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4・匂い
しおりを挟む医療師だとかいう、聞き馴染みのない職業についているらしい男は、ホーセセルという名であるらしい。
ホーセセル。その名に聞き覚えがあるような気がして、だけどそう思った途端、つきり、頭に刺すような痛みが走ったので、恐ろしくなって、それ以上を考えるのをやめた。
自分のことは、ホセとでも呼んで欲しいと告げてきた男は大変に見目の良い男だった。
褐色の肌と、褪せたようなあまり艶のない金髪はこの辺りの陽射しがあまりに強い所為なのか、それとも単純に人種的な問題か。
瞳の色は緑がかった深い青だ。室内ではいっそ、黒に近い紺色に見えた。
それがどうやら、思ったよりも鮮やかな青であったらしいと知ったのは、外の光の下で、改めて彼を目にした時のこと。
太陽の良く似合う男だと感じた。
医療師と言うからには仕事は主に室内で行うはず。
診療所などを構えているのだから、間違いないだろう。
なのにそれよりもずっと、外でいる方が似合っている。
とは言え、肉体労働に従事していると思うには体の厚みが足りず、やはり、室内労働に従事している者であることに納得した。
30歳前後ぐらいだろうか。
落ち着いた雰囲気と、どこか浮ついた軽薄さとが、奇妙に同居している男のように感じられた。
親切であることは間違いがなく、本人曰く、
「神人を無下に扱えるわけがない」
と、言うことではあったのだが、自分のことさえ名前以外にはわからず、その上、身重でどう考えても面倒そうな僕の面倒を、とてもよく見てくれている。
部屋は、診療所の一角、男の寝起きしている区画の一室を与えられ、食事や服も全てホセが用意した。
もっとも、それらを運んできたのは、そもそも僕を見つけたのだという行商人だ。
「シズィリアナという。シズと呼んでくれくれればいい」
あるいはただ、行商人とでも。
そう名乗った行商人は、全身、真っ黒な服を着ていて、顔さえ、目元以外はターバンで覆っている。
その服装は、砂漠を渡る故なのだろうか。それとも全く違う意図があるのか。
シズは室内に入ってもターバンを解かず、いつだって腰を落ち着けることもなく。来る度、休憩一つ取らずに、品物だけを置いてすぐ、足早に遠ざかっていった。
行商人というよりは、もっと違う何かにも見えるぐらい、どこか剣呑な雰囲気を纏った男だ。
この辺りの集落を、いくつも回っているらしく、常に忙しくしているらしい。
どこから商品を仕入れてきているのか、言えば用意できないものはないのだと聞いた。
ホセとは懇意でもあるらしく、時折家の外で話し込んでいるのも目にしたのだけれど、敢えて僕はそれには触れずにいる。
僕はいわゆる居候だ。
ただ、ホセの親切に甘えて身を寄せているだけ。
その現状を心苦しく思っても、自分のことさえおぼつかない僕に、出来ることなど何もなく。それに何より……――。
「デュニナ」
ホセの声。
診療所の一角で、何とかねだって任せてもらうことが出来た繕い物をしていた僕は、さっと顔を上げてそちらの方を向いた。
「いつも、すまないな」
言いながら近づいてきたホセから、ふわととてもいい香りが漂ってくる。
目が覚めたばかりの時は気付かなかった。だけど僕はなんだか、この香りを知っているような気がしている。
大変に離れがたく、そして……――シズもまた、同じ香りを纏っていた。
ホセの香りにぼやと何処か思考を漂わせながら、僕は緩く首を横に振る。
「いいえ、これぐらい、何でもありません。お世話になっているのです、少しぐらい、何かしないと落ち着かなくて」
ホセは僕に何もしなくていいと言った。
ただ、今はゆっくりと休んで、腹の子のことだけ考えていればいいと。
落ち着いて余裕が出来れば、いつか記憶も戻るかもしれない。
そう告げられて、だけど僕は何もしないままではどうしてもなんだか心苦しくて。
ねだって、ようやく任せてもらえるようになったのが、今、手にしている繕い物。
