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第六章
6-1
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依里の周囲の構造が少しずつ歪んでいくのを、千尋は何もできずに見ていた。何ができると言うのだろう。自分のようなただの高校生に。千尋は八咫烏とかいう怪人でもなんでもない。
いや、あきらめるな――慈愛や美香奈みたいに、物理的な力は持っていなくても、少なくとも依里を説得することくらいはできるはずだ。そうやって時間稼ぎをしていれば、逃げ出す隙くらいは作れるかもしれない。
それに何よりも、依里の言ったことが理解できなかった。
古賀がいれば救われた、だって?
そんなはずはない。依里は騙されているんだ。あんな汚い男が、少女を救えるはずはない。
依里は一歩、また一歩と後ずさりする。顔を手で覆い、外の世界を拒絶するみたいだ。
「天城さん! 違うんだ、聞いてよ。古賀先生は<綻澱>に侵されていたんだ。<綻澱>ってのは、ええと……汚れ、そう、汚れだよ。古賀先生は汚れた人間だったんだ。だから美香奈と慈愛先生が倒したんだよ」
「美香奈……先輩……」
「そうだよ。美香奈が君を助けたんだ。あのままだったら、きっと古賀先生はずっと君にいやらしいことをし続けたはずだよ。だから美香奈が古賀先生と他の人との縁……<縁脈>を断ち切ったんだ。美香奈が、君を古賀先生から解放したんだよ」
「解放……? 解放って、何? 私は古賀先生に救われていました。古賀先生は、私に優しくしてくれたんです。私はずっと、家やお母さんや、あの人のことが、嫌いだったのよ。あんな家からは出て行きたいと思ってた。でも出て行くことすらできない、臆病者だったのよ」
依里の悲痛な叫びは続く。
「古賀先生はいやらしいことなんかしていないわ! いやらしくなんかない! 先輩は知らないだけよ! 最初のとき、先生ったら泣きながらしてたんですよ。子供みたいに。その時思ったんです。この人は私を必要としているんだなあって。私はそれからずっと、救われていたんです。二人で一緒に落ちていって、それで構わなかったんです。他の先生に抱かれて、汚れてしまった私を、古賀先生は優しく抱いてくれたんです。先輩は分からないかもしれないけれど、私は幸せだったんです。他の男の人に抱かれて汚されている時が、自分の存在をはっきりと感じられる時間だったんです。私が必要とされている時間だったんです。汚れて――汚される時が、私が唯一存在していることの証明だったんです。その後、古賀先生が優しくしてくれる時間のこと、先輩は想像もできないでしょうね。美香奈先輩もそう、姫末先生だって、そう。分かりっこないです。古賀先生に抱かれている時が、どんなに幸せな時間だったか。それを、あなたたちは奪ったと言うんですね!」
「奪ったんじゃないよ。助けたんだ」
「ふざけないでよ!」
どうして依里は怒るのか。どうして依里は叫ぶのか。
依里は古賀に利用されていたはずだ。古賀が間に入って依里に売春させて、しかも自分もまた依里を抱き、彼女を汚した。古賀は悪い人間なんだ。古賀は汚れた人間なんだ。古賀は排除すべき人間なんだ。
そうだったはずなんだ。
それなのに、依里は救われたという。古賀のような汚れた人間に救われていたと言うのだ。
低い地響きが鳴っている。
どぅぅぅん、どぅぅぅん、という規則的な音だ。
徐々に近く、徐々に近くに。
空気のうなりを伴うその音は、――足下に。
どどどどどどどど、ど、どぅぅぅぅぅぅぅぅぅっ!
