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いつかのトレモロを溶かして
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ここまでの話を聞いて、幸喜は口元に手を当てて考える。
今、率先してやらなければいけないのは、茅乃と祖母が距離を置く事だろう。
連絡を絶ち、会わない事が一番なのだけれど、祖母から植え付けられた罪悪感が、それを拒んでいる。
そうなると、祖母の方を抑えるしかないが、その場合、外から他人が口を出すよりも、出来るなら誰か祖母を諌める事の出来る人物に頼った方がいいだろう、と考えて、幸喜は茅乃を見た。
「誰か、おばあさんと対等に話せるような他の大人……、父親とかには、言い辛いのか?」
大人の男性、しかも彼女の父親、というのは一番の適任だろう。
家になかなか帰れないと言っていたけれど、流石にこうした状況ならば黙っていない筈だと幸喜は思うのだけれど、その言葉に茅乃は首を振っている。
彼女曰く、祖母は元々、父親を毛嫌いしているらしい。
その理由はよくわからないというので、生理的な嫌悪からかもしれないし、茅乃の母親、つまり、娘に対する執着から、なのかもしれない。
「それに……、お父さんは今でも時々、私のいない所で泣いてるんです。お母さんが亡くなったのは、自分のせいだって、思ってる」
お母さんの事を思い出させて辛い思いをさせるのは嫌だ、と言っている所を見ると、茅乃と似て自分の中で抱え込むような性格なのだろう。
だとするなら祖母と話した所で逆に追い詰められかねないし、そもそも嫌われているというのなら、話をする事自体難しいのかもしれない。
「もし、言えるとしたなら、朱音ちゃんのお母さんですけど……」
茅乃はそう言うけれど、言葉を詰まらせる辺り、余計に言い辛い相手のように幸喜には感じられた。
だとしても、ここまで周囲に話が出来ない、というのは、あまりにもおかしい。
まるで、何かを恐れているような。
考えて、幸喜は視線を地面に向けた。
祖母に報復される事か、周囲に変化を与えてしまう事か、それとも、今更何も変えられないと諦めているだけか……、それでも、昨日の夜に感じていたような、尋常ではない程の怯え方をしていない所を見ると、それは祖母から与えられる虐待と呼べる行為を恐れているだけではない、のだろう。
「我儘なのは、わかってます。あれもこれも嫌だ、なんて。そんなのは、全部、私の我儘だって……」
でも、と、まるで子供の言い訳のように繋げようとした言葉は、上手く形にならないらしい、はくはくと唇を動かした彼女の口から零れているのは、吐息だけ。
「なら、せめて津村は? あいつは茅乃ともおばあさんとも仲が良いように見えたけど」
茅乃と祖母のどちらとも仲が良いと言う事は、どちらの味方にもならない可能性もあるのだし、どちらかの味方になってしまえば余計に事態は悪化してしまう。
けれど、朱音の様子を見ている限り、茅乃に危害を加わる者に対しては、あれだけ攻撃的になっていたのだ。
せめて祖母の行動を制止するくらいは出来るのではないか、と考えて幸喜が問いかけると、彼女は視線を揺らして唇を噛み締めている。
「朱音ちゃんは、私のお母さんにそっくりなんです。それこそ、生き写しって言われるくらいに。だから、おばあさんは余計に朱音ちゃんを可愛がっているんです」
それこそ、顔を取り替えられたのなら、もしかしたら自分も同じように接して貰えたかもしれない、そう思った事は一度や二度ではない、と彼女は言う。
彼女の言葉に、幸喜は苦々しい面持ちで息を吐き出した。
祖母からしてみたら、もし朱音が祖母にこの件について糾弾したのなら、孫亡くなった娘からいっぺんに責められているようなものだろう。
けれど、それはつまり。
