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41・界渡り
しおりを挟む水の音に目を覚ました。
近くに川が流れている。
まるで川べりに寝そべってでもいるかのよう。
いったいどうしてそんな場所で。
そもそも川なんてどこに。
目を眇めた。
そうしたらふわ、柔らかい毛並みが頬をくすぐって――……柔らかい、毛並み?
目に映ったのは金。
ゆっくりと体を起こす。もふっとした暖かなぬくもりが、すかさず僕を支えてくれた。
ああ、そうだった、これは、この獣は。
「……ありがとう、ございます、ホセさん」
微笑んで視線を巡らせた先にいたのは、案の定、狼のような形の金色の獣。
満足そうに頷いて首を巡らせた獣の視線の先にいたのは、火を囲うように座り込んだシズ。
陽はすっかりと落ちて暗く、灯りは熾された火と、あとはランタンのようなものが幾つか周囲に置かれていて、薄暗くはありつつも、それなりの明るさに彩られていた。
いい匂いがする。
番の甘い香りとは別に、食べ物を煮込んだような匂いだ。
知らず鼻を鳴らしていたらしい僕に気付いたのだろうホセが鼻先を摺り寄せてきて、そのくすぐったさにふふと笑い、促されるまま火の近くに移動した。
水の流れが絶えず耳に届き、暗く沈んでよくは見えないけれど、眠りに落ちる前までと何も変わらず、川は近くにあるようだと、なんとなく思った。
「起きたのか」
言いながらシズがどこから出したのか、お椀のようなものに、火にかけていた鍋の中身をさっと掬い入れ僕に差し出した。
スープか何かなのだろう、食欲をそそる匂いが鼻に届く。
「ええ、すみません、僕、何もせずに……」
「かまわない。疲れていたのだろう、よく眠っていた。それよりもこれを」
「ありがとうございます」
受け取ったお椀はあたたかい。
匂いに導かれるように口を付けると、匂いの通り、僅か舌を刺激する香辛料と、よく煮込まれた肉と野菜の素朴な味が、口の中を満たすかのようだった。
決して、凝った味付けなどではない、でもそれぞれの旨味が上手く合わさっていて。
「……美味しぃ…………」
ほっと息を吐く。
体が冷えているようには感じなかったが、そうでもなかったのだろうか。
わからなかった。
わからない、なにも。そう、この森がいったい何処なのかも。
しばらくそのまま、そのスープのようなもので腹を満たし、ちらとシズを窺った。
シズは表情一つ変えずいつも通り、目元以外を黒い布で覆い隠して、ただじっと火を眺めている。
聞いてもいいのだろうかと躊躇い、しかし聞かなければ何もわからないままだと思い直した。
どうしてシズがここにいるのか。ここはいったいどこなのか。そして、ホセが金色の獣であることについて、シズは何かを知っているのか、だとか。
シズが何をどこまで知っているのかはわからない。でも間違いなく僕よりも色々と知っているはずだ。
「えと、あの、シズさん……聞いても、いいですか?」
おずおずと口を開いた。
「なんだ」
ぶっきらぼうな短い返事。声は平坦で色がない。だがこれはいつも通りのシズの口調。
「その……ここは、いったい何処なんでしょう……界渡り? というのはいったい……」
そう、眠りに落ちる前、界渡りをしたのだから疲れているだろう、そうシズは言っていたのだ。
界渡り。
それはいったい何なのか。
そもそも僕は砂漠の只中にある、大領主邸の庭にいた。その庭から落ちたのだ。
とは言え、単純に地下にこんな場所があったとは到底思えない。何よりこの場所では太陽が見えていた。
ならいったい此処は何なのか。
どうして僕はここにいるのだろう。
それになぜ、ホセは、シズは……――わからないことだらけだった。
シズはどうしてだかじっと僕を見ていた。
そして、ややあってふっと、視線を火へと戻しておもむろに口を開く。相変わらず平坦なままの口調で。
「……界渡りとは、そのまま、界を渡ることだ。界、とはつまり世界。あの時、あの場所で。世界には歪みが発生していた。その歪みの中にデュニナは落ちた。ホセはそのままデュニナを追って、デュニナと一緒に落ちていった。俺達も慌てて追いかけたのだが、間に合ったのはホセだけ。だから俺たちはそれぞれ別で、デュニナを探して界を渡った。俺はただ一番早く着いただけだ」
俺たち。
つまりあの場にいたネア、もしくはフォル、あるいは二人ともが僕を探して、追って来ようとしてくれているということなのだろうか。
「どうしてそこまで……」
それに世界の歪み? それはいったい何なのだろう。
そう言えばあの時、視界や地面がぐにゃぐにゃと形を変えていっているように感じられた。それが世界が歪んでいるということだったのだろうか。いったいなぜ。
説明を受けたはずなのに、全く何もわからないまま。その上、
「どうして? 君がデュニナだからだ。俺たちは……否、俺は。君を求めずにはいられない。ホセはタイミングを見誤った。あの時、君に無理に迫っていたのだろう? それは許されざること。だがそれは俺も同じだ。デュニナ。俺も、君に選んで欲しいと思っている」
そんなことまで告げてきた。
火へと落としていた視線を僕へと上げて。真っ直ぐに見つめて。
でも、その場から動くことなく、あの時のホセのよう、僕に迫ってくる様子でもない。
僕は目を大きく見開いた。
ホセの言葉は、思ってもみなかったことばかりだったからだ。
自分を選んで。
あの時、ホセも言っていた。
僕にいったい何を選べというの。
「……混乱しているだろう。今は考えなくともいい。ゆっくりと休むべきだ。飲み終わったのならもう一度眠るといい。そこの獣も君を守ることだろう。そいつは今、獣だ。少なくともあの時と同じようには、君に迫れるはずがない。だから安心して休むといい」
話はもう終わりだとばかり、シズがそっと目を伏せる。
ちらと傍らから動かないままの金色の獣を見た。
獣はその、緑がかった青い目をこちらに向けてはいなくて。
僕はなんとなく気まずく思いながら、でも今のホセを避ける気にもならず、
「……そうします」
疲れているような自覚はなかったが、ただ、頷く以外何もできなかったのだった。
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