地面の下から、依里の身体を貫くように天まで伸びる。それは歪み、そして穢れ。すなわち、<綻澱>。
「なんで天城さんまで<綻澱>に!?」
いや、違う。
千尋の目は、視ていた。貫かれ宙に浮いた依里の身体から、<縁脈>の網が周囲に広がり、<綻澱>が侵食していく様を。
汚染の元凶、<綻澱>の源は、依里自身だったのだ。
古賀は依里を経由して汚染されたにすぎない。
依里を汚染した原因が何なのかまでは分からない。引き金となった地鳴りが、どこからやってきたのかも分からない。しかし、今千尋が視ている光景は、明らかに依里の身体から<綻澱>が湧き出し、そして具現化しているものだった。分からないことだらけだったが、見ている事実は現実として千尋に襲いかかる。
「天城さん! どうしてなんだよ! みんな、君を助けようとしたんじゃないか!」
「駄目なんです。先輩では私を救うことはできないんです。だって……先輩は汚れることを嫌う人だから。私を汚してくれない人だから。だからあなたは、私を救えない」
地面から伸びた<縁脈>とそこを走る<綻澱>の流れは、さながら大樹のような造りとなり、幹の中央に依里の身体を固定した。
これでは妖怪以外の何者でもない。
「先輩……私は汚れたいんです。一緒に汚れましょう」
<綻澱>の塊が弾丸となって、千尋を襲う。
美香奈の腹の中で鼓動がする。<綻澱>を呼ぶ鼓動だ。
曲がり角に差し掛かる度に、自分の身体に問いかけた。敵はどっちか、と。
どくんという音が、美香奈に知らせる。
音はどんどん大きくなる。敵は、近い。
公園にたどり着いた美香奈が最初に見たのは、ただの暗い空間だった。
既に陽は落ちて、暗くなっているのは当然なのだが、その公園の敷地の中だけが、街灯の照明や月光をも吸収してしまっているかのように、ぽっかりと暗く――いや、黒くなっていたのだ。
「ここ?」
バットの先を暗黒の中に突き刺して、引っこ抜く。特に何の変哲もない。ということは、入って出てきても変わりはないということだ。
「うん、きっと平気」
バットを両手で構えながら、ゆっくりと最初の一歩を踏み出した。
境界線に足を合わせて、体重を地面にぐっと押し付けるように歩みを進める。眼球を押されたような感じがして、無意識に目を閉じた。
目を開けたら、そこは確かに公園の中で、珍しくもないベンチや遊具が並んでいるのだが、ほぼ円形の園内を囲うドーム状の空間だけが、空気の密度が濃くなっているような感覚がした。まるで水の中を歩いているようだ。
ゴーグルをつけずにプールに飛び込んだみたいな、ぼやけた視界の中、自分の足音を頼りに歩くと、次第に目が圧力に慣れてきた。
大きな樹。その幹に、依里。
水飲み場の近くに、千尋。
とっさに構図を理解して、千尋のところに走り寄る。
大樹から投げられた塊に向かって、腰をひねりながら大きくバットをスイングさせた。
醜い塊にバットが命中し、綻澱が四散する。
断片が美香奈の腕にも千尋の頭にも飛び散った。
千尋が小さく悲鳴をあげて、汚れた断片を払い落とそうとする。
――が、千尋が断片に触れた瞬間、すべての<縁脈>が黒く具現化し、その姿を露にした。
世界が、反転する。
「千尋! 何したの!」
「知らないよ。手で払っただけなのに」
不安定な空間を形成していた<縁脈>の構造は、固定化された。
ただし、通常とは逆――千尋にはそうとしか感じられない形で。
公園の中は完全に閉鎖された、隔離された空間となった。理由は分からないが、そのことだけは千尋たちでも分かる。
地面を走る網目模様に、空間密度の屈折としか呼べない形で、千尋たちの周囲を埋める細かな<縁脈>。
それらすべてが、<綻澱>が移動する経路となりうる。
逃げ場はない。
美香奈がバットを振り回した。周囲の<縁脈>を壊そうとするが、蜘蛛の糸のように切れては再生を繰り返し、手応えがない。
「美香奈! 慈愛先生は?」
「知らない! でも、きっと来るよ!」
そこまで信頼していいのか分かったものではない。しかし美香奈たち二人には、慈愛しか頼れる相手がいない。
大樹の幹の中央では、依里が二人を見下ろしていた。
「美香奈先輩、聞きましたよ。あなたが、古賀先生を、殺したのですね」
「殺してない! 私は依里ちゃんを助けただけよ!」
「勝手です! 勝手過ぎます! 私を助けただなんて、どうしてそんなこと言えるんですか? 私は助けて欲しいなんて言ってないです。そんなに私は惨めな人間ですか? そんなに私は可哀想な人間ですか?」
「あんなこと続けてたって、依里ちゃんは幸せになれないよ!」
「自分の幸せくらい、自分で決めれます」
「この、わからずやっ!」
美香奈は再度バットを振りかぶった。
千尋は二人の応酬を黙って聞いていた。
逃げるタイミングはいつかということばかりを考えていた。
そうだ、逃げたい。いますぐこんな場所からは立ち去りたい。
依里のあの姿は何なんだろう。樹木に身体が取り込まれてしまったみたいだ。
縁脈が密集して作り上げられた幹に、禍々しく伸びた枝。そこからあらゆる方角に伸びていく、細い<縁脈>。
樹木なんて綺麗なものではない。緑の木陰なんて表現からは程遠い、灰色の網、墨色の<綻澱>。
曇りガラスの細工みたいに割れば壊れそうなのに、それは脅威となって自分に襲ってくる。
だいたい<縁脈>ってなんだ。<綻澱>ってなんだ。
人と人との構造? 構造の歪み?
