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第一話: 僕のこと
第一話【第四章】
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亜紀は小説家志望だけれど、小説を書けない。僕は翻訳家志望で、小説を書いてしまった。翻訳はしていない。いや、自分が書いたものを英語に翻訳しようと思えばできなくもないけれど……できるかな……どうかな。家庭の事情もあって、英語には不自由していないけれど、ロシア語は無理だな、全然分からないし。先に英文学をもっと勉強したほうがいいかな。それよりも、海外の本を日本語に翻訳する仕事をしたいんだよな。いろんな本を日本の人に読んで欲しい。
豆本は道標。でも何も書いていなかった。今は僕が書いた冒頭の言葉が書いてあるけれど。
進路の問題。家庭の問題。亜紀の問題。そして妹の真奈は、機嫌が悪い。
問題は山積みだった。
亜紀が言うには、小説家になるためには恋なんかしている場合じゃない。でも恋に落ちてしまったから、小説家にはなれない、と。
しかも、その相手は僕だと。初恋だと。自分で言っていて恥ずかしくなってくるけれど、彼女は本当にそう思っている。
でも僕は、初恋は大切かもしれないけれど、小説家になりたいという彼女の夢のほうが、もっと大切なことのように思っている。
夢を目指そうよ、と思う。
だって、僕も夢を目指したいから。
……そうだな。まずお手本にならないといけない。そのためには自分の夢を目指したほうがいい。
そうだな、そうだよな。僕の中で、何かが固まった気がした。
リビングに行って、父さんに言う。
「昨夜のあれだけれど」
「ああ、どうするんだ?」
「行くことにするよ」
「そうか、じゃあ手配する」
正直に言うと逃げたいという気持ちもあった。
部屋に戻ろうとしたところで、真奈に捕まった。
「行くの?」
「ああ」
「亜紀はどうするの?」
「どうするのって……嫌われたよ」
「うそ!」
「嘘じゃない」
下手に隠しても、真奈の機嫌がもっと悪くなるだけだと思って、僕は事情を説明した。亜紀からも話を聞いていたのだろうけれど、僕からの意見もそれはそれで聞かせたほうがいいだろうと思った。
全部聞き終えた真奈は、なんだか変な顔をして、表情をぐにゃぐにゃとさせた。悩んでいる時の真奈の癖だった。
「ふうん、確かにあの子は、不安定なところあるからねぇ」
「そうなのか」
「そうね。それにしたって、不器用。ふたりとも、ものすごく不器用」
「そうかね」
「そうだよ。間に入った私が、バカみたい」
「バカじゃないよ……本当に、感謝してる」
「なにそれ……やっぱ私、バカみたい」
「それじゃあ、バカついでに、これを亜紀さんに渡してくれないかな」
僕は豆本を真奈に差し出した。真奈は三センチ四方の本を指でつまんで不思議そうに眺めてから、「分かった」と言ってそれをスウェットのポケットにしまった。
これで心残りもないや。
その後の準備に一週間を費やした。その間、僕は亜紀と連絡を取らなかった。取る気もなかったし、向こうから連絡がくることもなかった。
道標の豆本はもはや手元にはない。僕にはもう何もできない。僕は僕で、自分の夢のための、次の一歩を踏み出すことだけを考えればいいんだ。そう考えていた。
それでいいと思う。これで良かったんだ、と。
僕はまた、図書館にいた。普段の書架ではない。地下書庫だ。古い本独特の、それでいて空調が管理されている空気の匂いがする。薄暗い中で、一冊の古い本に目が留まった。僕はなぜか、その本から目が離せなくなった。革装の立派な装丁だが、さほど厚くはない本だった。
本の題は「Guidepost」とあった。道標。豆本と同じ名前だ。作者名は書いてなかった。
棚から取り出し、表紙を開いた。奥付を見る。そこに書かれた年代が目に入る。今から八〇年ほど昔のものだった。
表裏の表紙の両面には、くすんだ金箔のキリル文字が埋められていた。ロシアか、その地方の本だろうという推測はできたが、今の僕ではそれを読むことはできない。
一ページ目からめくると、小さく古い字形の英字の活字の文章が連なっていた。これなら読める。やけに読みにくい文章だというのが一目で分かったけれど、なんとか読める。
「これにしよう」
僕は本を持ってカウンターに向かい、貸出手続きをした。馴染みの司書さんに事情を説明したら、返却はいつでも構わないと言ってくれた。道標の名を持つこの本のことを知れば、僕の行く道も少しは分かるようになるんじゃないかという気がした。
カウンターを後にして、図書館を後にする。歩きながら、この本の物語を考える。僕はいつか、これを読むことができるだろうか。これを読んで、これが自分の物語になるのだろうか。
分からないけれど、今はそんなことはどうでもいい。
とにかく僕は進むんだ。
これは決して逃避なんかじゃない……そういうことにしたい。誰に迷惑をかけるでもなく、自分を変えられるのだ。
恋だの、初恋だの、そんなこととはまったく関係なしに。夢をかなえる、お手本となるために。
翌日は、ゴールデンウィーク直前の月曜日。僕は学校ではなく、羽田空港第三ターミナルにいた。父さんと一緒だった。シカゴオヘア空港行きのアメリカン航空。父さんの会社で手配してくれたチケットは、Cクラスだった。
「偉くなったものだな」
父さんは笑って言った。荷物のチェックインを済ませたが、ボーディングまでは時間があった。父さんのスマホが鳴る。
「お母さんからだ。もう少しで合流できるらしい」
母さんと真奈は、少し遅れて見送りのために来ることになっていた。ΑΑのカウンター前にいることと、フロアの柱の番号を母さんに伝える。
間もなくして、母さんたちはやってきた。母さんと真奈と……亜紀?
