八咫烏伝奇 ─ 穢れなきクロウマスター

きもとまさひこ

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第三章

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 金曜日。放課後すぐに、部室に全員集合。慈愛はホワイトボードとVGAプロジェクタを部室に持ち込んで、即席のゼミ室にした。

 梶山が、ホワイトボードに投影された画面の前に立って説明する。

「第一章はタイトル通り、心の社会について書かれています。心を形作っているものは、エージェントと呼ばれる小さくて簡単なものに分解できます。エージェントが扱える仕事は、いくつかの課題に分類できます。この本では、心をエージェントが作る社会とみなすことで、心が何かということを説明しようとしています。

 例えば命は何かという問いについては、かなりのことが分かってきています。身体を作る組織や細胞の動き、化学物質の役割、DNAの仕組みなど。そういった小さな現象が集まって、生命活動を作っていることが分かっています。しかし心はそうではありません。心を作る小さな要素というのは、まだ明らかになっていません。

 この章では、積木を使って心の小さな要素の動きを分析しています。積木の『作り屋』というエージェントが動いているとします。『作り屋』は積木で塔を作ることを目的としています。『作り屋』は更に他のエージェントの助けを求めて動きます。このエージェントは、はじめる、加える、終わる、という一連の動作を行います。また、加えるという動作は、更に小さなエージェント――見つける、手に入れる、置くといったプロセスに分解されます。

 このように分解していくと、小さなプロセス自体には目的を持たなくなります。このような小ささなものをエージェントと呼び、エージェントが集まって社会を作った時、どのように関係してグループとして動いているかを理解する必要ああります。これをエージェンシーと呼びます。エージェンシーは、自分が何をしているかを知っています」

 一息ついた梶山に、慈愛がツッコミを入れる。

「一章では、常識ということについても述べているわよね」

「え、えと、はい。積木の動作は、子供なんかは最初のうちは夢中になって塔を作る作業を覚えようとしますが、何度も繰り替えしていると飽きてきます。これは積木を積み上げるという動作が『常識』として出来上がったからです。

 常識は本来は非常に風雑な行動の集まりなはずなのですが、それを身につけてしまった人は、複雑だとは思いません。例えば、カップに入れたコーヒーを持ってバランスを取りながら積木を積むことなんか、大人なら常識的にできます。しかしこの常識をどうやって身につけたのかを、ほとんどの大人は忘れてしまっています。この学習のプロセスこそ、この本の中で考えるべきことだと言っています」

「まあいいわ。よく理解しているみたいね。ただし、プレゼンテーションとしては駄目ね。まず画面の文字が小さいしコントラストが低くて色付きの文字が読みにくい。見ている人に伝えようという意思が見えないわ。次に、画面に出ていることと喋っていることがちぐはぐね。書いてないことを喋ったり、書いてあることをすっとばしたり。その割に、時間配分を考えているみたいでもなかったし。喋る練習とかした?」

「いえ」

「一人で机に向かってでもいいから、喋る練習しておいたほうがいいわよ。ただその場合、小声で喋るのと実際に喋るのとではスピードが違うから、時間の違いが考えておかないといけないけどね」

「はあ」

「いい? 他の二人は分かった?」

「はーい、先生、よく分かりません。千尋は分かった?」

「あんまり、……かな」

「むずかしー。部長はすごいねー」

 千尋と美香奈がそう簡単にテキストを理解できないのは、普通の高校生だから仕方がないとしても、これだけ難しい文献を読み重ねているはずの梶山がこの調子だというのはもったない。こういうタイプは、多分二種類に分類できる。行動を起こすことに消極的ではあるけれど、隠れた実力を持っていて、おだてて持ち上げて尻を叩くと能力を発現させるタイプ。もう一つは、口先ばっかりで本当に手を動かす能力がないタイプ。このすかした部長はどっちのタイプだろうかと、慈愛は考える。乾いて崩れないその表情の奥に眠っているのは、隠れた獅子か張子の虎か。伺うように覗いてみるが、なかなか正体を表さない。

 手強いガキだわね。

 その点、他の二人はやっぱり可愛いものだと思った。

「それでは次のゼミの分担は、千尋くんね。頑張ってね」

「先生、僕はうまくできないと思います」

「いいのよ。最初は分からなくても、練習だと思えば」

「……はい、分かりました」

「よろしい」

 部活の時間もそろそろ終わりに近づき、グラウンドの運動部も最後の声だしを始めていた。カーテンを開けたら、部室に差し込む陽光はすっかり橙色になっていた。慈愛はプロジェクタを片付けながら本題に入ることにする。