幸喜は考えて、小さく息を吐き出した。
「……そうか。茅乃は、おばあさんが傷つくのも嫌なんだな」
ぽつり呟いた言葉を聞いた途端、茅乃は眼球に水分をいっぱいに溜めて、水玉が零れてしまわないように、瞬きを堪えている。
どうしてそんな事がわかるんですか、と、今にも泣き出してしまいそうな顔で問いかけてくるので、幸喜は苦笑いを浮かべて、なんとなく、と返した。
自分が誰かのせいにしたくない、と思っていたのは、結局、母親に責任の全てを押し付けたくはなかった、というのもあるのだろう、と幸喜は思う。
時折凪のように穏やかになった母親が見せた優しさや愛情も、確かにあったのだ、と、それを否定されたくはなかったのかもしれない。
彼女が同じような事を考えているのなら、それは否定されては欲しくない、と幸喜には思えたのだ。
幸喜の答えに、子供のように呆けた顔をした彼女は大きく瞬きを繰り返していて、その拍子に、透明な水玉がぽたり、落ちて、茅乃は慌てて眼を押さえた。
擦ってしまわないようにその腕を下ろさせると、昨日と同じように、ポケットから出したハンカチで彼女の目元にそっと押し付ける。
すんと鼻を鳴らした茅乃は、くすぐったそうに頬を緩めると、少し赤くなった眼をゆっくりと細めている。
「中学生の頃に一度だけ、雨の日に傘を忘れてびしょびしょに濡れて帰った事があったんです。おばあさんに凄く怒られるだろう、と思っていたのに、その日だけは、何故かとても優しかったんです」
濡れた自分をただ静かに見つめて、何も言わず柔らかいタオルを渡してくれて、あたたかいお風呂を用意してくれて、雨と泥で汚れた服を綺麗に洗濯してくれた。
ただ、それだけの事。
たったそれだけの事が、どうしようもなく、嬉しかった。
そう言って、茅乃は淡く微笑んでいる。
「それで、洗濯を好きになったのか」
「はい。祖母は家事にこだわりがある人で、洗濯にもとても気を使っているんです。だから、洗濯の仕方は祖母がしているのを見て覚えました」
他の人からしたら、取るに足らない事なのかもしれないけど、私にはそれが、とても嬉しい事だったんです。
そう話す彼女の横顔は確かに、懐かしくて優しい何かを大切に想うかのように、穏やかだ。
「本来は優しい人なんだって、そう思うから、余計に言えないんです。私がそう信じたいだけなのかもしれない、けど」
「だけど、このままずっと行っても、お互いに取り返しがつかない所まで壊れていくだけだ」
自分と同じようになってしまうのだけは、絶対にさせたくはない。
それこそどちらかがおかしくなるまで続くのだと、幸喜は身をもって知っているのだから。
「それに、そのせいで周りの人も、自分の事も、ずっと傷つける事になる」
そう言うと、茅乃は何かに気付いたように顔を上げて、幸喜を見た。
「……、幸喜さん、も?」
同じような事があったのか、と言外に問われている事を理解して幸喜が頷くと、茅乃は唇を噛み締めて自分の膝辺りをじっと見つめたまま考え込んでいた。
もし茅乃自身が言えないのなら、自分が言ってしまえばいい、とは、思う。——けれど。
考えて、俯いた彼女を見れば、その眼は今までのようには揺らいでいなかった。
けれど、彼女はきっと、そうはしないだろう、と幸喜は彼女が話し出す時を静かに待った。
長い間だったような気もするし、ほんの僅かな時間だったのかもしれない。
胸底がしんと静まり返るような感覚を覚えていると、小さく名前を呼ばれた。
幸喜が顔を上げて頷くと、色素の薄い彼女の瞳は真っ直ぐに向けられている。
「私、朱音ちゃんと話してみます。だから……」
言葉を切ると、茅乃はそっと手を伸ばして幸喜の指先を握り締めた。
「だから、一緒にいてくれませんか」
震えが指先から伝わってくるけれど、先程握られた時よりずっと、その手はしっかりと力が込められている。
「いいよ。それで茅乃が安心出来るなら」
