立ち止まって、森の右隣には小柄な若い女性が並んだ。

「こんにちは。『笹風ささかぜ』の板前さんですよね?」

 話しかけられたとき、森はそれが自分に向けられたものだと理解できなかった。確かに「笹風」は彼の実家の日本料理店で、忙しいときの手伝いや父親の代わりとして厨房にも時々立っていたが、彼は自分のことを板前とは思っていなかった。

 森が反応しないので、もう一度話しかけられる。

「すみません。さっき偶然ハローワークから出てくるところを見ちゃったんですけど、お店の経営が厳しいんですか?」
「……俺に言ってるんですか?」
「そうです。笹風の板前さんが職探しをしているようだったのでどうしても気になってしまって」

 話しかけてくるのは右隣に立つ小柄な女性で、怖がる様子もなく彼を見上げていた。

 森はこの目をそらさないで圧をかけてくる彼女のことを思い出そうとしたが、常連客や最近来て目立った客ではないとしか分からなかった。

 笹風はそれほど忙しい店ではなくても、特に会話や目立つところのなかった客まですべて覚えられるほどゆとりのある店ではなかったし、彼自身も人の顔を覚えるのが得意ではなかった。

 そのため、森は客に対する礼儀を守りつつも、心の中ではキャッチセールスではないかと警戒しながら答えた。

「そういうことでしたら安心してください。時々手伝ってはいますが俺は笹風の板前じゃないですし、あの店の経営は大丈夫です」
「それなら良かったですけど、それならなぜ職探しを?」
「申し訳ありません。個人的なことですのでお答えいたしかねます」
「すみません!
 でも、怪しい目的でおうかがいしたわけではないんです!
 私、こういう者です!」

 警戒されていることに気づいた女性はあわてた様子で肩に掛けていたトートバッグから運転免許証を出して森の前に掲げた。

 その免許証によると、彼女の名前は「新町七海しんまちななみ」とあった。

 一緒に書かれている西日本の住所を見て、森は年に数回西日本から来店するグループに彼女がいたかもしれないことを思い出した。

「……もしかして、長田様のお連れでご来店されましたか?」
「そうです! 長田キャプテンの部下です!」
「そうでしたか。今後も笹風をよろしくお願いいたします」
「待ってください! 職探しをされているのならうちの会社で働きませんか?」
「ありがとうございます。
 でも、俺は板前の仕事は探してないので」

 森は新町の言葉に感謝だけして、青信号になった横断歩道を渡り始めた。

 キャッチセールスではなさそうだったし、板前として評価されているのは素直にうれしかったが、森は板前ではなく、パティシエとして働ける職場を探していた。

 すると、新町も森を追って横断歩道を渡った。小走りで森の前に出て、森の視界に入ろうとしながら引き留めようとする。

「待ってください! 少しだけで良いので話を聞いてください! お願いします!」
「申し訳ありません。用事がありますので」
「お願いします! 十分で良いんです!」

 新町の必死な様子に周囲から注目が集まり始めた。

 森にも視線が向けられて、すぐに耐えきれなくなった森は新町に顔を向けた。大柄な体格に似合わず、彼は内気な性格だった。

「……分かりました。場所を変えておうかがいします」
「ありがとうございます!」
「ついてきてください」

 せめてもの抵抗で、森は自分が働いたこともある近所の喫茶店に新町を案内した。

 新町もおとなしくついてきて、案内されたテーブル席の一つに座った。

 個人経営の古い純喫茶で、年代物の窓から優しく射し込む光に満たされた店内は、初めて来た客にも不思議な懐かしさを感じさせた。

「マスター、ブレンドコーヒーを二つお願いします」
「すみません、モンブランも一つお願いして良いですか? もちろん、板前さんの分のコーヒーも含めてすべてお金はお支払いしますから」
「……マスター、モンブランも一つお願いします」