「みんな今日は予定ある? まっすぐ家に帰るの?」

 三人の生徒が顔を見合わせる。寄り道せずにまっすぐ家に帰りましょう。誰も守ってないけれど、先生が口を開けば大抵出てくる言葉だ。

「帰りますけど」

「晩ご飯食べてかない? なんなら家に電話してもらって。私が親御さんに話してもいいわよ、課外授業なんですってね」

「晩ご飯、ですか」

「もっと分かりやすく言えば、新歓コンパよ。大学のゼミにはつきもののイベント!」

「誰を歓迎するのですか?」

「私に決まっているでしょ」

「はーい、先生、自分で自分を歓迎するのって、虚しくないですか?」

「うっさい。行くの? 行かないの?」

「先生、他の人も誘っちゃ駄目ですか?」

「他の人って?」

「天城さん、……この前の子です。クラスの中で浮いているみたいだったから、仲良くしてあげようかなって」

「いいわよ。でもまだ学校に残っているかしら」

「探してきまーす」

 美香奈はバッグを持って立ち上がった。足はもう出口に向いている。

「先に行っててください!」

 教室を走って出て行く背中に、慈愛が言葉を投げた。

「正門のところで待ってるから」

 残された男子二人を見て、

「これ、片付けるの手伝ってね」

 プロジェクタとホワイトボードを指さした。

 二人とも了解の返事はしたが、千尋は結局自分がやるんだろうなと思った。部長は手を動かさない人だから。

 同じことは慈愛を思っていたようで、プロジェクタのバッグを持ち上げた千尋のそばで「悪いわね」と小さな声がした。花のような甘い香りが、千尋の鼻をくすぐる。女の人の匂いだ。肩のあたりにまとわりつくような匂いがなんか鬱陶しくて、バッグを担いで部屋を出てから、気づかれないように自分の肩にふっと息を吹きかけた。

 でも人の匂いはそんなものでは消えやしない。

 他人と関わると、自分を構成する分子が少しずつ他人と混じっていくような感じがする。自分と他人との境界。重なり合う領域。人間関係の構造。煙のように少しだけ曖昧になって、あわてて手で追い払って見晴らしをよくする。このラインが自分と他人の境界線。

 千尋は穏やかな笑みを浮かべながら、線から絶対に出ないのだ。



 美香奈は依里のクラスに走っていった。

 既に学内に生徒の姿は少ない。委員会や部活で残っている生徒、特に用もないのにお喋りをしている生徒、お喋りすらせずに何故か黙って並んで座っている男女のほほえましい組み合わせ。そういったものを視界の端で流しながら、美香奈は依里のあやふやな存在感を思い出していた。

 美香奈の心配すら拒絶する態度は、正直かなり好感度ダウンなんだけれど、あんなことがあった後だけに放っておけない。

 11HRのドアを開けたら何人かの生徒が残っていたので、そのうちの女子生徒に依里はいないかと聞いた。

「天城? いません。帰ったんじゃないですか?」

「もしかしたら、どっかの男のところにでも行ってるのかもー」

「ありうるー。なんかあの子、暗いくせに男子の気を引くのがうまいよねー」

「男子だけじゃなくて、先生にもねー。知ってる? ウリやってるんじゃないかって言っている子もいたよ」

「まじ? でも、ありそう。中年の先生あたりとできてんじゃないの?」

「ヤダ、気持ちわるーい」

 聞いていないことをずらずらと話し出したので、美香奈はあわてて彼女らを遮った。

「ねえ、天城さんと一番仲いい人って、誰かな」

「天城とですかー? いませんよ、そんな人」

「いえてるー」

「そ、そうなの? 昼間話してた、なんだっけ、手塚くん? は?」

「ありえなーい」

 一年生の女子は馬鹿にしたように口を揃えた。

「天城が手塚に媚売ってるだけだよねー」

「手塚があんなの相手にするわけないしー」

 女の子って、これだから嫌なんだ。

 こういうとき、美香奈は自分が同じ性別であることが悲しくなる。でも彼女らに本当の意味での悪意がないことも、同性として何となく分かる。明らかにモテそうな手塚くんは、彼女らが納得する相手とでないと、「ありえない」のだ。

 ヤだな。

 美香奈は「分かった」とだけ言って、教室から去ろうとした。

 女子生徒が、

「せんぱーい、天城なんか相手にしないほうがいいっすよ。いつも一緒にいる優しそうな彼氏、取られちゃいますよー?」

 彼女らの笑い声が続いた。

 もし自分に力があれば、ファンタジー映画の戦士みたいに大きな剣を振りかざし、教室の空間ごと真っ二つに叩き切ってしまいたいと思った。

 でも、自分もまた、木登りさえできなくなった、女の子なんだ。下腹部にわずかに残る鈍い痛みが、嫌でもそれを思い出させる。

 女の子であることに疑いを持たないような女の子になれたら、どんなに楽だろう。

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