上 下
5 / 8

04

しおりを挟む

 今まで俺はどうしていたのだったか。
 いつも通りベッドに入り、まぶたを閉じ、眠りについた、そのはずなのだ。
 だが、そもそも、いつも通りとは何だろう。ベッドに入る前には何をしていたのか。
 風呂? 食事? 思い出せなかった。
 何もわからない。
 今世での俺の名前なのだという、リンディファシア・ランゲフィスなる響きには、全く聞き覚えなどなかった。だから、俺には他に名前があったはずだ。だけどそれはいったい何だっただろうか。
 俺の、名前。名前は……。
 さきほどまで……――あの広間で、気が付くまで。当たり前にわかっていたはずの、自分の名前が思い出せない。自分が住んでいた場所、どころか地域も、同居人、あるいは家族の有無、就いていただろう職まで、何も。
 働いていた、と思う。成人はしていたはず。
 だが、なら、何の仕事をしていたというのだろう。
 全く思い出せず愕然とする。同時にひどく心細くなった。
 自分の寄る辺が全くなくなってしまったかのような心細さだ。

「どうして……」

 小さく呟いた俺の言葉に、ピクと反応したのは目の前の男。

「どうして、だと……?」

 やはり大きくなどない声で呟いた男の声音は、しかし明確なトゲと苛立ちを孕んでいる。
 俺は誘われるように男を見た。と、そこにあったのは、俺を睨みつけてでもいるかのようなきつい眼差しで。明確な怒りさえ感じられるそれに、俺はむっと気を悪くした。
 なぜ、俺がこんな風に睨み付けられないとならないのか。

「どうして、と言いたいのは私の方だっ」

 男が吐き捨てる。
 怒鳴っていないことの方が、いっそ不思議なほどの口調だった。

「なんだって?」

 聞き返す俺の声音も、自然、荒いものへとなっていく。しかし、更に返された男の剣幕は到底それどころではないほどに激しさをましていた。

「そうだろう? 今頃、予定ではあの女に尻尾を出させて、糾弾しているはずだったんだっ、それで俺は解放されたっ! ここ数ヶ月の、気が狂いそうな日々からだっ! 何が王孫だっ、たとえそれが本当だとしても、生家自体は子爵家だというじゃないかっ! 気にする必要などないという俺を、お前がっ! ディファっ! お前が諫めたんだっ! たとえ実情がどうあれ、国際問題へと発展するかもしれない懸念は取り去った方がいいとっ! 何かを成すとして、あの女の自滅を待つべきだと、そう! だから俺はこの数ヶ月、耐えてきたんだぞっ! お前に触れることを、どれほど我慢してきたと思っているんだっ! それらが全て、今日! 終わるはずだったんだっ! あそこで! あの場面で! あの女の自白を引き出せれば、それで! なのにっ……!」

 段々と怒鳴りつけるように声を荒げて、興奮ゆえにか立ち上がり、俺を睨みつけながら言い募ってくる。同時に男の様子からは悲哀と、やるせなさも感じられた。
 俺を、しばし睨み続けた男は、ややあってぐっと目を伏せ、力なく、また、ソファへと身を投げ出した。

「なのに……どうして、だって……? そんなこと、そんなこと、私の方こそ知りたいっ……ああ、ディファ……どうして……」

 男の声は揺れていて、俺には一瞬、泣いているようにも思え、ぐっと胸が引き絞られる。
 駆け寄って、抱きしめたい。そう思った衝動が、やはり今世で生きてきたが故のものなのだろうと、俺はどこかで、自覚せざるを得なかった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

嫁側男子になんかなりたくない! 絶対に女性のお嫁さんを貰ってみせる!!

棚から現ナマ
BL
リュールが転生した世界は女性が少なく男性同士の結婚が当たりまえ。そのうえ全ての人間には魔力があり、魔力量が少ないと嫁側男子にされてしまう。10歳の誕生日に魔力検査をすると魔力量はレベル3。滅茶苦茶少ない! このままでは嫁側男子にされてしまう。家出してでも嫁側男子になんかなりたくない。それなのにリュールは公爵家の息子だから第2王子のお茶会に婚約者候補として呼ばれてしまう……どうする俺! 魔力量が少ないけど女性と結婚したいと頑張るリュールと、リュールが好きすぎて自分の婚約者にどうしてもしたい第1王子と第2王子のお話。頑張って長編予定。他にも投稿しています。

