1 / 16
1巻
1-1
しおりを挟む
序章
怪異が、各地を襲っていた。
「姫様! お逃げください!」
日が沈みゆく山の中。紅葉に染まる細道を、少女は裾をたくし上げて走る。笠も杖も、逃げる途中で、どこかに置き去りにしてきた。
少女の名は睡蓮。金川の地を治める大名、加々巳秀正の娘だ。齢十二。三つ上の兄、秀兼が無事に初陣を遂げられるよう、奥山の神社へ詣でた、その帰り道のこと。
連れてきた護衛のほとんどは、妖の足止めに残った。彼女を護るため、共に山を下ってきた護衛は、もう一人しか残っていない。
共に逃げようと返しかけた声を、睡蓮は既のところで呑み込む。
たとえこの場を生き延びたとしても、彼女が命を落とせば、護衛たちは腹を切らなければならない。彼らが生き続けるには、睡蓮が逃げ延びることが絶対条件だ。
「どうか無事で」
切なる祈りを残し、睡蓮は足を急がせる。
然して進まぬうちに、後ろでどさりと音がした。思わず振り返ると、視界が黒い影で覆われる。
「あ……」
睡蓮とて、多少なりとも武芸の心得はあった。
だが鍛え抜かれた武士たちですら、歯が立たぬ相手。立ち向かう術も、逃れる術も、彼女にあろうはずがない。
黒く禍々しい塊は、人というには大きい。頭には二本の長い角。背に生える黒い翼は、蝙蝠のものか。振り上げられた手には、長く鋭い爪が、鈍く光る。
その正体は、蝙蝠夜叉。本来ならば、子を護り慈しむ、優しい鬼。それが理性を失い、人を襲っていた。
睡蓮は悲鳴を上げるどころか、目を瞑ることさえ忘れて、迫る黒い爪を見つめる。
ここで命を終えるのだ――。そう思った途端、恐怖が消え、心が凪ぐ。
けれど、彼女の命が途絶えることはなかった。蝙蝠夜叉と睡蓮の間に、別の黒い影が現れたから。
黒い狩衣姿の、公家風の男。真っ黒な髪は、油で整えるどころか、結ってさえいない。
ちらりと、男が睡蓮を振り返る。
公家の装いとは不釣り合いな、野性味のある整った顔立ち。武家の装いのほうが似合いそうだ。
切れ長の目に埋まる瞳は、燃えるように染まる紅葉よりもなお赤い。
呆然と見つめる睡蓮を映しながら、赤い瞳は哀しみを湛えて揺れる。触れれば火傷しそうなほど鋭い眼差しなのに、今にも落葉しそうだ。そんな危うさを、睡蓮は抱く。
だが彼もまた、人ではなかった。
頭に生える一本の角。耳は尖り、黒い毛が覆う。腰の少し下に意識を向けると、獣の黒い尾が揺れる。
鬼と狼の血を引く、狼鬼。恐れるべき存在。
なのに、睡蓮は彼の赤い瞳に、懐かしさを覚えた。
「懐に、何を入れている?」
縋るように震える、ためらいがちな声。報酬の要求だと思った睡蓮は素早く返す。
「今の手持ちはわずかですが、お礼ならいたします。どうか、お助けくださいませ」
「そうではない」
狼鬼は首を横に振る。
「匂いがする」
「匂い?」
問うた睡蓮に、答えは返ってこない。蝙蝠夜叉が狼鬼を裂こうと、腕を振り上げ、振り下ろしたのだ。
鋭い爪が、夕闇に残るわずかな光を反射して、赤く光る。
蝙蝠夜叉に顔を戻した狼鬼の表情は、悲愴感に溢れていた。
「荒ぶる神よ。安らかに眠り給え」
黒い刃が閃く。
蝙蝠夜叉が悲鳴を上げ、黒い灰となって崩れる。風に吹かれた灰が、蛍のように輝き、空に昇っていった。
妖の最期とは思えない、美しい光景。
睡蓮は空を見上げて見惚れてしまう。しかし呻き声を耳にして、我に返る。見ると、狼鬼が膝を突いて蹲っていた。
「お怪我を?」
心配して駆け寄る睡蓮の胸元に、狼鬼が手を伸ばす。
思わず後退った睡蓮だったが、狼鬼の反応を見て、勘違いをしたらしいと気付く。
「これ、でしょうか?」
懐から取り出したのは、守り袋。
中に入っているのは、一寸ほどの木の葉だ。かつて睡蓮が育てようとして、冬を越せずに枯らしてしまった木から採った。
植物は香りを放つ。睡蓮には分からないけれど、嗅覚に優れた者であれば、何か感じるのかもしれない。
