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1巻
1-2
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笑顔で振り返った女中の顔が、睡蓮を目に映した途端、驚愕と恐怖に染め変えられた。
「どうしたの? 兄上様は?」
重ねて問う睡蓮に、女中は答えない。睡蓮を怯えた目で凝視したまま、後退る。
今までに向けられたことのない眼差し。睡蓮はどう対応すればいいのか、分からなかった。
躊躇っている間に、女中は奥へ去る。代わって奥から、複数の女中を連れた、お万の方が現れた。
「睡蓮。このような時に、どこへ行って」
昨日の夕刻から、誰にも告げずに姿を消していたのだ。心配させてしまったのだと申し訳なさを覚え、睡蓮は頭を下げた。お万の方の声が不自然に途切れたことには、気付かずに。
「勝手にいなくなり、申し訳ありませんでした。兄上様の御容態はいかがですか?」
顔を上げた睡蓮は、小首を傾げる。
お万の方が顔面蒼白となって後退り、離れていく。その顔は、恐怖に歪んでいた。
「母上様?」
「ひいっ!」
睡蓮が声をかけながら一歩近づくと、お万の方は腰を抜かし、その場に座り込む。
「大丈夫ですか? 母上様」
「寄るな! 化け物!」
助け起こそうと差し出した睡蓮の手を、お万の方は悲鳴と共に叩き払った。見開いた目で睡蓮を凝視し、溺れる蟻のように手足を動かして、距離を取ろうともがく。
いったい何が起きているのか。睡蓮は状況が呑み込めない。
万両殿の混沌は、秀兼が寝ている、奥の間にも生じていた。
「駄目です、兄上様。まだじっとしていてください」
菊香の高い声が響く。続いて、腕に縋る菊香を引き摺るようにして、秀兼が奥から出てきた。
まだ顔色は悪い。それでも自分の足で立ち、歩いている。
「兄上様、御無事で」
秀兼の姿を映した睡蓮の双眸が、歓喜の涙を溢れさせ、頬を濡らす。
「睡蓮」
喜ぶ睡蓮とは反対に、秀兼は顔をくしゃりと歪めた。睡蓮に向けて手を伸ばし、ゆっくりと近付いてくる。
「駄目です、兄上様! あれは姉上様ではありません! 近付けば、食べられてしまいます!」
睡蓮を見て固まっていた菊香が、慌てた様子で叫び、兄の腕を引く。
「菊香? 何を言っているの?」
「来ないで!」
困惑する睡蓮が一歩前に出ると、菊香は悲鳴を上げた。
「落ち着きなさい、菊香」
「だって兄上様、あの目を見て! 姉上様ではないわ! その者はきっと、姉上様に化けた写童に違いないわ!」
写童は人に化け、油断させたところで人を喰らうと伝わる妖だ。
いったいなぜ、そんなばかげたことを言い出したのか。そんなふうに疑問を抱いたのは、睡蓮だけだった。
菊香の叫びを皮切りにして、周囲から注がれる目に、殺意が混じり出す。
「返しなさい! 私の娘を!」
お万の方が投げた扇子が、睡蓮の頬に当たる。痛いと思うよりも、驚きと混乱が、彼女を襲った。
「母上様?」
愕然として、母を見つめてしまう。
女中たちが、お万の方たちを護るように、立ちふさがる。抜き放たれた懐刀は、睡蓮に向けられていた。
もしも睡蓮が妙な動きをすれば、彼女たちはお万の方たちを護るため、睡蓮に斬りかかってくるだろう。
「私は睡蓮です。加々巳秀正と、お万の方の娘です」
睡蓮は必死に訴える。けれど女たちは、彼女の言葉に耳を貸そうともしない。
刃を向けられた恐ろしさよりも、信じてもらえない悲しみが、睡蓮の心を切り裂いていく。
そんな中、秀兼が鋭く一声を発した。
「控えよ!」
秀兼は周囲の視線を無視して、睡蓮のもとに向かう。
「駄目です、兄上様!」
「近付いてはなりません、秀兼!」
菊香とお万の方が叫ぶけれど、秀兼の足は止まらない。怒りに満ちた顔で、床を打つように踏み進む。
「兄上様?」
秀兼の吊り上がった目を見て、睡蓮は、彼もまた、自分を妖だと思っていると感じた。実の兄に斬られるのかと、絶望が襲う。
「兄上様、私は」
「すまない」
妖ではないのだと、訴えかけた睡蓮を、秀兼は強く抱きしめる。
