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1巻

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 答えた桃矢の表情は硬くこわり、膝の上の手を握りしめる。その白くなった手を、ぬくもりが包み込んだ。
 重なる手に沿って顔を上げると、悲しげな笑みを浮かべる咲良が映った。

「咲良は桃矢様が殿方でも、ご令嬢でも構いません。桃矢様のおそばにいられれば、それだけで充分なのです。ですが桃矢様は大河家のご長子。咲良では吊り合わないことも、理解しております」
「咲良……」

 咲良は隠すことなく気持ちを伝えてくる。その一方で、桃矢が思いつめないように逃げ道を用意した。
 桃矢はそんな咲良の気持ちをありがたいと思うと同時に、受け取ることが許されない自分自身をがゆく思う。
 気まずげな空気をかもす桃矢を見つめていた咲良が、ふっと笑みを零して手を叩く。

「そうだわ。つまざいを作ったのです。お見せしますね」

 そう言って持ってきたのは、薄紅色の生地で作られた枝垂桜しだれざくらの髪飾り。絹布の持つつややかな輝きとなめらかさが咲良に似合いそうだと、桃矢は思った。

「挿してやろう」

 そう言って差し出した手をすり抜け、咲良は髪飾りを桃矢の耳の上に添える。

「咲良?」

 げんな顔をする桃矢に対し、嬉しそうに笑う。

「お似合いになります」

 差し出された手鏡に映るのは、少年にしか見えない短髪の桃矢。けれど髪に添えられた枝垂桜が軽やかに揺れると、少年は少女に変わった。
 女としての生き方など、とうにあきらめたこと。だというのに、鏡の向こうで少女の姿をかいせる自分に、手を伸ばしそうになる。
 しかしそれはゆめまぼろし
 鏡に映る少女が、今にも泣き出しそうに顔をゆがめた。桃矢はぶたを落として幻想を断ち切ると、かすかに動いた指先を理性で押し留め、胸の痛みも呑み込む。

「私は男だ。やめよ」

 咲良を傷付けまいと優しく言ったはずなのに、唇から漏れ出たのは硬質で冷たい声。
 案の定、咲良の表情が曇る。桃矢は罪悪感で顔をそむけた。

「桃矢様。この家にいる間だけは、思うがままに振る舞ってくださって構わないのですよ?」

 咲良の愛らしい唇から零れる、甘く優しい誘惑。
 桃矢の柔らかな心が、咲良にすがろうと蓋を開ける。しかしその蜜を口にすれば立ち上がれなくなると、桃矢は知っていた。
 だから全てに封をする。
 抵抗する理性に押さえ付けられ、少女の心は悲鳴を上げながら凍り付いていく。
 無言になった桃矢の隣に、咲良がぴとりと寄り添った。桃矢の左手に右手を絡ませ、肩に頭を乗せる。
 そのぬくもりが、桃矢の凍える心をゆっくりと溶かしていった。


 かつり、かつりと、つえを突く音が病院側の玄関先から聞こえてきた。酉次郎が帰ってきたのだと察した桃矢と咲良は身を離す。

「お帰りなさい、お爺様」
「お疲れ様です、先生」
「ああ。帰った。桃矢様も来ておられたか」

 咲良と桃矢が声を掛けると、酉次郎の声が返ってきた。
 繋いだままの手に視線を落とした咲良が、絡めていた指を残念そうに解いて立ち上がる。土間に下り、酉次郎のもとへ向かった。

「荷物を片付けておきます」
「ありがとう」

 咲良に往診のための荷物を任せて奥に入ってきた酉次郎が、桃矢の向かいに腰を下ろす。彼が急須に手を伸ばそうとしたのを見て、桃矢は新しい湯呑にお茶を注ぎ差し出した。

「クリームパンもよろしければ召し上がってください」
「これはまた結構なものをありがとうございます。いつも気にせずともよろしいのに」
「先生にはお世話になっていますから」

 お茶でのどうるおした酉次郎がクリームパンを割りながら、肩をほぐすように首を大きく傾けた。

「おみしましょうか?」
「さすがにそれは申し訳ない。後で咲良に頼みますよ」
「構いません。咲良も家のことが忙しいでしょうから」

 酉次郎の背後に回った桃矢は、痩せた肩に手を乗せ揉みほぐす。
 父母の肩を揉んだことは、一度としてない。それどころか触れた記憶すらない。祖父母は桃矢が生まれる前に亡くなっている。
 指先に感じる肉は少なく、骨と皮が目立つ。下手に力を加えようものならかえって痛めてしまいそうで、桃矢は注意しながら手を動かす。

