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二章

68.ハンスの菓子

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「何やってんだ?」

 声に振り向くと、シャルの見たことがない青年がいた。シャルはそのまま動きを止めて、柘榴の木になりきる。

「シャル」

 青年の後ろからゼノが現れるなり、シャルの隣に座った。

「どうした?」

 動かないシャルを、ゼノは不安気に見つめる。

「知らない奴等がいるから、木のふりをしてるんでしょう」
「なる程、皆下がれ」
「あんたね」

 ライは呆れるが、結局ゼノが全員を部屋から追い出してしまった。

「シャル、もう遠慮は要らぬ」

 ゼノは手を伸ばし、シャルの枝葉に触れた。

『お帰りなさい、ゼノ』
「ああ」

 二人は見つめあい、微笑み合う。それだけで、満ち足りた気分になった。あえて言葉を口に出すことはなく、ただその枝葉に触れ、触れ返す。

「入りますよ」
「容赦ないですね」

 許可も取らずに扉を開けたハンスに、続く店主は呆れ顔だ。

「良いんですよ。放っておいたら、いつまで経っても始められませんからね」

 運んで来た料理を、店員達が机に並べていく。階下からは、何やら騒がしい声が聞こえていた。

「客が来たのか?」
「いいえ」

 ゼノの問いかけに、ハンスと共に入って来た店主は苦笑する。

「ハンスさんの作った料理があまりに美味しいので、店の者が騒いでいるだけです。気にしないでください」

 そう言うと、店主はゼノに対し姿勢を改めた。

「小白の主です。外に漏れることは御座いませんので、安心しておくつろぎください」
「心遣い感謝する」

 店主は深く頭を下げると、部屋から下がった。

「ライはどうした?」

 店員達も去ってから、ゼノはハンスに問う。

「下で出来上がってますよ。呼んで来ましょうか?」
「いや、後で良い」

 ゼノの隣では、シャルが幹を伸ばして机の上を覗いている。気付いたゼノは、シャルを膝の上に乗せた。
 シャルは机の上を端から端まで眺めると、葉を持ち上げる。

『全部 ハンスさんが作ったんですか?』
「そうですよ」
『綺麗です』
「ありがとう。遠慮なく食べてくださいね」

 机の上に乗り出していたシャルは、枝を差し出し、一つの皿を示す。その先に置かれた菓子を見て、ゼノはまぶたを落とし、ハンスは微笑した。

「長い間、すまなかった」
「俺自身が選んだ道ですから」

 二人の顔を見上げるシャルに、ハンスは小皿にその菓子を乗せ、手前に置いてやる。
 飾りのない、小さな焼菓子。ゼノとハンス、そしてシャルを結びつけた、始まりの木の実。
 一つ枝に挟むと、シャルは枝葉の中に入れた。

『美味しいです』
「今日はもっと美味しいお菓子も用意しましたから、どんどん食べてくださいよ。殿下は甘い物は食べてくださいませんから」

 机上の菓子を、次々とシャルの前に引き寄せる。

『こんなにいっぱい 食べきれません』
「久々で作りすぎちまいましたからね。少しずつ取り分けましょうか? 残りは下の者が食べるでしょう」

 別の皿に少量ずつ盛り合わせると、ハンスは扉を開けて階下に声を掛けた。
 上がって来た店員は、顔が赤い。

「下も盛り上がってるな」
「ええ、まあ」

 恐縮する店員に、菓子の皿を持って下りさせると、階下から女たちの歓声が湧き、残りの皿は女たちが取りに上がってきた。
 シャルのために取り分けた菓子だけが残り、ゼノは安堵の表情を浮かべる。
 目の前に甘い菓子を並べられ、微かに顔がひきつっていたのを、ハンスは見逃していなかった。
 ハンスの含み笑いに気付いたゼノは、わずかに眉根を寄せたが、ふと気付いて問いかける。