鍛え上げられた厚い胸板や、太く硬い腕から伝わってくる、優しい温もり。そして、血と汗の匂い。
兄の存在を五感で感じて、睡蓮は落ち着きを取り戻した。そっと体を離し、顔を上げる。
秀兼は口を一文字に引き結んでいた。目は赤く染まり、涙が浮かんでいる。
彼の黒い瞳に映る睡蓮の瞳は、赤く染まっていた。
自分の目の色が変わっていることに気付いた睡蓮は、ひゅっと息を呑む。呆然とする彼女に、秀兼が告げる。
「朝方、夢に白蛇が出てきて、告げたのだ。私の傷を癒してやると。その代わり、睡蓮を嫁に寄越せと」
「白蛇様が」
やはり夢ではなかったのだ。白蛇が睡蓮の祈りに応え、願いを叶えてくれたのだ。
そう理解して、強張っていた睡蓮の表情が緩んでいく。
一方、秀兼は傷付いたように、顔を歪ませた。
「私はすぐに断れなかった。生きたいと願い、迷ってしまった。逡巡している間に、白蛇は消えた。すまない、睡蓮」
絞り出すように口から押し出された、謝罪の言葉。
秀兼の気持ちを汲み取った睡蓮は、震える兄の背を抱きしめ返す。
「それでいいのです、兄上様。私が願ったのですから。兄上様を、お助けくださいと」
睡蓮を抱きしめる秀兼の腕の力が、強くなった。
兄妹はしばらく抱きしめ合い、互いの存在を確かめ合う。
命の危機に瀕していた兄は、生きている。白蛇に所望された妹は、まだ兄の傍にいた。
そのことを充分に実感すると、睡蓮は秀兼の胸を押して、体を離す。そして彼の目を、真っ直ぐに見上げた。
「兄上様。御無事のお帰り、心よりお喜び申し上げます」
昨日、戦から帰ってきた秀兼に、伝えられなかった言葉。
涙を浮かべて微笑む睡蓮を、秀兼は、今にも泣き出しそうな顔で見つめた。
※
睡蓮は、座敷牢に入れられた。
妖が成り代わっているのであれば、いずれ加々巳家に禍をもたらすだろう。城に仕える者たちを、食ってしまうかもしれない。
そんな恐れから。
座敷と頭に付くからといって、厚遇されているわけではない。吹き曝しの土間の牢や、じめじめと暗い地下牢に比べれば、ましといった造りだ。
天井近くに設けられた、灯り取りの窓からは、冷たい風が吹き込む。
外は吹雪いていた。風を遮るための簾も、暖を取るための火鉢も、ここにはない。
睡蓮は凍える手足を擦り、寒さに耐える。
「憎め」
「怨め」
座敷牢に入れられてからというもの、日が暮れるたびに、声が聞こえた。目を向けると、隅に落ちた影が、ざわざわと蠢く。
妖が棲みついているのか。それとも、彼女の心が創り出した幻覚か。
頭を振った睡蓮は、浮かんできた考えを振り払う。
「憎しみも恨みも抱かない。私は、清らかでありたいから」
胸元に引き寄せた手に、自分の肌や衣とは違う感触が伝う。
着の身着のまま、座敷牢へ放り込まれた。大切にしていた鞠も、彼女の手元にはない。それでも一つだけ、持ち込めた物がある。
懐から取り出したのは、守り袋。封を開けると、一寸ほどの木の葉が出てきた。
艶やかな深緑色。椿の葉に似ているが、葉脈は笹のように平行に並ぶ。金川の地では、見かけない植物だ。
幼いころに出会った男が残していった実から、睡蓮が育てた。
紫色をした、銀杏に似た実。寝坊助な種は、夏を目前にして、ようやく芽吹く。
大切に育てていたのに、秋の終わりごろに黄葉したかと思えば、春を待たずに枯れてしまった。
残されたのは、珍しさに惹かれて一枚だけ摘み取っていた、深緑の葉。
枯れることを忘れてしまった小さな葉を、睡蓮はもう一度あの人に会いたくて、今も大切に持ち歩いている。
それを眩しげに目を細めながら指でなぞった睡蓮は、守り袋にしまう。
「逃がしてやろうか?」
聞こえてきたのは、いつもよりも明瞭な声。どこかで聞いた声に似ている気がするが、思い出せなかった。
これもきっと、弱い心が生み出した幻だろう。そう考えた睡蓮は、首を横に振る。
「いいえ。必要ありません」
「お前の兄が粘っているが、このままでは始末されるぞ?」
睡蓮の処分を決めるのは、彼女の父だ。座敷牢に閉じ込められても、命まで取られることはないと、どこかで信じていた。