「痛くはありませんか?」
「上出来ですよ。あんになれますな」
「ご冗談を」

 軽口を叩き合いつつ、桃矢は父母にはできぬ孝行を味わう。
 指先から伝わってくる人肌の感触が心地よかった。役に立てているのだという満足感が、空っぽの心を満たしていく。
 かりめのことだと分かっていても、桃矢は酉次郎に父や祖父を重ねてしまう。

「先生は、僕のお爺様のこともご存知なのですよね?」

 顔を見たこともない、桃矢の父方の祖父、大河いち
 問うと、クリームパンの欠片をしゃくしていた酉次郎が顔をしかめた。お茶を口に含んで流し込み、桃矢の祖父について語り出す。

「生まれた時代が悪かったのでしょうな。異国の影響を受け、それまでの価値観が大きく変わる波にほんろうされて、使鬼を大切にする大旦那様を時代遅れの堅物となじっておられた。鬼と血を交わしたものの、最後は見放されました」

 幕府が倒れ、新政府が樹立する頃に青年期を過ごした貴一は、使鬼を尊ぶことなく使役し、憎しみを抱いた使鬼によって命を断たれた。貴尾が使鬼を持たなかったのは、貴一の最期を知っているからでもあるのだろう。
 ちぎりを結びさえすれば、永遠に隷属させられるわけではない。鬼と人。双方が共に添うことを望まなければ、使鬼が人の味方でい続けるとは限らないのだ。
 とはいえ、人であることを捨て鬼として生きると決断するには、相応の理由が必要であろうが。

「僕は、大丈夫でしょうか?」
「咲良が桃矢様を嫌っているように見えますか?」

 問い返された言葉に、桃矢は首を横に振った。自然と目が向かった病院のほうから咲良の気配を感じる。
 あの子だけは自分を裏切らないと、桃矢は信じていた。もしも裏切られるとしたら、自分に問題があったからだと断言できる。そして、咲良が桃矢を見捨てるときが来るとしたら、それは本当の孤独に突き落とされるときだ。
 想像してしまった桃矢の心に、凍えるような冬風が吹いた。

「……貴尾坊ちゃまは、悪鬼との戦い方を教えてくださいましたか?」

 桃矢の表情がこわる。目から光が消え、心の戸が閉じていく。
 その反応を見た酉次郎が、大きく息を吐き出した。

「桃矢様のせいではありません。おそらく、貴尾坊ちゃまは教えないのではなく、教えられないのでしょう。……大旦那様のおっしゃっていた通りになったということです」
ひいじいさまの?」

 ぼんやりと返す桃矢に対して、酉次郎がうなずく。

「ええ。大旦那様は旦那様を見て心配しておられました。大河家が代々伝えてきた悪鬼改めの技が途絶えてしまうのではないかと。若造だった私に全てを明かし、託すほどに」

 桃矢は水を掛けられたかのように、目が一気に覚めた。
 なぜ大河家の人間ではなく、悪鬼改めにも鬼倒隊にも所属していなかった酉次郎が、鬼を使役する方法を知っていたのか。疑問に感じていた答えがここにある。

「なぜ先生に?」
「病床の大旦那様の診察をしていた折に、医者になった私ならば長生きするだろうからと。……結局、旦那様にも貴尾坊ちゃまにも、耳を貸してはいただけませんでしたが」

 振り返った酉次郎が、じっと桃矢の目を覗き込む。
 大河貴蔵の意志を継ぐ気はあるのか。悪鬼と戦う覚悟はあるのかと、その目が問うていた。
 桃矢ののどがごくりと鳴る。

「僕に、ひいじいさまの技を、伝授してくださるのですね?」

 悪鬼と戦うすべを。
 今は異国から伝わった悪鬼と戦うための銃が、鬼倒隊の主力武器となっている。しかしその銃がなかった時代に、悪鬼改めはと呼ばれていた帝都をまもつづけ、平穏をもたらしていたのだ。今となっては、大袈裟に語られた創作ではなかろうかと疑われるほどの実績を上げて。
 桃矢に迷いなどなかった。ただしゃぶるいで指先が震える。
 酉次郎の背後から前へと回った桃矢は、両手をついて頭を下げた。

