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1巻
1-2
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薬草図鑑を見ると、どうやら地域限定の薬草もあるらしい。全てを集めるにはこの始まりの森とマップに書かれた場所を出て、旅をする必要がある。
「このままゆっくりと森で暮らすか、頑張って薬草コンプリートを目指すか、悩みどころですね」
その呟きが聞こえたのかどうか。ピコンッと例の音が鳴り、メッセージが表示された。
『おめでとうございます! 始まりの森に自生する薬草をコンプリートしました』
「ありがとうございます」
『調合スキルを獲得しました。レシピを選んで新種の薬草を生やすことができます。また、複数の薬草を調合して、オリジナルの薬草を生やすことも可能です』
「おお! それは僥倖です」
いくつかの材料を調合しなければ作れない薬も、どうやらスキル――樹人の能力で解決するようだ。
念願の力を手に入れた雪乃は、ほくほくと葉をきらめかせる。けれど、喜びは束の間だった。
『これにより、始まりの森から出ることが可能になりました』
「つまり今までは出られなかったのでしょうか? 試さなかったので、気が付きませんでした」
思いがけない事実に驚きながらも、メッセージに視線を戻す。そこには選択肢が表示されていた。
『 ▼この世界から出る
魔王になる 』
樹人に目玉は付いていないが、付いていれば点になっていただろう。
『この世界から出る』というのは、森を出るという意味だと解釈できる。だから、そちらには疑問を感じなかった。
問題は、もう一方の選択肢だ。
「どうして魔王なのでしょう? ここは魔王の森だったのでしょうか? お城らしき建造物は見かけませんでしたが。それに樹人が魔王というのは有りなのでしょうか?」
ふむうっと人間ならば首に当たる、枝上の幹を捻り、その展開を想像してみる。
色々な魔物を倒したり、ダンジョンを攻略したりして、辿り着いた魔王城。強敵に苦戦しながらも、なんとか最奥の部屋まで到達し、重厚な扉を開ける勇者たち。赤い絨毯が敷かれた先で彼らを待ち受けていたのは、一本の木。
なんとも緊張感が削がれるラスボスである。きっと樹人は勇者たちに無視されて、「魔王はどこだ?」と、捜し回られることだろう。そんな役どころは御免である。
放心する雪乃に追い討ちをかけるように、メッセージが追加された。
『今日中に出ていかない場合、魔王に進化します』
「なんと理不尽な」
もはや悩んでいる暇はない。雪乃は森を出ることに決めた。
「誰もいませんね?」
森の出口まで来た雪乃は、木に擬態した状態で辺りを確認してから、一歩踏み出す。すると蜘蛛の巣にかかったような微かな抵抗があり、淡い光が周囲を覆った。
根を止めて幹や枝をしげしげと観察してみるが、特に変化は見当たらない。けれどなぜか、根下に薬草図鑑と地図が実体化して転がっていた。きょとんと小幹を傾げながら拾うと、薬草図鑑は薄い光に包まれて雪乃の幹に吸い込まれるように消える。
不思議に思いつつも、これはゲームだからと自分を納得させた。それから残った地図をアイテムボックスにしまおうと、メニュー画面を表示させる。
「おや?」
いつもと同じように操作したはずなのに、現れない。
「おかしいですね? メニュー画面を表示してください」
声に出して指示するが、やっぱり出てこない。通常ならば空中にメニュー画面が現れ、そこに選択項目が並んでいるはずなのに。
小幹を傾げてふむうっと唸った雪乃は、別の指示を出してみる。
「えっと、ログアウトをお願いします」
ところが予想通りというべきか、しばらく待っても、何も起こらない。
「強制終了をお願いします」
不安を感じながら駄目で元々と思いつつ命じてみたが、やはり反応はない。
脳裏に浮かぶ言葉は、『異世界転移』と『デスゲーム』。いずれもゲームの世界に閉じ込められてしまうという内容だ。
「漫画や小説ではあるまいし、そんなことは」
ありえない答えに、歪めた口葉から乾いた笑い声が漏れ出る。
しかし始まりの森にある薬草を揃え終えた時、雪乃に提示された二つの選択肢は、『この世界から出る』と『魔王になる』だった。
嫌な予感を覚えて、雪乃の葉裏がじとりと湿る。樹人も冷や汗というものを掻くようだ。
「始まりの森に戻ってみましょう。セーブできない場所もあると聞きますし」
ホームや宿屋など、安全な場所でのログアウトを推奨しているゲームもある。無理にログアウトすると、再度ログインした時にデータが保存されていなかったり、死に戻りしていたりするのだ。
雪乃は出てきたばかりの、始まりの森へと根を返す。けれども踏み込もうとした途端に電気ショックみたいな衝撃が全身に走り、周囲に火花が散った。
「痛いっ! なんですか? 今のは?」
困惑する雪乃の疑問に返ってきたのは、一枚のカード。空から降ってきたようだが、見上げてみても、なんの影も形もない。
とりあえず、雪乃はカードを確認する。
『ようこそ我が世界へ。魔王になりますか?』
こんな状況でもぶれない問いかけに、怒りだか笑いだか、よく分からない感情が込み上げてきて、雪乃はふるふると震えた。
「なりませんっ!」
カードを地面に叩き付け根の向きを変えると、再び始まりの森から離れていく。残されたカードは煙を立ち昇らせて消滅した。
♪ ♪ ♪
地図の端に付いていたリングを腰辺りから伸びる小枝にかけ、雪乃は森から出た所で見つけた道を歩いていた。森とは違う、草もほとんど生えていない踏み固められた道だ。