心の臓を鷲掴みにされたような、鈍い痛み。嘘だと否定したくても、外の出来事は、睡蓮の耳まで届かない。
「今なら間に合う。白蛇のもとまで送り届けよう」
嗚呼、これは幻聴ではなく、妖か――
気付いた途端、睡蓮の口端が、ふっと微かに上がる。
弱った己の心が呟く、醜い感情ではない。そのことが、嬉しかった。
「いいえ。ここにおります」
「なぜだ?」
「私が逃げれば、兄が疑われるでしょう」
秀兼が助命を懇願しているというのが事実であれば、彼が逃がしたと思われかねない。
加々巳家の長男である秀兼だが、側室の子。嫡男は、昨年、御正室お梅の方から生まれた、松千代と決まっている。
お梅の方が懐妊するまで嫡男と見なされていたこと、年齢のことなどから、世継ぎ争いを危惧した者たちが、秀兼を危険視していた。
ここで睡蓮がいなくなれば、ここぞとばかりに、秀兼は攻撃されるだろう。
「逃げません」
はっきりと口にすると、壁の外で溜め息が零れる。
「お前に死なれては困る。いざとなったら、無理やりにでも引き摺っていくからな」
それ以上、声は返ってこなかった。
窓から迷い込んだ雪が、ひらひらと舞い落ちる。手を差し出して受けると、すぐに消えた。
「まるで、幻の桜を見ているよう」
もう一度、目にすることができるだろうか。
小さな格子窓を見上げれば、暗い空。白く輝く雪さえも、漆黒に呑まれていく。
睡蓮は横たわった。硬い床板が、何も持たない彼女から、体の熱まで奪う。行儀悪いと分かっていても耐え切れず、手足を縮めた。
夢の中で、睡蓮は七歳に戻っていた。
城山の麓に広がる雑木林。山桜が花弁を散らす中、彼女は青い小袖を着て、供も付けずに一人さ迷い歩く。
先日、都に出かけていた秀正が、土産に鞠をくれた。
睡蓮には青地に白の鞠。妹の菊香には、赤地に黄の鞠。それぞれ睡蓮の花と、菊の花を連想できる模様だ。そして兄の秀兼には、皮でできた蹴鞠用の鞠を。
娘二人は、美しい鞠を大切に扱った。けれど秀兼は、鞠を持って外に出かけ、失くしてしまう。
蹴鞠の面白さに目覚めつつあった秀兼は、妹二人に、鞠を貸してほしいと頼む。
綺麗な鞠を蹴られたら、汚れたり、糸が切れたりするかもしれない。菊香は泣いて嫌がった。
菊香を見て、彼女の鞠を護ってあげなければとでも、思ったのか。それとも必死に頼む秀兼を助けたかったのか。
睡蓮は自分の鞠を差し出す。
「兄上様、私の鞠をお使いください」
「必ず返すから」
約束をして、秀兼は出かけていく。だけど帰ってきた彼の手に、睡蓮の鞠はなかった。
「すまない、睡蓮。失くしてしまった」
「気にしないでください」
睡蓮は微笑んで許す。でも本当は、悲しくて泣きそうだった。
秀正が睡蓮を気に掛けてくれるなんて、滅多にないこと。土産をくれた思い出なんて、片手の指より少ない。だから余計に、大切にしていた。
失くしたなんて知られたら、もう興味を持ってもらえないのではないか。
そんな怯えに突き動かされ、睡蓮は翌朝、屋敷を抜け出す。しかし鞠が見つからないまま、彼女まで迷子になった。
濡れた目を拭おうと、両手でこする。だけど、次から次へと零れる涙は、小さな手ではすくい切れない。
「何を泣いている?」
声に驚いて立ち止まった睡蓮の前に、いつの間にか男が立っていた。顔は霞が掛かっていて見えない。
真っ白な狩衣に狩袴。都から離れた金川では滅多に見かけない、公家の装いだ。
「鞠を探しています」
「どんな鞠だ?」
「青に白で、睡蓮の模様になっています」
「一緒に探してやろう。すぐに見つかる。だから泣くな」
男が睡蓮を抱き上げた。
彼の顔は目の前にあるのに、やっぱり靄で隠れている。それでも睡蓮は、真っ白な髪と、赤い瞳が、綺麗だと思った。
幼い睡蓮を抱えた男は、雑木林を進む。その足取りには、迷いがない。しばらく進むと、睡蓮を地面に下ろした。
茂みにしゃがみ込んだ彼が振り返る。差し出された手には、青と白の糸を巻いた、花柄の鞠があった。
「ほら、これだろう?」
「ありがとうございます」
受け取った睡蓮は、とても大切なのだと、全身で表すように抱きしめる。満面の笑みを浮かべた彼女を見て、男も微笑んだ。