もしそれが本当なら、そんなものに善も悪もないはずだ。
それなのに、千尋の目の前で形を現している物体は、明らかに悪意を持って作られたものだ。しかも、自分に向けられた、悪意だ。
善悪を持たないはずの構造に、悪意をもたらしているのは何なのか。それを目に見える形として構成している原因は何なのか。
いや、そんなこと自分には関係ない。
血の記憶がよみがえる。手について離れない血液の記憶が、まるで自分と<綻澱>とを結び付けているような気がした。
自分はただ綺麗でいたいだけなんだ。
それなのに、依里の姿はどうだろう。それに立ち向かう美香奈の姿はどうだろう。
雄々しい? 猛々しい? 勇ましい?
男なら肯定的に使われるであろうそれらの表現は、千尋から見たら猥雑で汚らわしいものにしか思えなかった。
自分の周囲には、汚いものばかりだ。
でも――どうだろう。千尋の中で、もう一つの自分が問いかける。
それを汚いと感じること自体が、汚い心なんじゃないのか。
汚いものを忌避して、避けて生きていきたいと思う心自体が、穢れているんじゃないのか。
だとしたら――そんな自分が嫌だ。
汚いものは嫌だ。でもそれを嫌う自分すら、嫌だ。イヤだ、イヤだ、イヤだ。
イヤ……もしかして、依里も同じ気持ちだったのだろうか。
暴力をふるう母親の恋人と、それに逆らえない母親。振り払うこともできない自分自身。どんどん汚れていく自分の身の回りと、自分自身を見て、許せなくなったんじゃないだろうか。
そんな自分が嫌いになって、依里は自分自身を汚そうとした。自分は駄目な人間だから、自分は汚れた人間だからと思いながら、更に自分を汚していった。それが自分の中にある潔癖さに対する贖罪だったんじゃないだろうか。
同じなのか。
自分も依里も、結局同じ気持ちだったのか。
依里が逃げ込んだ先が、自分を汚してくれる古賀という男の存在だったのだろう。
自分はどこに逃げればいい?
バットを振り回す美香奈の姿を、千尋はすがるような気持ちで仰ぎ見る。
慈愛がいなければ、美香奈は八咫烏の力を発揮できない。
弟子という制約。力の暴走を防ぐための抑止力。
美香奈にはその制限が恨めしかった。
美香奈と千尋を取り囲む網のような<縁脈>を伝い、<綻澱>の塊が縦横無尽に向かってくる。
操っているのが大樹と、その中の依里であるのは間違いないのだが、とてもそこまで接近できなかった。
今の美香奈では、少しだけ体力のある女子高校生でしかない。
美香奈はバットを振り回して、必死に<綻澱>を追い払う。しかし<縁脈>を断ち切ることはできない。通常の道具では、<縁脈>の構造に介入することはできない。
美香奈の「武具」――刃が必要なのだ。
ブンッ!
<綻澱>の弾丸を弾き損ねる。パーカーの裾が、ジュっと焼ける。
常識から外れた汚染。異なるロジックからなる構造は、他の構造を破壊するということか。
負けたくない!