「とはいえ、どうしましょう? せっかくだから図鑑を完成させてみましょうか……」
先行きの見えない不安を前に弱音が零れる。
見つけた道をそのまま進んでいるが、この道がどこまで続いているのか、どこに辿り着くのかも分からない。根を止めた雪乃は、腰にぶら下げていた地図を開いてみる。
描かれているのは地形と薬草が生える場所だけで、道や地名は記載されていない。人間の町に行く必要のない魔物には、これで充分なのだろう。
「始まりの森からは離れましたから、もう森に入れますかね?」
恐る恐る踏み込むと、すんなりと森に入ることができた。
安心した雪乃は歌を口ずさみながら、まだ回収していない薬草を求めて森の中をさまよう。
本来の世界なら一時間も歩き続ければ、疲れたり足が痛くなったりするはずだが、なぜかそういうことはない。
しばらく森の中を散策していると、根下から小さな声が聞こえてくる。
「わー」
「わー」
なんだろうかと思い視線を下げた雪乃は、「わあっ⁉」と驚いて飛び上がった。
「わー?」
黄茶色をした人参のような植物が、どこからか大量に現れて雪乃を見上げている。葉は人参とは違い、蕪に似て丸みを帯びていた。
十五センチほどの小さな植物は、二股に分かれた根を足のように使って雪乃の周りを駆け回ったり、ぴょこぴょこと跳ねたりしている。
小動物がはしゃいでいるみたいで可愛らしく、雪乃は思わず枝を差し出して掬うように持ち上げた。すると今まで採取してきた植物と同様、淡く輝いて雪乃の幹に吸収されてしまう。
「え? ええ?」
戸惑う雪乃に、天からカードが降ってくる。
『【マンドラゴラ】レシピを取得するには、残り八株必要です』
「この子たちも対象ですか?」
今まで感じなかった抵抗を覚えたのは、彼らが動いているからだろうか。吸収されたマンドラゴラたちの意思はどうなるのかと、申し訳なく思う。
雪乃が気落ちしている間にも、マンドラゴラたちは彼女の幹を登り、枝の上で跳ねたり、ぶら下がったりして遊んでいる。手もないのに器用なものだ。
「私、遊具ではないですよ? というより、君たち自由すぎではないでしょうか?」
リスや小猿を見ているようで愛らしいが、これが自分から生えてくると考えると、色々と気になる部分が出てくる。枝から生えている間も動くのだろうか? とか、生み出したマンドラゴラは自分の子供という扱いになるのだろうか? とか、疑問は尽きない。
悩んでいると、またもや天からカードが降ってきた。
『マンドラゴラのレシピを取得しました』
「私は何もしていませんよ?」
意味が分からなくて呆然とする雪乃だが、樹人の体で遊ぶマンドラゴラたちを見て、なんとなく理解する。自分たちの意思で動ける彼らは、自ら雪乃の小枝に触れて吸収されたようだ。
それだけでも予想外の行動であったのに、必要数に到達したため吸収されなかったマンドラゴラたちが、不満そうに抗議してくる。
「わー!」
「わー!」
「私は悪くないです。たぶん」
反論しようとしたものの、多勢に無勢だ。集まっていた大勢のマンドラゴラたちから責められて、雪乃は思わず幹を曲げてその場に正座した。
ちなみにマンドラゴラは、魔力回復薬の主原料となるらしい。乾燥させたものを煎じたり、生のまま擦り下ろしてフレッシュ・ジュースにしたりして使う。また、彼らが発する声には幻覚を見せる作用があるそうだ。
「自分から生まれる生命体を人に食べさせるとか、無理です」
植物に分類されるとはいえ、無邪気に駆け回る彼らを擦り下ろすなんて真似はできそうにない。
「それはそうと、吸収されて嬉しいのですか?」
ひとしきり騒いで落ち着いたマンドラゴラたちに疑問をぶつけてみると、一斉に頷いた。どうやら彼らは、樹人に吸収されることに喜びを感じるらしい。
魔物の生態がよく分からない雪乃は、ただただ困惑する。マンドラゴラは薬草で、魔物ではないのかもしれないが。
それはともかく、時間を追うごとに増えるマンドラゴラの群に囲まれて、雪乃は動けなくなった。少しでも動けば、根下に集まるマンドラゴラたちを蹴るか踏むかしてしまいそうだ。
マンドラゴラたち自身も、動こうとしては他のマンドラゴラの上に乗っかったり、転んで踏まれたりしている。
「わー……」
「大丈夫ですか?」
潰れそうなマンドラゴラを救出しながら、されるがままに遊ばれているうちに日が暮れた。
雪乃は大勢のマンドラゴラたちに囲まれたまま、根を張って眠りに就く。マンドラゴラたちも土に埋まって眠る。そして朝日が昇ると、彼らは一斉にどこかに去っていった。
「お気を付けてー」
「わー!」
「わー!」
枝を振って見送った雪乃は、軽く幹を伸ばしてから歩き出す。
薬草を探しつつ進んでいる間に、気付けば始まりの森を出て半月ほどが経っていた。
最初の頃こそ元の世界の状況が気になっていたものの、これだけ日が過ぎると考えも変わってくる。ログアウトについては、誰かプレイヤーに会った時に聞けばいいのだ。
「今さら帰ったところで、すでに騒動は起きているでしょう。のんびり行きましょう」
開き直った部分もあるのだろうが、元々雪乃は元の世界への未練が薄い。
家族はいるが両親は雪乃にあまり関心がなく、知人はいても親友と呼べる相手はいなかった。
失うものが少なかったからこそ、この不思議な世界に放り出されても、雪乃は前を向けたのかもしれない。そんな風に重くなった気持ちを打ち消すため、枝上の幹をふるふると振るう。
呼吸を整えて顔を上げると、空は青く澄み渡り、薄い雲がわずかに浮かんでいた。絶好の散歩日和である。雪乃は森の中をずんずんと進んでいく。