この診療所は、小さく、古く。そこかしこにかかっている陽射し除けの布などにも、わかりづらい部分では細かくたくさんの傷が出来ていた。
それらを少しずつ繕っているのである。
針仕事を心配したホセだったが、どうやら幸いにして、僕はこういったことが苦手ではなかったらしい。針を扱うことは、全く苦痛でもなければ、手元が怪しいというようなこともなかった。むしろ慣れてさえ、いるかのような。
これが終わったら、刺繍などに挑戦してみるのもいいかもしれない。
ああ、でもそうすると、次は糸の準備が必要になるだろうか。居候の身で、あまり物をねだりたくはなかった。
「気にしなくてもいいと言っているのに。君は存外と頑固なようだ」
ホセが小さく苦笑する。だけどその笑顔はどこか柔らかい。
僕は戸惑った。
こうして、世話になるようになって数日。
僕が目覚めてから、つまり、ホセと初めて顔を合わせてからも同じだけの期間しかすぎてはいない。
それは決して長いとは言えない時間だった。なのに。
ホセの手が伸びてくる。
さら、僕の、肩にかかるかかからないかぐらいの長さの髪をひと房、緩やかに掬い取られた。
「え、あの、何か……」
突然の行動に戸惑う僕に、ホセははっと我に返ったかのように手を放す。
「あ、ああ、すまない。ただ、あまりに見事な銀糸なものだから……」
つい、手が伸びてしまった。
そう告げてくるホセの眼差しには、なんだかやけに熱がこもっているようにしか感じられなかった。
意図が、どうにもあまりに明らかな視線に戸惑う。
ホセが僕をどういった目で見ているのか。それがそんな些細なことだけでも透けて見えてくるかのようで。
困った僕は、小さく首を傾げ、誤魔化すこととした。
「そう、なの、ですか……? 自分ではよく、わかりませんが……」
そもそも僕の髪はそれほど長くはなくて、引っ張ったってかろうじて目の端に映る程度。
銀というより白じゃないかと、僕には思えてならなかった。
僕なんかの髪より、ホセの金髪の方がずっとキレイだ。艶めいているわけではないけれど、さらさらと流れても、とても落ち着いた色味をしている。
髪の長さは偶然にも僕とあまり変わらない。
否、後ろで縛っているのを見るに、僕よりは少し長いのか。
だけど僕は、そんなことを、不容易に口にしたりなんてしなかった。
「ああ、そうだな。君の髪の美しさは、俺だけが知っていればいい……」
どこかぼんやりとそう告げて、ホセの手がまた僕の髪へと伸ばされる。
「ホセさん?」
遮るような僕からの呼びかけに、ホセはすぐにはっと我に返って、さっと手を引っ込めた。
先程と同じ仕草。まるで導かれるかのようなそれ。
僕の髪は、そんなにも、ホセを惑わす魅力に満ちているとでも言うのか。
「あ、ああ、すまない、俺はどうやらどうかしているようだ。ただ、昼食を、と呼びに来ただけだったんだが……」
戸惑う声に、どこかほっとしながら僕は微笑んで頷いた。
「ああ、なるほど。そうだったのですね。もうお昼か」
言われてみれば窓の外、陽射し除けの布の向こう、明るさはすでに昼時のそれだ。
いつの間にか僕は、繕い物に夢中になっていたらしい。
「ああ。いつも通りの昼食で、美味いものでもないのが申し訳ないんだが……」
「いいえ。頂けるだけでもありがたいです。それにちゃんと美味しいですよ」
申し訳なさそうに告げられた言葉にそう返すと、ホセはほっと安堵の息を吐いた。
「そうか。それなら、いいのだが……さぁ、行こうか」
「ええ。ありがとうございます」
促され、差し出された手を借りて立ち上がる。
大きいお腹では、動くこと自体が少し億劫で。こうして手を貸してもらえるのは、正直な話、大変に助かっていた。
途端、強くなるいい匂い。僕を、絡め取ってくるかのようなそれ。
どうして。
寄り添うように食堂へと向かいながら、僕はどうすればいいのかわからなくなっていた。
ホセは、僕の番ではないはずなのに。
なぜだかそれは、僕の番から香った匂いと、全く同じなのだった。
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