百合の華

れあちあ

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一輪の華

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不誠実

その男の頭の中はその言葉で埋め尽くされ、心を掴んで離さない。 彼にとっては正に理不尽極まりない出来事であり、そして無力な彼はそこでただただ立ち尽くすことしか出来ないのであった。

怒りでは無い、失望に近い感情が身体を支配しそうになる度に、悪人、心の薄汚れた存在にはなりたくないと常日頃考えてる自分が如何にも考えそうな『ぼくも悪かったのかもしれない』という何ともおかしな思考が巡っていくのだった。

この男は昔からいい人ぶりたい衝動に駆られる、所謂偽善者と呼ばれる部類の男で、偽善的な立ち振る舞いをしてしまう度に自己嫌悪に陥っている。

「何故なのか」

何故こうなってしまったのか、心当たりが無さすぎる彼にとってはどれだけ考えたって答えなど見つかるはずもないが、それをせずには居られ無かった。






始まりは、何処にでもある田舎の寂れたバーからだった。

もう何年も前から通っていて、常連客達にも可愛がられ(いや、崇められていたのかもしれない)自分にとっては物凄く大事なコミュニティの一つであるそのバーには、自分のここまでの苦楽が詰められているような場所だ。

「先生!今日もみんなで奢らせてください!」

常連の中で1番の古参、平木という男がそう音頭を取りみんなが一斉におれの周りに集まってくる。

「まぁまぁ、皆さん落ち着いて。先生だなんて大袈裟だよ、昔の話さ。」

「いや、何を言ってるんだい。」

バーのマダムがぬっと顔を出し口を挟んだ。

「あんたが飲んだくれのQちゃんだったのはもう昔の話だろ?今は、誰もが知る"華華 抜木" 大作家先生じゃないか。そうだろ?あんたが大きくなってこの店の人たちはみーんなうれしいのさ。」

「さ、先生今日も1つ面白い話を聞かせてくれねぇか。」

こうして、またいつもの様に飲み会が始まり、全員が現実から目を背けるために酒を浴び続ける。

おれがそんな大先生だったのはもう何年も前のことだ。

元々何回かは来たことのあったこの店、無職でフラフラと生きていたある時、女に家を追い出され途方に暮れながらもバーに行き、バーのマダムにそれを伝えてみた。

「ふーん、じゃあ居れば。」

その言葉に甘え住み着くようになった。

ある時バーのマダムに勧められて、書き物をすることになった。むかしから物語を作って書くというのは好きだったから何の躊躇も無くササッと書き終え渡し、いつもの様に店の自分の特等席で酒を飲んで日々を過ごしていると、気づいたら大ヒット作を生み出した立派な大先生になっていた。

しかし、それは過去の話だ。その後も書きはしたが売れる事はなく、いつしかおれの名前も作品も世間の人間は忘れていき、この小さなバーでみんなに先生と担がれるだけの存在になった。

「おれはね?いつまでも飲んだくれのQちゃんでいいんだよ。ヒック 酒飲んで、みんなと騒いでそんで死ねりゃそれでいいのさ。ヒック」

大分酔いも回ってきた頃誰かが言った。

「そういえば、先生聞きましたよ?まーた女の子泣かせて。ほら、中心街のあの子。」

「え?あー…あの子ね。違うんだよありゃ。」

「泣かしたのでは無い、その時におれ達は一瞬で燃え尽きるような、そんな恋をしただけなんだ。
泣いていたのであれば、それはおれが泣かしたのではなく恋がその子を泣かしたのだ。」

みんなが感嘆の声を上げる。

「そんな子におれが出来ることがあるとすれば………
そうだな、その子との思い出をこの酒で流し込むことにしよう。」

そう言いクッとグラスいっぱいのビールを飲み干せば、周りの人間たちは大いに盛り上がった。

そんな中、浮かない顔をした女性をおれは見逃さなかった。




夜も深け、客たちもゾロゾロと帰るであろう時間に、おれはみんなより一足先に外に出ていた。
そして、ある街灯の下に目当ての者を見つけさりげなく近付いていった。

「あの時、かなり不服そうだったね?」

いきなり話しかけられ、えっ?と驚いた表情を向けるその女性はまた少し俯いた後こう言った。

「えぇ、だってあんなの私には共感できません。」

「何故だい?」

「あれはただの、女遊びをしたい男の戯言です。傷ついた女性が可哀想だわ。」

なるほど

「可哀想かどうかは、経験してみないとわからない。そうだろ?」

「先生の事はお慕いしています。作品だって全て読んだし何故後が続かなかったのか分からないくらい…。少なからず私は面白いと思いました。でも、だからと言ってあなたとそんな経験することは無いわ。私は慎重派ですもの。」