けれど、勢いがあるのは最初だけだ。言葉は分からなくとも久しぶりに自分以外の生き物と交流したことで、一人ぽっちの寂しさを思い出してしまった。
そこで根を止めてうつむいた雪乃は、ぴこんと思い立つ。
「そうです。マンドラゴラたちを生やせばいいのです」
不可抗力ではあるが、彼女はマンドラゴラを吸収している。必要数を吸収した薬草は、レシピを取得するだけでなく、樹人の体から生やすこともできるのだ。
意識すると、多種多様な薬草が茂る真ん丸頭から、にょきにょきと蕪みたいな葉が伸びてきた。蕪の葉はマリモ頭からさらに突き出て、黄茶色をした人参のような根まで現れる。そして、「わー?」という幼い子供に似た声を上げながら、ぽてんっと地面に落ちた。
「大丈夫ですか? 怪我はありませんか?」
まだ幼木とはいえ、それでも雪乃の樹高は一メートルほどある。十五センチほどの小さなマンドラゴラにとっては、充分に高い位置だったろう。雪乃は心配して膝を曲げるみたいに幹を折り、小枝を差し出す。
立ち上がったマンドラゴラは、「大丈夫」と伝えるかのように、「わー!」と元気な声を上げながら、ぴょんこぴょんこと跳ねてみせた。
ほっと幹を撫で下ろした雪乃は、マンドラゴラに向けて微笑むように葉をきらめかせ、さわりと揺らす。
「一緒に薬草を探してくれませんか?」
「わー!」
了解とばかりに無邪気に跳ねるマンドラゴラに癒やされながら、雪乃は薬草探しを再開した。
マンドラゴラは思った以上に優秀で、次々と薬草を見つけては声を上げながら跳ねる。
雪乃はマンドラゴラと連れ立って、森の中を進んでいった。
2
「――ネムネム草を発見しました」
薬草を見つけた雪乃は、採取するために草むらに分け入った。小さなマンドラゴラも、草の隙間を縫ってついてくる。
ネムネム草は花弁こそ控えめだが、群を成して咲く花から糸のように細長い薄紅色をした雄しべの束が垂れる、その姿は花火のようで美しい。
「これで残り一株です!」
「わー!」
採取したネムネム草が光の粒子となって、幹に吸収される。他にもないかと辺りを見回す雪乃の聴覚に、草が不自然に揺れる音が届いた。
慌てて木に擬態すると、異変に気付いたマンドラゴラも、雪乃の幹を登り枝葉の中に潜り込む。
それから時を置かずに、茂みの向こうに幾つもの人影が現れた。鎖帷子を着た体格のいい人間たちと、黒いローブに身を包んだ三人組が争っているようだ。
三人組の一人は怪我を負っているのか、動きが鈍い。他の二人に庇われながら、鎖帷子を着た人間たちの攻撃をなんとか往なしていた。
戦いの場は徐々に近付いてくる。雪乃は逃げたほうがいいのではないかと考えるが、下手に動けば気付かれて、却って危険な目に遭いかねない。
どうしたものかと悩んでいるうちに、もはや逃げられない距離まで迫ってきた。
雪乃は観念して、そのまま木になりきることにする。
「いい加減にしなさいっての! しつこい男は嫌われるわよ?」
黒ローブの一人が苦言を述べながら、鎖帷子を着た人間の腹に膝蹴りを入れる。声から察するに女だろう。
彼女の蹴りは綺麗に鳩尾に決まったようで、蹴られた人間は短い呻き声を上げて地面に倒れた。
もう一人の黒ローブは、刀で応戦している。逆袈裟に斬り上げたところで、雪乃は思わず視界を閉じて顔を逸らした。
どさりと人が倒れる音を聞いてから、改めて視界を開けてみる。
斬られたはずの人間に、出血している様子はない。着ていた鎖帷子のお蔭もあるだろうが、黒ローブは峰打ちで倒していたようだ。
雪乃は戦闘をするのも見るのも好まない。だが黒ローブ二人の鮮やかな手際に、芝居でも見ている気持ちになって、思ったほどの恐怖は抱かなかった。
「きりがないわね」
「ああ」
短く答えた刀使いの黒ローブは、男の声だ。
黒ローブ二人と鎖帷子を着た人間たちの力量の差は、素人目にも明らかだった。しかし怪我人を抱えていることもあり、数の差をひっくり返すことは難しそうだ。
「もういい。二人とも俺を置いていけ。そうすれば」
「冗談を言うな。なんのためにここまで来たと思っている?」
「くだらないこと言ってる体力があるなら、先に進みなさい」
負傷していると思われる黒ローブが見かねて声を張ると、即座に仲間の二人は彼の発言を切り捨て、目前の敵に向かった。
悔しそうに握りしめられた拳で、負傷している黒ローブも近くの鎖帷子を着た人間に応戦する。彼の拳は一人を戦闘不能に至らしめたが、木陰に隠れていた別の鎖帷子を着た人間の攻撃によって、腹部を負傷してしまう。
「ヒュウガっ!」
刀使いの黒ローブが慌てて地面を蹴り、傷付いた仲間のもとに駆け寄る。一目散に走る隙を狙って、二人の間に位置する場所にいた鎖帷子を着た人間が、横から斬りかかった。
けれどその刃が、刀使いを傷付けることはない。女黒ローブが投げた金属製の武器によって阻まれたのだ。
ヒュウガと呼ばれた仲間のもとに駆け付けた刀使いの黒ローブ。仲間に傷を負わせた人間を打ち据えて気絶させると、ヒュウガの状態を確かめる。
雪乃も怪我は大丈夫なのだろうか、命に別状はないのだろうかと、心配でならない。
「そうです。こういう時のための薬草です」
自分の能力を思い出した雪乃は、動揺しながらも薬草図鑑から知識を引き出す。
「ええっと、切り傷や止血に使える薬草は、と」
役に立ちそうな薬草を選び出すことに、夢中になる雪乃。だが周囲は戦いの最中である。ぴっと何かが頬葉を掠めた。
「ん?」
ひらひらと舞う葉の欠片。風に撫でられた程度の感触があるだけで痛みは感じなかったが、飛んできた物が少し離れた木に突き刺さったのを見て、樹液の気が引いた。
