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第四章
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朝起きた時から、自分の身体が何かおかしいことに、美香奈は気がついていた。
しかし何がおかしいのかが、分からない。月のものは終わったばかりだし、昨夜何か悪い物でも食べたのだろうか。いや、普通の中華料理だったはずだ。中華料理を食べて、店を出て、依里を見つけて、それから……。
昨夜の記憶がどうもはっきりとしない。
依里を見つけて、確かにその後を追いかけたはずなのだが、気がつけば家に向かう道の途中だった。うん、確かに自分は、家に帰ろうという明確な目的を持って、その道を歩いていた。
その目的を疑うこともなく、家に着いて着替えてお風呂に入って、そのまま寝て起きた。何の不思議もない、日常の風景。でもなんか、自分の身体はおかしい。
お風呂に入って身体を洗ったのに、まだ洗い足りない気分。でもそんな感覚、つまりなんて言うか……自分の体臭に包まれている感覚がする。子供の頃、みんなで泥だらけになって遊んで、泥の匂いと自分の匂いと他人の匂いとが、まぜこぜになって何がなんだか分からなくなってしまったのに、みんなで大笑いしていたような気分と似ているかもしれない。
背中がぞわっとする。
それでも制服に着替えて学校に来たら、クラスメイトとおはようの挨拶をしているうちに、少しだけ気分が紛れてきた。
だけど、千尋を見たら、駄目だった。
「おはよう、美香奈、昨日は大丈夫だった?」
「う、うん? 大丈夫だよ。どうして?」
「電話の声、元気なかったよ」
「そんなことないよ。平気、平気だから」
顔を近づけようとした千尋から、さりげなく距離をとった。いつもなら、他人を避けるのは千尋のほうなのに、やっぱり自分は変だ。
授業が始まってからも、重たい感覚が取れなかった。
千尋を避けようとしている自分と、反対に近付きたいと思っている自分がいる。
……近付きたい?
それだけじゃない。近付いて、混じりあって、千尋の匂いと自分の匂いが渾然一体になってしまいたい。言葉にするのは難しい。特に他人に説明できるような、綺麗な言葉にするには。
友達の女の子が言っていた。男の人のことを本気で好きになると、その人にもう滅茶苦茶にしてもらいたい衝動に駆られるのだと。それに近い感覚なのだろうか。……恋だって!? 馬鹿馬鹿しい。
頭では自分の中の衝動が異常なものだと理解しているのに、身体の中心のほうで、熱く熱く脈動しつづける何かがある。熱くて、濡れていて、それでいて形のはっきりしない、何かだ。とてつもなく、気持ちが悪い。
我慢しきれなくなって、二時間目の休み時間になったら教室を飛び出していた。
特別教室棟は生徒が移動しているから、できるだけ人がいないほうに。校舎の外、倉庫が二棟並ぶ前に出た。学園祭や体育祭の道具をしまってある倉庫で、今の時期は使われることがない。倉庫の裏は北側になっていて、地面も少し湿っていた。生えている雑草も元気がない。ここなら誰も来ないだろう。
倉庫の壁に背中をもたれて、深呼吸する。
変? 私は変?
だとすればどこが? そしてどうして?
昨夜、自分に何かが起こったのだろうか。記憶がはっきりしない、家への帰り道の途中に、何か大事なことが降り掛かっていたのだろうか。
背中の後ろで物音がした。誰かが倉庫の鍵を開けようとしている。ガタッという音に続いて、錆びついた引き戸を開く音がした。なるだけ音をたてないように注意している様子がありありなのだが、年に数度しか使わない倉庫の戸は、嫌が応でも砂が挟まったような音を上げる。
大きな石と、か細く生えた木の塚の部分に足をかけたら、倉庫の天窓から少しだけ中がのぞけた。
倉庫に入ってきたのは、古賀と依里だった。あともう一人……制服じゃないから、先生だろうか。美香奈のところからは影になって顔がよく分からなかった。
古賀が倉庫の戸を閉める。内部は天窓から入る光だけになり、依里の姿は淡く浮かんで見えた。
男が古賀に何枚かの万札を渡すのが見えた。
男は依里に近づいて、ベストを脱がせ、リボンをほどく。その様子を古賀は興味なさげに眺めていた。
止めなくちゃ!