依里がどうして大樹に取り込まれているのか、依里がどうして千尋と自分を攻撃するのか、聞きたいことは沢山ある。
だけど聞かなくても分かること――これは悪だ。
複雑な構造が折り重なった大樹にしろ、自分の回りを飛び交いながら襲ってくる<綻澱>の弾丸にしろ、自分にとっては敵であり、すなわち悪い奴なんだ。
千尋を傷つけさせたりはしない。もちろん自分も傷つかない。
私は絶対に、負けたくない。
「依里ちゃんは、どうしてそんなになっちゃったの? 何が依里ちゃんを、そんな風にしちゃったの?」
「先輩ですよ。先輩が古賀先生を殺しちゃったから」
「そんなのおかしいよ」
「おかしくないですよ。私は汚れていたかったんです。汚れている自分を見るのが、ものすごく気持ちよかったんです」
「そんなの私は嫌だっ!」
「嘘」
ドクンっと美香奈の腹の中で鼓動がした。
「先輩は嘘をついています。だってほら――私と先輩と、繋がっています。古賀先生が残してくれた、『繋がり』です」
腹の中の鼓動が大きくなる。
ドクン、ドクン。
美香奈をここに導いた鼓動が、美香奈を別のところに導こうとしている。
「先輩、正直になりましょうよ。先輩だって汚れることを求めているのでしょう? お腹の中に、うずいているものがあるんでしょう? ねえ、先輩、分かっていますか?」
美香奈が腹を押さえる。静まれと念じる。痛みではなく、熱い熱い鼓動だ。ドクンドクンと脈をうち、美香奈の中で存在が大きくなる。
「そこ――子宮なんですよ」
「うるさいっ!」
下腹の鼓動に、心臓の鼓動が続く。二つの動きが同期しかける。いけない。二つの鼓動が重なったら、自分の心は持っていかれてしまう。
美香奈は息を止める。苦しくなって息を吐く。呼吸を乱し、心臓の動きを乱す。
「先輩だって同じですよね? 汚れたいんですよね? そこの――男の人に、汚してもらいたいんですよね?」
「黙れ黙れ黙れ!」
腹を両手で押さえて、背中を丸める。どんどん脈動が大きくなる。時折びくんと全身が震える。
「同じなんですよ。先輩も、心の中では汚れることを望んでいるんです」
「だまっ」
一際大きな鼓動を必死に押さえ込み、下腹に違和感を感じて手で触ったら、ぬるりとしたものが手にまとわりついた。黒と灰色。――<綻澱>。
ジュゥという音がして手のひらから煙がのぼる。痛みはないが、徐々に侵食されている感覚がする。
<綻澱>が、溢れてくる。
いや、あきらめるな――慈愛や美香奈みたいに、物理的な力は持っていなくても、少なくとも依里を説得することくらいはできるはずだ。そうやって時間稼ぎをしていれば、逃げ出す隙くらいは作れるかもしれない。
それに何よりも、依里の言ったことが理解できなかった。
古賀がいれば救われた、だって?
そんなはずはない。依里は騙されているんだ。あんな汚い男が、少女を救えるはずはない。
依里は一歩、また一歩と後ずさりする。顔を手で覆い、外の世界を拒絶するみたいだ。
「天城さん! 違うんだ、聞いてよ。古賀先生は<綻澱>に侵されていたんだ。<綻澱>ってのは、ええと……汚れ、そう、汚れだよ。古賀先生は汚れた人間だったんだ。だから美香奈と慈愛先生が倒したんだよ」
「美香奈……先輩……」
「そうだよ。美香奈が君を助けたんだ。あのままだったら、きっと古賀先生はずっと君にいやらしいことをし続けたはずだよ。だから美香奈が古賀先生と他の人との縁……<縁脈>を断ち切ったんだ。美香奈が、君を古賀先生から解放したんだよ」
「解放……? 解放って、何? 私は古賀先生に救われていました。古賀先生は、私に優しくしてくれたんです。私はずっと、家やお母さんや、あの人のことが、嫌いだったのよ。あんな家からは出て行きたいと思ってた。でも出て行くことすらできない、臆病者だったのよ」
依里の悲痛な叫びは続く。
「古賀先生はいやらしいことなんかしていないわ! いやらしくなんかない! 先輩は知らないだけよ! 最初のとき、先生ったら泣きながらしてたんですよ。子供みたいに。その時思ったんです。この人は私を必要としているんだなあって。私はそれからずっと、救われていたんです。二人で一緒に落ちていって、それで構わなかったんです。他の先生に抱かれて、汚れてしまった私を、古賀先生は優しく抱いてくれたんです。先輩は分からないかもしれないけれど、私は幸せだったんです。他の男の人に抱かれて汚されている時が、自分の存在をはっきりと感じられる時間だったんです。私が必要とされている時間だったんです。汚れて――汚される時が、私が唯一存在していることの証明だったんです。その後、古賀先生が優しくしてくれる時間のこと、先輩は想像もできないでしょうね。美香奈先輩もそう、姫末先生だって、そう。分かりっこないです。古賀先生に抱かれている時が、どんなに幸せな時間だったか。それを、あなたたちは奪ったと言うんですね!」
「奪ったんじゃないよ。助けたんだ」
「ふざけないでよ!」
どうして依里は怒るのか。どうして依里は叫ぶのか。
依里は古賀に利用されていたはずだ。古賀が間に入って依里に売春させて、しかも自分もまた依里を抱き、彼女を汚した。古賀は悪い人間なんだ。古賀は汚れた人間なんだ。古賀は排除すべき人間なんだ。
そうだったはずなんだ。
それなのに、依里は救われたという。古賀のような汚れた人間に救われていたと言うのだ。
低い地響きが鳴っている。
どぅぅぅん、どぅぅぅん、という規則的な音だ。
徐々に近く、徐々に近くに。
空気のうなりを伴うその音は、――足下に。
どどどどどどどど、ど、どぅぅぅぅぅぅぅぅぅっ!