黒光りするナイフのような武器は、忍者が使うクナイによく似ている。
「のおおっ⁉」
無意識に声を発してしまい、慌てて両小枝で口の辺りを押さえる。口はないのに反射的な行動だ。
「子供⁉」
雪乃の素っ頓狂な声を耳にした黒ローブたちが、驚きの声を上げた。とはいえ互いにそれ以上の行動を取る余裕はない。
「私は木、私は木。秋になれば美味しい木の実を結ぶ、将来性豊かな広葉樹」
自己催眠をかけるように言い聞かせ、雪乃は木になりきるために視界を閉じる。そこに「わーっ!」と、マンドラゴラの焦った声が聞こえた。
何事かと振り返ると、鎖帷子を着た人間が抜き身の剣を構えて、雪乃に迫っているではないか。
「魔物め! 成敗してくれる!」
「のおおーっ⁉」
木に擬態している場合ではない。雪乃は慌てて逃げようとして、こけた。短い根は走るのに適していないのだ。
しかしお蔭で、間一髪ながら横薙ぎに払われた剣から逃れた。
「私はプレイヤーです。魔物ですけど魔物ではありません」
「何を訳の分からないことを言っている?」
雪乃の訴えも虚しく、鎖帷子を着た人間は、容赦なく剣を振りかぶる。
「ふんみゃああーっ!」
雪乃から絶叫が迸った。
ゲームなのだから、実際に命を奪われることはないはずだ。そう思いはしても、凶刃が襲いかかってくるのは怖い。雪乃は小枝で頭を覆い、ぎゅっと視界を閉じた。
「カイっ!」
「分かっている」
動けなくなったヒュウガを庇うため、一ヶ所に固まって戦っていた黒ローブ。その輪から刀使いが抜けた。ひゅんっという風鳴りと共に、鎖帷子を着た人間が剣を振り下ろす。
刃が届くまでの時間が、雪乃にはとても長く感じた。事故に遭遇すると、目の前の光景がスローモーションのように見えると言うが、こういうことだったのかと納得する。
金属同士がぶつかる音が響く。だが雪乃には、その意味を考える余裕などなかった。ただひたすら、恐怖の時間に耐える。しかし一向に終わりの時は訪れない。
「少々長すぎませんか? 一思いに伐ってくださったほうが、怖くなくてよいと思うのですが」
焦らされる恐怖に耐えかねて、そろりと顔を上げる。視界に映ったのは、彼女を伐り倒さんと襲ってくる刃ではなかった。
抜き身の刀を構えた黒いローブ姿の少年が、困惑した顔で雪乃を見下ろしている。予想していなかった光景に状況が理解できず、雪乃は少年を見上げたまま固まってしまう。
人間の雪乃より少し年上だろうか。少年は切れ長の黒い目が印象的な、整った顔立ちをしていた。
視線を下げると、彼の足下に雪乃を襲おうとした鎖帷子を着た人間が倒れている。
「もしや助けていただいたのでしょうか? ありがとうございます」
慌てて起き上がった雪乃は、深々と頭を垂れてお礼を述べた。
「樹人?」
「はい。樹人の雪乃と申します」
問われて雪乃は自己紹介をする。その間にも、襲いかかってきた鎖帷子を着た人間がいたのだが、少年は視線を向けることもなく峰打ちで倒した。
「俺はカイだ。……樹人は喋るのか?」
混乱している中でも、カイは名乗り返すことを忘れない。どうも律儀な性格のようである。
「カイっ! 何してるの? 早く戻りなさい」
「すまん、シナノ。すぐ行く」
女黒ローブ――シナノの切迫した声で冷静さを取り戻したカイは、雪乃を頭から根まで見やると、「ここは危ない。必ず護るから、少し我慢してくれ」と、一声かけてから、雪乃の幹を左手で掴んだ。
「へ?」
雪乃が了承する間もなく、彼は仲間のもとへ駆け戻る。
「ふみゃあっ⁉」
葉が風になびき、数枚飛んでいった。あっという間にカイは仲間のもとへ戻り、雪乃を地面に下ろす。
「なんという速力。カイさんはもしや、陸上で世界を狙えるのではないでしょうか?」
ばくばくと音を立てる維管束を小枝で押さえ、雪乃はどうでもいい感想を呟いた。
「ちょっとカイ? 何よその木は? 襲われていた子は?」
「この子がそうだ」
「はい?」
早打ちする維管束を抑えようと雪乃が努力している間、樹上ではカイとシナノが混乱している。
とはいえのんびりと事情を説明できる状況ではない。二人とも疑問は投げ捨てて、襲ってくる鎖帷子を着た人間たちとの対峙に意識を戻す。
「魔物を使役するとは。やはり貴様ら獣人は、魔王の手下だったか!」
「なんでも俺たちのせいにしないでくれ」
鎖帷子を着た人間たちの凶刃を防ぎながら、カイは不愉快そうに顔をしかめた。
「はて? 魔王と仰いましたか?」
気になる単語が聞こえてきたので顔を向けた雪乃だったが、詳しく聞ける雰囲気ではない。争う人々から視線を外し、目の前でうずくまるヒュウガを見る。裂けたローブの隙間から見える傷が痛々しいが、雪乃は物怖じせず彼に近付いた。
フードの下からヒュウガの顔が見える。年は三十代前半くらいだろうか。左目の下から口の少し上にかけて、古い切り傷の痕があった。雪乃の動きを探るように見ていた彼は、彼女に敵意がないと分かると相好を崩す。
「大丈夫だ。あの二人は強いから、お前くらいは護ってくれるよ」
ヒュウガは苦しい時でも相手を思いやることのできる、優しい強さを持っているようだ。
雪乃の心がほんわりと温かくなって、葉がきらきらと輝く。その葉の中から、蕗に似た丸い葉が生えてきた。白く短い毛で覆われた、ツワキフという名前の葉だ。子供の手ほどの大きさをしたその葉を引っこ抜くと、雪乃はヒュウガに差し出す。
「止血と鎮痛作用のある薬草をかけ合わせ、効能を上乗せした薬草です。どうぞ揉んでから傷口に当ててください」
元々のツワキフの葉自体にも止血作用はあるが、樹人の能力でさらに鎮痛作用を強化した薬草を作り出したのだ。