亜紀はまっすぐに僕のところにやってきたかと思うと、紙の束を振りかざして、背伸びして僕の脳天をひっぱたいた。
「なに?なに?暴力?」
「先輩のほうが暴力です!私に何も言わずに外国行っちゃうなんて!しかも大学卒業するまで帰ってこないんですよね!ひどくないですか?ひとことくらい、あってもいいんじゃないですか?」
「待って、待って、えっと、帰ってこないって?」
「だって、真奈が言ってたもの。『お兄ぃが、アメリカの大学に行っちゃうかも』って!」
「真奈!」
「嘘は言ってないじゃん」
「そうだけどな……」
僕はため息をついた。亜紀はどうやら勘違いをしているようだ。
「亜紀さん、あのね、確かに僕はいまからアメリカ行きの飛行機に乗るけれど」
「やっぱり!」
「乗るけれど、今回は一週間だけ父さんについて見学に行くだけなんだ」
「見学……一週間……。先輩、帰ってくるんですか?一週間で?」
「ああ、一週間で帰ってくる」
「帰ってきちゃうんだ……」
「え、そこ残念がるところ?」
「あ、ごめんなさい。違うんです。私の頭の中で、先輩がずっと遠くに行っちゃうってモードになってて、だから頑張って完成させなきゃって」
「何を?」
「小説」
「うん?」
亜紀は、僕をひっぱたいた紙の束を差し出した。文字がぎっしりと印刷されていた。
「小説書きました!先輩は、もう私のことなんか興味ないかもしれないけれど、でも先輩に読んで欲しくて!」
「興味ないなんてことないよ、どうしてそんな」
「だって、先輩からもらった小さな本に、お別れの言葉が書いてあったから」
「書いてないって!違うって!亜紀さん、思い込みが強すぎるよ」
「あれー」
「もう……どんな反応すればいいのか分からない」
「それやめてください。傷つくから」
「あ、ごめん。そうだね。とにかく、あの本はそういう意味じゃないから」
「じゃあ、ずっと持っていてもいいですか?」
「うん、持っていて」
「それと、先輩のこと待っていてもいいですか?」
「だから帰ってくるって」
「一週間、待てるかしら」
「待っててよ」
「待ちますよ」
彼女はくすりと笑う。意外と曲者かもしれないなどと、僕は思った。
僕らが漫才みたいなやりとりをしている間、真奈は両親を離れた場所に連れていき、何やらひそひそと話をしていた。事情を説明しているのかもしれないけれど、少し誇張が入った説明になっているかもしれない。心配だが、そんなに時間の余裕もない。そろそろゲートに向かわないと。
「亜紀さん、この小説、飛行機の中で読むよ」
「ちゃんと完結してますよ」
「うん、楽しみにしてる」
別れ際、僕らは握手をした。別れの握手ではなく、感謝の握手だ。
「いってらっしゃい」
「いってきます」
日常のような挨拶をして、僕らは別れた。
通路を歩く道すがら、最初の一ページをめくる。冒頭は「ありがとう」で始まっていた。感謝の言葉、終わりのように思えるけれど、始まりの言葉。僕が豆本に記した言葉。
彼女は、この言葉を書き出しにして、小説を綴り、完結させた。一歩を踏み出してくれたんだ。彼女の背中を押せたことを、僕は嬉しく思った。
旅の楽しみが増えた。この小説を僕は何回も読むだろう。そして帰国したら、亜紀と沢山話をするだろう。
感謝から始まるこの小説の話を。
そしてまだ生まれてきていない小説の話を。
これから彼女が生み出すであろう、小説の話を。
豆本は道標。でも何も書いていなかった。今は僕が書いた冒頭の言葉が書いてあるけれど。
進路の問題。家庭の問題。亜紀の問題。そして妹の真奈は、機嫌が悪い。
問題は山積みだった。
亜紀が言うには、小説家になるためには恋なんかしている場合じゃない。でも恋に落ちてしまったから、小説家にはなれない、と。
しかも、その相手は僕だと。初恋だと。自分で言っていて恥ずかしくなってくるけれど、彼女は本当にそう思っている。
でも僕は、初恋は大切かもしれないけれど、小説家になりたいという彼女の夢のほうが、もっと大切なことのように思っている。
夢を目指そうよ、と思う。
だって、僕も夢を目指したいから。
……そうだな。まずお手本にならないといけない。そのためには自分の夢を目指したほうがいい。