「どうか教えてください。僕を悪鬼と戦えるようにしてください」

 万が一、幽閉されることなくお天道様の下を歩き続けることが許されて鬼倒隊へ入ることになった場合にそなえ、桃矢は毎日休むことなく剣術の稽古を続けている。華族学問院にある書物を読み漁り、鬼について調べもしていた。
 だが、それだけだ。
 誰でもできることを、誰でも望めば得られる知識を、必死にたくわえているにすぎない。大河の者として認められるほどの成果には、繋がっていなかった。
 使鬼として得たものの、優しい娘に育った咲良を戦いに投じるつもりなど、すでに桃矢からは失せている。
 新たな力が欲しかった。一人でも悪鬼と戦える力が――
 桃矢を見下ろしていた酉次郎の視線を、彼のぶたさえぎる。

「頭をお上げください。元よりそのつもりです。今まで黙っていましたのは、貴尾坊ちゃまが伝えるのが道理と思うて様子を見ていただけのこと。大旦那様に託された技の全て桃矢様にお返しいたします」

 酉次郎もまた、頭を垂れた。

「さて、神術についてはご存知ですかな?」

 顔を上げた酉次郎が問う。さっそく指導に入るらしい。
 神術とは、人に宿る神力をもちいて発現する術だ。平民は神力が少なく神術を使えない者が多いが、華族は元より士族の多くが使用できる。家によっては代々伝わる秘伝の術もあった。

「基礎につきましては、学問院で学びました」

 かくもちいた手紙のやり取りなどは、基本的な事柄として学問院でも教わる。
 うなずいた酉次郎がふところから御符を出し、桃矢に見せた。

「これはばくと呼ばれる御符。結界の中に入った鬼を縛り、動けなくします」
「鬼倒隊で使っているものですね? 手に取って見てもよろしいですか?」
「どうぞ」

 許しを得て、桃矢は鬼縛符を手に取り観察する。
 神域で育てられたたいを用いて作られた薄い御符。描かれた模様は複雑で、一見すると文字のようにも見えるが、読み取ることはできない。

「鬼縛符は複数名で使用すると聞きました」

 御符と御符を結んだ線の中に入った鬼を縛るため、御符を持つ者が最低でも三人は必要というのが定説だ。
 けれど酉次郎は、桃矢の言葉に首を横に振る。

「そのほうが効率がいいのは確かです。鬼は動くもの。それゆえに人は鬼に合わせて動き、結界の位置を調整する必要があります。使う鬼縛符の数だけ人がいたほうが都合がいい。また、結界が広ければそれだけ神力を行使します。よって、多人数のほうが負担が少なく済む。しかし発動させるだけなら一人でもできます」

 出された謎掛けに、桃矢は頭をひねった。

「先に設置して、結界の中に鬼を誘い込んでから発動すればいいのですね?」
よう。地下牢にも四隅に埋め、必要な場合は咲良を縛っておりました」

 桃矢は目をき酉次郎を凝視する。
 しばし後、桃矢の目は台所のほうにいる咲良に、次いで地下牢のある奥の部屋に向かう。
 今でこそ人と変わらぬ咲良だけれども、かつては理性の利かぬ鬼の子だった。地下へ入り込んだ桃矢を、事情も聞かず襲おうとしたほどに。
 そして桃矢は思い出す。桃矢が咲良の血を飲む際、酉次郎は膝をつき何かの神術を発動した。それが鬼縛符だったのだと。

「そちらは差し上げます。鬼縛符は何枚あっても多すぎるということはありません。写して作り溜めておくといいでしょう」

 桃矢は素直に頷き、頂いた鬼縛符を鞄にしまう。

「今日はこのくらいにしましょう。これ以上は遅くなる」
「ありがとうございました。また伺います」

 礼を述べて立ち上がった桃矢が土間に下りると、台所から咲良が顔を出す。
 桃矢と酉次郎が語り合っているのを見て、気を利かせたのだろう。病院側から土間伝いに台所に行き、夕食の支度を始めていた。