狼鬼は睡蓮の手の内にある守り袋を、指先で優しく撫でる。その顔は、泣きそうに歪んでいた。
睡蓮にとって、その葉は大切な思い出の品だ。
けれど、命を助けてもらった相手。
「よろしければ、お礼に」
差し上げますと続けるはずだった言葉は、途切れた。道の向こうから、睡蓮を呼ぶ声が聞こえたから。
「ここです! 無事です」
声を張ってから、改めて狼鬼に渡そうと顔を戻す。しかしすでに、狼鬼の姿はなかった。
辺りを見回しても、人影は見つからない。草が揺れる音がして、顔を向ける。草むらにいたのは、黒い狼。怪我をしているのか、ゆっくりとした足取りで、山の奥へ戻っていく。
「姫様! 御怪我はございませんか?」
「大丈夫よ。妖は討たれたわ。お公家様に助けていただいたの。どこかへ行ってしまわれたけれど。他の者たちは無事かしら?」
狼鬼のことを隠したのは、護衛たちに心配させないため。
「死者はございません。早く戻りましょう」
「そうね」
皆、どこかに怪我を負っていたが、歩けないほどではない。
睡蓮は護衛たちと共に、山を下っていった。
一章
加々巳家の屋敷では、宴が開かれていた。戦に勝った、祝いの宴だ。冬の寒さも忘れるほど賑やかな声は、屋敷の外にまで響く。
けれど睡蓮の心に、喜びの感情はない。屋敷の西奥にある万両殿で、彼女は目の前の光景を、ぼんやりと眺める。
長く艶やかな黒髪を後ろに垂らし、小袖の上に打掛をまとって座る十四歳の少女は、まるで人形のよう。
彼女の虚ろな黒い瞳は、板張りの床に敷かれた、茵を映す。
横たわるのは、睡蓮より三つ上の兄。加々巳家の長男、秀兼だ。体中に白い布を巻かれて、ぴくりとも動かない。
今日の昼前ごろのこと。戦に出ていた加々巳家の者たちが凱旋した。深手を負っていた秀兼は、板に乗せられたまま、万両殿に運び込まれる。助からないであろうことは、誰の目にも明らかだった。
秀兼は、もうじきこの世を去ってしまう。
その現実を、睡蓮は受け入れられずにいる。頭の中は真っ白で、どう行動すればいいのかさえ、考えられなかった。
不意に、潮の香が通り抜ける。
屋敷の西方にある、黒く荒れた西海から、風に運ばれてきたのだろうか。それとも少女の頬を伝い落ちた、一筋の涙がもたらす残り香だろうか。
床に小さな染みが広がり、消えていく。
「秀兼! どうして秀兼がこのような……」
二人の母であるお万の方は、秀兼に縋りついて泣いていた。次女の菊香も、母と同じく兄の体に縋って涙に咽ぶ。
悲しみを隠すことのない母娘の姿は、女中たちの涙まで誘う。若い女中たちは目元に袖を当てて、涙を拭った。
そんな中にあって、秀兼に触れることもなく、無表情でただ座っている睡蓮は、異様に映ったのかもしれない。彼女の様子に気付いたお万の方が、瞠った目を吊り上げる。
「兄が死の縁にいるというのに、なんと情のない娘! お前が秀兼の代わりになればよいのに!」
叫び声は槍の穂先のように鋭く、睡蓮の胸を突き刺す。
見かねた女中たちが、慌ててお万の方を諌めたが、お万の方は止まらない。睡蓮を親の仇でも見つけたかのように睨みつけ、声を張り上げ続けた。
母からの思わぬ叱責に、睡蓮の心は凍えていく。
違うのだと、誤解なのだと訴えたくても、唇はわななくばかりで、言葉が出てこない。
周りを見回すと、菊香も涙で濡れた顔を向けて睡蓮を睨んでいた。女中の中にも、軽蔑を含んだ眼差しを向けている者がいる。
「ちが、う。私は」
「何が違うというのです? 出ていってちょうだい!」
激昂したお万の方の、金切り声が響く。
睡蓮は膝前に両手を突いて、首を垂れた。
苦しむ兄の傍で母を怒らせたことを、申し訳なく思う。そして秀兼にも、自分が彼の死を悲しまない、非情な妹だと思われたのだろうかと、悲しくなった。
唇を噛んで頭の中を駆け巡る激情を抑え込むと、睡蓮はゆっくりと言葉を紡ぐ。
「母上様、ご不快な思いをさせて、申し訳ありませんでした」
そして睡蓮は立ち上がった。