そうだな、そうだよな。僕の中で、何かが固まった気がした。
リビングに行って、父さんに言う。
「昨夜のあれだけれど」
「ああ、どうするんだ?」
「行くことにするよ」
「そうか、じゃあ手配する」
正直に言うと逃げたいという気持ちもあった。
部屋に戻ろうとしたところで、真奈に捕まった。
「行くの?」
「ああ」
「亜紀はどうするの?」
「どうするのって……嫌われたよ」
「うそ!」
「嘘じゃない」
下手に隠しても、真奈の機嫌がもっと悪くなるだけだと思って、僕は事情を説明した。亜紀からも話を聞いていたのだろうけれど、僕からの意見もそれはそれで聞かせたほうがいいだろうと思った。
全部聞き終えた真奈は、なんだか変な顔をして、表情をぐにゃぐにゃとさせた。悩んでいる時の真奈の癖だった。
「ふうん、確かにあの子は、不安定なところあるからねぇ」
「そうなのか」
「そうね。それにしたって、不器用。ふたりとも、ものすごく不器用」
「そうかね」
「そうだよ。間に入った私が、バカみたい」
「バカじゃないよ……本当に、感謝してる」
「なにそれ……やっぱ私、バカみたい」
「それじゃあ、バカついでに、これを亜紀さんに渡してくれないかな」
僕は豆本を真奈に差し出した。真奈は三センチ四方の本を指でつまんで不思議そうに眺めてから、「分かった」と言ってそれをスウェットのポケットにしまった。
これで心残りもないや。
その後の準備に一週間を費やした。その間、僕は亜紀と連絡を取らなかった。取る気もなかったし、向こうから連絡がくることもなかった。
道標の豆本はもはや手元にはない。僕にはもう何もできない。僕は僕で、自分の夢のための、次の一歩を踏み出すことだけを考えればいいんだ。そう考えていた。
それでいいと思う。これで良かったんだ、と。
僕はまた、図書館にいた。普段の書架ではない。地下書庫だ。古い本独特の、それでいて空調が管理されている空気の匂いがする。薄暗い中で、一冊の古い本に目が留まった。僕はなぜか、その本から目が離せなくなった。革装の立派な装丁だが、さほど厚くはない本だった。
本の題は「Guidepost」とあった。道標。豆本と同じ名前だ。作者名は書いてなかった。
棚から取り出し、表紙を開いた。奥付を見る。そこに書かれた年代が目に入る。今から八〇年ほど昔のものだった。
表裏の表紙の両面には、くすんだ金箔のキリル文字が埋められていた。ロシアか、その地方の本だろうという推測はできたが、今の僕ではそれを読むことはできない。
一ページ目からめくると、小さく古い字形の英字の活字の文章が連なっていた。これなら読める。やけに読みにくい文章だというのが一目で分かったけれど、なんとか読める。
「これにしよう」
僕は本を持ってカウンターに向かい、貸出手続きをした。馴染みの司書さんに事情を説明したら、返却はいつでも構わないと言ってくれた。道標の名を持つこの本のことを知れば、僕の行く道も少しは分かるようになるんじゃないかという気がした。
カウンターを後にして、図書館を後にする。歩きながら、この本の物語を考える。僕はいつか、これを読むことができるだろうか。これを読んで、これが自分の物語になるのだろうか。
分からないけれど、今はそんなことはどうでもいい。
とにかく僕は進むんだ。
これは決して逃避なんかじゃない……そういうことにしたい。誰に迷惑をかけるでもなく、自分を変えられるのだ。
恋だの、初恋だの、そんなこととはまったく関係なしに。夢をかなえる、お手本となるために。
翌日は、ゴールデンウィーク直前の月曜日。僕は学校ではなく、羽田空港第三ターミナルにいた。父さんと一緒だった。シカゴオヘア空港行きのアメリカン航空。父さんの会社で手配してくれたチケットは、Cクラスだった。
「偉くなったものだな」
父さんは笑って言った。荷物のチェックインを済ませたが、ボーディングまでは時間があった。父さんのスマホが鳴る。
「お母さんからだ。もう少しで合流できるらしい」
母さんと真奈は、少し遅れて見送りのために来ることになっていた。ΑΑのカウンター前にいることと、フロアの柱の番号を母さんに伝える。
間もなくして、母さんたちはやってきた。母さんと真奈と……亜紀?