「お帰りですか?」
「ああ。また来るよ」
「お気を付けてお帰りくださいね」
「ありがとう」

 咲良に見送られて、桃矢は家路に着いた。


 桃矢が橘内家を去った後。
 夕食の膳を運んできた咲良を見て、酉次郎はげんな顔をした。

「ずいぶんと機嫌がいいな。私が留守にしている間に、何かあったか?」

 問うてはみたものの、答えは察しが付いている。この孫が感情を揺さぶられるのは、桃矢に関することのみ。
 案の定、咲良はうっとりとした顔で今日のことを話す。

「桜の髪飾りを付けた桃矢様は、たいそう可愛らしかった。お召し物も私の色に染めたいが」

 笑みを消したその瞳から、光が消えていく。表情をおとした冷たい顔は、見慣れている酉次郎ですら、美しくも恐ろしく感じる。

「桃矢様は未だ女に戻ることを望んでくださらない。あのお方は優しすぎて、戦いなど向いていないというのに。まったく、忌々いまいましいことです」

 吐き捨てるように言い放つ咲良の眼に殺気がにじむ。
 もしも桃矢が許したなら、咲良は迷わず大河家の者を手に掛けるだろうと、酉次郎は思う。彼らが桃矢を縛り苦しめる、最大の原因だから。
 咲良がれんな花を演じるのは桃矢のため。桃矢に伝わらないと分かっていれば、この通り素顔をさらし、悪態も吐く。咲良の屈託ない笑顔しか知らぬ桃矢が見たら、驚くに違いないと酉次郎は呆れた。

「いっそ、鬼となってさらってしまおうか」

 目を金色に染めてうそぶく言葉は、冗談なのか本気なのか。酉次郎にすら判別が付かぬ。

「それこそ、桃矢様は望むまいよ」

 念のため釘を刺してから、酉次郎は箸を取る。
 膝前に置かれた膳の上に並ぶのは、麦の交じった飯に、茄子なすいもの煮物。それにいわしの梅煮と豆腐の味噌汁。
 男手一つで育てた咲良だが、いつの間にか、どこに嫁がせても恥ずかしくないほどに一通りの家事を身につけていた。
 だが如何いかんせん、咲良は桃矢が絡まなければ何事にも関心が薄くなる。

「今夜もいわしと豆腐か」

 箸でつまんだ鰯を持ち上げ、酉次郎はぽつりと零す。

「余ったとかで、持ってくるのですよ。買いに出かけている間に桃矢様が来たら取り返しがつきませんし、お爺様はなんでも召し上がるでしょう?」

 ぶっきらぼうに答えた咲良が、鰯の梅煮を頬張った。
 魚売りと豆腐売りの青年が、咲良に惚れているのは明らかだ。あれこれ理由を付けては会いに来る。
 しかし桃矢の力で人の姿を得たものの、咲良の本性は鬼のまま。他人は愚か、肉親にさえ情を寄せることはない。青年たちの好意など、伝わるはずがなかった。
 鬼でなくとも、咲良が彼らの想いに応えることはなかっただろうが。
 そしてとばっちりを受けて、連日鰯と豆腐を食べさせられている酉次郎の気持ちなど、誰も察することはない。

「鬼は鰯や豆が苦手と聞くが?」

 鰯だけでなく、膳に並んでいる豆腐も元は大豆。どちらも節分の季節には、おにけとしてもちいられる。

「ただの迷信ですよ。食べられればなんでも構いません」

 そう言った咲良だが、小豆あずきは苦手らしいと酉次郎は知っている。それでも桃矢のためにぜんざいもちを作って待っていることがあった。桃矢が来なければ、酉次郎の夕食か朝食となるのだが。
 咲良の世界は桃矢を中心に回っている。酉次郎を祖父と呼び共に暮らしているのも、桃矢がそう望んでいるからにすぎない。咲良が酉次郎に対して、桃矢へ向けるほどの配慮を見せることはなかった。