美香奈の頭の中の声が叫ぶ。
しかし美香奈は動けなかった。
怖いのではない。驚いているのでもない。
自分の中のもう一つの何か、今朝から身体に巣くっている何かが、暴れているのだ。
ようやく美香奈は理解した。
それは、今、依里が置かれている立場を、求めている。
自分の中の何かは、自らを汚したがっているのだ。
美香奈は必死に否定しようとする。女の子が弱いからって、それにつけこんで思い通りにしようなんて! そんな男に負けてしまう女なんて!
一方で、美香奈の中の何かが囁く。汚れてしまえ、穢れてしまえ、混ざってしまえ。自分と他人とが渾然となった先には、自分というものを考えなくても良い、楽園が待っているぞ、と。
美香奈は石から下りて、しゃがみこんだ。
もし今、依里に呼ばれたら、自分は中にいるそれに、抗えるだろうか。
ポケットの中を探り、カッターナイフを握りしめた。親指で刃を出し入れする。カチリ、カチリ。
このナイフで、自分の中のそれをえぐり取ってしまいたい衝動に襲われる。
苦しい、息が苦しい。
勝てない自分が、本当に苦しい。
首をカクンと後ろに倒したら、天井に近い小さな窓から、一瞬だけ美香奈の姿が見えた。同じ穴のムジナという言葉が浮かぶ。
目を閉じた。ハムスターが回り始めた。
カラカラカラ、そんな感じだ。
思えば最初から同じだった。
街で声をかけたられたカメラマンに、撮影させて欲しいと頼まれて、断る理由もないからついていった。ホテルに入って写真を何枚か撮っていたら、
「ちょっと脱いでみようか」
「え?」
黙って立っていたら、服を脱がされて、身体中触られていた。カメラなんか床に放り出して、依里の身体を貪るように弄んだ。逃げようと思えば逃げれたのかもしれない。だけど依里は途中でどうでもいい気分になってしまった。
だって、別に初めてじゃないし。
その後の男のすることなんてみんな同じだ。黙って我慢していればすぐ終わる。目を閉じて遠くで何かが回転する音を聞いていた。
手に握らされた五万円を黙って鞄に入れて、一緒にホテルを出た。
「ケータイの番号、教えてよ」
男がつきまとってきたので、逃げようとしたら鞄を掴まれた。手帳もスマホも入っている鞄を、置いて逃げるとはできないから引っ張り返して、でも力で負けた。逃げられないのかと思ったら、男が急に黙った、かと思ったら地面に転がっていた。
ホテルから出てきた別の男性が、カメラマンを殴り飛ばしていたのだ。
男性は泣いていた。
理由は分からない。でも、男の人でも泣くことがあるのだと、依里は始めて知った。
去ろうとする男性に、言葉をかけた。
「ねえ!」
男性が止まる。
「焼肉、食べにいこうよ。今のの、お礼。お金ならある。さっき、そこの人にもらったから」
男性が苦々しそうに顔を歪めた。でも歩きかけた道を戻ってきた。どうにでもなれと思っていたのは、依里だけではなかったようだ。
話をしてみたら、その男性が依里が通う学校の高等部の教師であること、婚約者と別れたばかりだということが分かった。
「それで泣いていたんだ」
「放っておいてくれ」
表面だけ炙ったレアのカルビを、依里はおいしそうにたいらげる。次の肉を焼き網に置いて、赤い表面を箸でつついた。
「ねえ、先生? どうして男の人って、こんな色したところを舐めるのが好きなの? ……気持ち悪い」
「色? ああ、肉の色か……そうだな」
自分の身体が肉の塊でできていることは、つい忘れがちだ。
でも、人間に食べられる牛の肉と、男に舐められる自分の肉との間に、本質的な違いはない。食べて食べられて、消費しつくすのが生きていることだなんて。
でもだったら、とことん消費されてもいいんじゃないか。
そう思った時、依里の心に空いた隙間の部分に、何かが侵入した。
「ねえ、先生?」
「なんだ」
「二人で一緒に、落ちて行かない?」
「落ちて……ああ、それもいいかもな」
一緒に落ちてくれると言ったこの人は、きっと優しい人なのだと、依里は思った。
