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ヒイヅル編
329.人間だけは
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「そのような下らぬ理由ではない。人間だけは、始めからあの姿だったのだ」
「どういうことさ? さっき言ってたのと、話が違うんじゃないか?」
「人間は己の歴史さえ知らぬのか」
矛盾を突いてくるノムルに、ヒミコは首を左右に振ると、人間が現れた時の話を始めた。
「ある世代の樹人の王がお生まれになったときに、それまでこの世界にいなかった生き物が現れたと伝えられておる。それはエルフに似ておるが耳が小さかった――つまり、人間の姿そのままだったのだ」
雪乃は瞠目した。その現象に、彼女は心当たりがあったのだから。雪乃とムダイ――特にムダイだ。彼はある日突然、この世界に転移させられていた。
「樹人の王の祝福を受けた人間が他の種族との間に子を成すと、生まれてくる子は全て人間の姿となった。そのため人間は次々と増えていき、他の種族は減っていった。だが問題は、それだけでは終わらなかった。人間は欲深く、世界を支配しようと画策し始めたのだ。平和だった世界は、争いの尽きぬ世界になっていったという」
とくりと、雪乃の体で大きく脈打つものがあった。
かつていた世界も、常に支配権や富、名声などを求めて、人々は争い続けていた。
雪乃が生まれた国は平和だったが、それとて百年も維持していない。海の向こうに目を向ければ、どこかしらで紛争が起きていた。
「人間たちは自分たちと異なる姿をした種族を人とは認めず、隷属させ、ときに虐殺した。獣人の先祖たちは数を減らしながら、すでに移住していた一部の狼獣人を頼り、東の果てのこの地に逃げ込んだ」
この世界の大部分を占める大陸は、人間に支配されている。獣人の姿はほとんど見かけず、雪乃が出会った蟻人は、当たり前のように搾取されていた。
「しかし人間たちの欲は止まることを知らず、樹人の王の力を欲したのか、あるいは恐れたのか、樹人を魔物と称し虐殺し始めたのだ」
雪乃はゆっくりと幹を左右に振る。
「つまり樹人の王のせいで、罪も無い樹人たちが討伐されていたのですか? 獣人や虫人の方々が苦しんでいるのは、過去の樹人の王が、うっかり人間を選んでしまったから?」
悲痛な声が耳に届き、人間であるノムルを前に熱くなっていたヒミコは、はっと息を飲んだ。ノムルに向けていた険のある目を丸くすると、申し訳なさと気遣いを混じらせた目を伏せがちにしながら、窺うように雪乃に向ける。
ノムルもまた、雪乃を見つめた。その目には雪乃を心配する気持ちと、恐怖が揺れていた。
「ユキノちゃんは何も悪くないよ?」
「然様。罪を犯しているのは人間たちです。御子様、どうか気をお静めくださいませ」
樹人の子供は、小さく震えている。
駆け寄ろうとしたノムルはしかし、躊躇った。その一瞬の間に、黒い影が拝殿から飛び出てきて雪乃を抱きしめる。
「雪乃、お前のせいじゃない。大丈夫だ」
震える小さな樹人を、黒い狩衣を着たカイが、優しく何度も撫でて慰める。その様子をノムルが光の消えた目で眺めていたことに、雪乃もカイも気付かない。
落ち着いてきた雪乃は、カイから体を離す。
「続きをお願いします」
ヒミコを真っ直ぐに見つめて、頼んだ。
「よろしいのか? お辛いのでは?」
気遣うヒミコに対して、雪乃は幹を左右に振る。
「突然だったから驚きましたけど、大丈夫です。このまま中途半端の知識しかないと、悪い方向に考えてしまいそうですから。過ちを繰り返さないためにも、きちんと知っておきたいです」
真剣な声音に、ヒミコは重々しく頷くと、雪乃に向かって口を開いた。
「人間たちが樹人たちを虐殺し続けた結果、新たに生まれた御子まで失われるという悲劇が起きたのです」
樹人の御子を失った世界は混沌とした。精霊が減り、代わりに魔物が現れ森に入った人間を襲い始める。
それから更に歳月が流れ、人間たちの争いは一度は沈静化する。だが再び争いが始まり、その内に人間の中から魔王と呼ばれる存在まで現れた。
ヒミコの話を聞いていた雪乃の表情は、青ざめていた。けれどそれ以上に、ノムルの顔からは血の気も表情も抜け落ちていた。
