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二章
26.野犬
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そのまま固まっていた掃除夫は、それでも何とか我を取り戻し、ゼノの元に戻った。
「それは、つまり、その……」
問おうとして、言葉を詰まらせる。
口に出して良いものか、考えあぐねているのだろう。
「どのくらいの?」
ようやく選び出した問いかけは粗末なものだったが、その真意はゼノにも理解できた。
「極めて微量だ」
ゼノの答えに、掃除夫は破顔した。
「それなら、生きていますよ」
ゆっくりと、ゼノは掃除夫に視線を移す。
掃除夫はもう一度、断言した。
「生きています。そうとしか考えられません」
ゼノの瞳から、一筋の涙がこぼれる。
ずっと、その言葉が聞きたかった。都合の良い妄想ではない、それは彼女が生きている証だと、誰かに言ってもらいたかったのだ。
ゼノはこぼれる涙をぬぐおうとはしなかった。ただ、流れ落ちるままに任せた。
「そう、信じても良いのだろうか?」
不安げに問うゼノに、掃除夫は、はっきりと頷く。
「もちろんです。もし誰の手元にもないのであれば、石力の移動はありません。もし悪意ある者が手にしたのならば、最大量を吸い尽くします。微量の石力の移動は、小鳥ちゃんが生きている証に他ありません」
掃除夫の言葉に、ゼノは唇を噛みしめ、頷いた。
「ありがとう」
心の底から出てきた言葉に、掃除夫は少し驚いた顔をしたが、目を細めて笑顔を見せた。
彼女は、シャルは生きている。
その言葉が、ゼノの心に温もりを灯した。
※
年が明けて、ゼノは将軍に任命された。
それまで将軍に尽いていたバドルは大将へと格下げとなったが、ゼノが軍に入隊した当初から予測していたことなので、抵抗することなくこれを受け入れた。
元々の身分を考えれば過ぎた職だったのだからと、彼は一切固執しなかった。
それもひとえに、この三年でバドルのゼノに対する認識が、大きく変化したことが理由だろう。
ゼノが入隊した当初は、王族への特別待遇と不満を抱いていたバドルだったが、ゼノの実力とその真摯な態度に、好感と敬意を抱くようになっていた。
それゆえに、軍を辞するのではなく、大将降格の道を選び軍に残ったのだ。
ゼノに敵が多いことは、バドルも理解している。
クラム一人ではゼノを補佐する事は難しく、軍を掌握しているバドルが軍に残っているほうが、ゼノの利は大きい。
「老兵ばかりで申し訳ないですが、まあ、その内若い者も入ってくるでしょうよ」
ゼノの将軍就任式の後、バドルは快活に笑った。
バドルの言うとおり、まもなく入隊試験が開かれる。
すぐに使える者が現れる事はないだろうが、誰にも染まっていない若い武人達は、何れゼノを支える軍人となることだろう。
国軍随一と称される技術と経験を叩き込み、王族達を見返す軍を創るのだと、バドルは意気込んでさえいた。
そうして迎えた入隊試験の日、ゼノやクラムと共に様子を見に来たバドルの頬は引きつり、額には青筋が浮かんでいた。
三日かけて基礎体力や石能、石力を測定し、一定の基準に達した者のみが、試験を受けることを許される。
ただし、地方軍や貴族の私設軍から推挙された者の中には、基礎力の測定を免除される者もいた。
そして本試験初日の今日、彼らは訓練場で模擬訓練を行っているはずだった。
「なんで一人対四十程で戦り合ってるんだ?」
呆れた表情で、警備に付いていた兵に聞く。
聞かれたほうは層々たる面々に恐縮したか、敬礼する動きが硬い。
「は。それが、二手に分かれて模擬戦を行っていたのですが、その……」
歯切れも悪く、兵は視線を訓練場へと泳がせた。
模擬戦が始まったのは、少し前だ。
予定では二百人ほどの候補生を半分ずつに分け、試験官の指示に従って戦うというものだった。
出される指示は大まかで、候補生達の自主性が重んじられている。
我先にと力を発揮する者、周囲と上手く連携を取る者など、彼らの性質を見定めて採用を決める。
その戦いを、将軍や大将が初めから観戦することはない。
始まってすぐに脱落する者など、端から採用されない。
多忙な将達は弱者が篩い落とされ、国軍に入る最低限の能力を持った者だけが残った時間を見計らい、観戦に来る。
今年もまたその慣例に従い、バドルはゼノたちと共に足を運んだのだった。
それがどうだろう。