敷居をまたいだところで、影を縫い留められたかのように、彼女の足が止まる。振り返ると、秀兼の悲しげな瞳が、目に飛び込んできた。
もう声を出す力も残っていなかった秀兼の唇が、微かに動く。
「睡蓮」
そう呼んでくれた声が、睡蓮には聞こえた気がした。
「兄上様」
目蓋に溜まっていた涙が、溢れ落ちる。
歯を食いしばり、秀兼から視線を切ると、睡蓮は背を向けて歩き出す。そして、家の者たちに気付かれないよう、そっと裏庭に出た。
睡蓮は人目を避けながら、屋敷の裏手に回った。
ご正室であるお梅の方が暮らす紅梅殿を過ぎ、屋敷と山の間にある、水堀まで出る。そのまま堀に沿って進むと、小さな鳥居に辿り着いた。
鳥居の前で一礼して潜った睡蓮は、杉の一枚板を渡しただけの、しなる橋を渡る。先には、人一人が通れるほどの細道。山の麓から上に延びているが、城には通じていない。
行き着いた先には、小さな祠が在った。
御神体は、白い卵形をした、二尺ほどの丸石。加々巳家の先祖が、龍神から賜ったと伝わる、宝珠だ。注連縄が巻かれ、恭しく祀られている。
しかし大層な伝承とは裏腹に、詣でる者はほとんどいない。
当主である秀正さえ参詣しないのだから、どのような扱いをされているかは、お察しであろう。
それでも道が今も残り、祠が小奇麗なのは、睡蓮が手入れをしてきたからだ。幼いころに偶然この祠を見つけてから、彼女は毎日のように詣でている。
祠の前に膝を揃えて座った睡蓮は、手を合わせた。
「どうか兄、加々巳秀兼をお助けくださいませ。この身はどうぞ、御自由に使ってくださって構いません。ですからどうか、兄をお助けくださいませ」
祈り終えると、細道を下る。鳥居を潜り出るなり踵を返し、退出と参入の礼。そして再び鳥居を潜り、橋を渡って細道を上った。
医者が匙を投げたのだ。神仏に縋る以外に、秀兼を救う術があるだろうか。
睡蓮は秀兼が助かるようにと願いながら、お百度を踏む。
日が落ち、辺りが暗くなっても、祈りは終わらない。足は疲れ、寒さが身に染みた。
草をむしっただけの、急な斜面。暗くなれば、通い慣れていても足を取られる。
睡蓮は幾度も転んで、手や膝を擦りむいた。草履の鼻緒が切れてからは、裸足になって歩き続ける。
足の裏は血が滲み、体中に痣や傷が浮かぶ。立とうとすると、足の裏や膝を中心に、全身が痛んだ。それでも零れた呻き声を噛み殺し、足を前に動かす。
星が瞬く夜空の下。睡蓮は祈り続けた。
「どうか、兄をお救いくださいませ」
どれだけの時間が経ったのか。
寒さと疲労、眠気が、睡蓮の体に重石となって伸し掛かる。
景色が幾重にも重なって見えた。自分の祈る声さえも、遠くに聞こえる。それでも睡蓮は、祈ることをやめない。
「どうか、兄上様を……」
歪む視界。虚ろな意識。
睡蓮の体が、ぐらりと揺れた。
縋るように伸ばされた指先は、祠の中へ落ちていく。指先が丸石に触れ、注連縄が、ぽとりと落ちた。
白い靄が、祠の周りを覆う。
どこから現れたのか。白い衣を着た男が、睡蓮を見下ろしていた。
袴も付けぬ着流しの小袖も、腰に巻いた布帯も、混じりけのない白。男の髪までもが、雪に晒した絹糸のように、白く艶やかだ。
恐ろしいほどに整った顔立ちは、蛇を思わせる、白い鱗で覆われていた。埋め込まれた瞳は、赤い柘榴石。
「かようになるまで祈り続けるとは、愚かな」
男は膝を折ると、意識を失い倒れていた、睡蓮の手を取る。
何度も転び、地面に突いた少女の手。掌も指も、傷だらけだ。触れた男の白い指先に、赤が移る。
睡蓮の手を口近くまで持ち上げた男は、彼女の指先に、ふうっと息を吹きかけた。瞬時に手の傷が癒え、柔らかな肌が蘇る。
次いで男は、睡蓮を仰向かせた。
「しかし、美しいのう」
彼女の頬を撫でる白い指が、頬からあご、咽へと下りていく。指が胸元まで辿り着くと、男はほうっと、悩ましげな息を吐いた。
「そなたの御魂は、穢れがない。白く、美しい」