 あとから店に入った森はカウンターの奥にいる年配のマスターに注文を出してから新町の向かい側に腰を下ろした。

 彼女はこの店に入ったことがなかったらしく、森が向かい側に座ってからも落ち着かない様子で店内を見回していた。モンブランを注文したのも、入り口近くの小振りな冷蔵ショーケースを見て中のケーキが気になってしまったためのようだった。

 マスターに呼ばれて森はお冷やとおしぼり、注文したコーヒーとモンブランを受け取って運び、改めて腰を下ろしてから新町に尋ねた。

「食べながらで良いのでお話をお聞かせください。
 先ほど『職探しをされているのならうちの会社で働きませんか?』とおっしゃっていましたが、新町様の会社では板前をお探しなんですか?」
「そうです。板前に限定してではないですけど、調理師か船舶料理士を探しています」
「『船舶料理士』ですか?」
「はい、船で食事を作ったり、食材を管理したりする国家資格です。
 うちの会社はセメントなどの貨物を船で運ぶ仕事をしているんですが、その船の一隻「青林丸せいりんまる」で司厨長が急に辞めることになったので新しい人を探しているんです」
「そうでしたか」
「あと、私の名前に『様』は不要です。敬語も使わないでもらえる方が助かります」
「……分かりました。できるだけ気をつけます」

 森は迷ってから新町の要望を受け入れた。

 彼女は口調こそまじめだったがしっかりモンブランを食べ始めていて、緊張しているようには見えなかった。

 でも、森の方はほとんど知らない若い女性と一緒にいることが不安で仕方なくて、彼女の話を早めに断ろうとした。

「新町さんのお誘いはとてもありがたいですが、お断りします」
「そうですよね。いきなりこんな話をされても信用できませんよね」
「そうではなくて、俺は板前の仕事を探してないんです。パティシエとして働きたいんです」
「板前の仕事は嫌なんですか?」
「嫌じゃないですが、パティシエとして働くのが夢なんです」
「だったら、うちの会社で働いてお金を貯めて、そのお金で学校に行くなり、自分の店を持つなりしてはどうですか?」

 新町は名案とばかりに片手にフォークを持ったまま手をたたいた。

「うちの会社は結構給与が良いし、乗船中は生活費がかからないから、お金を貯めやすいんですよ。二ヶ月乗船と二週間休みのサイクルで長期休暇も取りやすいから、休みの間に運転免許とか資格を取っている人もいます。条件付きで副業もできるので、休みに自分で作ったお菓子を売ることもできると思います。
 あと、乗船中は乗員全員がビジネスホテル並の個室で生活しますから、プライバシーも守れます。
 仕事も乗員十四人の食事を毎日三食作ることとそのための食材の買い出しと管理なので、笹風より忙しいということはないと思います。
 板前の仕事が嫌でなければ、うちの会社で働いてくれませんか?」

 次々と出てくる新町の言葉に圧倒されて、森はすぐに反論できなかった。

 はっきり断った言葉は伝わっているはずなのに、まったく理解されていない感じだった。

 内気な森は話を聞いてくれない相手に口で勝てたことがなかっただけに、押し切られてしまう予感がして背中に冷汗が浮かんだ。

「……お断りします。
 そんなに待遇が良いのなら新町さんが働いた方が良くないですか」
「無理ですよ。私はその青林丸で甲板員をしているので、司厨長にはなれません。
 それに、司厨長は腕が良くてみんなの好みに合う料理を作れる板前さんのような人じゃないとダメなんです。腕が悪くて好みに合わない料理ばかり出すような人だったら船の雰囲気が地獄になります。
 だから、板前さん――」
「森です」
「ありがとうございます。
 だから、森さんにうちの会社で働いてほしいんです」