「大切な物なら、もう失くすなよ?」
「はい」
「じゃあな」
「もう行ってしまうのですか?」
睡蓮は慌てて顔を上げる。
まだ何もお礼をしていないのに、行ってしまうのか。そんな気持ちが、顔に出ていたのだろう。男は申し訳なさそうに、眉を下げた。
「主がお待ちだからな」
主君の命令は絶対だ。無理に引き留めれば、彼がお叱りを受けてしまう。助けてもらったのに、これ以上の迷惑を掛けるわけにはいかない。
睡蓮は、引き留めたい気持ちを呑み込む。
「また会えますか?」
「会う必要などないだろう?」
素っ気ない男の答えを聞いて、睡蓮の表情が沈んでいく。止まっていた涙が、再び目蓋に溜まり始めた。
動揺した男が、何やら言い訳めいた言葉を繰り返す。それから困ったように頬を掻き、膝を屈めて、睡蓮と目線を合わせた。
「それほど俺に会いたければ、いい女になれ」
「いい女、ですか?」
「そうだ。神に仕えるのに相応しい、清らかで美しい女だ」
「神様に?」
「ああ。そうしたら、迎えに来てやってもいい」
幼い睡蓮は、疑問に思うこともなく、すんなりと受け入れる。弾む笑顔で男を見上げ、小指を差し出した。
「約束です」
男は戸惑いながら、細く小さな小指に、太く武骨な小指を絡める。
「申し遅れました。私は」
名乗ろうとした睡蓮の口元に、男の人差し指が添えられた。長く尖った爪が、視界に入る。
「女がそう簡単に、名を教えるものではない」
「では、あなた様のお名前を伺うのも、いけませんか?」
睡蓮がじっと男の目を見つめると、彼は眉間にしわを寄せて、悩む素振りをした。
「誰にも言うなよ? 我が主から賜った、大切な名だからな。……気に入ってはおらぬが」
「約束いたします。誰にも申しません」
男は苦笑を零し、唇を動かす。
「俺の名は――」
立ち上がって去っていく男の背が、桜吹雪の中に消えていく。男が去った後には、小さな木の実が落ちていた。
目を覚ました睡蓮は、不思議と寒さを覚えなかった。それどころか、胸元から温もりが込み上げてくる。
「あの後、家中の者たちに見つけられて、父上様と母上様に叱られたのよね」
屋敷に帰ると、顔を青くした秀兼が待っていた。そして父母に叱られる睡蓮を、必死になって庇ってくれたのだ。
「今と同じね」
思わず、くすりと笑ってしまう。
「清らかで美しい女。私はあの方の望むような女性に、なれているのかしら?」
無意識に、手が懐の守り袋を求める。
「白蛇様も、白い髪に、赤い瞳だった」
男の顔は、憶えていない。
白蛇の顔も、夢現だったため、はっきりしない。
しかし年の頃は、どちらも今の秀兼と、同じくらいだろうと思われた。もしも白蛇が彼ならば、年を重ねていないことになる。
「でも、妖ならば――」
人とは違い、長い歳月を生きる異形。人のように年を取ることはないだろう。
「迎えに来てくださったのかしら?」
けれど、白蛇は睡蓮を残して去った。迎えに来ると、約束を残して。
「私は、待つばかりね」
零れたのは、自嘲の笑み。
「また会える日を、楽しみにしていたのです」
未だ、男と再会した記憶はない。
彼が童の戯言と、忘れてしまったのならばいい。
けれど、戦乱の世だ。人の命は容易く失われてしまう。約束を守れない状況になっている可能性だって、考えられた。
ちりりと焼けるような、胸の痛み。
睡蓮は、自然と窓に目を向けた。
「どうかあの御方が、ご無事でありますように」
まるで散りゆく桜のように、外はまだ吹雪く。
※
睡蓮が白蛇の嫁に選ばれてから、二年の歳月が経った。寒い冬を超えた山裾に、緑が芽吹いていく。
彼女は今、白蛇と出会った祠の脇に建てられた、小さな離れ家で暮らしている。
猫の額ほどの狭い土間と、囲炉裏を切った三畳足らずの板の間。土間には水を溜めておく瓶と、食器などを並べた棚。居室となる板の間には、衣類などを入れた葛籠が一つ。それに、色褪せた古い鞠。
これを見て当主の娘が暮らしているなどと、誰が思うだろうか。
日に日に夜明けの時間が早くなる。けれど、まだ薄暗い時間。目覚めた睡蓮は、身なりを整え始めた。