唇の間から、赤い舌が伸びる。細く長い舌は、睡蓮の頬を、ちろりと舐めた。途端に男は表情を蕩けさせ、目をうっとりと細める。
「美味いのう。欲しいのう。なれど、私は生まれたばかり。嫁を迎えるには早いか」
恍惚としていた顔が、残念そうに歪む。
男はしばし考え込んだ後、よい考えが思いついたとばかりに、目を輝かせ、にんまりと唇で弧を描いた。
睡蓮の胸元まで下ろしていた手が、彼女の頬に戻り、包み込む。そして親指の腹は、彼女の唇を優しく撫でた。
「うっ」
深い眠りから浮上してきたのか。睡蓮が身じろいだ。そんな彼女の耳元に、男は口を寄せる。
「のう、取り引きをせぬか?」
「取り、引き?」
目を閉じたままでありながら、睡蓮の唇が動き、声を返す。
「そなたの願いを叶えてやろう。兄とやらを、救うてやる。幸いにも、傷を癒すのは得意じゃ」
睡蓮の口元が、嬉しそうに綻んだ。
男は不快気に眉をひそめる。たとえ肉親であっても、自分以外の男を想うなど、苛立ちを覚えてしまう。
しかし気を取り直して、彼女の耳に、言葉を吹き込んでいく。
「その代わり、そなたは私の嫁となれ」
「あなた様の嫁に?」
「そうじゃ。じゃが、そなたはまだ若く、私もそなたを養う術を持たぬ。だから、鱗がそなたの全身を覆ったら、迎えに来ようぞ。どうじゃ?」
「お受けいたします」
睡蓮の唇は、迷うことなく答えた。
多少は悩むと思っていた男は、睡蓮の即答に目を見開いた後、笑み崩れる。
「それほどに、私に嫁ぎたいのか。嬉しいのう」
男は喜びを隠すことなく、睡蓮の額に口づけ、包み込むように抱きしめた。すると傷だらけだった睡蓮の肌が、皮を脱ぐように癒えていく。
朝陽が昇り、空が明らみ始めた。
陽光が地上を照らし始めると、男は名残惜しそうに睡蓮から体を離す。
「嫁に迎える日を、楽しみに待つとしよう。このまま穢れず、美しく育てよ」
男は最後に睡蓮の頬を一舐めすると、白い蛇に姿を変える。そして、霧の中に姿を隠した。
祠の前で目覚めた睡蓮は、地面に横たわる自分の姿に気付くと、慌てて起き上がる。それから辺りを見回した。
お百度を踏んでいた姿も、倒れていた姿も、誰にも見られていないと分かると、ほっと胸を撫で下ろす。
けれど先ほどのことを思い出した途端、顔が赤く染まった。
見知らぬ男に抱きしめられ、額や頬を、舐められたのだ。まだ男を知らない少女は、恥ずかしさで身悶える。
だがこの場にいるのは、睡蓮一人だ。男の姿はどこにもない。
あれは本当に現実だったのだろうか。
そんな疑問が生じる。
「きっと、夢だったのだわ」
自分に言い聞かせるように呟いた。
だけど彼女の心は、現実だと囁く。
夜通し山道を往復し続けた体は、傷だらけになっていたはずだ。現に、小袖はあちらこちらが破れ、すり切れている。赤黒い染みもあり、怪我をしていたのは明白だ。それなのに、今の体には、擦り傷一つない。
「もしかしたら、神様が願いを聞き届けてくださったのかもしれない」
自分の傷が癒えたように、秀兼の怪我も治っているのではないか。そんなふうに希望の光を抱いた睡蓮は、お礼を伝えようと祠を見て、凍り付いた。
丸石に巻かれていた注連縄が、地面に落ちていたのだ。それだけならばまだしも、丸石は孵化した卵のように、二つに割れている。
「そんな」
大切な御神体を、割ってしまった。
強い罪悪感と恐怖が、込み上げる。
睡蓮は秀兼の容態を確かめるため、急ぎ万両殿に戻る。
その万両殿の中は、昨日とは打って変わり、歓喜に沸いていた。
女たちの歓声を聞き、睡蓮は秀兼が生還したのだと覚る。目元に涙が浮かび、顔は笑み崩れていく。
それでも確信はない。
睡蓮は目に付いた女中に確かめる。
「兄上様の御容体は?」
怪異が、各地を襲っていた。
「姫様! お逃げください!」
日が沈みゆく山の中。紅葉に染まる細道を、少女は裾をたくし上げて走る。笠も杖も、逃げる途中で、どこかに置き去りにしてきた。