ヒュウガは驚いた面持ちで、雪乃と差し出された薬草を見比べる。
「ありがとう」
ほんのわずかな間を置いて、受け取った。
「このままゆっくりと森で暮らすか、頑張って薬草コンプリートを目指すか、悩みどころですね」
その呟きが聞こえたのかどうか。ピコンッと例の音が鳴り、メッセージが表示された。
『おめでとうございます! 始まりの森に自生する薬草をコンプリートしました』
「ありがとうございます」
『調合スキルを獲得しました。レシピを選んで新種の薬草を生やすことができます。また、複数の薬草を調合して、オリジナルの薬草を生やすことも可能です』
「おお! それは僥倖です」
いくつかの材料を調合しなければ作れない薬も、どうやらスキル――樹人の能力で解決するようだ。
念願の力を手に入れた雪乃は、ほくほくと葉をきらめかせる。けれど、喜びは束の間だった。
『これにより、始まりの森から出ることが可能になりました』
「つまり今までは出られなかったのでしょうか? 試さなかったので、気が付きませんでした」
思いがけない事実に驚きながらも、メッセージに視線を戻す。そこには選択肢が表示されていた。
『 ▼この世界から出る
魔王になる 』
樹人に目玉は付いていないが、付いていれば点になっていただろう。
『この世界から出る』というのは、森を出るという意味だと解釈できる。だから、そちらには疑問を感じなかった。
問題は、もう一方の選択肢だ。
「どうして魔王なのでしょう? ここは魔王の森だったのでしょうか? お城らしき建造物は見かけませんでしたが。それに樹人が魔王というのは有りなのでしょうか?」
ふむうっと人間ならば首に当たる、枝上の幹を捻り、その展開を想像してみる。
色々な魔物を倒したり、ダンジョンを攻略したりして、辿り着いた魔王城。強敵に苦戦しながらも、なんとか最奥の部屋まで到達し、重厚な扉を開ける勇者たち。赤い絨毯が敷かれた先で彼らを待ち受けていたのは、一本の木。
なんとも緊張感が削がれるラスボスである。きっと樹人は勇者たちに無視されて、「魔王はどこだ?」と、捜し回られることだろう。そんな役どころは御免である。
放心する雪乃に追い討ちをかけるように、メッセージが追加された。
『今日中に出ていかない場合、魔王に進化します』
「なんと理不尽な」
もはや悩んでいる暇はない。雪乃は森を出ることに決めた。
「誰もいませんね?」
森の出口まで来た雪乃は、木に擬態した状態で辺りを確認してから、一歩踏み出す。すると蜘蛛の巣にかかったような微かな抵抗があり、淡い光が周囲を覆った。
根を止めて幹や枝をしげしげと観察してみるが、特に変化は見当たらない。けれどなぜか、根下に薬草図鑑と地図が実体化して転がっていた。きょとんと小幹を傾げながら拾うと、薬草図鑑は薄い光に包まれて雪乃の幹に吸い込まれるように消える。
不思議に思いつつも、これはゲームだからと自分を納得させた。それから残った地図をアイテムボックスにしまおうと、メニュー画面を表示させる。
「おや?」
いつもと同じように操作したはずなのに、現れない。
「おかしいですね? メニュー画面を表示してください」
声に出して指示するが、やっぱり出てこない。通常ならば空中にメニュー画面が現れ、そこに選択項目が並んでいるはずなのに。
小幹を傾げてふむうっと唸った雪乃は、別の指示を出してみる。
「えっと、ログアウトをお願いします」
ところが予想通りというべきか、しばらく待っても、何も起こらない。
「強制終了をお願いします」
不安を感じながら駄目で元々と思いつつ命じてみたが、やはり反応はない。
脳裏に浮かぶ言葉は、『異世界転移』と『デスゲーム』。いずれもゲームの世界に閉じ込められてしまうという内容だ。
「漫画や小説ではあるまいし、そんなことは」
ありえない答えに、歪めた口葉から乾いた笑い声が漏れ出る。
しかし始まりの森にある薬草を揃え終えた時、雪乃に提示された二つの選択肢は、『この世界から出る』と『魔王になる』だった。
嫌な予感を覚えて、雪乃の葉裏がじとりと湿る。樹人も冷や汗というものを掻くようだ。
「始まりの森に戻ってみましょう。セーブできない場所もあると聞きますし」
ホームや宿屋など、安全な場所でのログアウトを推奨しているゲームもある。無理にログアウトすると、再度ログインした時にデータが保存されていなかったり、死に戻りしていたりするのだ。
雪乃は出てきたばかりの、始まりの森へと根を返す。けれども踏み込もうとした途端に電気ショックみたいな衝撃が全身に走り、周囲に火花が散った。
「痛いっ! なんですか? 今のは?」
困惑する雪乃の疑問に返ってきたのは、一枚のカード。空から降ってきたようだが、見上げてみても、なんの影も形もない。
とりあえず、雪乃はカードを確認する。
『ようこそ我が世界へ。魔王になりますか?』
こんな状況でもぶれない問いかけに、怒りだか笑いだか、よく分からない感情が込み上げてきて、雪乃はふるふると震えた。
「なりませんっ!」
カードを地面に叩き付け根の向きを変えると、再び始まりの森から離れていく。残されたカードは煙を立ち昇らせて消滅した。
♪ ♪ ♪
地図の端に付いていたリングを腰辺りから伸びる小枝にかけ、雪乃は森から出た所で見つけた道を歩いていた。森とは違う、草もほとんど生えていない踏み固められた道だ。
「とはいえ、どうしましょう? せっかくだから図鑑を完成させてみましょうか……」
先行きの見えない不安を前に弱音が零れる。
見つけた道をそのまま進んでいるが、この道がどこまで続いているのか、どこに辿り着くのかも分からない。根を止めた雪乃は、腰にぶら下げていた地図を開いてみる。