下女の一人も付けられていない有り様では、凝った装いはできない。小袖をまとった上から、ふくらはぎまである湯巻を巻く。
「どうしたの? 兄上様は?」
重ねて問う睡蓮に、女中は答えない。睡蓮を怯えた目で凝視したまま、後退る。
今までに向けられたことのない眼差し。睡蓮はどう対応すればいいのか、分からなかった。
躊躇っている間に、女中は奥へ去る。代わって奥から、複数の女中を連れた、お万の方が現れた。
「睡蓮。このような時に、どこへ行って」
昨日の夕刻から、誰にも告げずに姿を消していたのだ。心配させてしまったのだと申し訳なさを覚え、睡蓮は頭を下げた。お万の方の声が不自然に途切れたことには、気付かずに。
「勝手にいなくなり、申し訳ありませんでした。兄上様の御容態はいかがですか?」
顔を上げた睡蓮は、小首を傾げる。
お万の方が顔面蒼白となって後退り、離れていく。その顔は、恐怖に歪んでいた。
「母上様?」
「ひいっ!」
睡蓮が声をかけながら一歩近づくと、お万の方は腰を抜かし、その場に座り込む。
「大丈夫ですか? 母上様」
「寄るな! 化け物!」
助け起こそうと差し出した睡蓮の手を、お万の方は悲鳴と共に叩き払った。見開いた目で睡蓮を凝視し、溺れる蟻のように手足を動かして、距離を取ろうともがく。
いったい何が起きているのか。睡蓮は状況が呑み込めない。
万両殿の混沌は、秀兼が寝ている、奥の間にも生じていた。
「駄目です、兄上様。まだじっとしていてください」
菊香の高い声が響く。続いて、腕に縋る菊香を引き摺るようにして、秀兼が奥から出てきた。
まだ顔色は悪い。それでも自分の足で立ち、歩いている。
「兄上様、御無事で」
秀兼の姿を映した睡蓮の双眸が、歓喜の涙を溢れさせ、頬を濡らす。
「睡蓮」
喜ぶ睡蓮とは反対に、秀兼は顔をくしゃりと歪めた。睡蓮に向けて手を伸ばし、ゆっくりと近付いてくる。
「駄目です、兄上様! あれは姉上様ではありません! 近付けば、食べられてしまいます!」
睡蓮を見て固まっていた菊香が、慌てた様子で叫び、兄の腕を引く。
「菊香? 何を言っているの?」
「来ないで!」
困惑する睡蓮が一歩前に出ると、菊香は悲鳴を上げた。
「落ち着きなさい、菊香」
「だって兄上様、あの目を見て! 姉上様ではないわ! その者はきっと、姉上様に化けた写童に違いないわ!」
写童は人に化け、油断させたところで人を喰らうと伝わる妖だ。
いったいなぜ、そんなばかげたことを言い出したのか。そんなふうに疑問を抱いたのは、睡蓮だけだった。
菊香の叫びを皮切りにして、周囲から注がれる目に、殺意が混じり出す。
「返しなさい! 私の娘を!」
お万の方が投げた扇子が、睡蓮の頬に当たる。痛いと思うよりも、驚きと混乱が、彼女を襲った。
「母上様?」
愕然として、母を見つめてしまう。
女中たちが、お万の方たちを護るように、立ちふさがる。抜き放たれた懐刀は、睡蓮に向けられていた。
もしも睡蓮が妙な動きをすれば、彼女たちはお万の方たちを護るため、睡蓮に斬りかかってくるだろう。
「私は睡蓮です。加々巳秀正と、お万の方の娘です」
睡蓮は必死に訴える。けれど女たちは、彼女の言葉に耳を貸そうともしない。
刃を向けられた恐ろしさよりも、信じてもらえない悲しみが、睡蓮の心を切り裂いていく。
そんな中、秀兼が鋭く一声を発した。
「控えよ!」
秀兼は周囲の視線を無視して、睡蓮のもとに向かう。
「駄目です、兄上様!」
「近付いてはなりません、秀兼!」
菊香とお万の方が叫ぶけれど、秀兼の足は止まらない。怒りに満ちた顔で、床を打つように踏み進む。
「兄上様?」
秀兼の吊り上がった目を見て、睡蓮は、彼もまた、自分を妖だと思っていると感じた。実の兄に斬られるのかと、絶望が襲う。
「兄上様、私は」
「すまない」
妖ではないのだと、訴えかけた睡蓮を、秀兼は強く抱きしめる。
鍛え上げられた厚い胸板や、太く硬い腕から伝わってくる、優しい温もり。そして、血と汗の匂い。
兄の存在を五感で感じて、睡蓮は落ち着きを取り戻した。そっと体を離し、顔を上げる。