「良いのか?」
「何がですか?」
「王宮へ戻りたければ、私から兄上に頼んでみるが」

 ハンスは首を横に振った。

「今更あそこへ戻る気はありませんよ」
「しかし、お前の指は」
「もう、あそこにこだわる理由はありませんから。それに、小鳥ちゃんがいますから充分ですよ」

 ゼノの言葉を遮って答えたハンスは、シャルに向かって微笑む。彼女は裏表なく、素直にハンスの菓子を誉めてくれる。それだけで充分だった。

「そうか」
「そうですよ」
「ああ、うるせえ」

 扉が開き、ライが入って来た。
 自然と会話は中断され、三人の視線はライへと向かう。

「どうしました? ライ大将」
「あれこれ聞いてきて、飯もまともに食えん。しばらくこっちにいますよ」

 手近にあった魚の香草詰めを頬張ると、視線をあらぬ方向に向ける。美味いという感情を隠そうとしていることに気付いたハンスは、感慨深く目を閉じた。

「ライ大将もいますし」
「何の話だ?」
「こちらの話ですよ」

 怪訝な顔つきで睨むライに、ハンスは微笑する。

「シャル、この男が私の部下のライだ。腕もたち、信に足る男だ」
『シャルです。よろしくお願いします』
「ああ。てか、どんどん植物離れしていきますね」
「本来は人だからな」

 寂しげな表情を浮かべるゼノに、ライは俯いた。
 柘榴の枝が伸び、ゼノの頭を撫でる。

「まあ、考えようによっては良かったかもしれませんよ? 人の姿のままでは、こうして共に過ごすことはできなかったでしょうから」

 前向きな言葉を紡いだハンスに、シャルも頷いた。

「そうだな。今はこれで充分だ」

 ゼノは柘榴を愛しい者を見つめる目を向け、何度も優しく撫でる。
 けれどシャルは、ゼノの掌の下でライを見ていた。どこかで見た顔だと思うが、思い出せない。
 階下から皿の割れる音と、女の悲鳴が聞こえた。シャルの体が小さく跳ね、記憶の中にライの姿を見つけた。

「大丈夫か?」
「すみません、皿を落としてしまって。気にしないでください」

 謝る女の声の後ろから、どっと笑い声が溢れる。どうやら完全に宴会になってしまっているようだ。

「まったく、仕方のない連中だ」

 頭を掻くライに、シャルは視線を向ける。

『ライさん』
「ああ?」
『以前、助けて頂いてありがとうございました』
「ああ」

 ライは思わず視線を逸らす。

「俺は、何もできなかった」
『いいえ。ライさんが助けてくれなかったら、私はゼノに会うことはできなかったでしょう。それに子供達も守れなかったかもしれません』

 今も頭の中に響く、断末魔の悲鳴。無力さを思い知らされた、あの日。

「どうやって逃げたんだ? 動ける傷じゃなかった」

 聞く必要はないと思うのに、ライは問うていた。悪夢を振り払うために。

『憶えていません』

 シャルは幹を傾げた。

『ただ、遠くに行かなければと思ったのです。皆を助けないとと思ったのに、私はその場から逃げたのです』

 柘榴の葉は、元気なく萎れた。
 ゼノは優しくシャルを包み込む。

『もう一度、会いたかった。失いたくなかった』
「もう良い。そなたが無事であってくれて、私は嬉しい」
『でも』
「もしそなたが殺されていたなら、私は私も殺しただろう」
「殿下」
「ゼノ様」

 思わず諌める二人を、ゼノは制した。

「真のことだ。ザインからシャルは死んだと聞かされた時、私は私を八つ裂きにしてやりたいと思った。切り刻み、あらゆる苦痛を与えてやりたかった。それでも己を赦せるとは思えなかった」
『ゼノ、そんなことしないで』

 葉に浮かぶ文字は、震えていた。

「もしまた、お前を失うようなことがあれば、抑制できるとは思えない」
『ゼノ』
「そうならぬよう、これからは無茶をするな」

 シャルの不安を拭い去るように、ゼノは笑う。
 ハンスとライは視線を交わす。
 互いに嫌な予感と、それに伴う決意を直感していた。もしゼノが暴走を始めたら、それを止めるのは最も近くにいるライとハンス、二人のどちらかになるのだろう。
 階下からは、賑やかな声が聞こえていた。
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