「幸いにも魔物と呼ばれる存在が増えたことにより、樹人に向けられていた警戒は分散し、虐殺も減っていきました。しかし悲劇が再び起こらぬとは言えません。我等は御子様のお生まれを察知するなり大陸に一族の者を派遣して、御子様を保護することにしたのです」
雪乃はカイを見上げる。彼が優しくしてくれていたのは雪乃だからではなく、樹人の御子だったからなのかと、寂しく思えた。
すっと細くなったヒミコの目が雪乃を捉えたが、すぐに緩んだ。
「カイには昨夜話しました。大陸に行った者たちが人間に捕まり、御子のことを口外し危険に晒すようなことがあってはならぬと、御子の誕生をエルフから伝えられるまでは、神職に就いた者だけの秘め事としておりましたので」
樹人の御子が誕生したという報告がヒミコの下に届いたのは、カイたちが大陸に向かった後だった。
すぐさま御子を探すため、選び抜かれた獣人たちに御子に関する伝承を伝え、大陸に派遣した。けれど御子を見つけるどころか、噂さえ入手できなかった。
なにせ雪乃は人間のふりをして、堂々と旅を続けていたのだから。目立っていたのだが目立ちすぎていたために、樹人の御子とは気付かれなかったようだ。
そんな中、ヒイヅルに戻ってきたカイたちが、雪乃の話を報告する。
一報を受けたヒミコは、カイたちに御子の話を伝えていなかったことを悔やみつつも、速やかに大陸に渡った獣人たちに雪乃の情報を送った。
情報を受け取った獣人たちは、急いでカイたちが雪乃と別れたというサテルト国に向かう。そこからはカイからの情報を頼りに、雪乃を探し始めた。
そうしてなんとか雪乃に辿り着きかけた獣人もいたそうだが、接触しようとすると、なぜか不運に見舞われ見失ったという。
ちなみに不運の内容は、晴れた日に突然落雷に遭遇したり、竜巻に追い回されたり、止まっていた宿が吹き飛んだりと、様々なバリエーションがあった。
なんだか申し訳なさと恥ずかさが込み上げてきた雪乃は、真っ赤に紅葉して土下座した。
「御子様? 如何なされましたか?」
突然の奇行に、ヒミコが不思議そうに問う。後ろに控えている巫女たちも、小首を傾げる。
雪乃たちと行動を共にしていたカイだけは、理由を察して口元が歪んでいた。
「気にするな。死者や重傷者はいないと聞いている」
ぽんぽんっと頭を叩かれて、気付かれてしまったようだと、雪乃はますます紅葉する。
なんとか上体を起こした雪乃は、ちらりと原因であろう魔法使いの様子を窺い、そのまま停止する。
ノムルは雪乃を見ていなかった。
「どういうことさ? さっき言ってたのと、話が違うんじゃないか?」
「人間は己の歴史さえ知らぬのか」
矛盾を突いてくるノムルに、ヒミコは首を左右に振ると、人間が現れた時の話を始めた。
「ある世代の樹人の王がお生まれになったときに、それまでこの世界にいなかった生き物が現れたと伝えられておる。それはエルフに似ておるが耳が小さかった――つまり、人間の姿そのままだったのだ」
雪乃は瞠目した。その現象に、彼女は心当たりがあったのだから。雪乃とムダイ――特にムダイだ。彼はある日突然、この世界に転移させられていた。
「樹人の王の祝福を受けた人間が他の種族との間に子を成すと、生まれてくる子は全て人間の姿となった。そのため人間は次々と増えていき、他の種族は減っていった。だが問題は、それだけでは終わらなかった。人間は欲深く、世界を支配しようと画策し始めたのだ。平和だった世界は、争いの尽きぬ世界になっていったという」
とくりと、雪乃の体で大きく脈打つものがあった。
かつていた世界も、常に支配権や富、名声などを求めて、人々は争い続けていた。
雪乃が生まれた国は平和だったが、それとて百年も維持していない。海の向こうに目を向ければ、どこかしらで紛争が起きていた。
「人間たちは自分たちと異なる姿をした種族を人とは認めず、隷属させ、ときに虐殺した。獣人の先祖たちは数を減らしながら、すでに移住していた一部の狼獣人を頼り、東の果てのこの地に逃げ込んだ」
この世界の大部分を占める大陸は、人間に支配されている。獣人の姿はほとんど見かけず、雪乃が出会った蟻人は、当たり前のように搾取されていた。
「しかし人間たちの欲は止まることを知らず、樹人の王の力を欲したのか、あるいは恐れたのか、樹人を魔物と称し虐殺し始めたのだ」
雪乃はゆっくりと幹を左右に振る。
「つまり樹人の王のせいで、罪も無い樹人たちが討伐されていたのですか? 獣人や虫人の方々が苦しんでいるのは、過去の樹人の王が、うっかり人間を選んでしまったから?」