鬼上司と秘密の同居

なの
BL
恋人に裏切られ弱っていた会社員の小沢 海斗(おざわ かいと)25歳 幼馴染の悠人に助けられ馴染みのBARへ… そのまま酔い潰れて目が覚めたら鬼上司と呼ばれている浅井 透(あさい とおる)32歳の部屋にいた… いったい?…どうして?…こうなった? 「お前は俺のそばに居ろ。黙って愛されてればいい」 スパダリ、イケメン鬼上司×裏切られた傷心海斗は幸せを掴むことができるのか… 性描写には※を付けております。

悪役令息に転生しましたが、なんだか弟の様子がおかしいです

ひよ
BL
「今日からお前の弟となるルークだ」 そうお父様から紹介された男の子を見て前世の記憶が蘇る。 そして、自分が乙女ゲーの悪役令息リオンでありその弟ルークがヤンデレキャラだということを悟る。 最悪なエンドを迎えないよう、ルークに優しく接するリオン。 ってあれ、なんだか弟の様子がおかしいのだが。。。 初投稿です。拙いところもあると思いますが、温かい目で見てくださると嬉しいです!

王と宰相は妻達黙認の秘密の関係

ミクリ21 (新)
BL
王と宰相は、妻も子もいるけど秘密の関係。 でも妻達は黙認している。 だって妻達は………。

親友と同時に死んで異世界転生したけど立場が違いすぎてお嫁さんにされちゃった話

gina
BL
親友と同時に死んで異世界転生したけど、 立場が違いすぎてお嫁さんにされちゃった話です。 タイトルそのままですみません。

いじめっこ令息に転生したけど、いじめなかったのに義弟が酷い。

えっしゃー(エミリオ猫)
BL
オレはデニス=アッカー伯爵令息(18才)。成績が悪くて跡継ぎから外された一人息子だ。跡継ぎに養子に来た義弟アルフ(15才)を、グレていじめる令息…の予定だったが、ここが物語の中で、義弟いじめの途中に事故で亡くなる事を思いだした。死にたくないので、優しい兄を目指してるのに、義弟はなかなか義兄上大好き!と言ってくれません。反抗期?思春期かな? そして今日も何故かオレの服が脱げそうです? そんなある日、義弟の親友と出会って…。

【完結】婚約破棄された僕はギルドのドSリーダー様に溺愛されています

八神紫音
BL
 魔道士はひ弱そうだからいらない。  そういう理由で国の姫から婚約破棄されて追放された僕は、隣国のギルドの町へとたどり着く。  そこでドSなギルドリーダー様に拾われて、  ギルドのみんなに可愛いとちやほやされることに……。

【書籍化確定、完結】私だけが知らない

綾雅(要らない悪役令嬢1/7発売)
ファンタジー
書籍化確定です。詳細はしばらくお待ちください(o´-ω-)o)ペコッ 目が覚めたら何も覚えていなかった。父と兄を名乗る二人は泣きながら謝る。痩せ細った体、痣が残る肌、誰もが過保護に私を気遣う。けれど、誰もが何が起きたのかを語らなかった。 優しい家族、ぬるま湯のような生活、穏やかに過ぎていく日常……その陰で、人々は己の犯した罪を隠しつつ微笑む。私を守るため、そう言いながら真実から遠ざけた。 やがて、すべてを知った私は――ひとつの決断をする。 記憶喪失から始まる物語。冤罪で殺されかけた私は蘇り、陥れようとした者は断罪される。優しい嘘に隠された真実が徐々に明らかになっていく。 【同時掲載】 小説家になろう、アルファポリス、カクヨム、エブリスタ 2024/12/26……書籍化確定、公表 2023/12/20……小説家になろう 日間、ファンタジー 27位 2023/12/19……番外編完結 2023/12/11……本編完結(番外編、12/12) 2023/08/27……エブリスタ ファンタジートレンド 1位 2023/08/26……カテゴリー変更「恋愛」⇒「ファンタジー」 2023/08/25……アルファポリス HOT女性向け 13位 2023/08/22……小説家になろう 異世界恋愛、日間 22位 2023/08/21……カクヨム 恋愛週間 17位 2023/08/16……カクヨム 恋愛日間 12位 2023/08/14……連載開始

処理中です...