 新町は手にしていたフォークを置いて食べかけのモンブランやコーヒーと一緒に脇へ移動させ、テーブルに身を乗り出して懇願した。

 分かりやすすぎる泣き落としだったが、その言葉には実感がこもっていた。

 森は上目遣いに見つめてくる彼女に同情してしまう前に反論した。

「お断りします。
 高く評価してくれていることはうれしいですが、俺は船で料理を作ったことがないので自信がありません。ほかの人を探してください」
「大丈夫です。船の厨房は陸上の厨房とそう変わらないそうですし、食材も寄港地のスーパーなどでまとめ買いするので特別な物は使いません。船舶料理士の資格も、調理師の資格があれば乗船して三ヶ月間料理の経験を積めば取得できます。栄養士の資格でも良いそうですが、持ってますよね?」
「……調理師と製菓衛生師の資格はあります」
「だったら大丈夫です。森さんならきっとできます。船のみんなが気に入っている笹風で板前をしている森さんが司厨長になってくれたら船のみんなが喜びます。
 パティシエになるのをあきらめろとは言いませんから、うちの会社で働いてくれませんか?」

 上目遣いを続ける新町を前にして森は言葉に詰まった。

 森の返事を無視し続けている新町の方が明らかに悪いはずなのに、森の方が悪いことをしているかのように罪悪感を刺激された。

 このまま断り続けても無視され続けることが容易に予想できることもあって、森は少し葛藤してから断り続けることをあきらめた。

「……しばらく考えさせてください」
「ありがとうございます!
 大切なことですから、じっくり考えてください。返事は早いとうれしいですが、いつでも待ってます。これ、私の連絡先です」

 勢いよく背筋を伸ばした新町は早口になりながら隣に置いていたトートバッグをかき回して名刺とボールペンを取り出すと、消したり書き加えたりしてから森の前に置いた。

 デザインやフォントがポップで明らかに仕事で使う名刺ではなかったが、新町の名前と電話番号、メールアドレス、新町が勤める会社の名前と電話番号が書いてあった。

「私に返事する代わりに会社に直接応募してくれても構いません。事前に連絡をもらえれば、船の見学をしたり、司厨長に話を聞いたりできるようにします。そのほかにも質問とかがあったらいつでも連絡してください」
「……分かりました。
 俺の連絡先は必要ですか?」
「ぜひ教えてください」

 新町にかぶせ気味に言われて、森は手にしていた新町の名刺を置くと、脇に置いていたかばんから取り出したメモ帳に名前と電話番号、メールアドレスを書いて新町の前に差し出した。

 本当に断りたいのであればメモを渡すべきではなかったし、声を荒らげてでも断るべきだったが、幼いころから「体が大きいのだからほかの人を怖がらせてはいけない」と言われ続けてきた森にはどちらもひどく難しかった。

「どうぞ」
「ありがとうございます。大切にお預かりしますね」

 新町は手に取ったメモを暗記するように二、三度確認してから二つ折りにしてトートバッグにしまった。

 そして、彼女はモンブランの残りとコーヒーを元の場所に移動させようとして、コーヒーから湯気が上がっていないことに気づいた。

「コーヒーが冷めてしまいましたね。代わりを注文しますか?」
「いえ、大丈夫です」
「モンブランも美味しいですし、ほかのケーキも美味しいんでしょうね。
 森さんもケーキ作りは得意なんですか?」
「得意な方だと思います。最近は趣味程度にしか作れていませんが」
「そうなんですね。ぜひ森さんのケーキも食べてみたいです」
「機会があればぜひ」

 森は再びフォークを手にしてモンブランの残りを食べ始めた新町を見ながら自分の分のコーヒーに口を付けた。いつもと変わらない香りのコーヒーはまだ温かさが残っていたが、今日はいつもより苦く感じた。



※「船舶料理士の資格も、調理師の資格があれば乗船して三ヶ月間料理の経験を積めば取得できます。」:作中は2008年ごろと想定しているので取得できる条件が異なるのですが、年代を明記していないため、混乱を招かないように現在の条件で書いています。ご了承ください。

※実際には作中のような強引な勧誘はないと思いますが、それまで海や船、船員に縁がなく、関心もなかった主人公に船で働くことについて考えてもらうために、あえて強引な勧誘をさせました。ご不快に感じられた方がいらっしゃいましたらお詫びいたします。
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