描かれているのは地形と薬草が生える場所だけで、道や地名は記載されていない。人間の町に行く必要のない魔物には、これで充分なのだろう。
「始まりの森からは離れましたから、もう森に入れますかね?」
恐る恐る踏み込むと、すんなりと森に入ることができた。
安心した雪乃は歌を口ずさみながら、まだ回収していない薬草を求めて森の中をさまよう。
本来の世界なら一時間も歩き続ければ、疲れたり足が痛くなったりするはずだが、なぜかそういうことはない。
しばらく森の中を散策していると、根下から小さな声が聞こえてくる。
「わー」
「わー」
なんだろうかと思い視線を下げた雪乃は、「わあっ⁉」と驚いて飛び上がった。
「わー?」
黄茶色をした人参のような植物が、どこからか大量に現れて雪乃を見上げている。葉は人参とは違い、蕪に似て丸みを帯びていた。
十五センチほどの小さな植物は、二股に分かれた根を足のように使って雪乃の周りを駆け回ったり、ぴょこぴょこと跳ねたりしている。
小動物がはしゃいでいるみたいで可愛らしく、雪乃は思わず枝を差し出して掬うように持ち上げた。すると今まで採取してきた植物と同様、淡く輝いて雪乃の幹に吸収されてしまう。
「え? ええ?」
戸惑う雪乃に、天からカードが降ってくる。
『【マンドラゴラ】レシピを取得するには、残り八株必要です』
「この子たちも対象ですか?」
今まで感じなかった抵抗を覚えたのは、彼らが動いているからだろうか。吸収されたマンドラゴラたちの意思はどうなるのかと、申し訳なく思う。
雪乃が気落ちしている間にも、マンドラゴラたちは彼女の幹を登り、枝の上で跳ねたり、ぶら下がったりして遊んでいる。手もないのに器用なものだ。
「私、遊具ではないですよ? というより、君たち自由すぎではないでしょうか?」
リスや小猿を見ているようで愛らしいが、これが自分から生えてくると考えると、色々と気になる部分が出てくる。枝から生えている間も動くのだろうか? とか、生み出したマンドラゴラは自分の子供という扱いになるのだろうか? とか、疑問は尽きない。
悩んでいると、またもや天からカードが降ってきた。
『マンドラゴラのレシピを取得しました』
「私は何もしていませんよ?」
意味が分からなくて呆然とする雪乃だが、樹人の体で遊ぶマンドラゴラたちを見て、なんとなく理解する。自分たちの意思で動ける彼らは、自ら雪乃の小枝に触れて吸収されたようだ。
それだけでも予想外の行動であったのに、必要数に到達したため吸収されなかったマンドラゴラたちが、不満そうに抗議してくる。
「わー!」
「わー!」
「私は悪くないです。たぶん」
反論しようとしたものの、多勢に無勢だ。集まっていた大勢のマンドラゴラたちから責められて、雪乃は思わず幹を曲げてその場に正座した。
ちなみにマンドラゴラは、魔力回復薬の主原料となるらしい。乾燥させたものを煎じたり、生のまま擦り下ろしてフレッシュ・ジュースにしたりして使う。また、彼らが発する声には幻覚を見せる作用があるそうだ。
「自分から生まれる生命体を人に食べさせるとか、無理です」
植物に分類されるとはいえ、無邪気に駆け回る彼らを擦り下ろすなんて真似はできそうにない。
「それはそうと、吸収されて嬉しいのですか?」
ひとしきり騒いで落ち着いたマンドラゴラたちに疑問をぶつけてみると、一斉に頷いた。どうやら彼らは、樹人に吸収されることに喜びを感じるらしい。
魔物の生態がよく分からない雪乃は、ただただ困惑する。マンドラゴラは薬草で、魔物ではないのかもしれないが。
それはともかく、時間を追うごとに増えるマンドラゴラの群に囲まれて、雪乃は動けなくなった。少しでも動けば、根下に集まるマンドラゴラたちを蹴るか踏むかしてしまいそうだ。
マンドラゴラたち自身も、動こうとしては他のマンドラゴラの上に乗っかったり、転んで踏まれたりしている。
「わー……」
「大丈夫ですか?」
潰れそうなマンドラゴラを救出しながら、されるがままに遊ばれているうちに日が暮れた。
雪乃は大勢のマンドラゴラたちに囲まれたまま、根を張って眠りに就く。マンドラゴラたちも土に埋まって眠る。そして朝日が昇ると、彼らは一斉にどこかに去っていった。
「お気を付けてー」
「わー!」
「わー!」
枝を振って見送った雪乃は、軽く幹を伸ばしてから歩き出す。
薬草を探しつつ進んでいる間に、気付けば始まりの森を出て半月ほどが経っていた。
最初の頃こそ元の世界の状況が気になっていたものの、これだけ日が過ぎると考えも変わってくる。ログアウトについては、誰かプレイヤーに会った時に聞けばいいのだ。
「今さら帰ったところで、すでに騒動は起きているでしょう。のんびり行きましょう」
開き直った部分もあるのだろうが、元々雪乃は元の世界への未練が薄い。
家族はいるが両親は雪乃にあまり関心がなく、知人はいても親友と呼べる相手はいなかった。
失うものが少なかったからこそ、この不思議な世界に放り出されても、雪乃は前を向けたのかもしれない。そんな風に重くなった気持ちを打ち消すため、枝上の幹をふるふると振るう。
呼吸を整えて顔を上げると、空は青く澄み渡り、薄い雲がわずかに浮かんでいた。絶好の散歩日和である。雪乃は森の中をずんずんと進んでいく。
けれど、勢いがあるのは最初だけだ。言葉は分からなくとも久しぶりに自分以外の生き物と交流したことで、一人ぽっちの寂しさを思い出してしまった。
そこで根を止めてうつむいた雪乃は、ぴこんと思い立つ。
「そうです。マンドラゴラたちを生やせばいいのです」