亜紀はまっすぐに僕のところにやってきたかと思うと、紙の束を振りかざして、背伸びして僕の脳天をひっぱたいた。
「なに?なに?暴力?」
「先輩のほうが暴力です!私に何も言わずに外国行っちゃうなんて!しかも大学卒業するまで帰ってこないんですよね!ひどくないですか?ひとことくらい、あってもいいんじゃないですか?」
「待って、待って、えっと、帰ってこないって?」
「だって、真奈が言ってたもの。『お兄ぃが、アメリカの大学に行っちゃうかも』って!」
「真奈!」
「嘘は言ってないじゃん」
「そうだけどな……」
僕はため息をついた。亜紀はどうやら勘違いをしているようだ。
「亜紀さん、あのね、確かに僕はいまからアメリカ行きの飛行機に乗るけれど」
「やっぱり!」
「乗るけれど、今回は一週間だけ父さんについて見学に行くだけなんだ」
「見学……一週間……。先輩、帰ってくるんですか?一週間で?」
「ああ、一週間で帰ってくる」
「帰ってきちゃうんだ……」
「え、そこ残念がるところ?」
「あ、ごめんなさい。違うんです。私の頭の中で、先輩がずっと遠くに行っちゃうってモードになってて、だから頑張って完成させなきゃって」
「何を?」
「小説」
「うん?」
亜紀は、僕をひっぱたいた紙の束を差し出した。文字がぎっしりと印刷されていた。
「小説書きました!先輩は、もう私のことなんか興味ないかもしれないけれど、でも先輩に読んで欲しくて!」
「興味ないなんてことないよ、どうしてそんな」
「だって、先輩からもらった小さな本に、お別れの言葉が書いてあったから」
「書いてないって!違うって!亜紀さん、思い込みが強すぎるよ」
「あれー」
「もう……どんな反応すればいいのか分からない」
「それやめてください。傷つくから」
「あ、ごめん。そうだね。とにかく、あの本はそういう意味じゃないから」
「じゃあ、ずっと持っていてもいいですか?」
「うん、持っていて」
「それと、先輩のこと待っていてもいいですか?」
「だから帰ってくるって」
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「待っててよ」
「待ちますよ」
彼女はくすりと笑う。意外と曲者かもしれないなどと、僕は思った。
僕らが漫才みたいなやりとりをしている間、真奈は両親を離れた場所に連れていき、何やらひそひそと話をしていた。事情を説明しているのかもしれないけれど、少し誇張が入った説明になっているかもしれない。心配だが、そんなに時間の余裕もない。そろそろゲートに向かわないと。
「亜紀さん、この小説、飛行機の中で読むよ」
「ちゃんと完結してますよ」
「うん、楽しみにしてる」
別れ際、僕らは握手をした。別れの握手ではなく、感謝の握手だ。
「いってらっしゃい」
「いってきます」
日常のような挨拶をして、僕らは別れた。
通路を歩く道すがら、最初の一ページをめくる。冒頭は「ありがとう」で始まっていた。感謝の言葉、終わりのように思えるけれど、始まりの言葉。僕が豆本に記した言葉。
彼女は、この言葉を書き出しにして、小説を綴り、完結させた。一歩を踏み出してくれたんだ。彼女の背中を押せたことを、僕は嬉しく思った。
旅の楽しみが増えた。この小説を僕は何回も読むだろう。そして帰国したら、亜紀と沢山話をするだろう。
感謝から始まるこの小説の話を。
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