地面の下から、依里の身体を貫くように天まで伸びる。それは歪み、そして穢れ。すなわち、<綻澱>。
「なんで天城さんまで<綻澱>に!?」
いや、違う。
千尋の目は、視ていた。貫かれ宙に浮いた依里の身体から、<縁脈>の網が周囲に広がり、<綻澱>が侵食していく様を。
汚染の元凶、<綻澱>の源は、依里自身だったのだ。
古賀は依里を経由して汚染されたにすぎない。
依里を汚染した原因が何なのかまでは分からない。引き金となった地鳴りが、どこからやってきたのかも分からない。しかし、今千尋が視ている光景は、明らかに依里の身体から<綻澱>が湧き出し、そして具現化しているものだった。分からないことだらけだったが、見ている事実は現実として千尋に襲いかかる。
「天城さん! どうしてなんだよ! みんな、君を助けようとしたんじゃないか!」
「駄目なんです。先輩では私を救うことはできないんです。だって……先輩は汚れることを嫌う人だから。私を汚してくれない人だから。だからあなたは、私を救えない」
地面から伸びた<縁脈>とそこを走る<綻澱>の流れは、さながら大樹のような造りとなり、幹の中央に依里の身体を固定した。
これでは妖怪以外の何者でもない。
「先輩……私は汚れたいんです。一緒に汚れましょう」
<綻澱>の塊が弾丸となって、千尋を襲う。
美香奈の腹の中で鼓動がする。<綻澱>を呼ぶ鼓動だ。
曲がり角に差し掛かる度に、自分の身体に問いかけた。敵はどっちか、と。
どくんという音が、美香奈に知らせる。
音はどんどん大きくなる。敵は、近い。
公園にたどり着いた美香奈が最初に見たのは、ただの暗い空間だった。
既に陽は落ちて、暗くなっているのは当然なのだが、その公園の敷地の中だけが、街灯の照明や月光をも吸収してしまっているかのように、ぽっかりと暗く――いや、黒くなっていたのだ。
「ここ?」
バットの先を暗黒の中に突き刺して、引っこ抜く。特に何の変哲もない。ということは、入って出てきても変わりはないということだ。
「うん、きっと平気」
バットを両手で構えながら、ゆっくりと最初の一歩を踏み出した。
境界線に足を合わせて、体重を地面にぐっと押し付けるように歩みを進める。眼球を押されたような感じがして、無意識に目を閉じた。
目を開けたら、そこは確かに公園の中で、珍しくもないベンチや遊具が並んでいるのだが、ほぼ円形の園内を囲うドーム状の空間だけが、空気の密度が濃くなっているような感覚がした。まるで水の中を歩いているようだ。
ゴーグルをつけずにプールに飛び込んだみたいな、ぼやけた視界の中、自分の足音を頼りに歩くと、次第に目が圧力に慣れてきた。
大きな樹。その幹に、依里。
水飲み場の近くに、千尋。
とっさに構図を理解して、千尋のところに走り寄る。
大樹から投げられた塊に向かって、腰をひねりながら大きくバットをスイングさせた。
醜い塊にバットが命中し、綻澱が四散する。
断片が美香奈の腕にも千尋の頭にも飛び散った。
千尋が小さく悲鳴をあげて、汚れた断片を払い落とそうとする。
――が、千尋が断片に触れた瞬間、すべての<縁脈>が黒く具現化し、その姿を露にした。
世界が、反転する。
「千尋! 何したの!」
「知らないよ。手で払っただけなのに」
不安定な空間を形成していた<縁脈>の構造は、固定化された。
ただし、通常とは逆――千尋にはそうとしか感じられない形で。
公園の中は完全に閉鎖された、隔離された空間となった。理由は分からないが、そのことだけは千尋たちでも分かる。
地面を走る網目模様に、空間密度の屈折としか呼べない形で、千尋たちの周囲を埋める細かな<縁脈>。