目の前の光景は、すでに三分の二以上の候補生が倒れ、残りの候補生達はたった一人に群がっていた。
「片方が全滅して、一人だけ生き残ったか?」
眉間に皺を寄せ、バドルは問う。その間にも、立っている候補生は減っていった。
「いえ、そういうわけでは……」
狼狽する警備兵を、バドルは睨みつける。
だが睨まれた警備兵もまた状況に戸惑っているようで、説明することができない。
「赤軍と白軍、双方が入り混じっているな。あの男が原因か」
呟いたゼノに、クラムが頷く。
大柄な男達の中では小柄にさえ見えるその男は、黒く短い髪を躍らせながら、男達の間を縫うように駆けていく。その度に一人が倒れ、また一人崩折れる。
ギラリと光るその眼は、野生の肉食獣のように、次の獲物を捕らえていた。
「あの動き、まるで野犬だな」
呆れつつも、バドルたちは鋭い眼差しで男の動きを観察している。
「原因は抜きで構いませんから、ここまでの戦況を報告していただけますか?」
穏やかな声で、クラムは警備兵に尋ねた。
「はっ」
敬礼してから語り出した内容に、バドルやゼノも耳を傾ける。
その視線の先では、野犬が大剣を振り落とした男の懐に潜り込み、肘打ちを放って地に沈めていた。
警備兵の話によると、始めは普通に半々に分かれての模擬戦が行われていたらしい。
例年通り、目立とうと飛び出すもの、派手な力を披露する者が散り、集団戦へと移る。
その後、前線で激しい鍔迫り合いが続いていたが、突如として白軍の陣形が崩れ始めた。どのような力かはわからないが、いたる所で白軍の候補生達が倒れたのだ。
それは一瞬のことで、周囲にいた候補生達に、動揺が奔る。
だが国軍への入隊を目指す者たちだ。すぐに動揺は収まり、陣形を持ち直す。
百いたはずの兵は、半分近くに減っていたが、実戦ではこの程度の戦力差は珍しくない。不利にはなったが、仕切り直しとばかりに、白軍は裂帛の気合声と共に赤軍に向かった。
次の異変が起きたのは、その直後だった。
今度は赤軍の後方で、怒声が響く。
前線のぶつかり合いに注目していた警備兵が、異変に気付き視線を動かした時には、すでに数人の候補生が倒れていた。
その中央には、あの野犬のような男だ立っていた。
状況を把握しようと、警備兵は近くにいた仲間に声をかけたが、皆揃って目線を横に振る。
何が起こったか分からぬままに、なぜか野犬の周囲にいた候補生達が、味方であるはずの野犬に襲い掛かった。
「それは、つまり、その……」
問おうとして、言葉を詰まらせる。
口に出して良いものか、考えあぐねているのだろう。
「どのくらいの?」
ようやく選び出した問いかけは粗末なものだったが、その真意はゼノにも理解できた。
「極めて微量だ」
ゼノの答えに、掃除夫は破顔した。
「それなら、生きていますよ」
ゆっくりと、ゼノは掃除夫に視線を移す。
掃除夫はもう一度、断言した。
「生きています。そうとしか考えられません」
ゼノの瞳から、一筋の涙がこぼれる。
ずっと、その言葉が聞きたかった。都合の良い妄想ではない、それは彼女が生きている証だと、誰かに言ってもらいたかったのだ。
ゼノはこぼれる涙をぬぐおうとはしなかった。ただ、流れ落ちるままに任せた。
「そう、信じても良いのだろうか?」
不安げに問うゼノに、掃除夫は、はっきりと頷く。
「もちろんです。もし誰の手元にもないのであれば、石力の移動はありません。もし悪意ある者が手にしたのならば、最大量を吸い尽くします。微量の石力の移動は、小鳥ちゃんが生きている証に他ありません」
掃除夫の言葉に、ゼノは唇を噛みしめ、頷いた。
「ありがとう」
心の底から出てきた言葉に、掃除夫は少し驚いた顔をしたが、目を細めて笑顔を見せた。
彼女は、シャルは生きている。
その言葉が、ゼノの心に温もりを灯した。
※
年が明けて、ゼノは将軍に任命された。
それまで将軍に尽いていたバドルは大将へと格下げとなったが、ゼノが軍に入隊した当初から予測していたことなので、抵抗することなくこれを受け入れた。
元々の身分を考えれば過ぎた職だったのだからと、彼は一切固執しなかった。
それもひとえに、この三年でバドルのゼノに対する認識が、大きく変化したことが理由だろう。
ゼノが入隊した当初は、王族への特別待遇と不満を抱いていたバドルだったが、ゼノの実力とその真摯な態度に、好感と敬意を抱くようになっていた。
それゆえに、軍を辞するのではなく、大将降格の道を選び軍に残ったのだ。
ゼノに敵が多いことは、バドルも理解している。