自分でも驚く程に優しい声でそう幸喜が笑って頷くと、彼女は泣き出しそうな顔で笑っていた。
今、率先してやらなければいけないのは、茅乃と祖母が距離を置く事だろう。
連絡を絶ち、会わない事が一番なのだけれど、祖母から植え付けられた罪悪感が、それを拒んでいる。
そうなると、祖母の方を抑えるしかないが、その場合、外から他人が口を出すよりも、出来るなら誰か祖母を諌める事の出来る人物に頼った方がいいだろう、と考えて、幸喜は茅乃を見た。
「誰か、おばあさんと対等に話せるような他の大人……、父親とかには、言い辛いのか?」
大人の男性、しかも彼女の父親、というのは一番の適任だろう。
家になかなか帰れないと言っていたけれど、流石にこうした状況ならば黙っていない筈だと幸喜は思うのだけれど、その言葉に茅乃は首を振っている。
彼女曰く、祖母は元々、父親を毛嫌いしているらしい。
その理由はよくわからないというので、生理的な嫌悪からかもしれないし、茅乃の母親、つまり、娘に対する執着から、なのかもしれない。
「それに……、お父さんは今でも時々、私のいない所で泣いてるんです。お母さんが亡くなったのは、自分のせいだって、思ってる」
お母さんの事を思い出させて辛い思いをさせるのは嫌だ、と言っている所を見ると、茅乃と似て自分の中で抱え込むような性格なのだろう。
だとするなら祖母と話した所で逆に追い詰められかねないし、そもそも嫌われているというのなら、話をする事自体難しいのかもしれない。
「もし、言えるとしたなら、朱音ちゃんのお母さんですけど……」
茅乃はそう言うけれど、言葉を詰まらせる辺り、余計に言い辛い相手のように幸喜には感じられた。
だとしても、ここまで周囲に話が出来ない、というのは、あまりにもおかしい。
まるで、何かを恐れているような。
考えて、幸喜は視線を地面に向けた。
祖母に報復される事か、周囲に変化を与えてしまう事か、それとも、今更何も変えられないと諦めているだけか……、それでも、昨日の夜に感じていたような、尋常ではない程の怯え方をしていない所を見ると、それは祖母から与えられる虐待と呼べる行為を恐れているだけではない、のだろう。
「我儘なのは、わかってます。あれもこれも嫌だ、なんて。そんなのは、全部、私の我儘だって……」
でも、と、まるで子供の言い訳のように繋げようとした言葉は、上手く形にならないらしい、はくはくと唇を動かした彼女の口から零れているのは、吐息だけ。
「なら、せめて津村は? あいつは茅乃ともおばあさんとも仲が良いように見えたけど」
茅乃と祖母のどちらとも仲が良いと言う事は、どちらの味方にもならない可能性もあるのだし、どちらかの味方になってしまえば余計に事態は悪化してしまう。
けれど、朱音の様子を見ている限り、茅乃に危害を加わる者に対しては、あれだけ攻撃的になっていたのだ。
せめて祖母の行動を制止するくらいは出来るのではないか、と考えて幸喜が問いかけると、彼女は視線を揺らして唇を噛み締めている。
「朱音ちゃんは、私のお母さんにそっくりなんです。それこそ、生き写しって言われるくらいに。だから、おばあさんは余計に朱音ちゃんを可愛がっているんです」
それこそ、顔を取り替えられたのなら、もしかしたら自分も同じように接して貰えたかもしれない、そう思った事は一度や二度ではない、と彼女は言う。
彼女の言葉に、幸喜は苦々しい面持ちで息を吐き出した。
祖母からしてみたら、もし朱音が祖母にこの件について糾弾したのなら、孫亡くなった娘からいっぺんに責められているようなものだろう。
けれど、それはつまり。
幸喜は考えて、小さく息を吐き出した。
「……そうか。茅乃は、おばあさんが傷つくのも嫌なんだな」
ぽつり呟いた言葉を聞いた途端、茅乃は眼球に水分をいっぱいに溜めて、水玉が零れてしまわないように、瞬きを堪えている。
