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70・いつかの日々⑤

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 思い出すのは、そんな、いつかの夕餉よりも更に少し前。
 翔兄シァンシォンが12で、学院に入る為に後宮から出る、まさにその直前、前日の夜のことだった。
 小美シャオメイは当時まだほんの9歳。実際の年齢より幼く見えることばかりだったから、翔兄とはどれほど違って見えていたことだろうか。
 一つしか違わない律兄ルゥシォンとですら、いくつか年の差があるように見えたものである。
 小美は幼い頃、それこそ後宮に入宮した時から、何故かより年の近い律兄とよりも翔兄との方が共にいる時間が長く、それはあるいは、いっそ、律兄との方が年が近いが故、いまだ幼かった律兄に手が取られがちな分、小美に構っていたのが翔兄だったとも言えることだろう。
 小美が2歳で入宮した時、翔兄は5歳。3歳だった律兄とだと、どちらがより年下の少女を気遣えたかというと、それはもちろん翔兄だったのは当然の話。特に年の割にはしっかりしていた翔兄に比べ、幼い頃の律兄は少しばかり甘えたな所があり、母親である正后をはじめとした周囲の大人たちにべったりだったのである。
 むしろ目の前で小美に構うと機嫌を悪くするほどで、その分、翔兄がより小美に寄り添っていたと言っていい。
 流石に入宮直後の頃の記憶など小美にはないが、聞けば母恋しさに夜、涙にくれるようなこともあったという。
 そんな時に決まって側で慰めてくれていたという翔兄に、一番に懐くようになるのは当たり前の話で、だから小美は翔兄と離れるようなことがほとんどなかった。
 勿論、皇子である翔兄は、時折、後宮の外にも学びに出ねばならぬことがあり、そんな時は、妃妾である小美は、流石についていけなかったのだけれど、逆に言えばそれ以外に離れるなどと言うことはなくて。
 だからこそ、翔兄の学院への入学は、二人にとっての大きな転機だったと言えたことだろう。
 9歳と12歳。
 まだまだ幼いばかりの子供でありながら、二人ともが、これまで通りではいられなくなることを理解していた。
 その夜。皆が寝静まったような時間。
 翌朝には翔兄を見送らねばならぬ寂しさに、上手く寝付けなかった小美は、ひっそりと忍ぶよう、小美の寝所へと訪れた翔兄にすぐに気付いた。
 もともとそれまでにも、共に眠るようなことは幾度もあって、だからこのように、翔兄が訪れることも珍しくはなくて。
 だけどいつもよりずっと遅い時間だなと小美は思う。否、こんな時間まで自分が起きていることこそが珍しいのだろうとも。
 翔兄はどうやら、小美を起こすつもりなどはなかったらしい。

「小美」

 小さく、ともすれば聞こえないほど微かな囁き声で呼ばれた名に、

「どうしたの? 翔兄」

 そう、返事を返した小美に、翔兄はひどく驚いたようだった。

「小美、起きていたの」

 もう遅いのに。
 やはり小さな囁く声に、むくり、寝台から身を起こした小美はしんなりと眉を下げて口を尖らせる。

「だって、上手く寝付けないんですもの」

 どこか言い訳めいたことを口にしてしまったのは、あるいは咎められるのではと心配になったからだろう、もう朝には離れ離れになってしまうというのに、こんな最後の最後で咎められたりなどしたくはなくて。
 別にそこまでを理解したわけでもないだろうに、翔兄はだけど柔らかく微笑んで。

「まったく。仕方がないなぁ、小美は」

 なんて言いながらも何処か嬉しそうに雰囲気を和ませて、そんな翔兄に小美は、どきり、胸を高鳴らせた。
 翔兄はいつも優しい。
 優しく、いつも小美を包み込んでくれる。翔兄にそうされると、小美はいつもひどく居心地がよくて。その場所から、もう決して離れたくはない、そうも思って、だのに朝にはもう離れなければならなかったのだ。
 それが寂しくてならなかった。
 上手く寝付けなくなるぐらいには寂しくて寂しくて。
 こうして翔兄が柔らかく微笑んでくれている。それがとても嬉しいのにどうしてますます寂しく思ってしまうのだろう。
 制御できない感情は、小美の顔を曇らせ、そんな小美に気付かない翔兄ではなく。

「小美」

 静かに、密やかに。改めて呼ばれた小美の名には、どこか、いつもとは全く違う切実さが潜んでいるように感じられた。

「ねぇ、聞いて」

 真っ直ぐに目を見て、両手を取られる。
 翔兄の小美と同じ琥珀色の瞳が、壁の高い位置にある、明り取りの小さな窓から射し込んだ、月の光に煌めいた。
 ああ、翔兄は、なんて綺麗なんだろう。
 小美は翔兄よりも綺麗な存在を見たことがない。
 後宮には美しいものがたくさんあった。
 見目麗しい妃嬪たちはもとより、値のつけられない程、価値を持つ装飾品。あるいは色とりどりの花々など。
 それ以外にだって、時折会いに来てくれる、父である西王など、造作の美しさだけを指すなら、誰に劣ることもない美貌とさえ言えることだろう。
 そんな中にあって、だけど小美が一等綺麗だと思うのは、いつだって翔兄だった。
 綺麗で、かっこよくて。だからこそ慕わしい。
 小美は翔兄が大好きなのだから。
 知らず見惚れる小美の前で、翔兄は少しだけ躊躇った後、意を決したように口を開く。
 強く、小美を見つめたままに。

「僕は明日、ここを出る。学院で学ばなければならないからだ。それが決まり。勿論、僕は皇太子だから、ここへの出入りは出来るまま、それでもこれまでのように共にはいられない」

 小美は微かに頷いた。
 わかっていたことだったからだ。
 だからこそ、寂しくて堪らなくて。
 自然、俯いてしまいそうになるのを、翔兄の眼差しが押し留める。
 目を逸らすのを許さない、まるでそう告げるかのようにまっすぐと見つめられ続けた。

「ここから出られない君に、こんなことを願うのは僕の我儘だ、それでも」

 それでも。
 いったん言葉を切った翔兄を、小美もまた見つめ返した。
 琥珀色の澄んだ瞳が、金色に瞬く。
 その神秘に、吸い込まれてしまいそうだった。
 翔兄が何を言おうとしているのかなど、小美にはまるで分らない。
 けれど聞かないなどと言う選択肢はなく。翔兄の唇がゆっくりと開くのを見た。

「待っていて欲しいんだ」

 翔兄の言葉は真摯だった。
 小美はやはり、小さく頷く。
 元より他にどうすればいいのかも知らず。

「君に、ここで待っていて欲しい。必ず、君を迎えに来る・・・・・から。変わらずに・・・・・ここで待っていて」

 僕を、待っていて。
 翔兄がなぜそんなことを言うのか、小美にはまったくわからなかった。
 ただ、翔兄がそういうのなら待っていよう、そう思った。
 ここ・・変わらずに・・・・・待っていようと、そう。
 翔兄が後宮を出る、前の日の夜のことだった。
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