「人間だとて、親離れしていくもの。こうして孫が作った飯を食べられるだけでも充分か。私も欲深くなったな」

 酉次郎は出汁だしがよく効いた味噌汁をすする。

「お前、そろそろ桃矢様に打ち明けてはどうだ?」
「私が本当は男だとですか? お断りします」

 男子であれば、徴兵検査を受けねばならない。そうなれば鬼の子である咲良を隠しきれないと、酉次郎は生まれたばかりの咲良を女児として届け出た。ゆえに制度上は女として生きる必要がある。
 とはいえ、咲良の擬態はあまりに見事すぎた。
 そんな咲良だからか。人の姿に戻ったときに女児と見間違えて以来、桃矢は未だに咲良を女だと思い込んでいる。
 それはまだ桃矢を信用しきっていなかった酉次郎が、彼女が口を滑らせぬようにと真実を告げなかったせいでもあった。そのため、今さら咲良の意思に反して告げられない。

「私を女だと思い込んでいるからこそ、桃矢様は女の姿をかいせてくれるのです。私が男だと知れば、桃矢様は今以上に女でいられなくなってしまう」

 げんな顔をする酉次郎に、咲良が溜め息を零す。

「桃矢様が私にくださったものは、全てご自分が身につけたかったものですよ」

 咲良の髪を飾るリボンも、卓上をいろど紫陽花あじさいも。桃矢が咲良のためにと贈ってくれたもの。
 だけどそれらは全て、桃矢の女の部分が欲したものだ。そして同時に、男として生きる彼女が手にすることは許されぬもの。
 桃矢は咲良に自身を投影している。自分が使う姿を見て心の奥に残った女の心を満たしているのだと、咲良は気付いていた。

「だから私は、女でなければならないのです」

 自身が鏡となって彼女の希望を映さねば、わずかに残る桃矢の本心すら消えかねない。咲良はそう、桃矢の心を案じ断言する。

「お前はそれでいいのか?」
「桃矢様を守れるのなら、他はどうだっていい。私も、この世の全ても」

 酉次郎は眉根をけわしく寄せた。
 かつて大河貴蔵は酉次郎に、理性を取り戻した鬼は優しく、信頼に足る相手だと語った。けれど酉次郎は咲良との暮らしで、それが誤りだと気付いている。
 大河家の血によって、鬼は人の姿と理性は取り戻す。だが本当の意味での人には戻らない。使鬼となった鬼たちが情を寄せるのは、ちぎりを交わした大河の者にのみ。
 桃矢というくさびを失えば、咲良は他の鬼同様に人の敵となるだろう。それどころか、抑えていた反動で悪鬼以上のわざわいとなるかもしれない。
 酉次郎はその事実に気付いてしまった。
 密やかに息を吐き出した彼は、苦い思いでいわしの頭を噛む。
 どうかいつまでも、桃矢が咲良の信頼を裏切らぬように。そして、桃矢が人を憎まぬように。
 そう願ってやまなかった。


 桃矢は時間さえあれば鬼縛符を写して過ごした。そして夏の長期休暇が来ると、朝から橘内医院を訪ね、酉次郎から手ほどきを受ける。

「病院のほうはよろしいのですか?」

 押しかけておきながら気になっていたことを、桃矢は隣でお茶をすする酉次郎に問うた。

「この年ですからね。以前より、患者には知り合いの医者を紹介していたのです。今もているのは近所の者と、どうしてもと言う者だけですよ。それにこれからますます暑くなりますから。病院は夏が過ぎるまで休業です。このまま閉じても構わないのですがね」

 酉次郎は医者として働き続けるには体の調子が心もとなく、今は道楽のようなものだと笑う。

「さて、次は使鬼を強化する印をお教えいたしましょう」

 神力を込めた指先で印を描くことで、血を交わした使鬼に力を与えられるという。神力の量、使鬼との信頼度によって、その効力は変わる。
 咲良を使鬼として戦わせるつもりはない桃矢だが、いずれ別の鬼を使鬼とするかもしれないと、真剣に取り組んだ。
 橘内家の内庭で、教えられた印を素早く正確に描く練習を繰り返す。

「桃矢様、お爺様。あまりご熱心ですと体に毒です。少し休憩なさいませんか?」

 井戸で冷やしていた甜瓜まくわうりを切って、咲良が声を掛けた。

「頂こう」

 真っ青な空に浮かぶ太陽が、じりじりと地面をがす。ただ外にいるだけでも、体が火照ほてり汗が浮かぶ。
 縁台に腰を掛けた桃矢は、皿に盛られた甜瓜を一つつまんだ。


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