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第一章
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五パーセント。
付属大学への進学率だ。
高校の始業式に向かう道の途中、百瀬千尋は隣接した大学の正門に入っていく人の流れをぼんやりと眺めた。
悠貴崎学園は小学校から大学までが隣接している、巨大学校法人だ。小学校に入学して、高校まで進学するのは問題ない。エスカレータ式にスムーズに上っていける。だけど高校から大学へは別だ。
五パーセント。推薦入試を含めた進学率は、その程度しかない。
自分はその五パーセントに入るのかなと、男子にしては中性的な顔つきの千尋は考える。自分で言うのも変だけど成績は上位だし品行方正だし、推薦入試で進学できそうな気もする。
中にはあえて競争の場に身を置くために推薦入試を選ばずに一般入試に挑戦する者もいるが、自分はそういう熱さとは無縁だ。そもそも附属大学に入りたいのかと聞かれても、正直分からない。高校二年になったばかりという時期は、そろそろ進路について周囲が騒ぎ出すわりに、本人にはまだあいまいな気持ちしかないというのが現実だ。
悠貴崎学園高校は自由な校風を売りにしている。そんな雰囲気が千尋は嫌いじゃないが、その自由さが付属大学へ上がれる人数を少なくしている原因だということも分かっている。上れる人間だけが上ればいい。そういう理屈だ。
そんな激しい競争とか向上心とか、暑苦しいものじゃなくて、ただ安らかに穏やかに日々を送れればいいのに。
桜の花びらが前髪にかかったのを右手で振り払う。なんとなく髪の毛をぐしゃぐしゃにしてみて、やっぱり考え直してなでつけた。指についた花びらを払い落として、ポケットから手ぬぐいを出して手を拭いた。
大学の門の上のほうに掲げられた校章を見る。
ふっ、と、隣を甘い香りが通り抜けた。ピンクのコートの女性が大学の敷地の中に吸い込まれていく。学生だろうか。
大学生と高校生。隣り合っているはずなのに、ものすごく遠い存在に見える。
自分もいつかは大学生になるのだろうか。
今のまま、今の綺麗なままで大学生になれるのだろうか。
――何だろう?
大学の中の人混みに、軽い違和感を覚える。違和感というよりは嫌悪感だろうか。汚れが身体にまとわりつくような、嫌な感覚。
女性の残り香が制服についているような気がして、千尋は手ぬぐいで襟元をぬぐった。
――綺麗な、透明なままでいたいだけなんだ。
手ぬぐいをポケットにしまい、高校に向かって歩き始めた。
五〇パーセント。
理系博士の就職率だ。
姫末慈愛は悠貴崎学園大学の正門の前に立ち、校章を見上げた。
理系で博士号を取っても、就職できるのは半分にも満たない。女性で、希望する研究職になれるのは更に少ないだろう。しかし慈愛は競争を勝ち抜いた。指導教官やら何やらの推薦という後押しはあったものの、この悠貴崎学園大学の講師というポストを手に入れたのだ。
学位を取って大学に就職する場合、普通は助教から始めることになる。助教、講師、准教授、教授。名前は大学によって違うこともあるが、おおむねそんな感じで昇進していく。昇進のために別の大学に移ることも珍しくない。慈愛の場合は、いきなり講師からのスタートになる。異例だ。
「ま、私の実力だけどね」
ピンクのドレスコートの下に白のブラウスと桜色のタイトスカート。出勤初日は爽やかさでアピールしてみようと思う。標準よりもかなりメリハリのある体型を、不必要に誇示しないように。
悠貴崎学園大学は私立の総合大学としては中堅どころの規模になるが、学生や研究内容の優秀さでは密かに名が知られていた。就職した卒業生は確実に業績を上げ、大学発のベンチャー企業なども少なくない。政界や経済界にも、堅実な人脈を持っていた。
大学の中にこもるだけでなく、成果を社会に還元していこうという姿勢は、慈愛の好みだ。実学主義とでも言うのだろうか。理屈だけではなく手を動かす。慈愛の専門分野の方針とも合っている。
大学構内は活気に溢れていた。新入生を歓迎、勧誘する学生達が、盛んに大きな声を出している。