悲痛な声が耳に届き、人間であるノムルを前に熱くなっていたヒミコは、はっと息を飲んだ。ノムルに向けていた険のある目を丸くすると、申し訳なさと気遣いを混じらせた目を伏せがちにしながら、窺うように雪乃に向ける。
ノムルもまた、雪乃を見つめた。その目には雪乃を心配する気持ちと、恐怖が揺れていた。
「ユキノちゃんは何も悪くないよ?」
「然様。罪を犯しているのは人間たちです。御子様、どうか気をお静めくださいませ」
樹人の子供は、小さく震えている。
駆け寄ろうとしたノムルはしかし、躊躇った。その一瞬の間に、黒い影が拝殿から飛び出てきて雪乃を抱きしめる。
「雪乃、お前のせいじゃない。大丈夫だ」
震える小さな樹人を、黒い狩衣を着たカイが、優しく何度も撫でて慰める。その様子をノムルが光の消えた目で眺めていたことに、雪乃もカイも気付かない。
落ち着いてきた雪乃は、カイから体を離す。
「続きをお願いします」
ヒミコを真っ直ぐに見つめて、頼んだ。
「よろしいのか? お辛いのでは?」
気遣うヒミコに対して、雪乃は幹を左右に振る。
「突然だったから驚きましたけど、大丈夫です。このまま中途半端の知識しかないと、悪い方向に考えてしまいそうですから。過ちを繰り返さないためにも、きちんと知っておきたいです」
真剣な声音に、ヒミコは重々しく頷くと、雪乃に向かって口を開いた。
「人間たちが樹人たちを虐殺し続けた結果、新たに生まれた御子まで失われるという悲劇が起きたのです」
樹人の御子を失った世界は混沌とした。精霊が減り、代わりに魔物が現れ森に入った人間を襲い始める。
それから更に歳月が流れ、人間たちの争いは一度は沈静化する。だが再び争いが始まり、その内に人間の中から魔王と呼ばれる存在まで現れた。
ヒミコの話を聞いていた雪乃の表情は、青ざめていた。けれどそれ以上に、ノムルの顔からは血の気も表情も抜け落ちていた。
「幸いにも魔物と呼ばれる存在が増えたことにより、樹人に向けられていた警戒は分散し、虐殺も減っていきました。しかし悲劇が再び起こらぬとは言えません。我等は御子様のお生まれを察知するなり大陸に一族の者を派遣して、御子様を保護することにしたのです」
雪乃はカイを見上げる。彼が優しくしてくれていたのは雪乃だからではなく、樹人の御子だったからなのかと、寂しく思えた。
すっと細くなったヒミコの目が雪乃を捉えたが、すぐに緩んだ。
「カイには昨夜話しました。大陸に行った者たちが人間に捕まり、御子のことを口外し危険に晒すようなことがあってはならぬと、御子の誕生をエルフから伝えられるまでは、神職に就いた者だけの秘め事としておりましたので」
樹人の御子が誕生したという報告がヒミコの下に届いたのは、カイたちが大陸に向かった後だった。
すぐさま御子を探すため、選び抜かれた獣人たちに御子に関する伝承を伝え、大陸に派遣した。けれど御子を見つけるどころか、噂さえ入手できなかった。
なにせ雪乃は人間のふりをして、堂々と旅を続けていたのだから。目立っていたのだが目立ちすぎていたために、樹人の御子とは気付かれなかったようだ。
そんな中、ヒイヅルに戻ってきたカイたちが、雪乃の話を報告する。
一報を受けたヒミコは、カイたちに御子の話を伝えていなかったことを悔やみつつも、速やかに大陸に渡った獣人たちに雪乃の情報を送った。
情報を受け取った獣人たちは、急いでカイたちが雪乃と別れたというサテルト国に向かう。そこからはカイからの情報を頼りに、雪乃を探し始めた。
そうしてなんとか雪乃に辿り着きかけた獣人もいたそうだが、接触しようとすると、なぜか不運に見舞われ見失ったという。
ちなみに不運の内容は、晴れた日に突然落雷に遭遇したり、竜巻に追い回されたり、止まっていた宿が吹き飛んだりと、様々なバリエーションがあった。
なんだか申し訳なさと恥ずかさが込み上げてきた雪乃は、真っ赤に紅葉して土下座した。
「御子様? 如何なされましたか?」
突然の奇行に、ヒミコが不思議そうに問う。後ろに控えている巫女たちも、小首を傾げる。
雪乃たちと行動を共にしていたカイだけは、理由を察して口元が歪んでいた。
「気にするな。死者や重傷者はいないと聞いている」
ぽんぽんっと頭を叩かれて、気付かれてしまったようだと、雪乃はますます紅葉する。
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