少女の名は睡蓮。金川の地を治める大名、加々巳秀正の娘だ。齢十二。三つ上の兄、秀兼が無事に初陣を遂げられるよう、奥山の神社へ詣でた、その帰り道のこと。
連れてきた護衛のほとんどは、妖の足止めに残った。彼女を護るため、共に山を下ってきた護衛は、もう一人しか残っていない。
共に逃げようと返しかけた声を、睡蓮は既のところで呑み込む。
たとえこの場を生き延びたとしても、彼女が命を落とせば、護衛たちは腹を切らなければならない。彼らが生き続けるには、睡蓮が逃げ延びることが絶対条件だ。
「どうか無事で」
切なる祈りを残し、睡蓮は足を急がせる。
然して進まぬうちに、後ろでどさりと音がした。思わず振り返ると、視界が黒い影で覆われる。
「あ……」
睡蓮とて、多少なりとも武芸の心得はあった。
だが鍛え抜かれた武士たちですら、歯が立たぬ相手。立ち向かう術も、逃れる術も、彼女にあろうはずがない。
黒く禍々しい塊は、人というには大きい。頭には二本の長い角。背に生える黒い翼は、蝙蝠のものか。振り上げられた手には、長く鋭い爪が、鈍く光る。
その正体は、蝙蝠夜叉。本来ならば、子を護り慈しむ、優しい鬼。それが理性を失い、人を襲っていた。
睡蓮は悲鳴を上げるどころか、目を瞑ることさえ忘れて、迫る黒い爪を見つめる。
ここで命を終えるのだ――。そう思った途端、恐怖が消え、心が凪ぐ。
けれど、彼女の命が途絶えることはなかった。蝙蝠夜叉と睡蓮の間に、別の黒い影が現れたから。
黒い狩衣姿の、公家風の男。真っ黒な髪は、油で整えるどころか、結ってさえいない。
ちらりと、男が睡蓮を振り返る。
公家の装いとは不釣り合いな、野性味のある整った顔立ち。武家の装いのほうが似合いそうだ。
切れ長の目に埋まる瞳は、燃えるように染まる紅葉よりもなお赤い。
呆然と見つめる睡蓮を映しながら、赤い瞳は哀しみを湛えて揺れる。触れれば火傷しそうなほど鋭い眼差しなのに、今にも落葉しそうだ。そんな危うさを、睡蓮は抱く。
だが彼もまた、人ではなかった。
頭に生える一本の角。耳は尖り、黒い毛が覆う。腰の少し下に意識を向けると、獣の黒い尾が揺れる。
鬼と狼の血を引く、狼鬼。恐れるべき存在。
なのに、睡蓮は彼の赤い瞳に、懐かしさを覚えた。
「懐に、何を入れている?」
縋るように震える、ためらいがちな声。報酬の要求だと思った睡蓮は素早く返す。
「今の手持ちはわずかですが、お礼ならいたします。どうか、お助けくださいませ」
「そうではない」
狼鬼は首を横に振る。
「匂いがする」
「匂い?」
問うた睡蓮に、答えは返ってこない。蝙蝠夜叉が狼鬼を裂こうと、腕を振り上げ、振り下ろしたのだ。
鋭い爪が、夕闇に残るわずかな光を反射して、赤く光る。
蝙蝠夜叉に顔を戻した狼鬼の表情は、悲愴感に溢れていた。
「荒ぶる神よ。安らかに眠り給え」
黒い刃が閃く。
蝙蝠夜叉が悲鳴を上げ、黒い灰となって崩れる。風に吹かれた灰が、蛍のように輝き、空に昇っていった。
妖の最期とは思えない、美しい光景。
睡蓮は空を見上げて見惚れてしまう。しかし呻き声を耳にして、我に返る。見ると、狼鬼が膝を突いて蹲っていた。
「お怪我を?」
心配して駆け寄る睡蓮の胸元に、狼鬼が手を伸ばす。
思わず後退った睡蓮だったが、狼鬼の反応を見て、勘違いをしたらしいと気付く。
「これ、でしょうか?」
懐から取り出したのは、守り袋。
中に入っているのは、一寸ほどの木の葉だ。かつて睡蓮が育てようとして、冬を越せずに枯らしてしまった木から採った。
植物は香りを放つ。睡蓮には分からないけれど、嗅覚に優れた者であれば、何か感じるのかもしれない。
狼鬼は睡蓮の手の内にある守り袋を、指先で優しく撫でる。その顔は、泣きそうに歪んでいた。
睡蓮にとって、その葉は大切な思い出の品だ。
けれど、命を助けてもらった相手。
「よろしければ、お礼に」
