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31・いつかの日々②
しおりを挟む「小美」
確かに幼く、だけど伸びやかな少年の、甘い声が少女を呼んだ。
否、声だけではなく、そこに含まれる色が甘いのだ。
しかし少女は幼すぎて、その甘さに気付けない。
「翔兄!」
応える声は無邪気で無垢で。この国の最奥、後宮の中で聞くには何処か不釣り合いにも思われた。
それは決して、子供だからというだけが理由ではない。
少女より少しだけ年嵩の少年の手が、少女のまろく白い頬に触れる。
そっと。何よりも一等大事だとでも言うかのように。
「ふふ。なぁに、翔兄ったら。どうなさったの?」
ころころと笑う少女の笑みに、少年もまた笑みを浮かべ。
「いや? ただひどく触り心地がいいなぁって」
少しだけからかう調子で述べるのに、少女が愛らしく頬を膨らませる。
そうしていながら、だけど少女は少年の手を振り解いたりなどしなかった。
「あら、いやだわ。また妾を幼く扱っているのね。でもいいのかしら? だってそれはいいことなのでしょう?」
触り心地が悪いよりも良い方がずっといい。
歌うように詰り、続けて再びふふと微笑む少女に、少年は笑顔のまま。
「それは勿論、ずっとこうして触っていたくなるよ」
「なら、好きなだけお触りになっていらっしゃればいいわ」
そんな少年の言葉に潜む色にやはり少女は気付かず、それでいて悪い気はしないという風に少年に触れさせたままでいる。
それはこれまでにも何度も繰り返された光景で、傍にいたものも皆、止めたりなどせず、ただ、微笑ましげに見るばかり。
柔らかな陽が射しこむ、少年や少女たちが長く過ごせるようにと宛がわれた、棗央宮の一室でのことだった。
二人ともがまだ、母親、あるいは母親代わりとなる正后の元で育てられていた頃の話。
ほんの幼き頃の記憶。
柔らかな陽の光の下で、キラキラと輝いていた。
今は遠く、だけど確かにあった日々。
ああ、自分は今、夢を見ている。
小美は内心で呟いた。
ぽつり、胸の内に落ちた影には気づかないふりをして。
小美はいつかの日々を夢に見る。
夢に、見続ける。
キラキラと眩く、柔らかな夢は、小美にたとえようもない幸福と、僅かな哀惜をもたらすかのようだった。
幼い頃は、それこそこの夢のよう、ずっとずっと傍にいた翔兄。
だけど今はいない。
もう随分と長く会えていない。
もちろん、小美だって本当はわかっている。
何時までも幼くなどいられず、ならばこそずっと一緒に、なんて、叶うわけがないことぐらい。
わかっていて、だけどこうして夢を見るのはどうしてなのだろう。
自分があの日々を惜しんでいるのか、それとも今更、求めてでもいるというのか。
疾うに成人を迎えて、少し前ならいざ知らず、すっかり娘らしく見目も成長してなお?
小美は笑った。
夢なのだから、心の中でだけ。
同時に彼の夢の頃には気付かなかったことに気付いた自分を知る。
無邪気ではないだけの翔兄。
翔兄の声音や手指に乗せられていた甘さに小美は今更、居た堪れないような心地になっていた。
「小美」
夢の中。
小美に呼びかける翔兄の声は甘く、柔らかく。
大切に大切に紡がれる小美の名。
そこに込められた意味をいまだ知らず。
「翔兄」
応える小美の幼い声は、だけどひたすらに無垢だった。
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