虐げられた令嬢と一途な騎士

しろ卯

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29.笑え、笑え。

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「お兄様、勘違いをなさっていますわ」
「勘違い?」
「ええ、そうです」

 ――笑え、笑え。心を読ませないように、感情を覆い隠して、微笑を貼りつけるのよ。

 マナーの家庭教師から教わった社交術。淑女として、必須の微笑。

「たしかに、オライオンとは知り合いました。けれどそれは、騎士見習いの彼が仕えていた騎士の夫人が体調を崩したために、お医者様を探して町に出ておいでになった時です」

 オライオンは騎士となるために、王城に務める騎士である叔父の家に預けられていた。その叔父の夫人は体が弱く、暑い夏を凌ぐためにフルムーン侯爵領を訪れていたのだ。
 実際に、彼に医師を紹介したこともある。

「その時に知り合い、領内でも信用できるお医者様を紹介して差し上げたのですわ。その後、私が外出する際の護衛を申し出てくださったの」

 目に熱いものが込み上げてきて、鼻の奥がつんっと痛くなったが、アルテミスはそれらを全て無視する。
 感情に蓋をして、微笑を貼り続けた。

「恩義を忘れない騎士が、私によこしまな考えなど持つはずがありませんわ」

 左手の下に隠された右手は、強く握りしめすぎて白くなっていた。目頭から染み出てきそうな涙を、懸命に抑える。

 ――まだよ。まだ我慢して!

 判決を言い渡される咎人のような気持で、アルテミスは兄の判断を待った。

 顎に手を当てて俯いていたアポロンは、少しして口を開いた。それは、アルテミスにはとてつもなく長い時間に感じた。

「アルテミスはその男には、何も思っていないのだね?」
「もちろんですわ」
「分かった。妙な疑いを向けて悪かったね」
「いいえ。お兄様は私を心配してくださっただけでしょう? 気にしていませんわ」

 部屋を出ていくアポロンを見送ってから扉を閉めた途端、アルテミスはその場にしゃがみ込んだ。後から後からと、とめどなく涙がこぼれ落ちる。

「ごめんなさい、ごめんなさい。オライオン……」

 青い石が三つ並んだ髪飾りを外すと、両手で握りしめ、謝罪の言葉を何度も口にした。
 それでも兄に泣いたこと気づかれないよう必死に涙を飲み込んで、水差しの水で濡らした手巾を使い、火照ったまぶたを冷やした。

 その夜、食事を終えて寝室に戻ったアルテミスはペンを握ると、愛する『ルーナ』に婚約が決まったこと、そしてもう連絡はできないことへの謝罪を綴った。
 あなたの幸せを祈っていると、その一文に、全ての心を込めて――。



 第一王子アモールより先に第二王子クピードに婚約者が決まったことで、次期王太子にはクピードが選ばれるのではないかと、貴族も民衆たちも囁き合った。
 また婚約者であるアルテミス・フルムーンが度々王城を訪れては、王家に仕える家庭教師たちや王妃直々に教育を受けていることで、噂の信憑性が増していく。

「アポロンが申していた通り、人形のような女だな」

 微笑を貼りつけて余計なことを口にしないアルテミスを、クピードはそう評する。

「殿下はなぜ私を?」
「私に群がる煩い羽虫を一匹捕まえたとして、飼う気になれるか? それならば私に興味を示さぬ美しい蝶を飼う方がましであろう?」
「まあ、ご令嬢たちが耳にされたら、お悲しみになりますわ」

 茶会の席で会話に加わらなかったことが原因だったのかと気づいたが、もう遅い。すでに二人の婚約は公表されている。よほどのことがなければ、解消されることはないだろう。
 感情を表さないアルテミスを蔑むように眺めていたクピードは、何を思いついたのか、面白そうに口角を上げる。

「ところで、止まろうとした花を摘んだら、蝶はどんな反応を見せるだろうね?」

 何の謎かけだろうかと、アルテミスは彼の思考を読み取るために、情報を探す。答えないアルテミスに向ける目を冷やかにすぼめると、クピードは息が掛かりそうなほど顔を寄せてきた。
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