差し上げますと続けるはずだった言葉は、途切れた。道の向こうから、睡蓮を呼ぶ声が聞こえたから。
「ここです! 無事です」
声を張ってから、改めて狼鬼に渡そうと顔を戻す。しかしすでに、狼鬼の姿はなかった。
辺りを見回しても、人影は見つからない。草が揺れる音がして、顔を向ける。草むらにいたのは、黒い狼。怪我をしているのか、ゆっくりとした足取りで、山の奥へ戻っていく。
「姫様! 御怪我はございませんか?」
「大丈夫よ。妖は討たれたわ。お公家様に助けていただいたの。どこかへ行ってしまわれたけれど。他の者たちは無事かしら?」
狼鬼のことを隠したのは、護衛たちに心配させないため。
「死者はございません。早く戻りましょう」
「そうね」
皆、どこかに怪我を負っていたが、歩けないほどではない。
睡蓮は護衛たちと共に、山を下っていった。
一章
加々巳家の屋敷では、宴が開かれていた。戦に勝った、祝いの宴だ。冬の寒さも忘れるほど賑やかな声は、屋敷の外にまで響く。
けれど睡蓮の心に、喜びの感情はない。屋敷の西奥にある万両殿で、彼女は目の前の光景を、ぼんやりと眺める。
長く艶やかな黒髪を後ろに垂らし、小袖の上に打掛をまとって座る十四歳の少女は、まるで人形のよう。
彼女の虚ろな黒い瞳は、板張りの床に敷かれた、茵を映す。
横たわるのは、睡蓮より三つ上の兄。加々巳家の長男、秀兼だ。体中に白い布を巻かれて、ぴくりとも動かない。
今日の昼前ごろのこと。戦に出ていた加々巳家の者たちが凱旋した。深手を負っていた秀兼は、板に乗せられたまま、万両殿に運び込まれる。助からないであろうことは、誰の目にも明らかだった。
秀兼は、もうじきこの世を去ってしまう。
その現実を、睡蓮は受け入れられずにいる。頭の中は真っ白で、どう行動すればいいのかさえ、考えられなかった。
不意に、潮の香が通り抜ける。
屋敷の西方にある、黒く荒れた西海から、風に運ばれてきたのだろうか。それとも少女の頬を伝い落ちた、一筋の涙がもたらす残り香だろうか。
床に小さな染みが広がり、消えていく。
「秀兼! どうして秀兼がこのような……」
二人の母であるお万の方は、秀兼に縋りついて泣いていた。次女の菊香も、母と同じく兄の体に縋って涙に咽ぶ。
悲しみを隠すことのない母娘の姿は、女中たちの涙まで誘う。若い女中たちは目元に袖を当てて、涙を拭った。
そんな中にあって、秀兼に触れることもなく、無表情でただ座っている睡蓮は、異様に映ったのかもしれない。彼女の様子に気付いたお万の方が、瞠った目を吊り上げる。
「兄が死の縁にいるというのに、なんと情のない娘! お前が秀兼の代わりになればよいのに!」
叫び声は槍の穂先のように鋭く、睡蓮の胸を突き刺す。
見かねた女中たちが、慌ててお万の方を諌めたが、お万の方は止まらない。睡蓮を親の仇でも見つけたかのように睨みつけ、声を張り上げ続けた。
母からの思わぬ叱責に、睡蓮の心は凍えていく。
違うのだと、誤解なのだと訴えたくても、唇はわななくばかりで、言葉が出てこない。
周りを見回すと、菊香も涙で濡れた顔を向けて睡蓮を睨んでいた。女中の中にも、軽蔑を含んだ眼差しを向けている者がいる。
「ちが、う。私は」
「何が違うというのです? 出ていってちょうだい!」
激昂したお万の方の、金切り声が響く。
睡蓮は膝前に両手を突いて、首を垂れた。
苦しむ兄の傍で母を怒らせたことを、申し訳なく思う。そして秀兼にも、自分が彼の死を悲しまない、非情な妹だと思われたのだろうかと、悲しくなった。
唇を噛んで頭の中を駆け巡る激情を抑え込むと、睡蓮はゆっくりと言葉を紡ぐ。
「母上様、ご不快な思いをさせて、申し訳ありませんでした」
そして睡蓮は立ち上がった。
敷居をまたいだところで、影を縫い留められたかのように、彼女の足が止まる。振り返ると、秀兼の悲しげな瞳が、目に飛び込んできた。
もう声を出す力も残っていなかった秀兼の唇が、微かに動く。
「睡蓮」