あの時から、依里は、彼と一緒に落ちつづけているのだ。
しかし何がおかしいのかが、分からない。月のものは終わったばかりだし、昨夜何か悪い物でも食べたのだろうか。いや、普通の中華料理だったはずだ。中華料理を食べて、店を出て、依里を見つけて、それから……。
昨夜の記憶がどうもはっきりとしない。
依里を見つけて、確かにその後を追いかけたはずなのだが、気がつけば家に向かう道の途中だった。うん、確かに自分は、家に帰ろうという明確な目的を持って、その道を歩いていた。
その目的を疑うこともなく、家に着いて着替えてお風呂に入って、そのまま寝て起きた。何の不思議もない、日常の風景。でもなんか、自分の身体はおかしい。
お風呂に入って身体を洗ったのに、まだ洗い足りない気分。でもそんな感覚、つまりなんて言うか……自分の体臭に包まれている感覚がする。子供の頃、みんなで泥だらけになって遊んで、泥の匂いと自分の匂いと他人の匂いとが、まぜこぜになって何がなんだか分からなくなってしまったのに、みんなで大笑いしていたような気分と似ているかもしれない。
背中がぞわっとする。
それでも制服に着替えて学校に来たら、クラスメイトとおはようの挨拶をしているうちに、少しだけ気分が紛れてきた。
だけど、千尋を見たら、駄目だった。
「おはよう、美香奈、昨日は大丈夫だった?」
「う、うん? 大丈夫だよ。どうして?」
「電話の声、元気なかったよ」
「そんなことないよ。平気、平気だから」
顔を近づけようとした千尋から、さりげなく距離をとった。いつもなら、他人を避けるのは千尋のほうなのに、やっぱり自分は変だ。
授業が始まってからも、重たい感覚が取れなかった。
千尋を避けようとしている自分と、反対に近付きたいと思っている自分がいる。
……近付きたい?
それだけじゃない。近付いて、混じりあって、千尋の匂いと自分の匂いが渾然一体になってしまいたい。言葉にするのは難しい。特に他人に説明できるような、綺麗な言葉にするには。
友達の女の子が言っていた。男の人のことを本気で好きになると、その人にもう滅茶苦茶にしてもらいたい衝動に駆られるのだと。それに近い感覚なのだろうか。……恋だって!? 馬鹿馬鹿しい。
頭では自分の中の衝動が異常なものだと理解しているのに、身体の中心のほうで、熱く熱く脈動しつづける何かがある。熱くて、濡れていて、それでいて形のはっきりしない、何かだ。とてつもなく、気持ちが悪い。
我慢しきれなくなって、二時間目の休み時間になったら教室を飛び出していた。
特別教室棟は生徒が移動しているから、できるだけ人がいないほうに。校舎の外、倉庫が二棟並ぶ前に出た。学園祭や体育祭の道具をしまってある倉庫で、今の時期は使われることがない。倉庫の裏は北側になっていて、地面も少し湿っていた。生えている雑草も元気がない。ここなら誰も来ないだろう。
倉庫の壁に背中をもたれて、深呼吸する。
変? 私は変?
だとすればどこが? そしてどうして?
昨夜、自分に何かが起こったのだろうか。記憶がはっきりしない、家への帰り道の途中に、何か大事なことが降り掛かっていたのだろうか。
背中の後ろで物音がした。誰かが倉庫の鍵を開けようとしている。ガタッという音に続いて、錆びついた引き戸を開く音がした。なるだけ音をたてないように注意している様子がありありなのだが、年に数度しか使わない倉庫の戸は、嫌が応でも砂が挟まったような音を上げる。
大きな石と、か細く生えた木の塚の部分に足をかけたら、倉庫の天窓から少しだけ中がのぞけた。
倉庫に入ってきたのは、古賀と依里だった。あともう一人……制服じゃないから、先生だろうか。美香奈のところからは影になって顔がよく分からなかった。
古賀が倉庫の戸を閉める。内部は天窓から入る光だけになり、依里の姿は淡く浮かんで見えた。
男が古賀に何枚かの万札を渡すのが見えた。
男は依里に近づいて、ベストを脱がせ、リボンをほどく。その様子を古賀は興味なさげに眺めていた。
止めなくちゃ!