不可抗力ではあるが、彼女はマンドラゴラを吸収している。必要数を吸収した薬草は、レシピを取得するだけでなく、樹人の体から生やすこともできるのだ。
意識すると、多種多様な薬草が茂る真ん丸頭から、にょきにょきと蕪みたいな葉が伸びてきた。蕪の葉はマリモ頭からさらに突き出て、黄茶色をした人参のような根まで現れる。そして、「わー?」という幼い子供に似た声を上げながら、ぽてんっと地面に落ちた。
「大丈夫ですか? 怪我はありませんか?」
まだ幼木とはいえ、それでも雪乃の樹高は一メートルほどある。十五センチほどの小さなマンドラゴラにとっては、充分に高い位置だったろう。雪乃は心配して膝を曲げるみたいに幹を折り、小枝を差し出す。
立ち上がったマンドラゴラは、「大丈夫」と伝えるかのように、「わー!」と元気な声を上げながら、ぴょんこぴょんこと跳ねてみせた。
ほっと幹を撫で下ろした雪乃は、マンドラゴラに向けて微笑むように葉をきらめかせ、さわりと揺らす。
「一緒に薬草を探してくれませんか?」
「わー!」
了解とばかりに無邪気に跳ねるマンドラゴラに癒やされながら、雪乃は薬草探しを再開した。
マンドラゴラは思った以上に優秀で、次々と薬草を見つけては声を上げながら跳ねる。
雪乃はマンドラゴラと連れ立って、森の中を進んでいった。
2
「――ネムネム草を発見しました」
薬草を見つけた雪乃は、採取するために草むらに分け入った。小さなマンドラゴラも、草の隙間を縫ってついてくる。
ネムネム草は花弁こそ控えめだが、群を成して咲く花から糸のように細長い薄紅色をした雄しべの束が垂れる、その姿は花火のようで美しい。
「これで残り一株です!」
「わー!」
採取したネムネム草が光の粒子となって、幹に吸収される。他にもないかと辺りを見回す雪乃の聴覚に、草が不自然に揺れる音が届いた。
慌てて木に擬態すると、異変に気付いたマンドラゴラも、雪乃の幹を登り枝葉の中に潜り込む。
それから時を置かずに、茂みの向こうに幾つもの人影が現れた。鎖帷子を着た体格のいい人間たちと、黒いローブに身を包んだ三人組が争っているようだ。
三人組の一人は怪我を負っているのか、動きが鈍い。他の二人に庇われながら、鎖帷子を着た人間たちの攻撃をなんとか往なしていた。
戦いの場は徐々に近付いてくる。雪乃は逃げたほうがいいのではないかと考えるが、下手に動けば気付かれて、却って危険な目に遭いかねない。
どうしたものかと悩んでいるうちに、もはや逃げられない距離まで迫ってきた。
雪乃は観念して、そのまま木になりきることにする。
「いい加減にしなさいっての! しつこい男は嫌われるわよ?」
黒ローブの一人が苦言を述べながら、鎖帷子を着た人間の腹に膝蹴りを入れる。声から察するに女だろう。
彼女の蹴りは綺麗に鳩尾に決まったようで、蹴られた人間は短い呻き声を上げて地面に倒れた。
もう一人の黒ローブは、刀で応戦している。逆袈裟に斬り上げたところで、雪乃は思わず視界を閉じて顔を逸らした。
どさりと人が倒れる音を聞いてから、改めて視界を開けてみる。
斬られたはずの人間に、出血している様子はない。着ていた鎖帷子のお蔭もあるだろうが、黒ローブは峰打ちで倒していたようだ。
雪乃は戦闘をするのも見るのも好まない。だが黒ローブ二人の鮮やかな手際に、芝居でも見ている気持ちになって、思ったほどの恐怖は抱かなかった。
「きりがないわね」
「ああ」
短く答えた刀使いの黒ローブは、男の声だ。
黒ローブ二人と鎖帷子を着た人間たちの力量の差は、素人目にも明らかだった。しかし怪我人を抱えていることもあり、数の差をひっくり返すことは難しそうだ。
「もういい。二人とも俺を置いていけ。そうすれば」
「冗談を言うな。なんのためにここまで来たと思っている?」
「くだらないこと言ってる体力があるなら、先に進みなさい」
負傷していると思われる黒ローブが見かねて声を張ると、即座に仲間の二人は彼の発言を切り捨て、目前の敵に向かった。
悔しそうに握りしめられた拳で、負傷している黒ローブも近くの鎖帷子を着た人間に応戦する。彼の拳は一人を戦闘不能に至らしめたが、木陰に隠れていた別の鎖帷子を着た人間の攻撃によって、腹部を負傷してしまう。
「ヒュウガっ!」
刀使いの黒ローブが慌てて地面を蹴り、傷付いた仲間のもとに駆け寄る。一目散に走る隙を狙って、二人の間に位置する場所にいた鎖帷子を着た人間が、横から斬りかかった。
けれどその刃が、刀使いを傷付けることはない。女黒ローブが投げた金属製の武器によって阻まれたのだ。
ヒュウガと呼ばれた仲間のもとに駆け付けた刀使いの黒ローブ。仲間に傷を負わせた人間を打ち据えて気絶させると、ヒュウガの状態を確かめる。
雪乃も怪我は大丈夫なのだろうか、命に別状はないのだろうかと、心配でならない。
「そうです。こういう時のための薬草です」
自分の能力を思い出した雪乃は、動揺しながらも薬草図鑑から知識を引き出す。
「ええっと、切り傷や止血に使える薬草は、と」
役に立ちそうな薬草を選び出すことに、夢中になる雪乃。だが周囲は戦いの最中である。ぴっと何かが頬葉を掠めた。
「ん?」
ひらひらと舞う葉の欠片。風に撫でられた程度の感触があるだけで痛みは感じなかったが、飛んできた物が少し離れた木に突き刺さったのを見て、樹液の気が引いた。
黒光りするナイフのような武器は、忍者が使うクナイによく似ている。
「のおおっ⁉」
無意識に声を発してしまい、慌てて両小枝で口の辺りを押さえる。口はないのに反射的な行動だ。
「子供⁉」