ガキには興味ないと吹聴する慈愛だったが、エネルギーに満ちた空気は嫌いじゃない。
だがしかし。
これだけ人間が集まるといびつな淀みも発生する。
慈愛が見る世界は、「構造」からなる。道を歩く学生や教員たちは、お互いの距離を測りながら、ぶつからないように他人の領域を侵さないように歩いている。それは体系であり構造であり、同時に関係性のネットワークでもある。
人の動きに合わせるように次々と変化するネットワークの中では、構造の歪みが発生することがあり、そこには同時に淀みが生まれる。その淀みを彼女らは、<綻澱 >と呼ぶ。
慈愛は内ポケットからカードケースを取り出し、その中の一枚を取り出した。名刺と同じサイズの小さなカード。細かな装飾の枠の中に、望遠鏡をのぞく老博士の絵柄が書いてある。観測者のカードだ。
カードを虫眼鏡のようにかざし、周囲の景色をのぞき見る。プラスチックの両面に挟まれて、内部には薄い銀膜で出来た複雑な紋様が作り込まれている。半周ほど回って、<綻澱>を見つけた。
「これぞ、仕事よね」
慈愛はつぶやきながら、<綻澱>の中心に向かって歩いていく。薄汚れた男子学生が一人、講堂の脇に座っていた。足下には煙草の吸い殻が何本も落ちている。落ち着きなく足をゆすり、何度も手を膝の間で組みかえている。小さな声で「畜生、畜生」と繰り返していた。
慈愛が前に立つと、男子学生は顔を上げた。充血した目と無精髭が、学生とは思えない風貌を作り出していたが、職員だとは尚更思えない。
「あなた、名前は?」
「……中田」
「中田くんね。何年生?」
「八年……だっけかな、ハハ。ハッ、笑えよ」
「そう」
慈愛は軽いため息をついた。
「<綻澱>があなたを汚したのか、あなたが汚れたから<綻澱>が生まれたのか、今となっては分からないわ。でもこれが私の仕事なの。心配しないで。あなたを救い出してあげる」
「あんた、何言ってるんだ?」
慈愛はケースから三枚のカードを抜き出し、指先を使って軽く投げた。地面に杭を打つ職人が描かれた、介入者のカード。カードは学生を囲んで三方の地面に刺さり、三柱を成す。
更にもう一枚、厚手のカードを抜き出した。杖を掲げる精悍な青年が描かれた、統率者のカードだ。
陽の奇数である三枚のカードに、一枚加えて陰の偶数とする。
慈愛は統率者のカードを額にかざした。
図柄が掲げる杖の尖頭が鈍く明滅。同時に光は慈愛の額へと移り、慈愛がゆっくりとカードを引き離すと同時に、引っ張られるように突起が伸びた。
――光の角。そうとしか表現できない。
慈愛は、八咫鴉である。
八咫鴉の言葉を使えば、構造とは<縁脈>となる。大地に地脈があるのと同じように、人と人との繋がりの構造にも、流れる脈動がある。八咫鴉は<縁脈>に伸ばす手足を持っている。同時にそれを断ち切る力も。
慈愛は数度瞬くと、軽くカードを振った。統率者のカードと、地面に刺さった三枚の介入者のカードとが、三角錐を形成して中田を囲む。中田は低くうめいた。
「う、うぅ……」
慈愛はカードを通じて中田の周囲の<縁脈>を瞬時に把握。自己の心象への写像を作り、次の瞬間には<縁脈>の構造を書き換えた。
「――断ッ!」
小さく叫ぶ。
一瞬稲妻が走ったかのような光の網が張り巡らされて、ボッと浮かんで消えた。
同時に中田は肩を落とした。しばらく浅い呼吸をした後、ゆっくりと立ち上がって歩き出した。履き古した靴が地面をこする音が聞こえそうなくらい、足を引きずる。
その背中を醒めた目で見る慈愛の額には、先ほどの角は跡形もない。何事もなかったかのように、慈愛はカードを回収する。そして深く呼吸をし、
「これが――私の仕事だもの」
世に介入し、人々を救う。それが慈愛の仕事のひとつ。
周囲の人の流れは何も無かったかのように流れていく。人の構造は元の潤滑さを取り戻し、ざわざわという音の中で時折元気の良い勧誘の声が響く。雑然としているのに、静かな人の流れ。
静かな、それは静かな。
慈愛はもう一つの自分の仕事を思い出し、校舎に向かって歩き出した。
静かに、それでいて力強い一歩で。
――数分後。
学部教務課に学生が現れた。受付のところで無言で立っている姿を見かねて、職員が声をかける。