秀兼は口を一文字に引き結んでいた。目は赤く染まり、涙が浮かんでいる。
彼の黒い瞳に映る睡蓮の瞳は、赤く染まっていた。
自分の目の色が変わっていることに気付いた睡蓮は、ひゅっと息を呑む。呆然とする彼女に、秀兼が告げる。
「朝方、夢に白蛇が出てきて、告げたのだ。私の傷を癒してやると。その代わり、睡蓮を嫁に寄越せと」
「白蛇様が」
やはり夢ではなかったのだ。白蛇が睡蓮の祈りに応え、願いを叶えてくれたのだ。
そう理解して、強張っていた睡蓮の表情が緩んでいく。
一方、秀兼は傷付いたように、顔を歪ませた。
「私はすぐに断れなかった。生きたいと願い、迷ってしまった。逡巡している間に、白蛇は消えた。すまない、睡蓮」
絞り出すように口から押し出された、謝罪の言葉。
秀兼の気持ちを汲み取った睡蓮は、震える兄の背を抱きしめ返す。
「それでいいのです、兄上様。私が願ったのですから。兄上様を、お助けくださいと」
睡蓮を抱きしめる秀兼の腕の力が、強くなった。
兄妹はしばらく抱きしめ合い、互いの存在を確かめ合う。
命の危機に瀕していた兄は、生きている。白蛇に所望された妹は、まだ兄の傍にいた。
そのことを充分に実感すると、睡蓮は秀兼の胸を押して、体を離す。そして彼の目を、真っ直ぐに見上げた。
「兄上様。御無事のお帰り、心よりお喜び申し上げます」
昨日、戦から帰ってきた秀兼に、伝えられなかった言葉。
涙を浮かべて微笑む睡蓮を、秀兼は、今にも泣き出しそうな顔で見つめた。
※
睡蓮は、座敷牢に入れられた。
妖が成り代わっているのであれば、いずれ加々巳家に禍をもたらすだろう。城に仕える者たちを、食ってしまうかもしれない。
そんな恐れから。
座敷と頭に付くからといって、厚遇されているわけではない。吹き曝しの土間の牢や、じめじめと暗い地下牢に比べれば、ましといった造りだ。
天井近くに設けられた、灯り取りの窓からは、冷たい風が吹き込む。
外は吹雪いていた。風を遮るための簾も、暖を取るための火鉢も、ここにはない。
睡蓮は凍える手足を擦り、寒さに耐える。
「憎め」
「怨め」
座敷牢に入れられてからというもの、日が暮れるたびに、声が聞こえた。目を向けると、隅に落ちた影が、ざわざわと蠢く。
妖が棲みついているのか。それとも、彼女の心が創り出した幻覚か。
頭を振った睡蓮は、浮かんできた考えを振り払う。
「憎しみも恨みも抱かない。私は、清らかでありたいから」
胸元に引き寄せた手に、自分の肌や衣とは違う感触が伝う。
着の身着のまま、座敷牢へ放り込まれた。大切にしていた鞠も、彼女の手元にはない。それでも一つだけ、持ち込めた物がある。
懐から取り出したのは、守り袋。封を開けると、一寸ほどの木の葉が出てきた。
艶やかな深緑色。椿の葉に似ているが、葉脈は笹のように平行に並ぶ。金川の地では、見かけない植物だ。
幼いころに出会った男が残していった実から、睡蓮が育てた。
紫色をした、銀杏に似た実。寝坊助な種は、夏を目前にして、ようやく芽吹く。
大切に育てていたのに、秋の終わりごろに黄葉したかと思えば、春を待たずに枯れてしまった。
残されたのは、珍しさに惹かれて一枚だけ摘み取っていた、深緑の葉。
枯れることを忘れてしまった小さな葉を、睡蓮はもう一度あの人に会いたくて、今も大切に持ち歩いている。
それを眩しげに目を細めながら指でなぞった睡蓮は、守り袋にしまう。
「逃がしてやろうか?」
聞こえてきたのは、いつもよりも明瞭な声。どこかで聞いた声に似ている気がするが、思い出せなかった。
これもきっと、弱い心が生み出した幻だろう。そう考えた睡蓮は、首を横に振る。
「いいえ。必要ありません」
「お前の兄が粘っているが、このままでは始末されるぞ?」
睡蓮の処分を決めるのは、彼女の父だ。座敷牢に閉じ込められても、命まで取られることはないと、どこかで信じていた。
心の臓を鷲掴みにされたような、鈍い痛み。嘘だと否定したくても、外の出来事は、睡蓮の耳まで届かない。
「今なら間に合う。白蛇のもとまで送り届けよう」
嗚呼、これは幻聴ではなく、妖か――
気付いた途端、睡蓮の口端が、ふっと微かに上がる。