そう呼んでくれた声が、睡蓮には聞こえた気がした。
「兄上様」
目蓋に溜まっていた涙が、溢れ落ちる。
歯を食いしばり、秀兼から視線を切ると、睡蓮は背を向けて歩き出す。そして、家の者たちに気付かれないよう、そっと裏庭に出た。
睡蓮は人目を避けながら、屋敷の裏手に回った。
ご正室であるお梅の方が暮らす紅梅殿を過ぎ、屋敷と山の間にある、水堀まで出る。そのまま堀に沿って進むと、小さな鳥居に辿り着いた。
鳥居の前で一礼して潜った睡蓮は、杉の一枚板を渡しただけの、しなる橋を渡る。先には、人一人が通れるほどの細道。山の麓から上に延びているが、城には通じていない。
行き着いた先には、小さな祠が在った。
御神体は、白い卵形をした、二尺ほどの丸石。加々巳家の先祖が、龍神から賜ったと伝わる、宝珠だ。注連縄が巻かれ、恭しく祀られている。
しかし大層な伝承とは裏腹に、詣でる者はほとんどいない。
当主である秀正さえ参詣しないのだから、どのような扱いをされているかは、お察しであろう。
それでも道が今も残り、祠が小奇麗なのは、睡蓮が手入れをしてきたからだ。幼いころに偶然この祠を見つけてから、彼女は毎日のように詣でている。
祠の前に膝を揃えて座った睡蓮は、手を合わせた。
「どうか兄、加々巳秀兼をお助けくださいませ。この身はどうぞ、御自由に使ってくださって構いません。ですからどうか、兄をお助けくださいませ」
祈り終えると、細道を下る。鳥居を潜り出るなり踵を返し、退出と参入の礼。そして再び鳥居を潜り、橋を渡って細道を上った。
医者が匙を投げたのだ。神仏に縋る以外に、秀兼を救う術があるだろうか。
睡蓮は秀兼が助かるようにと願いながら、お百度を踏む。
日が落ち、辺りが暗くなっても、祈りは終わらない。足は疲れ、寒さが身に染みた。
草をむしっただけの、急な斜面。暗くなれば、通い慣れていても足を取られる。
睡蓮は幾度も転んで、手や膝を擦りむいた。草履の鼻緒が切れてからは、裸足になって歩き続ける。
足の裏は血が滲み、体中に痣や傷が浮かぶ。立とうとすると、足の裏や膝を中心に、全身が痛んだ。それでも零れた呻き声を噛み殺し、足を前に動かす。
星が瞬く夜空の下。睡蓮は祈り続けた。
「どうか、兄をお救いくださいませ」
どれだけの時間が経ったのか。
寒さと疲労、眠気が、睡蓮の体に重石となって伸し掛かる。
景色が幾重にも重なって見えた。自分の祈る声さえも、遠くに聞こえる。それでも睡蓮は、祈ることをやめない。
「どうか、兄上様を……」
歪む視界。虚ろな意識。
睡蓮の体が、ぐらりと揺れた。
縋るように伸ばされた指先は、祠の中へ落ちていく。指先が丸石に触れ、注連縄が、ぽとりと落ちた。
白い靄が、祠の周りを覆う。
どこから現れたのか。白い衣を着た男が、睡蓮を見下ろしていた。
袴も付けぬ着流しの小袖も、腰に巻いた布帯も、混じりけのない白。男の髪までもが、雪に晒した絹糸のように、白く艶やかだ。
恐ろしいほどに整った顔立ちは、蛇を思わせる、白い鱗で覆われていた。埋め込まれた瞳は、赤い柘榴石。
「かようになるまで祈り続けるとは、愚かな」
男は膝を折ると、意識を失い倒れていた、睡蓮の手を取る。
何度も転び、地面に突いた少女の手。掌も指も、傷だらけだ。触れた男の白い指先に、赤が移る。
睡蓮の手を口近くまで持ち上げた男は、彼女の指先に、ふうっと息を吹きかけた。瞬時に手の傷が癒え、柔らかな肌が蘇る。
次いで男は、睡蓮を仰向かせた。
「しかし、美しいのう」
彼女の頬を撫でる白い指が、頬からあご、咽へと下りていく。指が胸元まで辿り着くと、男はほうっと、悩ましげな息を吐いた。
「そなたの御魂は、穢れがない。白く、美しい」
唇の間から、赤い舌が伸びる。細く長い舌は、睡蓮の頬を、ちろりと舐めた。途端に男は表情を蕩けさせ、目をうっとりと細める。
「美味いのう。欲しいのう。なれど、私は生まれたばかり。嫁を迎えるには早いか」