「何か?」
「……国文科八年の中田です。……退学手続きについて……」
ああ、と職員は納得した。この時期はそういう学生がたまに来る。普通は退学手続きなんてのは、年度末に向けて処理するものなのだが、五月病を何年も引きずった学生が、行き着いた先として、年度明けのすぐに退学を希望するのだ。
でもそういう学生はまだましなほうだ。自分で決断したのだから。変なしがらみを断ち切って、ここから出ていこうとしているのだから。むしろ救われたのだと言える。
とは言え、大学としては退学という扱いに違いはないし、職員はカウンセラーではない。退学を希望するなら、ただ淡々と手続きを進めるだけだ。
静かに、それはもう静かに。
少女は下を向いていた。
春だとか桜だとか、華やかなものは全部頭上を通り過ぎていく。
目立たないように、地味に地味に生きていこうと思っていた。手入れのしていない長く伸ばしただけの髪に、色気のない眼鏡。くたびれた制服は、学校の中で埋没するための、これ以上ない殻になる。
それなのに……。
悠貴崎学園高校は自由な校風で、勉強するだけが高校生活じゃないと誰もが言う。その一方で、定期試験や模擬試験をすれば、自分の偏差値と順位を、数字という形で突きつけられる。数字という現実を見れば、自分が付属大学への推薦枠には到底届かないことは分かるし、外部の大学だって選べる立場じゃないことも思い知らされる。
勉強するだけが高校生活じゃないといいながら、勉強のできない生徒は未来を確実に制限されてしまうのだ。
だって、他に何をすればいいの?
少女は相手の見つからない問いを発する。
スポーツ? 芸術? そんな才能、これっぽちもない。だったら、偏差値っていう分かりやすい数字の、小数点以下一桁を少しでも上げるほうが、まだ分かりやすい。
もっとも頑張ったところで、母親の収入だけで暮らす少女の家庭は、進学するにしても障害が多い。なにより、あの母親にこれ以上は頼りたくない。
何もない。自分には何もない。
あるのは、空っぽの身体と、それを埋めていく穢れたものたち。
これから三年間、自分は同じことを繰り返すのだろうか。
付属大学への進学率だ。
高校の始業式に向かう道の途中、百瀬千尋は隣接した大学の正門に入っていく人の流れをぼんやりと眺めた。
悠貴崎学園は小学校から大学までが隣接している、巨大学校法人だ。小学校に入学して、高校まで進学するのは問題ない。エスカレータ式にスムーズに上っていける。だけど高校から大学へは別だ。
五パーセント。推薦入試を含めた進学率は、その程度しかない。
自分はその五パーセントに入るのかなと、男子にしては中性的な顔つきの千尋は考える。自分で言うのも変だけど成績は上位だし品行方正だし、推薦入試で進学できそうな気もする。
中にはあえて競争の場に身を置くために推薦入試を選ばずに一般入試に挑戦する者もいるが、自分はそういう熱さとは無縁だ。そもそも附属大学に入りたいのかと聞かれても、正直分からない。高校二年になったばかりという時期は、そろそろ進路について周囲が騒ぎ出すわりに、本人にはまだあいまいな気持ちしかないというのが現実だ。
悠貴崎学園高校は自由な校風を売りにしている。そんな雰囲気が千尋は嫌いじゃないが、その自由さが付属大学へ上がれる人数を少なくしている原因だということも分かっている。上れる人間だけが上ればいい。そういう理屈だ。
そんな激しい競争とか向上心とか、暑苦しいものじゃなくて、ただ安らかに穏やかに日々を送れればいいのに。
桜の花びらが前髪にかかったのを右手で振り払う。なんとなく髪の毛をぐしゃぐしゃにしてみて、やっぱり考え直してなでつけた。指についた花びらを払い落として、ポケットから手ぬぐいを出して手を拭いた。
大学の門の上のほうに掲げられた校章を見る。
ふっ、と、隣を甘い香りが通り抜けた。ピンクのコートの女性が大学の敷地の中に吸い込まれていく。学生だろうか。
大学生と高校生。隣り合っているはずなのに、ものすごく遠い存在に見える。
自分もいつかは大学生になるのだろうか。
今のまま、今の綺麗なままで大学生になれるのだろうか。
――何だろう?