それらすべてが、<綻澱>が移動する経路となりうる。
逃げ場はない。
美香奈がバットを振り回した。周囲の<縁脈>を壊そうとするが、蜘蛛の糸のように切れては再生を繰り返し、手応えがない。
「美香奈! 慈愛先生は?」
「知らない! でも、きっと来るよ!」
そこまで信頼していいのか分かったものではない。しかし美香奈たち二人には、慈愛しか頼れる相手がいない。
大樹の幹の中央では、依里が二人を見下ろしていた。
「美香奈先輩、聞きましたよ。あなたが、古賀先生を、殺したのですね」
「殺してない! 私は依里ちゃんを助けただけよ!」
「勝手です! 勝手過ぎます! 私を助けただなんて、どうしてそんなこと言えるんですか? 私は助けて欲しいなんて言ってないです。そんなに私は惨めな人間ですか? そんなに私は可哀想な人間ですか?」
「あんなこと続けてたって、依里ちゃんは幸せになれないよ!」
「自分の幸せくらい、自分で決めれます」
「この、わからずやっ!」
美香奈は再度バットを振りかぶった。
千尋は二人の応酬を黙って聞いていた。
逃げるタイミングはいつかということばかりを考えていた。
そうだ、逃げたい。いますぐこんな場所からは立ち去りたい。
依里のあの姿は何なんだろう。樹木に身体が取り込まれてしまったみたいだ。
縁脈が密集して作り上げられた幹に、禍々しく伸びた枝。そこからあらゆる方角に伸びていく、細い<縁脈>。
樹木なんて綺麗なものではない。緑の木陰なんて表現からは程遠い、灰色の網、墨色の<綻澱>。
曇りガラスの細工みたいに割れば壊れそうなのに、それは脅威となって自分に襲ってくる。
だいたい<縁脈>ってなんだ。<綻澱>ってなんだ。
人と人との構造? 構造の歪み?
もしそれが本当なら、そんなものに善も悪もないはずだ。
それなのに、千尋の目の前で形を現している物体は、明らかに悪意を持って作られたものだ。しかも、自分に向けられた、悪意だ。
善悪を持たないはずの構造に、悪意をもたらしているのは何なのか。それを目に見える形として構成している原因は何なのか。
いや、そんなこと自分には関係ない。
血の記憶がよみがえる。手について離れない血液の記憶が、まるで自分と<綻澱>とを結び付けているような気がした。
自分はただ綺麗でいたいだけなんだ。
それなのに、依里の姿はどうだろう。それに立ち向かう美香奈の姿はどうだろう。
雄々しい? 猛々しい? 勇ましい?
男なら肯定的に使われるであろうそれらの表現は、千尋から見たら猥雑で汚らわしいものにしか思えなかった。
自分の周囲には、汚いものばかりだ。
でも――どうだろう。千尋の中で、もう一つの自分が問いかける。
それを汚いと感じること自体が、汚い心なんじゃないのか。
汚いものを忌避して、避けて生きていきたいと思う心自体が、穢れているんじゃないのか。
だとしたら――そんな自分が嫌だ。
汚いものは嫌だ。でもそれを嫌う自分すら、嫌だ。イヤだ、イヤだ、イヤだ。
イヤ……もしかして、依里も同じ気持ちだったのだろうか。
暴力をふるう母親の恋人と、それに逆らえない母親。振り払うこともできない自分自身。どんどん汚れていく自分の身の回りと、自分自身を見て、許せなくなったんじゃないだろうか。
そんな自分が嫌いになって、依里は自分自身を汚そうとした。自分は駄目な人間だから、自分は汚れた人間だからと思いながら、更に自分を汚していった。それが自分の中にある潔癖さに対する贖罪だったんじゃないだろうか。
同じなのか。
自分も依里も、結局同じ気持ちだったのか。
依里が逃げ込んだ先が、自分を汚してくれる古賀という男の存在だったのだろう。
自分はどこに逃げればいい?
