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第五章
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翌日、空は未だ暗い中、私は重い身体を起こした。なかなか寝付くことができず、疲労が全くとれていない。時計を見ると、五時を示している。私は窓を開け、乾いた空気を体内に取り込んだ。冷たい空気が肺に入り、まだほんのり熱のこもる私の体を冷ましてくれた。キッチンに行き、すっかり黒くなってしまった鍋にマグカップ一杯分の水をいれ、火にかけた。水が沸騰するまでの間、ぼうっと窓の外を眺めていた。微かに鳥の鳴き声が聞こえてくる。白みがかった空は、次第に明るくなっていく。鍋がカタカタ揺れ始めたので、私はお湯をマグカップに戻しゆっくりそれを飲んだ。昔から朝食はあまり食べない方だった。
朝の準備にはそれほど時間がかからなかった。私は昨日会計もせず持ってきてしまった小説を手に、書店に向かっていた。今は六時頃だろうか。当然こんな時間に書店は開いていないのだが、なんとなく家に一人でいることもできず、あてもなく出てきたのだ。電柱に立つカラスが私を見下ろしている。いくら都会でも、朝は静かだった。ここまで歩いてきて、スーツを着た人3人ばかりすれ違っただけだ。少し先にある家から男性が出てきた。手には傘を持っている。私は空を見上げた。黒い。今にも雨が振りだしそうな空だ。
そう思っている矢先、雨が降りだした。ポツリポツリと私の頭に落ち、バッグを濡らし、靴を湿らせた。住宅街にいたので雨宿りをできそうな場所も見つからない。私は濡れた前髪をかき分けながら走り出した。雨は次第に強くなっていった。一歩踏み出すたびに、水滴が周囲に飛び散る。本が濡れないようにバッグを抱え込み、とにかく走った。走った先に何があるかはわからないけど。
暗い空気の中、ふと暖かい明かりが見えた。大きな窓ガラスと、小さな看板からそこが何かしらの店であることがわかった。とりあえずあそこに入ろう。私は急いで店に駆け込んだ。
中は思っていたより広かった。思っていたより、というのは大きな家が立ち並ぶ住宅街に、小さな看板と窓だけが露出していたからだ。入り口のマットは、私の体から滴り落ちる水分をすべて吸収している。抱えていたバッグの中身を確認し、本が濡れていないことが幸いだった。何せ私は、この本の代金をまだ払っていないのだから。
「いらっしゃい」
奥から男性の声が聞こえてきて、ここが店の中だということを思い出した。はっとして私は顔をあげた。前には一人の男性がたっていた。ベージュのチノパンツに白いシャツを来ていて、袖をまくっている。カウンター越しに、私のことを不思議そうに、そして興味深そうな笑みで見ていた。
「すみません、急に雨が振りだして駆け込んだんですが、まだ開いてないですよね。すぐに出ます。」
私は早口にそう言い、出口を振り返った。
しかし男性は優しい口調でこう言った。
「いいえ、開いてますよ。だから明かりもつけて、看板も出してる。」
私はもう一度男性の方を振り返った。
よくよく考えてみれば、確かにそうだ。加えて私が急に駆け込んだにも関わらず、なにも買わずに出ていくのも失礼というもの。(私が買えるものがあればだが)
ようやく落ち着きを取り戻し、私は店内を見回した。目の前にはカウンターとスツールが二脚。入り口の右側には本棚が二つ並んでいる。暖かみのある照明が、店内を照らしていた。
「どうぞかけてください」
男性はカウンターから出てきて、椅子を引いた。
私はなにも言わず、ゆっくりと椅子に腰かけた。男性の後ろには二段の棚があり、そこには見慣れない機械のようなものが並べてある。どれもきれいに手入れされているのがわかる。照明に反射して金属部分がきらきら光っている。カウンターは木製の一枚板でできていて、所々に木目や筋が通っていた。
