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北国編

143.刃物男の目には

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「動かないでください。出血が酷くなります。大丈夫ですから!」

 事実、刃物男の目には、雪乃しか映っていない。
 けれど女性からしてみれば、恐怖でしかないだろう。逃げようともがく女性の傷口から、血があふれる。

「お願いだから、じっとしてて」

 祈るような気持ちで全身の力を込めて、女性を抑えた。
 血に濡れた光る刃が、雪乃に振り下ろされる。

「さっさと逃げなよ?」

 振り仰ぐと、自称冒険者が刃物男を取り押さえていた。

「で、でも、抑えていないと、出血が……」
「治癒魔法も使えないんでしょう? 抑えてたって変わんないって。死ぬなら死ぬし、生き残るなら生き残るでしょう?」
「……」

 雪乃は言葉を失った。
 確かに素人の行動では、血を止めることも、傷を治すこともできないだろう。
 だがしかし、救急車が来るまでの十分ほどの間、症状をなるべく悪化させないようにするだけで、生存率やその後の後遺症は、大きく変わる。
 時間つなぎの救命処置は、決して無意味ではない。
 それはさておき、

「治癒魔法……」

 どこまでゲーム脳なのだろうか? この自称冒険者は。
 パニック状態に陥りかけていたはずの女性も、思わぬ言葉に恐怖が抜け落ち、真顔になっている。
 そうこうしているうちに、パトカーと救急車がやってきた。
 刃物男は警察に引き渡され、女性は処置を施された後、救急車に乗せられ運ばれていった。

「それで? 馬鹿なの?」

 事情聴取を行うということで待機させられた雪乃に、自称冒険者の罵声が向けられる。

「なんですか? いきなり」

 雪乃は口を尖らせ、目尻を引き上げる。

「俺が助けなければ、君は死んでいたよ?」
「そうかもしれませんね」
「死にたかったわけ?」
「……」

 雪乃は答えない。

「死んだって、君を嫌っている人間を喜ばせるだけだよー?」

 言葉とは裏腹の飄々とした口調に、雪乃は面食らう。けれど、

「それの何が悪いんですか? 喜んでくれるなら、良いことじゃないですか」

 雪乃を嫌う母が、雪乃の存在を厭う父が、喜んでくれるというのなら、それで良いではないか。
 今まで悲しませ、苦しめ続けてきたのだ。最後に喜んでくれるなら、きっと生まれてきた意味があったと思えるはずだ。
 そう思うのに、雪乃の目は熱く潤み、唇を噛みしめていた。
 ぼさぼさ頭を掻いた自称冒険者は、しゃがみ込み、雪乃に目線を合わせてくる。そして、にっこりと満面の笑顔を浮かべた。
 
「じゃあ、君のことを少しでも気に掛けてる人間の心を、蝕む。その覚悟はあるの?」

 そう言って笑顔のまま、雪乃を凍りつくような眼差しで貫いたのだった。

「ひっ?!」

 咽から小さな悲鳴が飛び出て、雪乃はその場に尻餅を突く。

「それに君はあの女のために、命を捨てようとしてたけどさー。そんなことされて、喜ばれると思ってるの? もし喜ぶとしたら、あの女はよほどの性悪だねー。そんな女、助ける必要があるのー?」

 続けざまに投げつけられる言葉に、雪乃は俯く。

「自分の命を捨てて誰かに背負わせるなんて、自己満足の押し付けだよ? 相手を苦しめるだけだ」

 吐き捨てるように言った自称冒険者は、雪乃を置いてどこかに行こうと歩きだす。
 けれど数歩進んだだけで足を止めた。
 ぼさぼさ頭に手を突っ込んで掻き毟ると、

「そんなに『今』が嫌ならさー、全部捨てて、どっか行っちゃいなよー。自由に生きて、野垂れ死ぬほうが楽しいよー?」
 
 と、振り向いてへらりと笑った。

「じゃあ、さっさとユキノちゃん救出に行くよー」

 自称冒険者は歩きだす。
 慌てて立ち上がった雪乃は、自称冒険者のローブをつかんだ。

「自由に生きて良いなら、私も、『おとーさん』のユキノちゃんになりたい」

 思わずこぼれ出た言葉に、雪乃は自分で驚いた。
 変な人だと思う。関わってはいけない人間なのだろうと、理解している。
 それなのに、気付けば手を伸ばしていた。
 どう見たって怪しい人なのに、今まで出会ってきた誰よりも、信頼できる気がした。出会って間も無いはずなのに、傍にいると安心する。

(違う。どこかで会った気が……)

 そう思ったとたん、世界がぐるぐると回りだした。
 自称冒険者は振り返って固まる。

「え? ユキノちゃん?」
「え?」

 思わずといった様子の声に、雪乃も顔を上げる。そして、

「え? ノムルさん?」

 きょとんと瞬いた。
 ノムルの顔がぱああーっと輝いていく。いや本当に、雨上がりの空が晴れ渡ったかのように、ぴかーと輝いた。
 いつの間にか雪乃は、深緑色のローブを着た樹人の子供に戻っていた。周囲の景色も、揺れる水の中に変わっている。

「ゆ、ユキノちゃん!」

 ノムルはがばっと雪乃に抱きつき、頬を寄せる。
 慣れた様子で雪乃は枝を突き出して、その頬を押し返した。

「心配したんだよー? ユキノちゃん! 見つかって良かったー。一緒に帰ろうねー」

 騒ぐノムルは置いておいて、雪乃は後ろを振り向く。
 水底に沈んでいく鏡には、驚いたように立ち尽くす、見覚えのある少女が映っていた。
 見開いていた目が何度も閉じては開き、それからいつものように光を失っていく。自嘲するように口角をわずかに上げた彼女は、こほりと咳をして蹲った。

「――もう少しだけ、頑張って。そうしたら、おとーさんに会えるから」

 雪乃はそっと、彼女に語りかける。

「え? 何か言った?」
「何も言ってません。それより、そろそろ離れてください。ほら、帰りますよ」
「ええー?! 俺、頑張ったんだよ? 褒めてよー」
「はいはい。よく頑張りました。ありがとうございます」
「棒読み?! もっと心を込めてさー」

 雪乃は「はふう」と息を吐く。
 あそこに帰りたいとは思わない。でも生きるために、次は役に立てるようにと身につけた知識が、この世界に来て少しは役に立っていると考えれば、意味はあったと思える。
 そして、生きることを選んだから今があるというのなら、悪くはなかったのかもしれない。

「さ、リリアンヌ王女殿下とマーク王子殿下が待っているんです。早く帰りますよ、……おとーさん」
「っ?!」

 紅葉した樹人の子供からこぼれ落ちた、小さく詰まり気味な言葉。
 もちろん、ノムルは聞き漏らさなかった。雪乃を抱き上げてすっくと立ち上がると、杖を持たぬ手に魔力を込める。

「さっさと帰って、珍しいものを食べようね」
「はい!」

 とはいえ、雪乃は目で食べる専門なのだが。
 雪乃とノムルは空気の玉に包まれて、水面へと昇っていった。
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