バットを振り回す美香奈の姿を、千尋はすがるような気持ちで仰ぎ見る。
慈愛がいなければ、美香奈は八咫烏の力を発揮できない。
弟子という制約。力の暴走を防ぐための抑止力。
美香奈にはその制限が恨めしかった。
美香奈と千尋を取り囲む網のような<縁脈>を伝い、<綻澱>の塊が縦横無尽に向かってくる。
操っているのが大樹と、その中の依里であるのは間違いないのだが、とてもそこまで接近できなかった。
今の美香奈では、少しだけ体力のある女子高校生でしかない。
美香奈はバットを振り回して、必死に<綻澱>を追い払う。しかし<縁脈>を断ち切ることはできない。通常の道具では、<縁脈>の構造に介入することはできない。
美香奈の「武具」――刃が必要なのだ。
ブンッ!
<綻澱>の弾丸を弾き損ねる。パーカーの裾が、ジュっと焼ける。
常識から外れた汚染。異なるロジックからなる構造は、他の構造を破壊するということか。
負けたくない!
依里がどうして大樹に取り込まれているのか、依里がどうして千尋と自分を攻撃するのか、聞きたいことは沢山ある。
だけど聞かなくても分かること――これは悪だ。
複雑な構造が折り重なった大樹にしろ、自分の回りを飛び交いながら襲ってくる<綻澱>の弾丸にしろ、自分にとっては敵であり、すなわち悪い奴なんだ。
千尋を傷つけさせたりはしない。もちろん自分も傷つかない。
私は絶対に、負けたくない。
「依里ちゃんは、どうしてそんなになっちゃったの? 何が依里ちゃんを、そんな風にしちゃったの?」
「先輩ですよ。先輩が古賀先生を殺しちゃったから」
「そんなのおかしいよ」
「おかしくないですよ。私は汚れていたかったんです。汚れている自分を見るのが、ものすごく気持ちよかったんです」
「そんなの私は嫌だっ!」
「嘘」
ドクンっと美香奈の腹の中で鼓動がした。
「先輩は嘘をついています。だってほら――私と先輩と、繋がっています。古賀先生が残してくれた、『繋がり』です」
腹の中の鼓動が大きくなる。
ドクン、ドクン。
美香奈をここに導いた鼓動が、美香奈を別のところに導こうとしている。
「先輩、正直になりましょうよ。先輩だって汚れることを求めているのでしょう? お腹の中に、うずいているものがあるんでしょう? ねえ、先輩、分かっていますか?」
美香奈が腹を押さえる。静まれと念じる。痛みではなく、熱い熱い鼓動だ。ドクンドクンと脈をうち、美香奈の中で存在が大きくなる。
「そこ――子宮なんですよ」
「うるさいっ!」
下腹の鼓動に、心臓の鼓動が続く。二つの動きが同期しかける。いけない。二つの鼓動が重なったら、自分の心は持っていかれてしまう。
美香奈は息を止める。苦しくなって息を吐く。呼吸を乱し、心臓の動きを乱す。
「先輩だって同じですよね? 汚れたいんですよね? そこの――男の人に、汚してもらいたいんですよね?」
「黙れ黙れ黙れ!」
腹を両手で押さえて、背中を丸める。どんどん脈動が大きくなる。時折びくんと全身が震える。
「同じなんですよ。先輩も、心の中では汚れることを望んでいるんです」
「だまっ」
一際大きな鼓動を必死に押さえ込み、下腹に違和感を感じて手で触ったら、ぬるりとしたものが手にまとわりついた。黒と灰色。――<綻澱>。
ジュゥという音がして手のひらから煙がのぼる。痛みはないが、徐々に侵食されている感覚がする。
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結城芙由奈@コミカライズ発売中
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※「カクヨム」「小説家になろう」にも投稿しています
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