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エピローグ・慰み者
しおりを挟む図書館は静かだった。
奥まった一角。
それほど広くない部屋は、主に人目に触れない資料ばかり置いている一室だ。
とは言え、侍女や侍従、護衛などが数人少し離れたところに控えてはいる。
それでも静かだ、そう思う。
サフィルはもうすっかり、そういう風に常に人の気配があることに慣れてしまっていた。
マチェアデュレに来るまでは考えられないことだったな、なんて、なんとなく懐かしく思いながら、見つけた目当ての本を抜き取って腕に抱えた。
手に持った本はそれほど多くはない。
このまま、いつも作業している部屋まで戻って、先程の続きに当たるつもりだ。
もっとも、今、サフィルが従事しているこれが必要かと言われると、それほど重要でもないのだけれど。
数少ないしてもよいことなので構わない。
と、そこでもうすっかり慣れてしまった気配が近づいてきていることに気付いて扉の方へと向き直った。
ふわと心があたたかくなる。
同時にドキドキと高鳴る鼓動。
ああ、こんな部分ばかり、いつまで経っても変わらないなぁ、なんて思いながら。
思わずくすと笑ったサフィルに、今まさに扉を開けて入ってきた人物は、きょとんと目を瞬かせた。
「? どうしたの? 何か面白いことでもあった?」
柔らかな声音に、サフィルはふるり、小さく首を横に振った。
「いいえ。いいえ、何でもありません、リシェ様」
なんでもない。
ただ少し、変わらない自分がおかしくなっただけ。
微笑むサフィルに、視線の先の人物……――マチェアデュレの聖王であり、サフィルの伴侶でもあるリシェは微かに首を傾げ、
「そう?」
ならいいけど。
言いながら一歩近づいてくる。
オレンジ色の太陽のような髪が相変わらず眩しい。
(ああ、好きだなぁ)
ますますドキドキしてしまう心臓は、いつも通り仕事をし過ぎだ。
もっともそんなこと、もうすっかり慣れてしまったけれど。
「ええ。それより、どうかなさったんですか? こちらまでいらっしゃるなんて……お珍しいですね」
仕事が忙しいのではないか。
気遣うサフィルにリシェがひょいと肩を竦める。
「たまにはね。俺の勤勉な聖王妃は今日もお仕事に勤しんでるのかなぁ、なんて……。って言うのは冗談で、連絡があったから呼びに来たんだよ。ああ、俺が来たのはただの息抜き。たまには休憩も必要だろう?」
仕事と言っても、ただ自主的に出来ることをしているに過ぎない。
特に急ぎもしなければ必要でもない作業。サフィルが今手掛けているのは、マチェアデュレの歴史書の変遷だった。
そもそも聖王妃であるサフィルの権限は極端に少なく、させてもらえることがほとんどないのである。
そんな中で、あらゆる権限にあまり関わらない、過去を紐解くこの作業は、数少ないサフィルが手掛けても問題ないと司祭たちが判断した仕事だった。
勿論、最終的な確認は司祭たちが行うこと前提である。
それよりも。
「連絡、ですか? どちらから……」
サフィル宛の連絡などほとんど全く考えられない。
あり得ないとまでは言わずとも、大変に珍しいことは間違いなかった。
「うん、君の伯父上から。急ぎではないとはおっしゃっていらしたけど……なにせ相手が相手だからさぁ……」
伯父というのならつまり、サフィルたちの婚姻式にも出席してくれていた、サフィルの生母の兄、大国ナウラティスの前皇帝、その人なのだろう。
わざわざ連絡など、初めてではないかと自然眉根を寄せてしまった。
それは確かに大事だろう。無視できず、わざわざ呼びに来たのも頷ける。
リシェが告げた通り、リシェ本人がここまで足を運んだのはおそらく本当にただの気晴らしなのだろうけど。
あまりに珍しいことだから気になった、というのもあるのかもしれない。
(大きく問題になるようなことでなければいいけど……)
内心で小さく呟きながら、踵を返したリシェの後に続き、部屋を出たところで控えていたらしい司祭に、手に持っていた幾つかの本を預ける。
サフィルの作業を手伝ってくれている幾人かの司祭の内の一人だったからだった。
「すぐに戻りますので、これで進めて置いて頂けますか?」
司祭が頷いたのを確かめて、少し先で待ってくれていたリシェへと小さく頷き、後に続いた。
すぐ近くまで歩み寄って、リシェの半歩後ろについて歩く。
連絡、というからには、おそらく向かっているのは通信室なのだろう。
この城にある通信用魔導具はそこと、あとはサフィルの私室ぐらいにしかない。
リシェが呼びに来たからには、伯父が連絡してきたのは、サフィルが個人的に所持している私室にある物ではないそれに対してのはずだ。
歩きながら、図書館を抜けて辺りで、ちらとリシェがサフィルを振り返った。
もの言いたげな視線に思えて、サフィルが小さく首を傾げる。
「リシェ様?」
いったいどうしたというのだろう。
「うん? ああ、いや、サフィルは慰み者なのに、ああいう作業だとかをさせていいのかなぁ、とか、今更思っちゃって」
慰み者。久々に耳にした単語だった。
リシェの慰み者となること。
サフィルはその為に、マチェアデュレへと嫁いでくるようにと、一番初めの初めに言われていたことだった。