大学の中の人混みに、軽い違和感を覚える。違和感というよりは嫌悪感だろうか。汚れが身体にまとわりつくような、嫌な感覚。
女性の残り香が制服についているような気がして、千尋は手ぬぐいで襟元をぬぐった。
――綺麗な、透明なままでいたいだけなんだ。
手ぬぐいをポケットにしまい、高校に向かって歩き始めた。
五〇パーセント。
理系博士の就職率だ。
姫末慈愛は悠貴崎学園大学の正門の前に立ち、校章を見上げた。
理系で博士号を取っても、就職できるのは半分にも満たない。女性で、希望する研究職になれるのは更に少ないだろう。しかし慈愛は競争を勝ち抜いた。指導教官やら何やらの推薦という後押しはあったものの、この悠貴崎学園大学の講師というポストを手に入れたのだ。
学位を取って大学に就職する場合、普通は助教から始めることになる。助教、講師、准教授、教授。名前は大学によって違うこともあるが、おおむねそんな感じで昇進していく。昇進のために別の大学に移ることも珍しくない。慈愛の場合は、いきなり講師からのスタートになる。異例だ。
「ま、私の実力だけどね」
ピンクのドレスコートの下に白のブラウスと桜色のタイトスカート。出勤初日は爽やかさでアピールしてみようと思う。標準よりもかなりメリハリのある体型を、不必要に誇示しないように。
悠貴崎学園大学は私立の総合大学としては中堅どころの規模になるが、学生や研究内容の優秀さでは密かに名が知られていた。就職した卒業生は確実に業績を上げ、大学発のベンチャー企業なども少なくない。政界や経済界にも、堅実な人脈を持っていた。
大学の中にこもるだけでなく、成果を社会に還元していこうという姿勢は、慈愛の好みだ。実学主義とでも言うのだろうか。理屈だけではなく手を動かす。慈愛の専門分野の方針とも合っている。
大学構内は活気に溢れていた。新入生を歓迎、勧誘する学生達が、盛んに大きな声を出している。
ガキには興味ないと吹聴する慈愛だったが、エネルギーに満ちた空気は嫌いじゃない。
だがしかし。
これだけ人間が集まるといびつな淀みも発生する。
慈愛が見る世界は、「構造」からなる。道を歩く学生や教員たちは、お互いの距離を測りながら、ぶつからないように他人の領域を侵さないように歩いている。それは体系であり構造であり、同時に関係性のネットワークでもある。
人の動きに合わせるように次々と変化するネットワークの中では、構造の歪みが発生することがあり、そこには同時に淀みが生まれる。その淀みを彼女らは、<綻澱 >と呼ぶ。
慈愛は内ポケットからカードケースを取り出し、その中の一枚を取り出した。名刺と同じサイズの小さなカード。細かな装飾の枠の中に、望遠鏡をのぞく老博士の絵柄が書いてある。観測者のカードだ。
カードを虫眼鏡のようにかざし、周囲の景色をのぞき見る。プラスチックの両面に挟まれて、内部には薄い銀膜で出来た複雑な紋様が作り込まれている。半周ほど回って、<綻澱>を見つけた。
「これぞ、仕事よね」
慈愛はつぶやきながら、<綻澱>の中心に向かって歩いていく。薄汚れた男子学生が一人、講堂の脇に座っていた。足下には煙草の吸い殻が何本も落ちている。落ち着きなく足をゆすり、何度も手を膝の間で組みかえている。小さな声で「畜生、畜生」と繰り返していた。
慈愛が前に立つと、男子学生は顔を上げた。充血した目と無精髭が、学生とは思えない風貌を作り出していたが、職員だとは尚更思えない。
「あなた、名前は?」
「……中田」
「中田くんね。何年生?」
「八年……だっけかな、ハハ。ハッ、笑えよ」
「そう」
慈愛は軽いため息をついた。
「<綻澱>があなたを汚したのか、あなたが汚れたから<綻澱>が生まれたのか、今となっては分からないわ。でもこれが私の仕事なの。心配しないで。あなたを救い出してあげる」
「あんた、何言ってるんだ?」
慈愛はケースから三枚のカードを抜き出し、指先を使って軽く投げた。地面に杭を打つ職人が描かれた、介入者のカード。カードは学生を囲んで三方の地面に刺さり、三柱を成す。
更にもう一枚、厚手のカードを抜き出した。杖を掲げる精悍な青年が描かれた、統率者のカードだ。