そう言った後、ふふっと笑顔を浮かべ隣に来た彼女は、色々な話を聞きたがり、そして色々な話をしたがった。

さっきまで怒っているのかと思ったのに、不思議な人だ。


それから、来る日も来る日も顔を出しては、同じように過ごし、時に主義をぶつけ合い、時に共感し合い気づいた時には、自分にとって当たり前の日常になっていた。

ある時、彼女からこんな話を聞いた。

「先生知ってます?」

女の子は、想い人を思い過ぎると、一輪の華に姿を変えてしまうって話です。そう切り出す彼女に思わず笑みを零してしまった。

ムッとしたように、「もういいです。」と呟きグラスを口に運ぶ仕草はおれが見た中でも指折りの光景。

「百合の花」

そう呟いたおれを見て彼女はふふっと笑いながら

「それは、先生でしょ。」と返した。

先生は、儚いです。目を離した隙にパッと消えてしまいそうで。

何時だか、そう言ってきたことを思い出す。

「おれと、死ぬ気で恋をしてみないか。」

何故だろうか、自分でも不思議だが。

「先生?私は慎重派ですよ。」

でも、先生には幸せになって欲しいの。泣きたい時は泣いて欲しいし、怒りたい時は怒って欲しい。
楽しい時だけ笑顔でいてくれれば私はそれでいいの。

先生がそうなれる日まで私はずっと付き合うよ。

おれの頬に触れそう言った彼女の目から視線を逸らすことが出来ず、そっと握ってきた手をもう離したくないとさえ思った。死ぬ気で恋をしてみないかでは無い。おれがしたい。きっとそうなんだ。

彼女には何でも話せる気がした。

今まで人に話したことの無いような、自分の闇でも何でも。

いや、話したくなった。

「先生、私貴方のこと誤解していたわ。今まで感じてきたその辛さ、私に預けてください。私があなたを守るから。」

彼女は、俺の話を聞きながら、時折涙を流し、そして寄り添ってくれた。

人の不幸自慢を聞いて涙を流すような、そんな綺麗な心を持った人間を見た事があるか。

少なくともおれは初めてだった。

「君のこと、信じてもいいかい?」

彼女はまたふふっと笑いながら

「私は、自分の愛した人を私の手で守ってあげたい。ここまで聞いて信用出来ないですか?」

そう呟いた。








それから何日か経った後、異変に気が付いた。

「今日も来なかったわね、あの子。」

彼女は店に顔を出さなくなった。

「まあ、元々忙しい子だった気がするし…。」

おれの様子を伺いながらバーのマダムが、店じまいと言わんばかりにバタバタと作業をし始めたのを確認して、おれは散歩に出かけた。

何があったのだろう。

もうとっくに、彼女との毎日が自分にとって大切になっていたおれにとって、こんなにも会えていないというのは死活問題だった。会いに行こうにも何処にいるのかなんて知るはずもなく。こうして毎日を消費しながら、心の中で早く会いたいと願うしかない日々だ。

悶々とそんなことを考えながらタバコを吹かし歩いていると、少し遠くの方に1組の男女が目に入った。

おれは、今1人だと言うのに皮肉なものだ。

1歩1歩歩みを進めていき、視界にしっかりとその2人を目に写した時、おれは心臓を悪魔にギュッと握られたような感覚に陥った。

その目に写された人物は、彼女だった。

「……。」

そして、隣に居る人間をおれは知っていた。

あれは、最近出てきた若手作家だ。話したことは無いが、何時だか、何処かで見かけたことがある。

まだ、大したヒット作は生み出しては居ないが、まあおれと比べれば将来はある作家だ。

腕を組み微笑みあってる2人をただ呆然と眺めるおれにとってここまで苦痛の時間は無かっただろう。

身体中を渦巻くのは嫉妬、哀しみ、激しい憎悪、そして身体中を引き裂くような失望。

不誠実では無いか。

信じろとおれに言った彼女がいま近くにいる。

「何故なのか」

信用出来ないですか?と尋ねてきた彼女が、いま、あの百合の華のように美しいその笑顔を、名前も知らない若手作家の男に向けている。

何日も求めていた彼女のその声も顔も優しい言葉も、全ては彼に注がれていた。

不誠実

何も言うことの出来ない、未来の無い終わった中堅作家は、急いでその場を後にし、ただひたすらに走った。

毎日飲んだくれたその身体は、走るにはあまりにもお粗末で、何度もふらつきながらもただがむしゃらに走った。

酔いが廻る。

息が乱れてきた頃、辺りを見渡すと、あまり馴染みのない光景が辺りに広がっていて少しの不安を覚える。

しかし、その不安は直ぐに消し飛んだ。

大きな川が流れていて、その水面にポツンと一輪の百合の華が浮かんでいた。何とも美しいその百合の華に目を奪われ離せずにいた。さっきまでの絶望感などとうに消し飛んでいて。ただただ、そこに美しく輝いている百合の華を眺めていた。

「先生知ってます?」

彼女の声が聞こえた気がした。

あれか、あれなのか。

さっき見た、彼女は恐らく他人の空似だったのだ。

「あぁ、やっと見つけた。」

そうだ、きっとそうだ。彼女は、おれを想い過ぎた結果、百合に姿を変えてしまったのだ。

「あぁ、もうきみを離したくない。このまま一緒に。」

この日ぼくは、生まれて初めて人間になれた。






彼が水面に顔を出すことは二度となかった。






Fin.
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