ここまで見ても、ここが一体なんの店なのか検討もつかない。商品らしきものもなければ、メニューもない。あるのは男性だけだ。
「ここはなんのお店なんですか?」
私がそう訪ねると、男性は機械的に答えた。
「喫茶店でもあり、書店でもあり、酒屋でもあります」
おそらく今まで幾度となく同じような質問をされてきたのだろう。男性の言葉はほぼ反射的で、自動的に発せられた。
そして私の目を見て、
「色々あるようで、なにもない店です」と、微笑んで言った。
喫茶店でもあり、書店でもあり、酒屋でもある。
私は今になってようやく、この店内を満たすコーヒーの香りに気づいた。その香りは、私がいつも行っていた喫茶店とは全く違った。同じコーヒーの香りだけど、どこか不思議で懐かしい香りがした。男性の後ろにある棚をよく見ると、コーヒーを淹れるための機械だということがわかった。男性は銀色のポットに水をいれ、お湯を沸かし始めた。かちゃかちゃと金属がぶつかり合う音と、雨が天井を打つ音が鳴り響く。私は雨の音は嫌いではなかった。どちらかというと好きな方だ。
「雨の音っていいですよね」
私は無意識にそんなことを言っていた。
「そうですね」
男性は何やら作業をしているが、顔をあげることなく答えた。そして手に持っていた棒状のなにかをおいて窓の外を眺めた。
「私も好きです。雨の音」
一瞬自分に言われているような気がしてドキッとした。しかし男性の目は遥か遠くを見ているようだった。
「雨音は無意識に聞いていると規則的に聞こえます。ですが、注意深く聞いてみると全く違うんです。どの瞬間も違うリズムであり、緩急があり、強弱があります。その瞬間、その時々は一度しかなく、もう二度と同じ音を鳴らすことはありません」
私は注意深く、雨の音に意識を集中させた。
私は集中するとき、目を閉じる癖があった。
連続する雨音の中に、強い音を鳴らすのもあれば、撫でるように優しい音もある。
たしかに、男性の言う通りだ。
私はゆっくり目を開けた。
すると目の前には白いコーヒーカップに、一杯のコーヒーが淹れてあった。水面に自分の顔が写り、ゆらゆらと揺れていた。
「これは」
「コーヒーは苦手でしたか?」
「いえ、でも」
私がそこまで言ったところで男性が遮るように言った。
「お代は要りません。これは朝早くから来ていただいたお客様に対する、私からのおもてなしです」
そういって小さく笑った。私はこの男性の笑顔に、少なからず好意が湧いた。
朝の準備にはそれほど時間がかからなかった。私は昨日会計もせず持ってきてしまった小説を手に、書店に向かっていた。今は六時頃だろうか。当然こんな時間に書店は開いていないのだが、なんとなく家に一人でいることもできず、あてもなく出てきたのだ。電柱に立つカラスが私を見下ろしている。いくら都会でも、朝は静かだった。ここまで歩いてきて、スーツを着た人3人ばかりすれ違っただけだ。少し先にある家から男性が出てきた。手には傘を持っている。私は空を見上げた。黒い。今にも雨が振りだしそうな空だ。
そう思っている矢先、雨が降りだした。ポツリポツリと私の頭に落ち、バッグを濡らし、靴を湿らせた。住宅街にいたので雨宿りをできそうな場所も見つからない。私は濡れた前髪をかき分けながら走り出した。雨は次第に強くなっていった。一歩踏み出すたびに、水滴が周囲に飛び散る。本が濡れないようにバッグを抱え込み、とにかく走った。走った先に何があるかはわからないけど。
暗い空気の中、ふと暖かい明かりが見えた。大きな窓ガラスと、小さな看板からそこが何かしらの店であることがわかった。とりあえずあそこに入ろう。私は急いで店に駆け込んだ。
中は思っていたより広かった。思っていたより、というのは大きな家が立ち並ぶ住宅街に、小さな看板と窓だけが露出していたからだ。入り口のマットは、私の体から滴り落ちる水分をすべて吸収している。抱えていたバッグの中身を確認し、本が濡れていないことが幸いだった。何せ私は、この本の代金をまだ払っていないのだから。
「いらっしゃい」