陽の奇数である三枚のカードに、一枚加えて陰の偶数とする。
慈愛は統率者のカードを額にかざした。
図柄が掲げる杖の尖頭が鈍く明滅。同時に光は慈愛の額へと移り、慈愛がゆっくりとカードを引き離すと同時に、引っ張られるように突起が伸びた。
――光の角。そうとしか表現できない。
慈愛は、八咫鴉である。
八咫鴉の言葉を使えば、構造とは<縁脈>となる。大地に地脈があるのと同じように、人と人との繋がりの構造にも、流れる脈動がある。八咫鴉は<縁脈>に伸ばす手足を持っている。同時にそれを断ち切る力も。
慈愛は数度瞬くと、軽くカードを振った。統率者のカードと、地面に刺さった三枚の介入者のカードとが、三角錐を形成して中田を囲む。中田は低くうめいた。
「う、うぅ……」
慈愛はカードを通じて中田の周囲の<縁脈>を瞬時に把握。自己の心象への写像を作り、次の瞬間には<縁脈>の構造を書き換えた。
「――断ッ!」
小さく叫ぶ。
一瞬稲妻が走ったかのような光の網が張り巡らされて、ボッと浮かんで消えた。
同時に中田は肩を落とした。しばらく浅い呼吸をした後、ゆっくりと立ち上がって歩き出した。履き古した靴が地面をこする音が聞こえそうなくらい、足を引きずる。
その背中を醒めた目で見る慈愛の額には、先ほどの角は跡形もない。何事もなかったかのように、慈愛はカードを回収する。そして深く呼吸をし、
「これが――私の仕事だもの」
世に介入し、人々を救う。それが慈愛の仕事のひとつ。
周囲の人の流れは何も無かったかのように流れていく。人の構造は元の潤滑さを取り戻し、ざわざわという音の中で時折元気の良い勧誘の声が響く。雑然としているのに、静かな人の流れ。
静かな、それは静かな。
慈愛はもう一つの自分の仕事を思い出し、校舎に向かって歩き出した。
静かに、それでいて力強い一歩で。
――数分後。
学部教務課に学生が現れた。受付のところで無言で立っている姿を見かねて、職員が声をかける。
「何か?」
「……国文科八年の中田です。……退学手続きについて……」
ああ、と職員は納得した。この時期はそういう学生がたまに来る。普通は退学手続きなんてのは、年度末に向けて処理するものなのだが、五月病を何年も引きずった学生が、行き着いた先として、年度明けのすぐに退学を希望するのだ。
でもそういう学生はまだましなほうだ。自分で決断したのだから。変なしがらみを断ち切って、ここから出ていこうとしているのだから。むしろ救われたのだと言える。
とは言え、大学としては退学という扱いに違いはないし、職員はカウンセラーではない。退学を希望するなら、ただ淡々と手続きを進めるだけだ。
静かに、それはもう静かに。
少女は下を向いていた。
春だとか桜だとか、華やかなものは全部頭上を通り過ぎていく。
目立たないように、地味に地味に生きていこうと思っていた。手入れのしていない長く伸ばしただけの髪に、色気のない眼鏡。くたびれた制服は、学校の中で埋没するための、これ以上ない殻になる。
それなのに……。
悠貴崎学園高校は自由な校風で、勉強するだけが高校生活じゃないと誰もが言う。その一方で、定期試験や模擬試験をすれば、自分の偏差値と順位を、数字という形で突きつけられる。数字という現実を見れば、自分が付属大学への推薦枠には到底届かないことは分かるし、外部の大学だって選べる立場じゃないことも思い知らされる。
勉強するだけが高校生活じゃないといいながら、勉強のできない生徒は未来を確実に制限されてしまうのだ。
だって、他に何をすればいいの?
少女は相手の見つからない問いを発する。
スポーツ? 芸術? そんな才能、これっぽちもない。だったら、偏差値っていう分かりやすい数字の、小数点以下一桁を少しでも上げるほうが、まだ分かりやすい。
もっとも頑張ったところで、母親の収入だけで暮らす少女の家庭は、進学するにしても障害が多い。なにより、あの母親にこれ以上は頼りたくない。
何もない。自分には何もない。
あるのは、空っぽの身体と、それを埋めていく穢れたものたち。
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