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ラジン国編

169.今のところ、ただ一人

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 ディランは考える。
 今回の旅により、ノムルが感情を取り戻したのだろうか、と。
 否、総帥としての仕事を執り行っていた時の彼は、以前と変わらぬ、口元に笑みを貼り付けただけの、無表情だった。
 少し機嫌が悪いようだとは感じたが、それだけだ。
 ノムルの感情が解放されるのは、今のところ、ただ一人の子供に対してのみ。

 ちらと、ヴォーリオを窺った。彼もまた、同じことを思案しているのだろう。ノムルを見つめたまま、動けないでいる。
 部下達からの報告が、脳裏を掠めた。
 非魔法使い共が、また非礼を働いたのだと然して気にしなかった報告だが、確かめておいたほうが良いのかもしれない。
 そう思い至り、ディランは口を開く。

「ノムル様、今回の旅について、幾つかお尋ねしたいのですが?」
「ああ、なに?」

 ノムルが顔を向ければ、ヴォーリオも何を聞くのかと、眉を跳ねた。

「今回の旅で、幾つかの冒険者ギルドの建物を、破壊したとの報告が入っているのですが、その行為に至った経緯をお聞きしてもよろしいでしょうか?」
「ああ、いいよ」

 と、ノムルはルモン大帝国で破壊した、三件の冒険者ギルドでの出来事を、語って聞かせた。
 聞いているうちに、ヴォーリオのあごが徐々に下がっていく。

「ひどいだろ? 俺のユキノちゃんを苛めるなんて」
「むしろノムルさんの暴走のほうが、精神的なダメージが大きかったです」
「ええー?」

 子供のように、唇を尖らせるノムル・クラウ。
 ディランは視線を泳がせながらも、必死に脳内を整理していく。思い返してみれば、今日ノムルを呼びに行ったときに、異変の片鱗はあった。
 廊下側からは、声しか聞こえなかったが、子供に諭されて仕事に向かったノムル・クラウに、驚いたではないか。その後はいつもと変わらぬ様子だったから、特に気にしていなかったが。

 ぞくりと、ディランの背筋に冷たいものが走った。
 誰に対しても無関心を貫いていたノムル・クラウが、ここまで執着するなど前例がない。
 もしこの子供に万が一のことが起こったら、ノムル・クラウはどうするのだろう? どうなるのだろう?
 わずかに物が当たったというだけで、平然と建物を破壊するなど、常軌を逸している。
 今までにも滅ぼした国や、粛清を加えた町はあった。しかしそれらに関しては、ディランもヴォーリオも、納得するだけの理由があった。
 だが今回は違う。
 視線を動かせば、ヴォーリオの顔色も青ざめていた。

 ノムル・クラウは兵器だ。
 たった一人で国家に対抗できるほどの、圧倒的な魔力と魔法を持つ、至高の魔法使い。さらに彼がその気になれば、彼に心酔する世界中の魔法使いたちが、嬉々として死地にも飛び込んでいくだろう。
 その力が、こんな子供一人のために使われたら、この世界の秩序はどうなるか。

 嫌な汗が掌を湿らせる。
 今ならまだ、間に合うかもしれない。何とか引き離さなければ――
 ディランはちらりとヴォーリオを見た。彼もまた、目礼で同意を示す。

「ところでノムル様は、明日から調合に入られるとか」
「ああ。融筋病の薬をね」
「融筋病ですか?! 素晴らしい。流石ノムル様。ではその間、ユキノ様は我々が」
「必要ないよ? ユキノちゃんと一緒に調合するから。ねー?」
「「え?」」

 視線が雪乃へと集まる。

「はい。ノムルさんのお知り合いの治療に、必要ということでしたから」

 何でもないような口調だが、「いやおかしいだろう?」と、ディランとヴォーリオは心の中で突っ込む。
 雪乃は樹高一メートル。調合どころか、薬草の名前を知っているだけでも驚きの外見なのだ。闇死病の話は聞いていても、実際に目にするとなるとまた違ってくる。

「可愛いし、優秀だし、何が不満なのさ?」

 心底分からないと、ノムルは肩をすくめると、眉根を寄せた。
 ディランとヴォーリオの企みは、船出と同時に沈没寸前のようだ。それでも何とか穴を塞ぐ努力をしてみる。

「ところで、ユキノ様は魔法に関しては?」
「治癒魔法は教えたよ? ユキノちゃんは身体強化も覚えたいって言うけど、可愛いユキノちゃんが筋肉ムキムキになるのは、おとーさん的に許容できなくて」
「「……」」

 そこじゃない! というか、なぜそれを望むんだ? と、ディランとヴォーリオは、心の奥から口に上ってくる言葉を必死で飲み込む。

「ちなみに、どの程度使えるのか、確認させていただいても?」
「ああ、いいよ」

 と、軽く返事をしたノムルに、雪乃は嫌な予感がした。

「駄目です! ノムルさ……」

 遅かった。
 ディランとヴォーリオが、目と口を大きく開いて固まっている。
 雪乃はふるふると震えた。

「どーして自分のお腹を刺すんですかっ?!」

 腹筋から絞り出した怒声が、男たちの鼓膜に衝撃を与えたのだった。樹人に腹筋はないのだが。

「ユキノちゃんってば、心配性なんだから」
「自分の体をもっと大切にしてくださいって、言っているでしょうが!」

 などと話している間に、傷はすっかり跡形もなくなっている。
 雪乃も旅の間に腕を上げたのだ。この程度の傷は、数秒あれば回復できるようになった。
 頬葉を膨らます雪乃を、ノムルはにやにやと見つめている。

「え? その傷をそんな短時間で? ……ヴィヴィより上か?」
「薬草に次いで、魔法まで……。反対する理由が……」

 頭を抱えるヴォーリオとディランには気付かず、雪乃はノムルを叱り続けた。
 その光景も、二人を困惑させる。
 ノムル・クラウに面と向かって苦言を呈せる者など、魔法ギルドにはいない。いたとしても、ノムルが静かに聴いているはずがない。
 どれほどの正論だろうと、逆切れして口を封じられてしまうに決まっている。
 それなのに、なぜこんな小さな子供が、ノムル・クラウに意見できるのか、ディランとヴォーリオには、さっぱり理解できなかった。

「とりあえず、今日はもう、食事に行きませんか?」
「そうだな。融筋病の薬を開発するとなると、しばらくは留まられるだろう」

 頷き合うと、ノムルと雪乃を食事に誘ったのだった。

「そーだねえ。そういえばユキノちゃん、まだ眠くないの?」

 ノムルは不思議そうに首を捻る。外はもう真っ暗だ。いつもならとっくに眠っている時間だった。

「眠くありませんね。明るいからでしょうか?」
「そうなんだ」

 植物は人工的な光でも、明るければ眠れない。室内の灯りに照らされている影響か、雪乃の目は冴えていた。
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