奥から男性の声が聞こえてきて、ここが店の中だということを思い出した。はっとして私は顔をあげた。前には一人の男性がたっていた。ベージュのチノパンツに白いシャツを来ていて、袖をまくっている。カウンター越しに、私のことを不思議そうに、そして興味深そうな笑みで見ていた。
「すみません、急に雨が振りだして駆け込んだんですが、まだ開いてないですよね。すぐに出ます。」
私は早口にそう言い、出口を振り返った。
しかし男性は優しい口調でこう言った。
「いいえ、開いてますよ。だから明かりもつけて、看板も出してる。」
私はもう一度男性の方を振り返った。
よくよく考えてみれば、確かにそうだ。加えて私が急に駆け込んだにも関わらず、なにも買わずに出ていくのも失礼というもの。(私が買えるものがあればだが)
ようやく落ち着きを取り戻し、私は店内を見回した。目の前にはカウンターとスツールが二脚。入り口の右側には本棚が二つ並んでいる。暖かみのある照明が、店内を照らしていた。
「どうぞかけてください」
男性はカウンターから出てきて、椅子を引いた。
私はなにも言わず、ゆっくりと椅子に腰かけた。男性の後ろには二段の棚があり、そこには見慣れない機械のようなものが並べてある。どれもきれいに手入れされているのがわかる。照明に反射して金属部分がきらきら光っている。カウンターは木製の一枚板でできていて、所々に木目や筋が通っていた。
ここまで見ても、ここが一体なんの店なのか検討もつかない。商品らしきものもなければ、メニューもない。あるのは男性だけだ。
「ここはなんのお店なんですか?」
私がそう訪ねると、男性は機械的に答えた。
「喫茶店でもあり、書店でもあり、酒屋でもあります」
おそらく今まで幾度となく同じような質問をされてきたのだろう。男性の言葉はほぼ反射的で、自動的に発せられた。
そして私の目を見て、
「色々あるようで、なにもない店です」と、微笑んで言った。
喫茶店でもあり、書店でもあり、酒屋でもある。
私は今になってようやく、この店内を満たすコーヒーの香りに気づいた。その香りは、私がいつも行っていた喫茶店とは全く違った。同じコーヒーの香りだけど、どこか不思議で懐かしい香りがした。男性の後ろにある棚をよく見ると、コーヒーを淹れるための機械だということがわかった。男性は銀色のポットに水をいれ、お湯を沸かし始めた。かちゃかちゃと金属がぶつかり合う音と、雨が天井を打つ音が鳴り響く。私は雨の音は嫌いではなかった。どちらかというと好きな方だ。
「雨の音っていいですよね」
私は無意識にそんなことを言っていた。
「そうですね」
男性は何やら作業をしているが、顔をあげることなく答えた。そして手に持っていた棒状のなにかをおいて窓の外を眺めた。
「私も好きです。雨の音」
一瞬自分に言われているような気がしてドキッとした。しかし男性の目は遥か遠くを見ているようだった。
「雨音は無意識に聞いていると規則的に聞こえます。ですが、注意深く聞いてみると全く違うんです。どの瞬間も違うリズムであり、緩急があり、強弱があります。その瞬間、その時々は一度しかなく、もう二度と同じ音を鳴らすことはありません」
私は注意深く、雨の音に意識を集中させた。
私は集中するとき、目を閉じる癖があった。
連続する雨音の中に、強い音を鳴らすのもあれば、撫でるように優しい音もある。
たしかに、男性の言う通りだ。
私はゆっくり目を開けた。
すると目の前には白いコーヒーカップに、一杯のコーヒーが淹れてあった。水面に自分の顔が写り、ゆらゆらと揺れていた。
「これは」
「コーヒーは苦手でしたか?」
「いえ、でも」
私がそこまで言ったところで男性が遮るように言った。
「お代は要りません。これは朝早くから来ていただいたお客様に対する、私からのおもてなしです」
そういって小さく笑った。私はこの男性の笑顔に、少なからず好意が湧いた。
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