弱った己の心が呟く、醜い感情ではない。そのことが、嬉しかった。
「いいえ。ここにおります」
「なぜだ?」
「私が逃げれば、兄が疑われるでしょう」
秀兼が助命を懇願しているというのが事実であれば、彼が逃がしたと思われかねない。
加々巳家の長男である秀兼だが、側室の子。嫡男は、昨年、御正室お梅の方から生まれた、松千代と決まっている。
お梅の方が懐妊するまで嫡男と見なされていたこと、年齢のことなどから、世継ぎ争いを危惧した者たちが、秀兼を危険視していた。
ここで睡蓮がいなくなれば、ここぞとばかりに、秀兼は攻撃されるだろう。
「逃げません」
はっきりと口にすると、壁の外で溜め息が零れる。
「お前に死なれては困る。いざとなったら、無理やりにでも引き摺っていくからな」
それ以上、声は返ってこなかった。
窓から迷い込んだ雪が、ひらひらと舞い落ちる。手を差し出して受けると、すぐに消えた。
「まるで、幻の桜を見ているよう」
もう一度、目にすることができるだろうか。
小さな格子窓を見上げれば、暗い空。白く輝く雪さえも、漆黒に呑まれていく。
睡蓮は横たわった。硬い床板が、何も持たない彼女から、体の熱まで奪う。行儀悪いと分かっていても耐え切れず、手足を縮めた。
夢の中で、睡蓮は七歳に戻っていた。
城山の麓に広がる雑木林。山桜が花弁を散らす中、彼女は青い小袖を着て、供も付けずに一人さ迷い歩く。
先日、都に出かけていた秀正が、土産に鞠をくれた。
睡蓮には青地に白の鞠。妹の菊香には、赤地に黄の鞠。それぞれ睡蓮の花と、菊の花を連想できる模様だ。そして兄の秀兼には、皮でできた蹴鞠用の鞠を。
娘二人は、美しい鞠を大切に扱った。けれど秀兼は、鞠を持って外に出かけ、失くしてしまう。
蹴鞠の面白さに目覚めつつあった秀兼は、妹二人に、鞠を貸してほしいと頼む。
綺麗な鞠を蹴られたら、汚れたり、糸が切れたりするかもしれない。菊香は泣いて嫌がった。
菊香を見て、彼女の鞠を護ってあげなければとでも、思ったのか。それとも必死に頼む秀兼を助けたかったのか。
睡蓮は自分の鞠を差し出す。
「兄上様、私の鞠をお使いください」
「必ず返すから」
約束をして、秀兼は出かけていく。だけど帰ってきた彼の手に、睡蓮の鞠はなかった。
「すまない、睡蓮。失くしてしまった」
「気にしないでください」
睡蓮は微笑んで許す。でも本当は、悲しくて泣きそうだった。
秀正が睡蓮を気に掛けてくれるなんて、滅多にないこと。土産をくれた思い出なんて、片手の指より少ない。だから余計に、大切にしていた。
失くしたなんて知られたら、もう興味を持ってもらえないのではないか。
そんな怯えに突き動かされ、睡蓮は翌朝、屋敷を抜け出す。しかし鞠が見つからないまま、彼女まで迷子になった。
濡れた目を拭おうと、両手でこする。だけど、次から次へと零れる涙は、小さな手ではすくい切れない。
「何を泣いている?」
声に驚いて立ち止まった睡蓮の前に、いつの間にか男が立っていた。顔は霞が掛かっていて見えない。
真っ白な狩衣に狩袴。都から離れた金川では滅多に見かけない、公家の装いだ。
「鞠を探しています」
「どんな鞠だ?」
「青に白で、睡蓮の模様になっています」
「一緒に探してやろう。すぐに見つかる。だから泣くな」
男が睡蓮を抱き上げた。
彼の顔は目の前にあるのに、やっぱり靄で隠れている。それでも睡蓮は、真っ白な髪と、赤い瞳が、綺麗だと思った。
幼い睡蓮を抱えた男は、雑木林を進む。その足取りには、迷いがない。しばらく進むと、睡蓮を地面に下ろした。
茂みにしゃがみ込んだ彼が振り返る。差し出された手には、青と白の糸を巻いた、花柄の鞠があった。
「ほら、これだろう?」
「ありがとうございます」
受け取った睡蓮は、とても大切なのだと、全身で表すように抱きしめる。満面の笑みを浮かべた彼女を見て、男も微笑んだ。
「大切な物なら、もう失くすなよ?」
「はい」
「じゃあな」
「もう行ってしまうのですか?」
睡蓮は慌てて顔を上げる。
まだ何もお礼をしていないのに、行ってしまうのか。そんな気持ちが、顔に出ていたのだろう。男は申し訳なさそうに、眉を下げた。