どうしてそんな事がわかるんですか、と、今にも泣き出してしまいそうな顔で問いかけてくるので、幸喜は苦笑いを浮かべて、なんとなく、と返した。
自分が誰かのせいにしたくない、と思っていたのは、結局、母親に責任の全てを押し付けたくはなかった、というのもあるのだろう、と幸喜は思う。
時折凪のように穏やかになった母親が見せた優しさや愛情も、確かにあったのだ、と、それを否定されたくはなかったのかもしれない。
彼女が同じような事を考えているのなら、それは否定されては欲しくない、と幸喜には思えたのだ。
幸喜の答えに、子供のように呆けた顔をした彼女は大きく瞬きを繰り返していて、その拍子に、透明な水玉がぽたり、落ちて、茅乃は慌てて眼を押さえた。
擦ってしまわないようにその腕を下ろさせると、昨日と同じように、ポケットから出したハンカチで彼女の目元にそっと押し付ける。
すんと鼻を鳴らした茅乃は、くすぐったそうに頬を緩めると、少し赤くなった眼をゆっくりと細めている。
「中学生の頃に一度だけ、雨の日に傘を忘れてびしょびしょに濡れて帰った事があったんです。おばあさんに凄く怒られるだろう、と思っていたのに、その日だけは、何故かとても優しかったんです」
濡れた自分をただ静かに見つめて、何も言わず柔らかいタオルを渡してくれて、あたたかいお風呂を用意してくれて、雨と泥で汚れた服を綺麗に洗濯してくれた。
ただ、それだけの事。
たったそれだけの事が、どうしようもなく、嬉しかった。
そう言って、茅乃は淡く微笑んでいる。
「それで、洗濯を好きになったのか」
「はい。祖母は家事にこだわりがある人で、洗濯にもとても気を使っているんです。だから、洗濯の仕方は祖母がしているのを見て覚えました」
他の人からしたら、取るに足らない事なのかもしれないけど、私にはそれが、とても嬉しい事だったんです。
そう話す彼女の横顔は確かに、懐かしくて優しい何かを大切に想うかのように、穏やかだ。
「本来は優しい人なんだって、そう思うから、余計に言えないんです。私がそう信じたいだけなのかもしれない、けど」
「だけど、このままずっと行っても、お互いに取り返しがつかない所まで壊れていくだけだ」
自分と同じようになってしまうのだけは、絶対にさせたくはない。
それこそどちらかがおかしくなるまで続くのだと、幸喜は身をもって知っているのだから。
「それに、そのせいで周りの人も、自分の事も、ずっと傷つける事になる」
そう言うと、茅乃は何かに気付いたように顔を上げて、幸喜を見た。
「……、幸喜さん、も?」
同じような事があったのか、と言外に問われている事を理解して幸喜が頷くと、茅乃は唇を噛み締めて自分の膝辺りをじっと見つめたまま考え込んでいた。
もし茅乃自身が言えないのなら、自分が言ってしまえばいい、とは、思う。——けれど。
考えて、俯いた彼女を見れば、その眼は今までのようには揺らいでいなかった。
けれど、彼女はきっと、そうはしないだろう、と幸喜は彼女が話し出す時を静かに待った。
長い間だったような気もするし、ほんの僅かな時間だったのかもしれない。
胸底がしんと静まり返るような感覚を覚えていると、小さく名前を呼ばれた。
幸喜が顔を上げて頷くと、色素の薄い彼女の瞳は真っ直ぐに向けられている。
「私、朱音ちゃんと話してみます。だから……」
言葉を切ると、茅乃はそっと手を伸ばして幸喜の指先を握り締めた。
「だから、一緒にいてくれませんか」
震えが指先から伝わってくるけれど、先程握られた時よりずっと、その手はしっかりと力が込められている。
「いいよ。それで茅乃が安心出来るなら」
自分でも驚く程に優しい声でそう幸喜が笑って頷くと、彼女は泣き出しそうな顔で笑っていた。
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