クラム一人ではゼノを補佐する事は難しく、軍を掌握しているバドルが軍に残っているほうが、ゼノの利は大きい。
「老兵ばかりで申し訳ないですが、まあ、その内若い者も入ってくるでしょうよ」
ゼノの将軍就任式の後、バドルは快活に笑った。
バドルの言うとおり、まもなく入隊試験が開かれる。
すぐに使える者が現れる事はないだろうが、誰にも染まっていない若い武人達は、何れゼノを支える軍人となることだろう。
国軍随一と称される技術と経験を叩き込み、王族達を見返す軍を創るのだと、バドルは意気込んでさえいた。
そうして迎えた入隊試験の日、ゼノやクラムと共に様子を見に来たバドルの頬は引きつり、額には青筋が浮かんでいた。
三日かけて基礎体力や石能、石力を測定し、一定の基準に達した者のみが、試験を受けることを許される。
ただし、地方軍や貴族の私設軍から推挙された者の中には、基礎力の測定を免除される者もいた。
そして本試験初日の今日、彼らは訓練場で模擬訓練を行っているはずだった。
「なんで一人対四十程で戦り合ってるんだ?」
呆れた表情で、警備に付いていた兵に聞く。
聞かれたほうは層々たる面々に恐縮したか、敬礼する動きが硬い。
「は。それが、二手に分かれて模擬戦を行っていたのですが、その……」
歯切れも悪く、兵は視線を訓練場へと泳がせた。
模擬戦が始まったのは、少し前だ。
予定では二百人ほどの候補生を半分ずつに分け、試験官の指示に従って戦うというものだった。
出される指示は大まかで、候補生達の自主性が重んじられている。
我先にと力を発揮する者、周囲と上手く連携を取る者など、彼らの性質を見定めて採用を決める。
その戦いを、将軍や大将が初めから観戦することはない。
始まってすぐに脱落する者など、端から採用されない。
多忙な将達は弱者が篩い落とされ、国軍に入る最低限の能力を持った者だけが残った時間を見計らい、観戦に来る。
今年もまたその慣例に従い、バドルはゼノたちと共に足を運んだのだった。
それがどうだろう。
目の前の光景は、すでに三分の二以上の候補生が倒れ、残りの候補生達はたった一人に群がっていた。
「片方が全滅して、一人だけ生き残ったか?」
眉間に皺を寄せ、バドルは問う。その間にも、立っている候補生は減っていった。
「いえ、そういうわけでは……」
狼狽する警備兵を、バドルは睨みつける。
だが睨まれた警備兵もまた状況に戸惑っているようで、説明することができない。
「赤軍と白軍、双方が入り混じっているな。あの男が原因か」
呟いたゼノに、クラムが頷く。
大柄な男達の中では小柄にさえ見えるその男は、黒く短い髪を躍らせながら、男達の間を縫うように駆けていく。その度に一人が倒れ、また一人崩折れる。
ギラリと光るその眼は、野生の肉食獣のように、次の獲物を捕らえていた。
「あの動き、まるで野犬だな」
呆れつつも、バドルたちは鋭い眼差しで男の動きを観察している。
「原因は抜きで構いませんから、ここまでの戦況を報告していただけますか?」
穏やかな声で、クラムは警備兵に尋ねた。
「はっ」
敬礼してから語り出した内容に、バドルやゼノも耳を傾ける。
その視線の先では、野犬が大剣を振り落とした男の懐に潜り込み、肘打ちを放って地に沈めていた。
警備兵の話によると、始めは普通に半々に分かれての模擬戦が行われていたらしい。
例年通り、目立とうと飛び出すもの、派手な力を披露する者が散り、集団戦へと移る。
その後、前線で激しい鍔迫り合いが続いていたが、突如として白軍の陣形が崩れ始めた。どのような力かはわからないが、いたる所で白軍の候補生達が倒れたのだ。
それは一瞬のことで、周囲にいた候補生達に、動揺が奔る。
だが国軍への入隊を目指す者たちだ。すぐに動揺は収まり、陣形を持ち直す。
百いたはずの兵は、半分近くに減っていたが、実戦ではこの程度の戦力差は珍しくない。不利にはなったが、仕切り直しとばかりに、白軍は裂帛の気合声と共に赤軍に向かった。
次の異変が起きたのは、その直後だった。
今度は赤軍の後方で、怒声が響く。
前線のぶつかり合いに注目していた警備兵が、異変に気付き視線を動かした時には、すでに数人の候補生が倒れていた。
その中央には、あの野犬のような男だ立っていた。
状況を把握しようと、警備兵は近くにいた仲間に声をかけたが、皆揃って目線を横に振る。
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