「主がお待ちだからな」
主君の命令は絶対だ。無理に引き留めれば、彼がお叱りを受けてしまう。助けてもらったのに、これ以上の迷惑を掛けるわけにはいかない。
睡蓮は、引き留めたい気持ちを呑み込む。
「また会えますか?」
「会う必要などないだろう?」
素っ気ない男の答えを聞いて、睡蓮の表情が沈んでいく。止まっていた涙が、再び目蓋に溜まり始めた。
動揺した男が、何やら言い訳めいた言葉を繰り返す。それから困ったように頬を掻き、膝を屈めて、睡蓮と目線を合わせた。
「それほど俺に会いたければ、いい女になれ」
「いい女、ですか?」
「そうだ。神に仕えるのに相応しい、清らかで美しい女だ」
「神様に?」
「ああ。そうしたら、迎えに来てやってもいい」
幼い睡蓮は、疑問に思うこともなく、すんなりと受け入れる。弾む笑顔で男を見上げ、小指を差し出した。
「約束です」
男は戸惑いながら、細く小さな小指に、太く武骨な小指を絡める。
「申し遅れました。私は」
名乗ろうとした睡蓮の口元に、男の人差し指が添えられた。長く尖った爪が、視界に入る。
「女がそう簡単に、名を教えるものではない」
「では、あなた様のお名前を伺うのも、いけませんか?」
睡蓮がじっと男の目を見つめると、彼は眉間にしわを寄せて、悩む素振りをした。
「誰にも言うなよ? 我が主から賜った、大切な名だからな。……気に入ってはおらぬが」
「約束いたします。誰にも申しません」
男は苦笑を零し、唇を動かす。
「俺の名は――」
立ち上がって去っていく男の背が、桜吹雪の中に消えていく。男が去った後には、小さな木の実が落ちていた。
目を覚ました睡蓮は、不思議と寒さを覚えなかった。それどころか、胸元から温もりが込み上げてくる。
「あの後、家中の者たちに見つけられて、父上様と母上様に叱られたのよね」
屋敷に帰ると、顔を青くした秀兼が待っていた。そして父母に叱られる睡蓮を、必死になって庇ってくれたのだ。
「今と同じね」
思わず、くすりと笑ってしまう。
「清らかで美しい女。私はあの方の望むような女性に、なれているのかしら?」
無意識に、手が懐の守り袋を求める。
「白蛇様も、白い髪に、赤い瞳だった」
男の顔は、憶えていない。
白蛇の顔も、夢現だったため、はっきりしない。
しかし年の頃は、どちらも今の秀兼と、同じくらいだろうと思われた。もしも白蛇が彼ならば、年を重ねていないことになる。
「でも、妖ならば――」
人とは違い、長い歳月を生きる異形。人のように年を取ることはないだろう。
「迎えに来てくださったのかしら?」
けれど、白蛇は睡蓮を残して去った。迎えに来ると、約束を残して。
「私は、待つばかりね」
零れたのは、自嘲の笑み。
「また会える日を、楽しみにしていたのです」
未だ、男と再会した記憶はない。
彼が童の戯言と、忘れてしまったのならばいい。
けれど、戦乱の世だ。人の命は容易く失われてしまう。約束を守れない状況になっている可能性だって、考えられた。
ちりりと焼けるような、胸の痛み。
睡蓮は、自然と窓に目を向けた。
「どうかあの御方が、ご無事でありますように」
まるで散りゆく桜のように、外はまだ吹雪く。
※
睡蓮が白蛇の嫁に選ばれてから、二年の歳月が経った。寒い冬を超えた山裾に、緑が芽吹いていく。
彼女は今、白蛇と出会った祠の脇に建てられた、小さな離れ家で暮らしている。
猫の額ほどの狭い土間と、囲炉裏を切った三畳足らずの板の間。土間には水を溜めておく瓶と、食器などを並べた棚。居室となる板の間には、衣類などを入れた葛籠が一つ。それに、色褪せた古い鞠。
これを見て当主の娘が暮らしているなどと、誰が思うだろうか。
日に日に夜明けの時間が早くなる。けれど、まだ薄暗い時間。目覚めた睡蓮は、身なりを整え始めた。
下女の一人も付けられていない有り様では、凝った装いはできない。小袖をまとった上から、ふくらはぎまである湯巻を巻く。
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