雪乃の素っ頓狂な声を耳にした黒ローブたちが、驚きの声を上げた。とはいえ互いにそれ以上の行動を取る余裕はない。
「私は木、私は木。秋になれば美味しい木の実を結ぶ、将来性豊かな広葉樹」
自己催眠をかけるように言い聞かせ、雪乃は木になりきるために視界を閉じる。そこに「わーっ!」と、マンドラゴラの焦った声が聞こえた。
何事かと振り返ると、鎖帷子を着た人間が抜き身の剣を構えて、雪乃に迫っているではないか。
「魔物め! 成敗してくれる!」
「のおおーっ⁉」
木に擬態している場合ではない。雪乃は慌てて逃げようとして、こけた。短い根は走るのに適していないのだ。
しかしお蔭で、間一髪ながら横薙ぎに払われた剣から逃れた。
「私はプレイヤーです。魔物ですけど魔物ではありません」
「何を訳の分からないことを言っている?」
雪乃の訴えも虚しく、鎖帷子を着た人間は、容赦なく剣を振りかぶる。
「ふんみゃああーっ!」
雪乃から絶叫が迸った。
ゲームなのだから、実際に命を奪われることはないはずだ。そう思いはしても、凶刃が襲いかかってくるのは怖い。雪乃は小枝で頭を覆い、ぎゅっと視界を閉じた。
「カイっ!」
「分かっている」
動けなくなったヒュウガを庇うため、一ヶ所に固まって戦っていた黒ローブ。その輪から刀使いが抜けた。ひゅんっという風鳴りと共に、鎖帷子を着た人間が剣を振り下ろす。
刃が届くまでの時間が、雪乃にはとても長く感じた。事故に遭遇すると、目の前の光景がスローモーションのように見えると言うが、こういうことだったのかと納得する。
金属同士がぶつかる音が響く。だが雪乃には、その意味を考える余裕などなかった。ただひたすら、恐怖の時間に耐える。しかし一向に終わりの時は訪れない。
「少々長すぎませんか? 一思いに伐ってくださったほうが、怖くなくてよいと思うのですが」
焦らされる恐怖に耐えかねて、そろりと顔を上げる。視界に映ったのは、彼女を伐り倒さんと襲ってくる刃ではなかった。
抜き身の刀を構えた黒いローブ姿の少年が、困惑した顔で雪乃を見下ろしている。予想していなかった光景に状況が理解できず、雪乃は少年を見上げたまま固まってしまう。
人間の雪乃より少し年上だろうか。少年は切れ長の黒い目が印象的な、整った顔立ちをしていた。
視線を下げると、彼の足下に雪乃を襲おうとした鎖帷子を着た人間が倒れている。
「もしや助けていただいたのでしょうか? ありがとうございます」
慌てて起き上がった雪乃は、深々と頭を垂れてお礼を述べた。
「樹人?」
「はい。樹人の雪乃と申します」
問われて雪乃は自己紹介をする。その間にも、襲いかかってきた鎖帷子を着た人間がいたのだが、少年は視線を向けることもなく峰打ちで倒した。
「俺はカイだ。……樹人は喋るのか?」
混乱している中でも、カイは名乗り返すことを忘れない。どうも律儀な性格のようである。
「カイっ! 何してるの? 早く戻りなさい」
「すまん、シナノ。すぐ行く」
女黒ローブ――シナノの切迫した声で冷静さを取り戻したカイは、雪乃を頭から根まで見やると、「ここは危ない。必ず護るから、少し我慢してくれ」と、一声かけてから、雪乃の幹を左手で掴んだ。
「へ?」
雪乃が了承する間もなく、彼は仲間のもとへ駆け戻る。
「ふみゃあっ⁉」
葉が風になびき、数枚飛んでいった。あっという間にカイは仲間のもとへ戻り、雪乃を地面に下ろす。
「なんという速力。カイさんはもしや、陸上で世界を狙えるのではないでしょうか?」
ばくばくと音を立てる維管束を小枝で押さえ、雪乃はどうでもいい感想を呟いた。
「ちょっとカイ? 何よその木は? 襲われていた子は?」
「この子がそうだ」
「はい?」
早打ちする維管束を抑えようと雪乃が努力している間、樹上ではカイとシナノが混乱している。
とはいえのんびりと事情を説明できる状況ではない。二人とも疑問は投げ捨てて、襲ってくる鎖帷子を着た人間たちとの対峙に意識を戻す。
「魔物を使役するとは。やはり貴様ら獣人は、魔王の手下だったか!」
「なんでも俺たちのせいにしないでくれ」
鎖帷子を着た人間たちの凶刃を防ぎながら、カイは不愉快そうに顔をしかめた。
「はて? 魔王と仰いましたか?」
気になる単語が聞こえてきたので顔を向けた雪乃だったが、詳しく聞ける雰囲気ではない。争う人々から視線を外し、目の前でうずくまるヒュウガを見る。裂けたローブの隙間から見える傷が痛々しいが、雪乃は物怖じせず彼に近付いた。
フードの下からヒュウガの顔が見える。年は三十代前半くらいだろうか。左目の下から口の少し上にかけて、古い切り傷の痕があった。雪乃の動きを探るように見ていた彼は、彼女に敵意がないと分かると相好を崩す。
「大丈夫だ。あの二人は強いから、お前くらいは護ってくれるよ」
ヒュウガは苦しい時でも相手を思いやることのできる、優しい強さを持っているようだ。
雪乃の心がほんわりと温かくなって、葉がきらきらと輝く。その葉の中から、蕗に似た丸い葉が生えてきた。白く短い毛で覆われた、ツワキフという名前の葉だ。子供の手ほどの大きさをしたその葉を引っこ抜くと、雪乃はヒュウガに差し出す。
「止血と鎮痛作用のある薬草をかけ合わせ、効能を上乗せした薬草です。どうぞ揉んでから傷口に当ててください」
元々のツワキフの葉自体にも止血作用はあるが、樹人の能力でさらに鎮痛作用を強化した薬草を作り出したのだ。
ヒュウガは驚いた面持ちで、雪乃と差し出された薬草を見比べる。
「ありがとう」
ほんのわずかな間を置いて、受け取った。
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