恍惚としていた顔が、残念そうに歪む。
男はしばし考え込んだ後、よい考えが思いついたとばかりに、目を輝かせ、にんまりと唇で弧を描いた。
睡蓮の胸元まで下ろしていた手が、彼女の頬に戻り、包み込む。そして親指の腹は、彼女の唇を優しく撫でた。
「うっ」
深い眠りから浮上してきたのか。睡蓮が身じろいだ。そんな彼女の耳元に、男は口を寄せる。
「のう、取り引きをせぬか?」
「取り、引き?」
目を閉じたままでありながら、睡蓮の唇が動き、声を返す。
「そなたの願いを叶えてやろう。兄とやらを、救うてやる。幸いにも、傷を癒すのは得意じゃ」
睡蓮の口元が、嬉しそうに綻んだ。
男は不快気に眉をひそめる。たとえ肉親であっても、自分以外の男を想うなど、苛立ちを覚えてしまう。
しかし気を取り直して、彼女の耳に、言葉を吹き込んでいく。
「その代わり、そなたは私の嫁となれ」
「あなた様の嫁に?」
「そうじゃ。じゃが、そなたはまだ若く、私もそなたを養う術を持たぬ。だから、鱗がそなたの全身を覆ったら、迎えに来ようぞ。どうじゃ?」
「お受けいたします」
睡蓮の唇は、迷うことなく答えた。
多少は悩むと思っていた男は、睡蓮の即答に目を見開いた後、笑み崩れる。
「それほどに、私に嫁ぎたいのか。嬉しいのう」
男は喜びを隠すことなく、睡蓮の額に口づけ、包み込むように抱きしめた。すると傷だらけだった睡蓮の肌が、皮を脱ぐように癒えていく。
朝陽が昇り、空が明らみ始めた。
陽光が地上を照らし始めると、男は名残惜しそうに睡蓮から体を離す。
「嫁に迎える日を、楽しみに待つとしよう。このまま穢れず、美しく育てよ」
男は最後に睡蓮の頬を一舐めすると、白い蛇に姿を変える。そして、霧の中に姿を隠した。
祠の前で目覚めた睡蓮は、地面に横たわる自分の姿に気付くと、慌てて起き上がる。それから辺りを見回した。
お百度を踏んでいた姿も、倒れていた姿も、誰にも見られていないと分かると、ほっと胸を撫で下ろす。
けれど先ほどのことを思い出した途端、顔が赤く染まった。
見知らぬ男に抱きしめられ、額や頬を、舐められたのだ。まだ男を知らない少女は、恥ずかしさで身悶える。
だがこの場にいるのは、睡蓮一人だ。男の姿はどこにもない。
あれは本当に現実だったのだろうか。
そんな疑問が生じる。
「きっと、夢だったのだわ」
自分に言い聞かせるように呟いた。
だけど彼女の心は、現実だと囁く。
夜通し山道を往復し続けた体は、傷だらけになっていたはずだ。現に、小袖はあちらこちらが破れ、すり切れている。赤黒い染みもあり、怪我をしていたのは明白だ。それなのに、今の体には、擦り傷一つない。
「もしかしたら、神様が願いを聞き届けてくださったのかもしれない」
自分の傷が癒えたように、秀兼の怪我も治っているのではないか。そんなふうに希望の光を抱いた睡蓮は、お礼を伝えようと祠を見て、凍り付いた。
丸石に巻かれていた注連縄が、地面に落ちていたのだ。それだけならばまだしも、丸石は孵化した卵のように、二つに割れている。
「そんな」
大切な御神体を、割ってしまった。
強い罪悪感と恐怖が、込み上げる。
睡蓮は秀兼の容態を確かめるため、急ぎ万両殿に戻る。
その万両殿の中は、昨日とは打って変わり、歓喜に沸いていた。
女たちの歓声を聞き、睡蓮は秀兼が生還したのだと覚る。目元に涙が浮かび、顔は笑み崩れていく。
それでも確信はない。
睡蓮は目に付いた女中に確かめる。
「兄上様の御容体は?」
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
205
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
このユーザをミュートしますか?
※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。