美香奈の頭の中の声が叫ぶ。
しかし美香奈は動けなかった。
怖いのではない。驚いているのでもない。
自分の中のもう一つの何か、今朝から身体に巣くっている何かが、暴れているのだ。
ようやく美香奈は理解した。
それは、今、依里が置かれている立場を、求めている。
自分の中の何かは、自らを汚したがっているのだ。
美香奈は必死に否定しようとする。女の子が弱いからって、それにつけこんで思い通りにしようなんて! そんな男に負けてしまう女なんて!
一方で、美香奈の中の何かが囁く。汚れてしまえ、穢れてしまえ、混ざってしまえ。自分と他人とが渾然となった先には、自分というものを考えなくても良い、楽園が待っているぞ、と。
美香奈は石から下りて、しゃがみこんだ。
もし今、依里に呼ばれたら、自分は中にいるそれに、抗えるだろうか。
ポケットの中を探り、カッターナイフを握りしめた。親指で刃を出し入れする。カチリ、カチリ。
このナイフで、自分の中のそれをえぐり取ってしまいたい衝動に襲われる。
苦しい、息が苦しい。
勝てない自分が、本当に苦しい。
首をカクンと後ろに倒したら、天井に近い小さな窓から、一瞬だけ美香奈の姿が見えた。同じ穴のムジナという言葉が浮かぶ。
目を閉じた。ハムスターが回り始めた。
カラカラカラ、そんな感じだ。
思えば最初から同じだった。
街で声をかけたられたカメラマンに、撮影させて欲しいと頼まれて、断る理由もないからついていった。ホテルに入って写真を何枚か撮っていたら、
「ちょっと脱いでみようか」
「え?」
黙って立っていたら、服を脱がされて、身体中触られていた。カメラなんか床に放り出して、依里の身体を貪るように弄んだ。逃げようと思えば逃げれたのかもしれない。だけど依里は途中でどうでもいい気分になってしまった。
だって、別に初めてじゃないし。
その後の男のすることなんてみんな同じだ。黙って我慢していればすぐ終わる。目を閉じて遠くで何かが回転する音を聞いていた。
手に握らされた五万円を黙って鞄に入れて、一緒にホテルを出た。
「ケータイの番号、教えてよ」
男がつきまとってきたので、逃げようとしたら鞄を掴まれた。手帳もスマホも入っている鞄を、置いて逃げるとはできないから引っ張り返して、でも力で負けた。逃げられないのかと思ったら、男が急に黙った、かと思ったら地面に転がっていた。
ホテルから出てきた別の男性が、カメラマンを殴り飛ばしていたのだ。
男性は泣いていた。
理由は分からない。でも、男の人でも泣くことがあるのだと、依里は始めて知った。
去ろうとする男性に、言葉をかけた。
「ねえ!」
男性が止まる。
「焼肉、食べにいこうよ。今のの、お礼。お金ならある。さっき、そこの人にもらったから」
男性が苦々しそうに顔を歪めた。でも歩きかけた道を戻ってきた。どうにでもなれと思っていたのは、依里だけではなかったようだ。
話をしてみたら、その男性が依里が通う学校の高等部の教師であること、婚約者と別れたばかりだということが分かった。
「それで泣いていたんだ」
「放っておいてくれ」
表面だけ炙ったレアのカルビを、依里はおいしそうにたいらげる。次の肉を焼き網に置いて、赤い表面を箸でつついた。
「ねえ、先生? どうして男の人って、こんな色したところを舐めるのが好きなの? ……気持ち悪い」
「色? ああ、肉の色か……そうだな」
自分の身体が肉の塊でできていることは、つい忘れがちだ。
でも、人間に食べられる牛の肉と、男に舐められる自分の肉との間に、本質的な違いはない。食べて食べられて、消費しつくすのが生きていることだなんて。
でもだったら、とことん消費されてもいいんじゃないか。
そう思った時、依里の心に空いた隙間の部分に、何かが侵入した。
「ねえ、先生?」
「なんだ」
「二人で一緒に、落ちて行かない?」
「落ちて……ああ、それもいいかもな」
一緒に落ちてくれると言ったこの人は、きっと優しい人なのだと、依里は思った。
あの時から、依里は、彼と一緒に落ちつづけているのだ。
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