もっとも、実際にマチェアデュレに来てから受けた扱いは、間違ってもサフィルが思っていたようなものではなかったけれど。
先程のように、サフィルが何か作業しているのは、やはり良くないことなのだろうか。
だが、いいと判断したのは司祭たちなのだ。
「えぇと、それが、何か問題があるのでしょうか……?」
控えめに訊ねると、リシェがどこか困ったように言い淀んだ。
「うーん、問題が、あるわけじゃないんだけど……ま、司祭たちがいいって言ってるし、いいんだけどさ。慰み者って言ったら、聖王の次に、否、もしかしたら聖王より尊い存在なわけじゃん? そういう存在に、いくら本人が望んでいるからって俗世の作業とかさせていいのかなぁ、ってそういう……」
リシェの発言に、サフィルは思わず立ち止まって驚いた。
「え?」
今、リシェはなんと言っただろうか。慰み者がなんだと。
「ん? サフィル?」
立ち止まったサフィルに気付いたリシェが、振り返って首を傾げる。
サフィルは固まったまま、なんとなくまじまじとリシェを見つめてしまった。
リシェには何か嘘を言っているだとか、誤魔化そうとしているだとかいう雰囲気は全くない。ごくごく当たり前のこととして、先程の発言をしているようだった。
「いえ、あの、慰み者、が、なんと……」
サフィルの知っているその単語の意味は、一時の慰めとして弄ばれるもの、というようなものであったはずだ。
だが、先程のリシェの発言では、到底そのような意味の単語とは思えない。
「慰み者? だから、尊い存在だろ? 具体的には聖王妃を指す。なにせ神の現身だとか言われている聖王を慰めるための存在だぞ。聖王の次、あるいはそれよりも尊い存在に決まってるじゃないか」
ごくごく当たり前のことだと言わんばかりのリシェの言葉に、ここで初めてサフィルは、どうやらこの国において、慰み者という単語は他とは違う意味を持つようであるということを知った。
目から鱗とは、このような心情を指すのだろうか。
通りで、と納得する部分がある。
なるほど、ならば慰み者として嫁いできたサフィルの扱いが、随分と尊重されたものであったのも頷ける話。加えてそう言えば司祭たちは、より良くない印象を受ける言葉を選んで口にしているのだったか。
それゆえに発生した誤解かと今更ながらに驚く。
もうマチェアデュレに嫁いできて数年経つのに。初めて知る事実だった。
「そう、何、ですか……あ、あの、リシェ様……その単語、他国では違う意味が……」
サフィルは今更知ったその事実について、リシェに伝えようかどうしようか迷いながら、初めて教育係としてサフィルの元へと訪れた司祭たちの言葉を思い出していた。
『お主は慰み者なのだ。とくと肝に銘じておくように』
開口一番、と言ってもいいようなときに、そんなことを言ってきた司祭たち。
あれは多分、サフィル以外であっても、この国へ嫁ぐとなったもの皆に言っているのかもしれない。
で、あるならば。
(それは……確かに。嫁いでくる人、いなくなる……)
なにせそれなりに血筋が確かなものにしかそもそも声をかけないのだとも聞いていた。
そして誰も首を縦に振ってはくれないのだと。
この国はもしや外交的に、サフィルが思うより問題を抱えているのではないか……。
そんなことに今更ながら思い至り、なんだかなんとも言えない気持ちになった。
とは言え、今更、今更である。
サフィルの権限はそもそもほとんど何もない。尊いという割にはまるで置物か何かのようだ。
否、違う、尊いからこそそうなのか。
つまり慰み者、聖王妃とは、信仰の象徴のようなものなのかもしれない。
なにせ聖王を慰める存在なのだから。
「え? 他国?」
わけがわからないという様子のリシェに、サフィルはゆっくり、なんとなく何も言えなくて微笑んだ。
「えぇと、そう、です、ね……リシェ様には、ゆっくりと、あの……お伝え、致し、ます、ね……」
今はもういい。だけど近いうちにきっと伝えようと心に決める。
リシェに、閨のことについてたどたどしく説明したように。
これもまた、伝えなければいけないことのような気がした。
「うん? あ、ああ、わかった」
わけがわからないなりに頷くリシェは、何処までもただ、サフィルを否定した様子がなくて。
サフィルの全部を受け入れてくれるつもりがあるようで。
多分、ちゃんと耳を傾けてくれるだろうことがわかったので、それでよかった。
「あ、そういえばサフィル、あの子たちは今、」
「今は勉強の時間ですよ。それぞれ教師についています。それよりリシェ様、勿論、伯父様のご用向き次第ですけど、あまり長々と休憩をお取りにならないようになさってくださいね」
などと、子供たちのことを聞いてきたりするリシェに返しながら、サフィルは珍しい伯父からの連絡が、ややこしいことでなければいいな、とそんなこともぼんやりと考えていた。
昼下がり。
廊下に大きく取られた窓からの光が眩しい。
陽の光を受けたリシェの髪は、本当にまるで太陽のよう。
そんなリシェの隣にあれる幸福を、サフィルはなんとなく改めて嚙みしめる。
(ああ、僕、慰み者として、この国に嫁いできてよかったな)
なんて、しみじみと思いながら。
サフィルは今、たとえようもなく満たされていた。
Fine.
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